こどもはたたかえない⑤-1
人間と獣人が共存する、小さな港町の小さな警察署。その地域課、とは名ばかりの雑用課が私の居場所。そう思っていた。
「音胡さん、ちょっとお時間、貰ってもいいでしょうか?」
「はい、どうぞ」
上司である黒猫の獣人、ライさんにおもちゃのピアノをプレゼントした誕生会から数ヶ月。すっかり冬の景色も近づいてきて、日が落ちる速度も上がってきた。外はもう夜同然の暗さだ。そんな夕方の署内に、鳴り響く拙い、安っぽい音色。
「……ど、どうで、しょうか……?」
「悪くはないと思いますよ。あとは慣れだと思います」
趣味を探していた彼に、確かにピアノを勧めたのは私だ。教えると言ったのも私。……だけど、そのレッスンがこんなにも気が重いものになってしまうとは思っていなかった。
「そうですか……ええと、指とか合ってました?」
「……あ、すみません、そこまで見てませんでした」
彼は一生懸命なのに、私はどこか上の空だ。私はあっさりとそう謝ると、彼は少しだけ残念そうな顔をする。その表情に必要以上に胸を痛めてしまって、私は心の中で密かに謝った。
「そ、そうですか……えーと、じゃあ、もう一度やるので見てもらってもいいですか?」
「はい」
ごめんなさい、ライさん。多分、何度やっても私には的確なアドバイスが出来そうにありません。ライさんが奏でる音が、どうやっても悲しくしか聞こえないんです。
「……ケンさんと双子ちゃん、順調そうですよね」
「あ、そうですね、三人とも本当に楽しそうで良かったです」
彼の演奏を遮るように、私は話しかける。彼の演奏を聞きたくなくて。それでも、彼は怒らず頷いてくれた。あの日から始まった三人の同居生活は、どうやら上手く行っているようだ。
「ライさんとスティーブさんはどうですか? 最近、一緒に居る所をあまり見なくなりましたが……もう、いいんですか?」
「特に問題ないですよ。ようやく父も部屋を借りましたし……まあ、最近はそんなに頻繁に会わないので、たまに一緒に出かけたりする程度ですが、上手くやってます。……僕の方も、すっかり諦めがつきましたしね」
ライさんとスティーブさんのすれ違いも、どうやら緩和して、お互いに良い距離感を保っている。ライさんの劣情もすっかり落ち着いたらしい。全てが上手く、穏やかに回りはじめていた。
「……音胡さんは、お父さんとどうですか?」
「……変わりないですよ」
だけど、そんなハッピーエンドにも近い世界の中で、ひとつだけ穏やかではないものがある。私の心境だ。
ライさんの何気ない問いに答える私の声が、前にした返事より幾らか重いことに、ライさんは気づくだろうか。ライさんにピアノを教えるその態度が、少しだけ苛ついている事にライさんは気づくだろうか。
ゆっくりと、温かく廻っていく身の回りで、私だけがひとり取り残されていることに、ライさんは気づくだろうか。
気づいた時、優しくて心配性な私の上司はどうなってしまうんだろうか。
怖くて、聞けない。私は固く、唇を結んだ。
***
それはライさんの誕生日会のすぐ後だった。スティーブさんに付き添われて、私は真夜中の帰り道を歩く。それまで特に会話はしておらず、二人分の足音がただ、夜道の中でザッザッザッとリズム良く響いていた。
ふと、口を開いてその足音を先に止めたのは、私だ。
「……スティーブさん、言ってないことがありますよね」
「……おう」
その言葉に返事こそするが、スティーブさんは立ち止まらない。私はどんどん置いていかれるので、慌てて彼の背を追った。私は言葉を続ける。
「私、貴方が何故言い出せないのか、私気づいてます」
「噂通りにカンがいいな。……その憶測、聞いてやるよ」
先を行くスティーブさんは笑ってはいるようだったが、表情は見えなかった。私を振り返ることなく返事をする。
「……本当は、貴方を陥れた犯人に、もう目星がついているんですよね? でも下手な場面で話せない事情がある。だからライさんにだけ話す機会を伺っている……」
「……」
スティーブさんは私の問いに対して口を開かなかった。ただ、スタスタとまっすぐ歩いていく。まるで何かから逃げる様な、誤魔化しているような態度だ。相変わらず、こういう所がライさんと似ている。
ここではっきり聞かなければ、有耶無耶にされてしまいそうで、私は慌てて続きを口にした。
「そしてその機会は……私が居ない場面。……違いますか?」
「……何でだと思う?」
スティーブさんは未だに振り返らず、まるで面白い事を聞くかのように、明るい声で私にそう聞いた。私は思いついた通りの考えを、そのまま吐き出すように口を開く。
「……ライさんや貴方だけではなく、私に深く関係する話だからです。……私の憶測は以上です。もしも私に関係する事ならば、今ここで、遠慮なく仰ってくだ、さ……?」
少し強気にそう告げた瞬間、スティーブさんはぐるりと振り返った。街頭の真下、スティーブさんは私に詰め寄る。最近まで車椅子生活をしていた五十代とはいえ、スティーブさんは体格も良いし、背も高い。普段は穏やかだけど、顔つきも怖い方だ。真夜中の道で凄まれると、普段物怖じしない私でも少しだけ恐ろしくなった。
「……元々、例の『動物に戻す』システムは不完全な装置だった。大本は、罪を犯した獣人を処刑する為の道具だったんだ。だから警察の中に記録があった。だけどよ、結局、研究が上手く行かなくて稼働直前に廃止される予定だったんだよ……でも、俺はそこに、無理矢理に入れられた」
「……無理やり……?」
スティーブさんはそう言うと、私の目の前に出した手のひらをゆっくりと握りしめる。閉じ込められた、という表現らしい。
「そ、無理やり押し込まれて、俺は稼働しているシステムの中に入った……人間に使うと、身体の仕組みが動物になるんだ。脳の容量が低下して、動物と同じスピードで老化が進む。……だけど、システムが不完全だったからこそ、その効力は一時的なものだった。だから、俺は助かったんだ」
……それが、スティーブさんの記憶喪失の原因。私はその事実に思わず、半歩後ずさった。……そして、恐る恐る口を開く。本当に聞かなければならない事は、その先だ。
「あ、貴方を陥れたのは、誰だったんですか……?」
深夜の誰も居ない道に、静かに響き渡る声。それは周りの空気に負けないぐらい、暗くて重たいものになって、私の耳に反響した。
「高梨という男に、騙されたんだ」
「……それって」
――私の、前の名字だ。
声に出なかった。出さなかったはずだが、スティーブさんは一度だけ強く頷く。私から、彼に名字を名乗ったことは、今のも昔のもなかった。それは、親の再婚を悟られない為の癖で、自分の苗字を言うのは昔から好きではなかったからだ。
「音胡という名を聞いて、恐らく君と初対面の人たちは驚いただろう。珍しい名だ。しかし、俺はその名に聞き覚えがあった。……高梨は俺の親友。『音胡』という名は……俺がレイルに和名を付けようと思った時に候補にしていた名を、娘が生まれるという親友に聞かせたら気に入ったんだ。俺は冗談のつもりで考えた名前だけどよ、確かに似合うな、と思ったよ」
真剣だったスティーブさんの声は、話が終わるにつれ優しい声に戻っていく。その気迫に少し押されていた私も、緊張を少しだけ解いた。スティーブさんはまた前を向くと、すぐに歩き出す。
「……確かに音胡ちゃんの憶測は当たってるよ。別に黙ってた訳じゃない。でも気持ちのいい話ではないだろうから、こっそり伝えられる機会を伺ってたんだ。コソコソしてすまん。怒らせたのなら謝るよ」
「そうでしたか……すみません、なんか、催促するみたいなマネをして」
スティーブさんはゆっくりと首を横に振る。
「奴は俺が目を覚ました事を、既に知っているはずだ。昔のツテとコネで、こっそりと広く捜査してたつもりなんだけど、逃げられちまったみたいでな、何も掴めねえんだ……この件、レイルには俺から言いたい。音胡ちゃん、今日の所は聞かなかったことにしてくれないか? アイツには慎重に話さないと、また苦しませちゃうからさ……」
私は頷いた。スティーブさんは安心したように微笑むと、私の額をコツンと拳で小突く。
「……俺は音胡ちゃんを共犯者にするつもりはねえよ。だから、そんな顔しないでくれ。俺がレイルに怒られちまう。僕の部下をいじめないでください、ってさ」
「……はは、そうですね」
私はその励ましに、笑いを零す。だけど、胸の奥底では、何かがキリキリと痛んでいて、私は思わず襟元を掴んでしまった。……今ある穏やかな幸せ。ライさんがようやく取り戻した日常。ようやく悩まなくなって、自分と向き合い始めたライさん。
そんなライさんの日常を、壊しかけた人がまさか、自分の父かもしれない、だなんて。
私は、そんな人と血が繋がっているかもしれない。ライさんがそれを知ったら、恐らく私を見て、もう心の底から私に笑ってはくれないだろう。私はライさんの悲しみそのものになってしまうかもしれない。
スティーブさんに送り届けて貰って、私は自分の家へと帰る。今朝と同じ部屋の景色が、なんだか虚しく感じるのは、あんなに賑やかなパーティの後だったからなのか、それとも……。
「ごめんなさい、ライさん……約束、破っちゃいます……」
目の前の滲む景色を拭い取って、私は強く心の中でライさんに謝った。まさか、最後にライさん悲しませるのが、最も信頼しているとまで言ってくれた相手だなんて、言えないじゃないですか……。
***
そんな私の焦りと苛立ちをまるで無視するかのように、日々は穏やかに巡っていく。仕事はいつもの雑用に戻り、それは驚くぐらい順調だった。
ライさんはスティーブさんから、親友に陥れられた、とだけ案件を聞いたらしい。それが私の実の父かもしれない事を聞いたかどうかは、怖くて確認できなかった。捜査はスティーブさんが収集した、かつての仲間たちを中心に進められていて、私たちは警察としていざとなれば協力してくれ、というお願いをされたに留まっている。
「驚きましたけど、どうにも気になりますね……。他に何か起きる前に見つかるといいですが」
「そう、ですね……」
その件に関して、ライさんは今までのように恐怖するどころか、犯人探しに積極的な考えを見せていた。他人のことには勇気が出せるライさんのことだ、しかもそれが愛していた家族ともなれば、許せないに決まっている。私は彼が事実を知ることと、自分が事実を知ることの両方が怖いのに。ライさんが胸の内を零した感想が、こんなにも心臓に悪い。
