こどもはたたかえない⑤-2


 とても久々の、一人きりの朝だ。音胡さんが来ない。待っても待っても、連絡一つなかった。最近、なんとなく元気がないと思ってはいましたけど、まさかこんな僕みたいな真似をするなんて、ちょっと悲しいです。

 音胡さんは自分から言い出せる人だ。だから、僕は彼女が話す気になるまで、いつも通りを心がけて待っていた。あんな事があった後だけれど、僕もいつまでも落ち込んではいられない。怪我だっていつかは治る。そんな風に、ただ時間が過ぎるのを待ってしまった。

 ……その間、無理をしなかったと言えば嘘になるけど、不思議と前より何もかもが怖くなくなっていた。人の為になら、僕は勇気を振り絞れると自覚したから。

 それを教えてくれた音胡さんは……大丈夫だと思っていた。それは何もかも僕の勘違いだと言うことに、ようやく気づいたのは今朝の事。

「……音胡さんに何か、試すような事を言いましたね?」

「……あそこまで本気にされると思わなかったから、つい、調子に乗っちまって……」

 署に来ても、パトロールを終えても、連絡すら来ない音胡さんの代わりに来たのは、顔を見たくない、暫く来ないで欲しいと宣言したはずの父だった。物凄くバツの悪そうな顔をして現れた彼に、僕は鋭い視線を向ける。

「お、怒るなよ……お前、キレると割と怖いから……」

「怒りますよ! 人生三度目のめちゃくちゃ、やりますか?」

 僕は無事な方の手で椅子を掴んだ。これぐらいなら、僕の力でも片手で投げられます。父は思わず、と言った様子でカウンターの影に隠れる。

「勘弁してくれ、音胡ちゃんにはちゃんと謝るから!」

「分かりました、保留にしましょう。で、なんて言ったんですか? 音胡さんがあそこまで落ち込むなんて、とてもじゃないけどまだ信じられません……半分は僕のせいと認めますが……引き金を引くぐらいは、おじちゃんがやらかしたんですよね?」

 僕は椅子を置くと、父に詰め寄った。父は完全に目を泳がせながら、こうなってしまった経緯を話す。

「……お、俺は、音胡ちゃんに、あまりお前に近づきすぎないでくれって言ったんだ……」

「……なんですか、それ。どの様な意味で言ったんですか?」

 その発言に、僕は全力で呆れる。何故、僕への近づきを父に否定されなければ行けないんでしょうか。そもそも、同じ部署で働く上司と部下が、近づかずどうするんですか。僕は更に冷たい視線を、彼に突き刺した。

「お前、そうやって自分の事よりもあの子の事を心配するじゃねえか……親として不安だったんだよ。あの子もお前の為に一生懸命になっちゃうし、でも、お前は俺やあの子と違って長くは生きられない。あの子の想いも、お前の想いもいつか台無しになっちゃうんじゃねえかって不安で……最終的にお互い、傷つくだけじゃねえか。俺、もう見たくな、いっ……お前が、お前と誰かの間で傷つくの、見たくねえよ……」

 父は話していくうちに、目を潤ませ始め、最後には涙に濡れた声でそう語った。その姿に僕は怒れなくなり、彼の前にしゃがみ込む。

 この光景、まるでどっちが親だか分かりません。

「……すみません