「それにしても、何故父を騙したんでしょう? 動機が気になります」
「はい……」
「……? 音胡さん、大丈夫ですか? 具合でも……一応屋根はありますが屋外ですし、無理しないほうがいいですよ」
ライさんは私の曖昧な返事に違和感を覚えたのか、私の顔を覗き込む。その綺麗な瞳が私の不安をあっさり見透かしてしまう前に、私はライさんから目を逸らした。
「大丈夫ですよ、私、あっち側から行ってきますね」
「はい、お願いします。頑張りましょうね!」
今日は駅前のアーケードで、交通安全運動のティッシュ配りの手伝いだ。
ライさんとは手分けをして作業をすることになり、ライさんと微妙に距離が取れる事になんとなく安心してしまう。いつもみたいに一緒にいると、どこかでポロリと不安を言ってしまいそうになるので、普段も私はなんとなくライさんを避けるようになっていた。
申し訳なさはある。ライさんに避けられる理由はない。遠目にライさんを盗み見ると、ライさんは既に仕事に入り、いつもの穏やかな笑顔でティッシュ配りに集中していた。その姿を見るだけでも、私は悲しくなるし、なんだか頭の中がざわつく。
ダメだ、今は仕事に集中しよう。幸い、ライさんはまだ私がよそよそしくなってしまったことを気にしていないみたいだし、今ここで悶々と考えたって過去の事は消えたりしない。……そう、もう変えられない。手遅れだ。
私は己の頬を引っ叩くと、道行く人へティッシュを渡すことに専念した。
***
「音胡さん、お昼何食べます?」
「……特には……なんでもいいですよ」
「ううん……そうですか……麺類とかどうですか?」
そうして交代でやってきた昼休憩の時間。偶然通りがかったスティーブさんを交えて、私達は駅の中にあるお店を物色して歩いていた。田舎の駅なので大衆食堂のようなお店ばかりだが、選択肢はそれなりにある。気まずさから食欲が沸かない私は、なんでもいいと答えたが、ライさんはあれやこれや、私に合わせようとして聞いてきた。その気配りが、今は辛い。
でも、本当になんでもいい。特に食べたいものは思い浮かばないのだ。半年前、一緒にアイスを食べ歩きした日が、遠く感じる。あの時のように、自分から主導権を握る気持ちはなくなっていた。
「めんどくせえからファミレスでよくねえか? 大体のものは揃ってるだろ?」
「それもそうですね、いいですか? 音胡さん」
「……え、ええ……」
ファミリーレストラン。ああ、心臓に悪い響きです。思わず足が止まってしまった私を、ライさんとスティーブさんが振り返って不思議な目で見つめる。
「……やめときます? あ、もしかして僕ら、同席しない方が良かったりしますか?」
ライさんは少し寂しそうに、私を気遣ってくる。やめて、そんな目をされると、余計に断りづらい。
「あ、いえ、すみません……大丈夫です、すみませんっ! ほら、行きましょう! お店混んでると思いますし、早くしないとお昼終わっちゃいますよ!」
「えっ、あっ、わっ、危ないですよぅ」
ダメだダメだ、明らかに挙動が怪しい。悟られないように、私は普段通りの態度を演じる。慌ててライさんの背を押してお店のある方向へと走り出した。押されたライさんは慌てて小走りになる。
お昼時の駅前は、流石に平日でもそれなりに人通りがある。人混みの中を歩いていると、その雑踏の中から聞き慣れた単語が私の耳に入った。
「……お前、レイルか?」
ライさんがその声に振り向いて、私も一緒に振り向く。その声はスティーブさんの物ではなかったので、スティーブさんも立ち止まった。
ライさんをペット時代で呼ぶ者を、私はスティーブさんとお兄さん以外に知らない。私は一瞬だけ、ライさんに親しい知り合いがいたんだな、と呑気な事を考えたのだが、すぐにそうではない事に気が付いた。
「……っ!!??」
「……ライさん?」
声にならない驚きの音に顔を上げると、見上げたライさんの表情が今まで見たこと無いぐらい強張っていたからだ。そのライさんの左腕は、初老っぽい男性に掴まれている。男性はうっすらと笑っていたが、ライさんは明らかに怯えた目を向けていた。
「……っ……ひゅっ、う、っ……!」
「え、ら、ライさんっ!!?」
そして、ライさんの喉から聞こえる嫌な音。ライさんは焦った様子で胸元を握りしめた。私は唐突なライさんの発作に戸惑う。今までは走ったり緊張したり、怒ったりという、発作の前にはきっかけがあったからだ。
人混みから私達を守るように少し先を歩いていたスティーブさんは、慌ててライさんの元に戻ってきて咄嗟に男性の腕を掴む。
「……おい、コイツは俺の息子だ、気安く触んな」
スティーブさんの声が、聞いたことのないぐらい低くて恐ろしい声に変わっている。それが状況をまだ読めていない私にも、只事じゃない事を知らせていた。しかし、男性はそれに怯むことなく、ライさんの手を離そうとはしない。
「……スティーブンか、貴様はいつから獣になったんだ? 人殺しの親だなんて滑稽だなぁ!?」
「……人殺し……?」
そうして返事をする男性の声も、恐ろしく、そして暴力的な言葉遣いだった。ライさんが人殺し? 信じられない言葉に、私は思わず呟いてしまった。
「うぐ、っ……ひ……っ……うっ、うぅ……」
ライさんはその言葉に首を横に振る。嗚咽しか出ない口の代わりに、大粒の涙を零しながら必死で否定していた。
「な、何が……あったんですか……?」
「……レイルの元『飼い主』だ。自分の子が死んだのに、ペットだったレイルが生きてる事を逆恨みしてやがる」
私は思わず疑問を口にしていた。それを聞いたスティーブさんは私にそっと耳打ちする。ライさんの元飼い主……?
「それって、まさか」
「……虐待した本人だよ。何するかわかんねえから、音胡ちゃんは下がってな」
その事実を聞いた私は一瞬で、先程までとは違う不安に駆られる。未だ腕を掴まれたままのライさんは、人間だったらもう顔面蒼白だろう。冷や汗と涙でぐしょぐしょの顔で、ガタガタ震えることしかできない。……当たり前だ、思い出しただけでも怖いはずの相手に、今面と向かって声を掛けられ、触れられている。想像だけでもゾッとする。
身体的にも心理的にも逃げられない状況のライさんは、最早私達にとって人質と同義だった。
スティーブさんは強気で、吐き捨てるように彼を威嚇する。
「どうしてこの町にいやがる、お前は俺が訴えて町から追い出したはずだろ!」
「ふん、もう開放されたさ。今度こそ仕返ししてやる……!」
「やめろ、離しやがれっ!!」
どうやら、男性はライさんに仕返しするつもりで居るらしい。ライさんを連れて行こうと、ライさんの腕を引き続ける。しかし、スティーブさんは負けじとそれを阻止。ライさんを巻き込んだ大人の男性二人の押し問答に、周囲もざわつき始めた。
「あぁ……ど、どうし、て……なんで、え、そんなこと、しらな、い……う、わぁ、ああぁ……ああぁぁ……!!」
そんな状況から、余計にパニックに陥っていくライさん。掴まれていない方の手で必死に耳を塞いで、頭を振り乱して酷く泣き叫ぶ。その姿は完全な混乱状態だった。
だけれど、そんないっぱいいっぱいな状況でも、『スティーブさんが飼い主さんを訴えて追い出した』というまだ語られていない事実を認識してしまう。ようやく心を許せたばかりの相手から語られた、再度裏切られたような真実に、ライさんの混乱は余計に深まってしまったように見えた。スティーブさんもその光景に思わず痛々しい表情をして、舌打ちする。それは、バレてしまったか、と言わんばかりの態度にも見えた。
「血統を見て弱い個体をペットにしたはずなのに、何故お前が生きていてうちの子は死ななければならなかったんだ? お前が殺したんだろう!? おい!!!」
「うぅっ! ……っあ、あぁ、あ……」
男性はそんなライさんの腕を引っ張り上げると、ライさんの耳元でそう叫んだ。殆ど精神攻撃のそれのように、追い打ちをかけるように彼を責める。ライさんは恐怖からか、言葉も紡げない。怯えた目で震え続けていた。
私はその言葉にショックを受け、思わず自分の手を握りしめてしまう。『血統を見て、弱い個体を選んだ』という言葉は、ライさんの悩みの種である体質が、生みの親譲りのものであるという証拠だ。それを分かっていて、ライさんを虐待し、そして一方的に逆恨み。
こんな事があっていいのだろうか。この一年で色々な過去から、ようやく立ち直りかけたライさんに、次々と酷い言葉が浴びせられていく。やめて、もうやめて。これ以上、ライさんを傷つけないで……。
「……音胡ちゃん、お願いがある。レイルを連れて、隙を見て逃げてくれ。レイルはもう状況判断できてない。……ここは東交番の管轄だ、ケンを呼んでくれるか?」
スティーブさんが再度私にそう耳打ちする。私はこっそり頷くと、震える手で、どうにかケンさんの連絡先を打った。しかし、コールボタンを押して一瞬安堵した直後、振り上げられる男性の腕が目に入った。
「返事ぐらいしろ猫野郎が!」
どうやら、恐怖から喋れないライさんに腹を立てたらしいと認識したのは一瞬。彼がどのように自分に暴力を振るうのかを熟知しているライさんは、殴られる事を悟って、強く目を瞑って顔を背けた。
「……っ、ライさんっ!」
気が付けば私は電話を投げ捨てて、ライさんの前に立ちはだかっていた。バチン、と強い音が私の顔から鳴る。見た目の年齢の割に、力が酷く強かった。……この力で腕を掴まれたライさんは、抵抗しなかったのでも、振りほどこうとしなかったのでも、できなかったのでもなく、できないように強引に押さえつけられていたのだ。許せない。
「ぃっ……!」
私が邪魔をした事で、男性は更に逆上する。私の胸ぐらを掴みにかかろうとするが、私はその手を払った。その態度に男性は明らかな舌打ちをする。
「っ、なんだこの女ァ!! テメエもグルか! クソっ、警察で女の癖に役立たずめ! こっちは被害者なんだぞ!!」
「……っ、いい加減にしてくださいっ、ライさんを離して!!」
それでも私は屈しない。ライさんは絶対に悪くない。許さない、ライさんの受けた傷は、どんなに詫びようが、刑期を終えようが、時効になろうが癒えるわけない。ライさんをこれ以上傷つけて壊す事は、誰だって、どんな事情だって許さない……!
私は彼を強く睨みつけた。
「っ、ね、音胡さんに……音胡さん、に、さわ、らないで、くだ、さ……!」
「……ら、ライさんっ!!」
そんな光景を見て、多少とも正気を取り戻したのだろうか。私が殴られた事に腹を立てたライさんは、必死に抵抗を始めた。ライさんは掴まれていた腕をひねる。と、男は怯んだらしい。恐らくライさんの力でも相手を倒せる術に気づいたのだろう。咄嗟にライさんの腕が離れ、スティーブさんがその腕を引く。私にライさんを押し付けると、すぐに男性の胸ぐらを掴んで地面に抑えつけた。
「音胡ちゃん、逃げろっ!! 誰か署員が居たら声かけてくれ!!」
「は、はいっ!!」
スティーブさんの咄嗟の声に、私は慌てて返事をする。ライさんはさっきの抵抗に力を使い切ったらしく、震えたままその場にへたりこんでしまう。私はその肩を咄嗟に抱いた。
『おい、親父さん、ライ!! 音胡!? 居るんだろっ! 何があった!?』
投げ捨てられた私の電話から、ケンさんの声が漏れていた。スティーブさんが受話器に向かって声を上げる。
「ケン、聞こえてるか!! 大至急、駅前に来てくれ!!」
私はそのやりとりを背に、ライさんに肩を貸して走り出す。ライさんは覚束ない足取りでなんとか立ち上がった。
「ライさん、行きましょう……!」
「っ、っ……ぅ……」
ライさんはまだパニックの中だ。答えもままならないまま、必死で私に連れられてフラフラと歩き出す。私は一瞬だけ振り返り、スティーブさんを盗み見た。スティーブさんに取り押さえられた男性は、それでもライさんだけを睨みつけている。
……そんなふと一瞬、男性と目が合った。不意に私に向かって届く、叫び声。私は咄嗟に目を逸らしたけれど、その叫びは痛く私の背中に刺さる。
「……お前、高梨の娘だな!!」
「っ……!」
その言葉に心臓が跳ねた。
***
「ライさん、もう大丈夫ですよ、分かりますか?」
「っ、ううっ……う……っ、ひっ、っ、ひゅっ……」
現場から少し歩いた先のベンチに、ライさんを座らせる。薬は逃げている間に使ったのだが、ライさんの呼吸は全く落ち着かない。苦しそうに上下する肩と、酷く浅い呼吸は変わらなかった。喋ることも出来ず、どうやら私の声も聞こえていないようだ。私はただ、そんなライさんの背を撫でることしかできなくて、悔しくなる。
ライさんの左手はだらりと力なく下げられたままで、右手は震えたまま、私の着ている『地域見回り中』とロゴが入ったジャンパーの裾を縋るように掴んでいる。その爪は真っ白を通り越していて、分からない顔色の代わりにライさんの息苦しさを物語っていた。
その様子が助けを求めているように見えて、どうにかしてあげたいとは思う。のに、私はどうにも頭が働かず、上手い方法が浮かばなかった。いつもみたいに、大丈夫ですよと優しく声を掛けて、手を握ってあげることがどうしても出来ないのだ。
今はどうライさんに接しても、己が偽善者ぶっているようにしか見えない。ライさんを傷付ける物は許さない。さっき自覚したその信念は、無情だけれど自分にも適用されてしまう。
今の状態のライさんに、さっき男性が吐き捨てた言葉が聞こえていたのかはわからないけれど、概ねの事実を突きつけられて、知らないふりはもうできそうになかった。
「……なんで……」
起きたこと全てがやるせなくなってしまい、私はライさんの膝の前で俯いてしまう。今、自分が凹んでいる場合じゃあないというのに。私が笑っていなければ、彼は余計に不安になってしまうはずなのに。
「……音胡、ライ。大丈夫か?」
不意に足音が近づいてきて、顔を上げると、ケンさんがそこに立っていた。ケンさんはうなだれる私の肩を軽く叩く。私は小さく頷いた。ケンさんは少しだけほっとした顔をすると、すぐにライさんの様子を確認する。
「ライ、もう大丈夫だからな」
「う、ふうっ、っ、うぅ」
ケンさんの声は、とても優しかった。だけどやはり、ライさんは聞こえていないのか、返事らしき反応はない。浅い呼吸の中で疲弊し切った呻きを漏らすだけだ。
「ケンさん、あの人は?」
「すまねえ、逃げられちまった。本当にごめん……」
辛そうに謝るケンさんも泣きそうな顔をしていた。よほど逃したのが悔しかったのだろう。逮捕率が良いとライさんに褒められさえしたケンさんですら、彼を捕らえられなかった、という絶望も私達の間に入り交じって、空気は余計に重たさを含む。
それから数分遅れてスティーブさんもやってきた。あの男性を追うように知り合いの署員達に頼んで来たようだが、足取りは結局掴めなかったらしい。
「スティーブさん、薬使ったんですけど……ライさんの発作、治まらなくて、ど、どうしましょう……」
「驚き過ぎたんだな、発作起こした時間も長かったし、こうなると薬効かないんだ、代わるよ。すまねえけど音胡ちゃん、救急車呼んでやってくれるか?」
そう言うと、スティーブさんは私に代わってライさんの背を、絶えず話しかけながら撫でる。その入れ替わりに拾ってくれたらしい私の電話が手渡された。画面は割れていたが、構わず救急車を呼ぶ。割れた画面で怪我をしようが、顔を殴られようが、ライさんの痛みよりずっとマシだ。
「腕腫れてるな、何をされた?」
「俺には掴まれただけに見えたが、多分握り潰されたんじゃねえか……あの屋敷の主人、金持ちの道楽でかなり鍛えてたからな……レイルに振り解ける訳がない。分かっててやったな、ちくしょう」
ケンさんはライさんのだらりとした腕をそっと持ち上げる。と、ライさんは痛みに顔を歪めた。
「……いっ!!」
パニック状態でも認識できるほどの強い痛みを感じるぐらい、腕を握られたと思うと、怒りが湧いてくる。
「ああ、すまねえ……痛かったな。……傷害罪は確実だな、クソっ……」
ケンさんは謝ると、同じくライさんに怪我を負わせた悔しさから歯を食いしばった。スティーブさんも触らず、ライさんの腕を確認する。スティーブさんは真剣な表情で軽く頷いた。
「……」
私はその光景を、遠くから見ていることしかできなかった。割れた電話を胸元で抱きしめたまま、立ち尽くす。ライさんを助けられなかった不甲斐なさと、ライさんの幸せがまた壊れてしまったショック。そして、去り際に名前を呼ばれた事が、頭の中をぐるぐる回っていて、急にここだけ違う場所になってしまったような感覚に陥ったようだ。
「……怖い」
誰にも聞こえない声で、私は呟く。全てが、私を引き金にして起こっているような気がして、怖くなった。
やがて、救急車のサイレンが近づく。
「……ごめんな、レイル……病院行くからな」
スティーブさんの悲しそうな、でも優しい声にも、ライさんは返事をしなかった。気がつけば、長い発作と酷いパニックで疲弊し切ったライさんは意識を失っていたからだ。
***
「音胡ちゃんも病院、行ったほうがいいぞ。ったく、まさか女の子にまでに手出すなんて……」
「そうだな、お前も大分、頬腫れてるし……他の奴らには俺が報告しとくからよ」
まだ起こった事を上手く飲み込めず呆然とし続ける私を、二人が気遣ってくれる。ケンさんに言われてようやく、自分が殴られた事を思い出した。打たれた頬に触れてみると、ジリジリと焼けるような痛みが走る。それでも、心の痛みよりずっと痛くはなかった。
「はい……ええと、私、後で行きます。幸い腫れてるだけで、目立つ傷とかはないですし、私の荷物もライさんの荷物も駅のロッカーに預けたままですから、それ取ってから……」
「そうか……気をつけてな」
「はい……」
私はこれ以上、気まずさと恐怖から、二人と一緒に居る事に耐えられそうになくてそう言い訳した。二人は納得してくれたようで、頷く。そうして、スティーブさんとライさんは救急車へ。ケンさんは途中まで一緒に署員達の元へ戻り、事の成り行きを他の署員に説明してくれた。
私はライさんの荷物と自分の荷物をロッカーから引き取って、そのまま近場の病院へ行く。この病院には2A医は居ないので、恐らくライさんの行った病院とは違う病院だ。
私はあえて、ライさんが何処に行き、どの様な処置をされ、どんな具合で様子だったのかを聞かなかった。というより、聞けなかった。幸い、ライさんは気を失ったことでパニックから回復し、暫く安静にした後で無事自宅に帰ったと聞かされたのは、翌日の夕方の事だ。大事を取って三日程、出勤しないように言ってある。と、全てスティーブさんから聞いた。
……本当はライさん本人に連絡するべきなんだろうけど、あのヒトの声を聞きたくない。今回のことをどう思っているかと思うと、本当に怖かった。
病院に行った後、目を覚ました瞬間、彼はどんな第一声を発したのだろう。
『ごめんなさい』? 『どうして黙っていたの』? 『高梨って誰』?
もっとストレートに、『音胡さんは、犯人の娘さんなんですか?』とでも言ったかもしれないと思うと、本当にゾッとしてしまう。知りたくない。知られたくない。聞きたくない。そんなの。
『音胡ちゃん、悪いけど荷物、届けてやってくんねえか?』
「あ、はい……じゃあ、今日の夕方に届けます」
『ありがとう。俺も今レイルの所に寄るから、ついでに伝えておくな』
しかし、そんな私の恐怖は、到底電話の向こうには通じない。スティーブさんは私にライさんの荷物を届けるように言ってきた。私はその頼みに、断る為の言い訳が思い浮かばない。荷物が無くて困るのはライさんだ。頷くしか無かった。
夕方、ライさんの家のインターホンを押す。ドアを開けるまでに少し時間がかかったのは、ライさんの左腕を見れば一目瞭然だった。
「……あっ、音胡さん! わざわざすみません……父が無理を言いませんでしたか?」
「いえ、えっと……手、大丈夫ですか?」
ライさんは少しヘラヘラした笑顔で私を迎え、包帯でぐるぐる巻きにされた腕を振ってみせる。私は取り敢えず、彼を心配する素振りを見せるために具合を聞いた。ライさんはまるで笑い話のように、頷く。
「幸い骨折まではいかなかったので一安心しました。ただ内出血が少し……炎症が治まれば大丈夫だと思います」
「……本当ですか?」
しかし、強くもないくせに強がる彼の言葉だ。私は簡単には信用しない。疑いの目でライさんを見つめると、ライさんは少し困った笑顔に表情を変える。
「ま、まだ少し痛みますけど、引くまで待つしかないとの事で……今は痛み止めを使ってますから、本当に大丈夫ですよ。……でも、すみません、僕また貴女にご迷惑をかけてしまいました……それが申し訳なくて」
「いえ、あれは……ライさんは悪くないです! 私、絶対あの人の事許しません!」
私は思わず声を上げてしまう。それは本心だった。ライさんはその言葉に驚いたように耳をピンと立てると、すぐにその耳を伏せてしまう。
「……ありがとうございます」
そうして見せた笑顔は、酷く曇っていて。私は一瞬にして、どの口が言っているんだ、という気持ちになってしまった。私だって、もしかしたらライさんの悩みの一つかもしれない。さっきの言葉はもしかしたら余計な一言だったかもしれない。咄嗟に口を噤む。
……そこからどう、どこから、何を言って良いのか分からなくなってしまった。数秒の沈黙。黙り込んでいると、ライさんが続いて口を開いた。
「……まさか、父があの人を訴えていたなんて、僕知らなくて。僕を捨てて満足したんだと思ってたので、驚きました……。僕は、お坊ちゃんの遊び相手としてあのお屋敷で飼われてから、一度も反抗したことすらありません……だから、まさか、あんな風に思われていたなんて思いもしませんでした……」
「……分かってます。驚くのも当たり前です、ライさんは悪いことなんかしてません! あんなの、一方的な逆恨みなんですから、ライさんは気にしちゃダメですよ!」
私はライさんの言葉に強く頷き、ライさんを励ますつもりでそう言った。勿論、これも本心からの発言のつもりだ。だけど、ライさんはその言葉に小さく首を横に振る。
「……お坊ちゃんが亡くなったその後、僕はあの家で働くことを求められました。勿論、いちペットでしかない僕に、出来ることはなかった。それであの人は腹を立てたのでしょう。当然だと思います。……ただのお荷物だと思っていた、見下していた者に訴えられるなんて……怒るに決まってます。僕は彼を陥れる様な真似をする立場にありません……彼が怒るのは無理のない事だと思います、仕方のない事です。僕が役立たずだったからいけなかったんです」
「……な、なんでそんな事言うんですか!? ライさんが働く理由も、暴力を振るわれる理由も無いはずです!」
それは、まるで彼のした事を正当化するような言葉だった。自分を踏み躙り、スティーブさんの想いも台無しにする言葉にも聞こえる。私は思わず、怒ったような声を上げてライさんの家の玄関まで勢いで踏み込んだ。ライさんは驚いたのか、後ずさりして廊下まで上がる。私の靴先が玄関の小上がりを蹴った。
そうしてライさんの足元と私の足元にできた段差は、実際より高い壁のように……まるで私達の心の距離を示すように、境界線を引いてしまう。
「……上手く表現する言葉が浮かびませんが……僕は、あの人と争うぐらいなら負けたままの方が気が楽でした。抗えばまた酷い目に合うと、刷り込まれてしまって辛くなるから……。父は心配でやったことでしょうが、どうして僕への影響を考えてくれなかったのだろう、と思った時にはもう、父に『暫く来ないで欲しい』と言ってしまっていました……きっと、不快に思っただろうと思います……今は怪我より、そっちが辛くて。やはり、理解し合うのは、元々無理な関係だったのかも知れませんね……あの人の優しさはいつも独り善がりで、ずるい、から……」
ライさんの口から語られたのは、そんなネガティブな考えの全てだった。確かに分からなくもない。ライさんにとっては、確かに余計なお世話を焼かれたことだ。自分が必要としていない、要らない事をされたのだから。
――……まるで、諦めるために生きているようだ……――
そう感じた瞬間、私の背筋を何かがぞわりと走る。恐怖と嫌悪と同情と、もう何が混じり合ったものかもわからない、でも耐えがたい感情が。
「――っ、いい加減にして下さい!!!」
私は気がつけばそう叫んでいた。ライさんは耳を完全に伏せ、しっぽを丸めて私から更に後ずさる。それは殆ど、私から逃げるような姿勢だった。
「ライさんこそ、スティーブさんの気持ちを全く考えていません!! スティーブさんだって、双子の死を乗り越えようと必死なのに、貴方はいつまでそうやって過去に縛られ続けてるんですか! 貴方を思って、自分が警察という立場すら天秤にかけて訴えまで起こしたんですよ、それを負けていいとか、ずるいだとか言える立場ですか! 貴方が強く振る舞わなくてどうするんですか! 心配より信頼が欲しいのなら、そうする努力の一つもしたら良かったじゃないですか!!」
それは、スティーブさんの父親としての思いを無視した発言だ。スティーブさんだって、悩んだはずだ。傷ついて震えた日があったはずだ。自分が見放さなければ、双子は死ななかったのだと自分を責め続けて、苦しんでもがいたはずだ。ライさんだけが苦しいわけじゃない。そう思って私は叫ぶ。
いや、叫んでしまっていた。
「っ……!!」
「あ……」
しかし、次の瞬間、ライさんの瞳からじわり、と涙が溢れるのを見て、私は自分の言った事がどれだけ残酷だったのかを自覚する。
ライさんにとって、過去と向き合う事は、まだ酷く苦しい事だ。そうでなければ、あの男性の顔を見ただけで発作なんて起こさない。怪我をさせられても、逃げることも出来ないぐらい怯えたりしない。それを強くなれだなんて、彼には酷すぎる話。既に、今がいっぱいいっぱいのライさんを裏切る言葉だ。
そんなの、分かってたのに。
ライさんは強くショックを受けた様子で、目からボロボロと涙を零しながら、唇を強く噛む。その唇だって震えている。
「……もう帰ってください。……荷物、ありがとうございました……」
そして私の肩を押し、私を玄関から追い出した。こんな状況でも丁寧に頭を下げて。
「ち、ちが! ら、ライさっ……!」
慌てて弁解を図る私。それでも、無情に玄関のドアは目の前でバタンと閉まってしまった。ライさんが閉じたには、酷く乱暴な音で。
「っ……っぅ、う……あぁ、……うぁぁあぁぁ……っ……!」
「……ごめんなさい……っ、ライさん、ごめんなさい……!」
ドアの向こうに聞こえる嗚咽。その声は、私の裏切りを悲しんでいるようにも、自分の考えを責めているようにも聞こえてしまう。
私もドアの前に立ち尽くし、謝りながら泣いた。
たった一枚のドアがこんなにも遠く、厚く感じたことはなかった。
「……帰ろ……」
そこから数分。互いの泣き声も聞こえなくなった頃。すっかり夜になってしまった道を私は歩き出した。凍えた風が涙に濡れた顔を酷く冷たく突き刺すような、心身ともに冷える帰り道だ。
どうしてこうなってしまったんだろう、と疲れ切った頭で巡らせながら、とぼとぼと一人歩き出す。
「……音胡ちゃん」
「スティーブさん?」
数分歩いた所で、私は物影から身を現したスティーブさんに呼び止められた。私は慌てて顔を拭い、彼に強気で向き合う。
「ライさん悲しんでましたよ、一度ならず二度までも大好きなお父さんに裏切られたって。何で黙ってたんですか」
そう言ったのは、さっきのお詫びも兼ねてだった。スティーブさんの努力も確かに分かるけど、ライさんが傷つく気持ちもよく分かる。確かにあれは、ライさんへの裏切り行為だ。隠し事をしないと約束し、ようやく対等になろうと努力してきた私達とライさんの間に、余計な亀裂を入れるような。
スティーブさんはその言葉を聞くと、まるで仕方のない事のように肩をすくめながら首を振る。何の仕草なんだろう、それは。
「でもさ、見たろ、あの苦しみ方……薬も効かないぐらいパニックになるんだ。やられた当時はあんなに激しい発作は起こさなかった。大人になって、何をされたのか理解してきた頃から酷くなってよ。失血死ギリギリの自傷行為やらかした事だってあるんだ。それでもまだ、心のどっかであいつはあの扱いが当たり前だと思ってやがる。俺が訴えないで誰が訴えるんだよ。あいつの短い人生の中で、心の傷が完治できるとは、俺は思わない。なら、せめて責任ぐらい取らせたくもなるだろ?」
「……それと、黙ってた事に関係はありますか? ライさんに一言でも言っていれば、ライさんは驚かなかったし、貴方を追い出したりしなかったはずです」
私はスティーブさんを責めるためにじっと見つめる。スティーブさんは、今度は深く頷いてみせた。
「あるよ。あいつの中から、虐待の事なんて何一つ残らず消してやりたかったんだ。訴えたなんて事実すら、あいつに背負わせたくなかった。意識させたくなかった。なら隠すしかねえじゃねえか……」
「……それは、ライさんの記憶を消したい、とお考えだった事も含めて、って事でいいんですね?」
その言葉を聞いて、私はふと、忘れかけていた疑問点を確認する。スティーブさんはため息を吐くと、側にある電柱にポケットに手を入れたまま寄りかかった。私は、この仕草こそ、彼が何かを語ろうとしている時の姿勢だと気づいていたので少し身構えてしまう。ライさんも、彼が目覚めてから幾度となく感じた感覚なのではないだろうか。彼が何かを語ると時は、ものすごく不安になる。何を知っていて、何を知らないのか分からない……気まぐれでどこか、読めない人だ。それこそ猫のように。
「……言ったろ、あれは半分冗談だった。もう半分は本気だったよ。あいつの三十年ちょっとの人生を全部暴力に支配されるぐらいなら、俺はあいつの記憶を無くしてやりたかった。本能だけで生きる獣でもいいと思ってた……俺への想いも、心の奥底に殺したままよりよっぽどいい。もうあいつの苦しむ所は見たくない」
「そ、それはっ……!! そう、かもしれません、けど……でも、それは……ライさんの意志じゃ、ない……」
三十年ちょっとの人生。私はその言葉に息を呑む。間違っていると分かっていても、私の言葉は尻すぼみになっていった。ライさんの意志を無視してライさんをただの猫に戻す、という彼らの考えには流石に賛同できないが、確かにライさんの短い人生。そのあと十年程も……今のまま、過去に囚われ続けて苦しみ続けさせたくはない。
私がさっきライさんに強く怒ってしまった理由も、根底は同じ気持ちだ。
そうだ、このままズルズルこうしてたとしても、いつか、ライさんはスティーブさんや私の見ているうちに寿命を迎える。もしかしたら、こうして、すれ違い続けながら……頭の隅を暴力に支配されたまま……?
それって、怖すぎる。悲しすぎる。私は一瞬、本気で体がすくんだ。
「……でも、あんたに会ってからあいつはそうじゃなくなったよ。物事に前よりきちんと向き合うようになって、考え方も少しずつだけど前向きに、自分の内側を見るようになった。いつも見ないふりをしてきた自分の気持ちを、分からないなりに表現できるようになった。……まだ頑固な所はあるけど、意地の張り方も幾らか甘くなったしな」
「……!」
そんな私を、まるで励ますかのようにスティーブさんは柔らかい口調で話す。が、すぐに彼の表情は、さっきよりも鋭くなった。
「……でもさ、ありがたいけど、それが癪なんだ。……なあ、なんで音胡ちゃんはうちの事情に突っ込んでくるんだ? ただの上司ならば職場の付き合いだけで済むはずだろ? 何なの、音胡ちゃんはレイルの何になりてえの?」
「ど、どういう意味、ですか……?」
「さっきの、見てたんだよ。……心配してくれるのは有り難いけど、軽々しく俺の気持ちがどうだとか、あいつの気持ちがどうだとか、部外者が勝手に説教して欲しくねえわけ!」
見られていた。ライさんを泣かせてしまったところを。スティーブさんはその事にどうやら怒っているらしく、今まで私に対して向けなかった敵意をほんのりと見せた。私はその態度に、少しだけ反抗心を沸かせてしまう。
「……身近なヒトを心配して、何がおかしいんですか!? それに……部外者じゃないじゃないですか……私は……」
……加害者側の人間だけど。そう言う意味を含めて言い淀むと、スティーブさんは意味を汲み取って頷いた。
「……そうだな、あの事告げてから、音胡ちゃん、明らかに態度がおかしいぜ?」
スティーブさんは軽いため息を吐きながら、仕方無そうな声を漏らす。
「な、何が言いたいんですか。遠回しにしないではっきり言って下さい。私を共犯者にしないと言ったのはそっちです。私のどこが不満なんですか? そうやって誤魔化すの、スティーブさんのずるいところです」
あ、この空気……。私はふと、この場に漂う空気にデジャヴを感じる。ライさんと、スティーブさんが再会した時と同じだ。ズルズルと話が平行線になっていくこの感覚。いけない。軌道修正をしたい。そう思うのに、話は遠ざかっていく。
スティーブさんは聞えよがしに、深い溜息をついた。
「神様の存在も信じていないあいつが、ただの星にすら望むなら、あんたが部下で居ることは歓迎するけど……安易にそれ以上にならないで欲しいんだよ。あいつが重く考えちゃうだろ。あんたが苦しむことで、あいつが苦しむのを見たくねえの……こう言ったら分かるのか、お嬢ちゃん?」
スティーブさんは私を指差して、不敵に微笑んだ。完全に小馬鹿にされている、と分かると、私は腹の底から怒りが湧いてくる。と、同時に、上手く振る舞えなかった事を評価されてしまい、私の絶望は深くなる。
「……なんですか、それ。自分はライさんをフッておいて……あんまりな話です」
「親心ってやつだよ。あぁ、音胡ちゃんには分からないのかな?」
反抗的な態度を続ける私に、スティーブさんもイライラし始めたらしい。さっきまでの優しそうな顔は完全に消え去り、完全な煽りの態度へ変貌していた。と私はコンプレックスを的確に攻撃され、苛立ちから頭を抱える。
「……君がしたいのは、自分の家族のリベンジか? それともただの偽善者なのか? 強引に前を向かせて、怖いものに目を合わせさせるのがあんたの仕事?」
その仕草を敗北として捉えたのか、スティーブさんは更に私に追い打ちをかけてくる。だけど私は負けなかった。強気に睨んで言い返す。
「私は泣いてるヒトならば誰だって放っておきませんよ。勿論、何よりライさんの味方ですけど、それが上司であるからという理由で何が悪いんですか? 私の仕事は……私とライさんの仕事は……この町のヒト達と私達人間を繋ぐためのものです。ライさんに笑って欲しいと思って何が悪いんですか!!」
確かに失敗はした。だけど、少なくとも、私は……ライさんにした事を、間違ったとはまだ思っていない。私が見てきたライさんの笑顔は、本物だって信じたい。
「……それってさ、あいつの事を誰より可哀想って思ってるって事だろ? それこそ『余計なお世話』って言うんだぜ?」
「……っ!!」
私は息を呑んだ。ショックが体中を走っていく。『余計なお世話』。その言葉が、頭の中を支配した。
スティーブさんの訴えが余計なお世話だと言うのならば、私の行動も……ライさんにとって余計なお世話?
「……ま、可哀想と思わない方が無理だよな。本人は思うなって言うけどさ……」
完全に返す言葉がなくなってしまい、私は俯いてしまう。スティーブさんは勝ったと思ったのか、仕方無そうに笑った。
「……俺の言いたいことはそれだけ。遅くなる前に帰れよ、じゃあな」
そうしてスティーブさんはまた夜道の闇に消えていった。
***
スティーブさんの言いつけを守ったらしいライさんは、しっかり三日後に出勤してきた。怪我は少し落ち着き、動かせばまだ痛いらしいが、腫れも引いて痛み止めは飲み薬だけで十分になったらしい。ライさんの事情を知り、心配した他の署員にライさん本人が話した話を、盗み聞きしたものなので、何処まで本当なのか知らないけれど。
私がそれを直に聞き出せなかったのは、スティーブさんの忠告や、犯人のことで気後れしたからでもあったけれど、それより変わってしまったものがあったからだ。
「おはようございます」
「お、おはようございます……あ、あのライさん、先日は」
ライさんは早朝、どうやら怪我をした事情を知った今の署長に呼び出されていたらしい。朝には姿を見なかったが、私が朝のパトロールを終えた頃には、ライさんは地域課の自分の席に座って事務仕事をしていた。
私はライさんが発した畏まった一言だけの挨拶に、謝罪をつけて返そうとしたのだが、私が席についた瞬間、ライさんはおもむろに立ち上がる。
「すみません、これから他の部署の手伝いがありまして……行ってきますね」
「……あ、はい……」
そのまま、やっぱり穏やかな笑顔を見せてライさんはカウンターを去ってしまった。その態度で私は察してしまう。ライさんはあの時の事をなかったことにしようとしている事に。
「……どうして……」
悲しくなって、私は一人きりのデスクで呟いた。あんなに打ち解けた関係だったはずなのに。一緒に居すぎて、ライさんが考えていることが分かるようにしまったからこそ、酷く苦しくなった。ライさんはそうしてまた、自分だけが悪いのだと諦めて過ごそうとする。
いつだか遊園地で聞いた、ライさんの『胸の奥が冷えるような寂しさ』を感じる。これをずっと続けて居た所に私が来たら、そりゃあライさんは縋りたくもなるだろう。私はそんなライさんに頼られる事で、自分のコンプレックスを埋めようとしていたのだとしたら。……お互い、縋りあっただけだったの? 打ち解けたと思っていたのは、嘘だったの?
私達の関係は、そんなものだった。という現実を叩き付けられた気がした。思わず胸元を握りしめる。ライさんの発作の苦しさって、こんな感じかな……。
「……仕事、しよう……」
泣いてしまいそうになるのを堪えて、私はパソコンに向かう。此処には仕事をしに来ているのであって、私はライさんと仲良しごっこをする為に居るわけじゃない。彼と私は上司と部下。それだけ。それだけ。それだけ……。
自分に言い聞かせるように念じながら、私は無心になって書類と向き合う。とはいえ、入力するべき文字は指先を滑っていくだけ。手と頭が別々になったような気持ち悪さに、私は心の中で目を瞑った。
「……あ、雨?」
バタバタバタ、という忙しない物音に気がつけば、窓の外は大荒れの天気になっていた。激しく窓に打ち付ける雨音と強風に、私は顔を上げる。気が付かなかったが、いつの間にか戻ってきていたライさんもつられて顔を上げた。
「……荒れますね、予報は曇りでしたが」
「え、ああ……そうでしたね」
ライさんの淡々とした声が投げかけられて、私も当たり障りのない返事をする。今更、天気の話が会話になってしまうのも、関係が変わってしまった証拠のようで寂しくなってしまう。……もしかして、寂しいのって私だけなのかな。ライさんはその一言を発し終わると、また仕事へと戻ってしまった。いつもなら続く会話も続かない。
仕事、仕事しないと。
私もそう思うのだが、ついには手が動かない。頭の中が真っ白になってしまう。ぼーっと窓の外を見てしまう。帰り大丈夫かな、とかくだらない事が頭をよぎる。今までなら口に出していた事だが、今はその言葉も発せない。ついに私はおかしくなってしまったんじゃないだろうか。
「……!」
「あ……」
気持ち悪さに頭を抱えかけた途端、窓の外が一瞬だけ明るくなって私は背筋を正した。続いて地面が揺れるような爆音が響く。雷だ。音の間隔からして近くだろうか、その音に合わせて一瞬だけ、ライさんの肩と耳が跳ねる。
「……」
が、ライさんが何かを言うことはなかった。いつもなら「ひゃっ!」とか、可愛らしい悲鳴を上げるのだけれど。ライさんは動かせる片手だけを使って、何も言わず黙々と作業を続ける。怪我をしたままでも一人で業務をこなそうとするライさんは、ちょっと不便そうに身を屈めながら作業をしている。あの大好きな、真面目で真剣で、綺麗な姿勢で仕事に向き合うライさんの姿は、もう、ない。
また雷が鳴る。ライさんはその音に一瞬だけ手を止めた。でも、またすぐに作業を続ける。あんなに子供っぽかった彼の振る舞いは面影も見せず、淡々とした姿はまるで普通の成人男性の振る舞いだ。
ライさん、本当は雷、怖いんじゃないですか。なんでそんな、冷静を装うんですか。そう言えたら、ライさんは実はそうなんですよ、と言いながら照れ笑いしてくれるのだろうか。あの可愛らしい悲鳴を漏らすのだろうか。
私はわからなくなる。窓の外の嵐が、まるで自分の心と繋がっているような気持ちだ。
嵐のせいで昼間なのに夕方のように薄暗い署内は、あちらこちらでガタガタ、ミシミシと不気味な悲鳴を上げていた。それも妙な雰囲気に拍車をかけて、今までのライさんならば確実に怖がりそうな空気が漂っている。
「っ……!」
「あっ、消えた……‥?」
途端、特別大きな雷が鳴り響き、署内の電気がバツン、と消えた。どうやら落雷したようだ。突如訪れた停電に、一瞬署内がしん、とする。
「ら、ライ……部長……?」
私は慣れない目を凝らし、ライさんの姿を探す。と、ライさんは窓際でしゃがみこんで、自由の利く方の手で反対側の腕を掴んでいた。その腕には爪すら立てている。その手は密かに、本当に密かに震えていた。
「……音胡さん、大丈夫ですか?」
「え、えっと……あ、はい。私は……」
しかし、私の声を聞くとすぐにライさんは立ち上がり、私に声を掛ける。その声はいつも通りで、私は逆に驚いてしまった。
「この署も設備が古いですから、復旧まで時間かかりそうですね」
「え、ええ……」
ライさんは笑いながら、倒れた椅子を起こす。恐らく、驚いて蹴飛ばしてしまったのであろう椅子を。
「ライトを借りてきます。すみませんがパソコンのコンセントを抜いて置いてください」
「あっ、なら、私、が……」
行きましょうか?
そう言う前に、廊下の向こうから他の署員の声がした。
「ライー! 大丈夫かー!」
「はーい、大丈夫ですー!」
ライさんはそのままカウンターを出ていってしまう。暗い所でも目が見えるライさんは、躓くことも立ち止まることも無く、さっさと立ち去ってしまった。私はあっけなく立ち去ったライさんの背が消えゆくのを眺めながら、ただ唖然として立ち尽くすしかない。一人で薄暗い部屋に立っていると、気持ちまでその中に溶けて行きそうで怖くなった。
「……あ、コンセント抜かなきゃ……」
再度鳴る雷で、私は『上司の命令』を思い出す。突然の停電で、さっきまでしていた仕事のデータはあっけなく消え去り、パソコン画面はただただ、闇と、泣きそうな顔の私を反射するだけだ。私はコンセントを抜くと、給湯室も振り返る。冷蔵庫とかも抜いておいたほうがいいのかな……と思い、数歩歩き出した所で、足を止めた。
遠く、目に飛び込んてきた光景に、胸が引き裂かれそうなぐらい痛む。
「……はぁ、ふ、ふーっ……」
「……っ、ライさ……っ……」
その数メートル先。廊下の柱に頭を預け、胸元を押さえながら深呼吸するライさんの姿がそこにあった。暗い廊下の中で、黒い毛皮は闇に半分程溶けこんでいる。それでも私の目が捉えた彼の姿は、発作寸前の呼吸を必死に整えているようにしか見えなかった。
「……わ、私のせいだ、私があんな事言わなかったら……っ、うっ……ぅぅ……!」
強く振る舞わなくてどうする。そう言った自分の言葉と、これ以上重荷にならないでくれ、というスティーブさんの言葉が頭に蘇る。私が責めたせいで、ライさんは自分の恐怖を我慢するようになってしまっていた。私の余計なお世話が、ライさんを苦しめている。
ライさんの動かない方の手には、何処かで借りてきたのであろう懐中電灯が握られていて、ふらふらと頼りない灯りの軌道を描いていた。ライさんの苦しそうな呼吸に合わせて上下している。私はその光が涙で滲むのを見ながら嗚咽を噛み殺し、給湯室でうずくまった。
適切な距離感って何? 部下と上司の関係って何?
それって、怖がるライさんを無視して、上辺だけでも笑ったままでいる事?
「……辞めよう……」
これ以上、あの優しすぎるヒトの苦しみになるのはつらすぎる。こんなの、耐えられない。
***
その帰りには、あんなに荒れた嵐はすっかり大人しくなっていた。まだ雨は降り続いているが、心を殺した私の心境そっくりに、しとしとと静かな雨音だけが、大好きだった町に染み込んでいく。私は上の空のまま、ライさんにさようならも言わず、黙って署を出た。帰路をとぼとぼと、生気の無い足取りで歩く。
「……でも、辞めるって言ったら、ライさんまた苦しむんだろうな……」
うわの空の中で考えた呟きも、雨に中に溶ける。ふと辞めようと決意しても、その覚悟だけはどうしても出せなかった。
幾度となく辞めないで、辞めないよ、というやり取りをしてきた相手だ。こんな事になったすぐ後に、辞めますと宣言するのは……貴方を嫌いますと宣言するようなもの。傷つけたくなくて必死に振る舞っていたのに、あまりにも矛盾した行動だ。
考えが煮詰まってしまった私は深い溜息を吐く。なんだか今日だけでどっと疲れてしまった。もう今日は何も考えたくない。お弁当でも買って、適当に食べて適当に寝よう……。
ふらふらとお店を求め、商店街に入っていくと、不意に背中の向こうから声を掛けられた。
「音胡!」
「……!!」
ちょっとだけ懐かしい声。振り返ると、その声に思い描いたまま……少しだけ歳をとった姿がそこにはあって、私は思わず口を開く。それは、今一番会いたいようで、会いたくない相手だった。
「……お父さん……」
片手を上げて私に駆け寄ってきたのは、この数ヶ月、脳裏に幾度となく思い描いた顔。高梨の名を持つ、私の本当の父だった。
「久しぶりだなぁ、警察になったとだけ聞いたんだが……今はこの町に住んでいるのか?」
「う、うん。ここ、ちょっと特殊な田舎町だから配属された時に引っ越してきて……今は一人暮らししてる……」
そうして誘われるまま、私と父はレストランに入った。あの日、ライさんのスティーブさんと行くはずだった、駅近のファミリーレストラン。そう言えば、ライさんに最初奢ってもらったお店も系列店だった。……思い出して、ちょっと切なくなるけれど、なんとか取り繕って私は質問に答える。母はどうやら彼とあまり連絡を取っていないようで、父は私の現状を殆ど知らないようだ。私は簡単に、この町に来た経緯を彼に話した。
あまり詳しく話さなかったのは、まだ彼の素性が分からないのと、話そうとすると余計な愚痴が先に来てしまいそうだったから。そして、元から私はこの父の顔色を見て生きてきた、という理由もあった。子がありながらも離婚まで行った両親のぶつかり合いというのは、簡単に子供の心を殺させる。生まれてきた意味さえ失わせる事だってある。
それは私も例外ではなくて、私は未だに彼を相手に、正直な胸の内を明かした事はなかった。そんな、何も知らない実の父親に、心配されてまでそんな悲しい事言えるわけがない。この町に配属された理由だって、地元とこの町が提携して行っている『人数合わせ』の移動に選ばれただけで、特に意志があって来たわけじゃないし。
私はテーブルの下で、表現し難い気持ちからスカートの裾を握りしめる。
「配属は何処なんだ? どんな仕事をしているんだ?」
「……えっと、この町の署の仕組みはちょっと特別で……どう説明していいか……」
私はスティーブさんから告げられていた、この人がスティーブさんの親友で、犯人であるかもしれない、という話から彼を少しだけ疑っていた。スティーブさんと友達であるならば、この町の署の仕組みも知っていておかしくない。スティーブさんも関係者だったのだから。
しかし、父は分からない素振りを見せる。もしかして、スティーブさんの言う親友と彼は全くの赤の他人で、名前の一致も偶然だったのかな? と、淡い期待すら私は頭を過ぎらせていた。
口下手な再婚の父とは違い、実父は言葉遣いも丁寧で、とても聞き上手の話し上手だ。……ただ、口が上手いので、母はよく彼を胡散臭い男だと形容していたが。私はそんな彼の物腰を少しだけ尊敬していたので、実の親の悪口を聞くのも実の親、というジレンマを今でも偶に気持ち悪く思う。
私はどうにかそのジレンマかから湧く気持ちうぃ噛み殺し、この町の仕組みを、やっぱり簡単に説明した。
「所属は地域課なんだけど、私は交番配属じゃなくて……署に籍を置いて、交番を統括したり、町のいろいろ、なんて言えばいいんだろう……ボランティアみたいな事したり……」
「へぇ、立派になったなあ、音胡」
そんな私の曖昧な説明を、父は笑いながらうんうんと聞いてくれた。その態度に、優しさに飢えていた私は少しだけ安心してしまう。疑いをかけていた事を少し悪いとさえ思ってしまった。スティーブさんには威嚇されるし、ライさんには無視されるし……消えてしまいそうだった自分自身を、見つけてもらえたような気持ちになり、私は少しだけ口をお喋りにさせてしまう。
「あと、ここは獣人のヒトの指定区域だから、そのヒトたちの権利を守る仕事をしてる……って言えばいいのかな。住民登録を手伝ったり、PR活動をしたりもしてるよ」
「……そうか、大変そうだな」
その説明に、父の眉が少し上がる。『獣人』という言葉の辺りから、顔色も変わった。その顔色に違和感を感じ、一瞬あれ、と思ったが、喋ってしまった以上、私は話を続ける。
「といっても、私ともう一人……獣人の上司が居るだけなんだ……」
「……何か、あったのかい?」
彼のそんな態度と、昼間あった事を思い出すと、私の顔色は悪くなっていく。最後には泣きそうな顔をしてしまい、あっさりと父には見透かされてしまった。今は離れているとはいえ、伊達に何年も共に過ごしてきた相手。私は首を横に振ったが、口は素直な気持ちを吐き出してしまっていた。
彼がライさんの敵かもしれなくても、私にとっては腐っても父で、親で、今ライさんに対する愚痴を言えるのは彼だけだった。この町に来て知り合った人達は、皆ライさんの味方だから。誰でも良いから、吐き出したかった。そんな軽々しい気持ちが、微量な疑いの気持ちを無視してしまった。
「……すごく素敵なヒトだけど、とても臆病で……子供のようなヒトなの。だから、私が頑張らなきゃって思って、向こうもすごく心を開いてくれて……嬉しかったけど、周りからは彼の為にならないから、身を引いて欲しいって言われて……向こうも気を使っちゃって、上手く行かなくなっちゃった……もうこれ以上傷つけるぐらいなら、辞めたほうが、いいのかな……」
「……そうか、頑張ったんだね、音胡」
私は尻すぼみに言葉を発しながら、思わずうつむく。爪先では通勤用の少し畏まったヒールが、ふらふら揺れていた。迷ってこそいたが、それは今の本心だ。父はそんな私の肩を、励ますように軽く叩く。続けて頭もぽんぽんと撫でてくれた。
「……音胡は優しいから、もしかしたら彼も甘えてしまったのかもね。依存されてたんじゃないか? もし、そうなら……彼の手を離してやるのも、大人として大事なことだよ。お互いにね」
「……」
私はその言葉に何も言わず、小さく頷いた。父はふっ、と優しく微笑む。その光景は、まるで小学生とその父のような……泣いた子供を宥める姿にそっくりだ。つまりは子供扱いではあるけれど、だからこそ今の傷ついた私の心に染みる。
「……音胡、今お父さん、隣町で営業職をしているんだ。この町に来たのも、取引先との会議があってね……あの遊園地にも出資してる、結構大きな会社だよ。もし、辞めるなら……来ないかい?」
「営業……?」
「いや、事務でも秘書でもいいよ。……ねえ、音胡。一緒に暮らさないかい、新しいお父さんに馴染むのもつらいだろ?」
私は再度頷く。ライさんには幾度となく心配されて、私も努力したけれど……やっぱり実父には勝てない。外だから我慢していたけど、どうして別れたの、なんでもっとお母さんと話してくれなかったの、子供の事を考えたら、我慢してくれたって良かったのに、と泣きわめきたいぐらいには、まだ父の事を好きだった。
「……うん、でも、考えさせて……仕事は嫌いじゃないの。夢もある……今、投げ出したら……多分すごく後悔する、から……」
「……そうかい。音胡がそうしたいなら、待つよ。でも、お父さんはおすすめしないな。だって、すごく今の音胡、辛そうだからね。さ、なんでも好きなものを頼みなさい」
そうやって渡されたメニューの裏で、私は密かに涙した。
その後、父は食事を奢ってくれて、私を家まで送り届けてくれた。
「じゃあ、考えておいてね」
「……うん、おやすみ」
私は立ち去る彼の背に手を振りながら考える。どうやって、ライさんが納得する形でライさんとさようならができるのかを。……もし、実父と復縁して引っ越すのだと言えば、それはライさんが納得し、私を明るく送り出してくれる理由になるのではないか、と、ずるい事を。
***
「おはようございます……」
「おはようございます」
翌日、私はありきたりな内容の退職届を鞄に忍ばせて出勤した。しかし、いざとなってライさんの顔を見ると、昨日の発作を我慢するライさんの姿が頭をチラついてしまう。あの顔をもう一度見なければいけないかもしれないと思うと、怖くて辛い。
「音胡さん、どうかされたんですか?」
そんな私の顔色を流石に察したのか、ライさんは私の顔を覗き込んだ。私は顔を反らす。そんな目で見ないで欲しい。子供のような無邪気で、綺麗で、優しい視線を、私は向けられる権利がない。
「……いえ、なんでもありませんよ、ライ部長」
「なんでもない様には見えませんよ、それに、部長、なんて僕を呼んでたの、最初の一年だけだったじゃないですか?」
慌てて取り繕うと、ライさんは不満げな顔で反論してきた。いつか、部長って呼んでくれなくなった、と不満を言ったのは貴方です。こんな、こんな細かい事まで覚えてる事に、胸が張り裂けそうになる。あの時のようにはもう戻れない。今すぐ真実を話してしまえば疑いは晴れるだろうけれど、恐らく彼との関係と彼の心は守れなくなる。守り通すと決めちゃったのは私だ。破るわけには行かないし、きっとスティーブさんが許してくれない。答えが、分からない。
「う、うぅ」
「わっ」
どうしたらいいか分からなくなって、私は思わずしゃがみこんだ。
「ね、音胡さん!? どうしました、気分でも悪いんですか……?」
「……すみません、少し……立ちくらみ……かな……」
ライさんは私に合わせてしゃがみ込むと、優しく背を撫でてくれる。その姿はすっかり、いつかの逆転だった。お願いします、優しくしないで。貴方に軽蔑されたくない。ずるい理由で逃げてしまう私を知らないで欲しい。気持ちがぐちゃぐちゃになりそう。大人気なく泣き出しそう。
そんな内なる悲鳴を悟られないように口を噤むと、ライさんはどうやら私の具合が悪いのだと勘違いしてくれたようだ。
「……あまり無理せずに……僕、一人でパトロール行ってきますから、座っててください。留守番、お願いします。無理そうでしたら、課長にでも署長にでも申し出て、帰っちゃっても大丈夫ですから……腕こんなんですけど、僕一人でも仕事は捌けますから……心配しないで、休める時に休んで下さいね」
「……はい……」
ライさんは私をそっと立たせると、私のチェアに座らせる。ライさんの席にかけてあった『地域見回り中』のジャンパーをさっと羽織ると、そのままカウンターを出ていった。またしん、としたオフィスの中、私は深い溜息を吐く。
「……一人でいいなら、私って必要ないのかな……」
さっきの言葉を反芻すると、私のずるい頭は、ライさんの優しさを『お前なんか実は必要ない』という言葉に変換してしまっていた。不甲斐なさに押し潰されて、ごん、と机にぶつけた頭が鈍く鳴る。
こんな状態で実父に会いました、なんて言えるわけがない。不意にポケットの中にあった携帯がピロリン、と、私の気持ちに全く似合わない可愛らしい声で鳴いた。画面を見てみると、ライさんからのメッセージの通知だ。
『言い忘れてましたが、冷蔵庫にまだ開封していないボトルのお茶がありますので、もし良ければ飲んで下さい。無理せず』
……ライさんらしい、優しくて軽いメッセージだ。それが今の私にはこんなに重くて辛い。私はメッセージを指でなぞると、そのままライさんのアカウントを非通知に設定した。その下に、あの誕生日会の日、まだあの事を告げられる前に交換したスティーブさんのアカウントも表示されている。
「……お父さんに会ったって、スティーブさんに言ったほうがいいのかな……」
スティーブさん達は、多分だけど父を探しているはずだ。しかも足取りが掴めないとも言っていた。会って話をしたと、今は隣町で仕事をしている、と告げるべきか。それとも告げず、黙って二人でこの町から離れるべきか。私は一瞬だけ考えた。……でも、既にどちらが綺麗に、そしてライさんの望むやり方なのかはもう答えが出ている。ライさんを泣かせてしまったあの日に、ライさんが自分の口から言った事だ。負けたままでいい。戦いたくない、という言葉。その発言の通り、波風を立たせず、ライさん達に構わず、戦わせず……二人の前からただ居なくなるのが最良なんだ。多分。
「きっと、ライさんはお父さんと居たほうが幸せ、ですよね……」
だって、裏切られて泣いてしまうぐらいに好きな相手だよ。嫌われたかもしれないってだけで死を選べるぐらいの相手なんだよ。諦めたとは口では言うけど、優先順位は変わらないはずだ。あの優しいライさんが、あんな事でスティーブさんを突き放せる訳がない。ライさんはきっと、スティーブさんを選ぶ。
「……ライさん、たすけて……」
その事実を思うと何故か寂しすぎて、私はこっそりと不安を口に出してみる。その言葉はあまりにも予想外で、私は自分の口を疑った。逃げたい相手に助けを呼ぶなんて、あんまりに滑稽すぎるだろう。
私はスティーブさんのアカウントもミュートにすると、一覧の上に表示されていた父のアカウントにメッセージを送った。
『やっぱり、引っ越し、具体的に考えてみる』
そう一言送ると、すぐに返事が返ってきた。
『ありがとう、助かるよ。音胡は聡明な子だから、お父さんも鼻が高い。準備もあるしできれば早めに住む所を探したいな。一週間後、駅で待ち合わせにしないか?』
一週間後……。それまでには流石に、ライさんに切り出せるだろう。私は『分かった、一週間後に』と短く返事を返し、電話をポイと机の上に投げ捨てて、また机に顔を伏せた。
「……音胡、おい、音胡!」
「……っ! っと、なんだ、ケンさんか……」
「なんだってなんだよ……って、うわ、気持ち悪い、名前間違えないでやがる」
そのままナーバスに浸っていると、急に頭上から声がして私は顔を上げた。カウンターから身を乗り出していたのは、ケンさんと双子ちゃんだ。いつものようにポチさん、と呼ぶ茶番が行われなかった事に、ケンさんは震え上がる。相変わらず、失礼なヒトですね……。
「どうされました? ライ部長ならパトロールで席を外していますけど……」
「いや、特に用事はねえけど……なんかあったのかよ? ライとすれ違ったら新人かと思うぐらい変にしゃっきりしてるし、お前は机の上に溶けてるし……喧嘩でもしたのか? お前があいつを『ライ部長』なんて呼ぶの、初めて聞いたよ……」
喧嘩、ねえ。喧嘩だったらまだマシでした。ごめんなさいの一言で元に戻れるのなら、戻りたいです。スティーブさんが許さないんだろうけど。
「……別に、なんでもないですよー」
「その言い訳、ライそっくりだな。何かある時に言うやつだろ、その台詞」
そう言うと、ケンさんは苦笑しながらカウンターのドアを勝手に開けて勝手に入ってきて、ライさんの席に座った。双子ちゃんも後に続いて、ケンさんの両端にしがみついている。私は席を立つ余力もなく、目だけでケンさんを追う。その仲の良さが、痛いです。羨ましいです。眩しいです。
「なんですか」
そのままじっと見つめてくるケンさんに、思わず喧嘩腰になってしまった。もうやめたい。一人残らず敵に回して去っていくなんて、最悪すぎる。だけど、私は強がることしかもうできなくなっていた。
「よくわかんねえけど、元気出せよ……ライがお前の事、本気で嫌うなんて絶対ねえからさ」
「どうして断言できるんですか」
私はケンさんの無責任な発言に、一方的にむくれる。ケンさんは少し考えたあと、まるで悪戯を思いついたかのような意地悪そうな笑みで呟いた。
「だってよ、アンタが来てからライ、ずっと表情も柔らかくなったし、よく喋るよ。俺があいつと初めて会った時なんて、丸一日喋らなかったからなー、悲鳴以外の声を聞いたことなかったぜ」
「……そう、なんですかね……」
私はまた机に突っ伏して、ライさんの事を思い浮かべる。ライさんの楽しそうな姿を。最初の一年の上司ぶった姿と、打ち解けてからの臆病でも頑張る、子供のような姿を。
……でも、その笑顔を、あの無邪気さを壊したくない。だから悩んでる。だから言えない。それが余計なお世話だったのだと言われたのだから尚更だ。
「……なんか調子狂うなぁ、熱でもあんの?」
「わかりません……」
私は机の上で首を回し、ケンさんから目線を外して壁を睨む。ケンさんは突っかかってこない私を見て、いよいよ不気味に感じたらしい。心配そうに私の顔を覗き込んでくるが、私はまた反対側に顔を背ける。熱でも出してたなら、こんなの病気のせいでしたと言えるだろうか。
「お姉ちゃん、お熱あるの?」
「風邪ー? 大丈夫?」
その様子を見て、双子ちゃんも声を揃えて私の顔を覗き込んできた。両側から挟まれては、流石に目を反らせない。私は仕方なく笑うしかなくなってしまった。
「……大丈夫だよ。多分。風邪だとしても、確か私達と双子ちゃん達のウイルスは違うはずだから、二人には伝染らないか安心して」
私は適当な返事をして、立ち上がった。ああ、居たたまれない。子供にまで励まされてしまう自分が。そこから逃げ出すように、ライさんが置いていったお茶の事を思い出して私は給湯室に向かう。
「お茶でも出しますね、生憎ペットボトルのしかないですけど……」
あまりに露骨なその避け方にケンさんが慌てて私を止めようと、軽く手を上げたその時だった。
「「……~♪」」
「……えっ?」
背後から聞こえてきたのは、歌だった。綺麗に重なった声の主は、アイドルでもある双子ちゃんの歌声だ。
「い、いのり? のぞみ?」
ケンさんが驚きに二人を呼ぶと、二人は顔を見合わせてから、私に向かって微笑む。歌は止めないまま。遊園地に行ったあの日、ライブで聞いた曲だった。
「……っ」
その歌声に乗せて、私の記憶は巡る。あの誕生日のこと、あの遊園地のこと、双子ちゃんに会いに行った町、その日の可愛らしいアイス、死のうとしたライさんに言った『また明日』の言葉、ケンさんと会った日、寮の解体を見ながら誓った約束……。
何よりも、否定できない思い出が巡っていく。
ライさんと共にいることが、悪いものじゃなかったという、証拠が巡っていく。
汚せない思い出がこんなにもある。
――やっぱり、ライさんと居たい。
私は、あのヒトの部下で居たい。――
「双子ちゃん!」
「「わぁ!!」」
私は双子ちゃんに思わず抱きついた。両手に収まった双子ちゃんは、その歌を止めて揃った驚きの声を上げる。
「ありがとう、元気出た」
出たのは元気じゃなくて、勇気だけど。私は二人の頭を優しく、でも強く何度か撫でた。二人は満足そうな顔をして、可愛らしく大きな耳をぴょこぴょこ跳ねさせる。英雄に似た顔で。今の私にとっては英雄よりも英雄なその姿で。
「良かった! 僕らは……僕らの歌を聞いた人が元気になるのが、一番幸せだよ!」
そう言うのはのぞみくんだ。自分も不整脈の症状を持っていて毎日大変なはずのに、こんなに簡単に他人の幸せを願えるなんて、若干十歳で立派すぎるほどに心優しい。
「……ライ兄は今、きっとお兄ちゃんをしてるんだよ」
「お兄ちゃんをしている?」
続いてそう言ったのは、いのりくん。一日だけお兄ちゃんのいのりくんが言う、『お兄ちゃんをしている』とはどういう意味なんだろうか。
「僕らね、時々『お兄ちゃん』を交代するの。一日だけ、のぞがお兄ちゃんの日もあるの。お兄ちゃんして頑張るって大変だけど、嬉しいよ。大事なヒトに、お兄ちゃんすると大事だって教えてあげられるから。だから、たまにのぞにも、お兄ちゃんをしている嬉しいのを分けてあげるんだ! それで、僕も時々お兄ちゃんが二人いるのが嬉しいんだよ。きっとライ兄も、お姉ちゃんが元気ないの知ってて、お兄ちゃんして教えてくれてるんだよ。元気出してって……! お姉ちゃんが大事だよーって!!」
なるほど。私は深く頷いた。誰かを大事に思う時、自分を少し犠牲にしてでも伝えたいと思った時……二人は『お兄ちゃんになる』事で示してきた。それは私達の言葉で言えば、『大人になる』ということだ。
あんなに子供っぽい彼が、まるで大人のような態度を取っている時……。ライさんが『お兄ちゃんをしている』時……。私は、彼に想われている。まるで兄のように、親子のように、大人と子供のように。戦えない子供が守られているように。
その愛情を、私は見ないふりをした。子供は戦えないからと、諦めるふりをして。
だとすれば、私もこのままではいけない。『お姉ちゃんになる』をしないといけない。
すぐに私は携帯を手に取る。一週間後の約束。
私は父に会う。会って、話さなきゃ。
やっぱり、私はこの町を出られない!
出たくない!
これは、メッセージじゃ言えないことだ。
会って話さなきゃ。ライさんとスティーブさんがそうして、再出発出来たように。
私は簡潔に『一週間後、大事な話があるの。一週間後の約束は、その約束にさせて。一週間後に駅で待ってるね』とだけメッセージを打って、これ以上言い訳出来ないように父のアカウントもミュートにする。
双子ちゃんとケンさんが帰った後、私は鞄の中の退職届をビリビリに引き裂いた。
『――音胡さあ、いい加減担当楽器、決めてほしいんだけど?』
『――君、何か目標とか無いの?』
『――音胡、どっちについて来たい?』
ついに、一週間後。その日の夢見は最悪だった。学生時代に入っていた吹奏楽部で、担当楽器が決められなかった時に部長に叱られた言葉。この町に配属される前に言われた、面接官の冷めた視線。親が離婚する時に、母か父かを選べと言われた時の重たい空気。
そんな重たい記憶ばかりの夢から覚めた私の身体は、嫌に重たい。
やっぱり私って、優柔不断だなぁ……。やりたい楽器も、警察としてやりたいことも、辞めることすら決められないんだ。そのくせ、弱みも上手く見せられない。
「ライさん、臆病なままでいるって、実は難しい事だったんですね……」
子供のように、素直に、強がってもすぐ謝れ、人の為に勇気が出せるライさんは、やっぱり凄いヒトだった。それを痛いぐらい実感してしまう。
だけどこのまま、優柔不断なままではいられない。今日は平日。本当なら出勤しなければいけないのだけれど、どうしても今ライさんの声を聞いたら、決意が揺らいでしまいそうだ。私が話すべきは、先に父。ライさんには悪いけど、黙って行くことを決める。これでクビにされるならば……その時はそれまでだ。許してもらえるなら、決着をつけた後で謝ろう。
……ライさんだって、黙って来なかった日があったんだから、これでおあいこだよね?
「……真実を聞かなきゃ」
私はベッドから立ち上がる。袖を通したのはのは、通勤着ではなく、いつもの、ライさんの隣いる時の姿ーー制服だった。
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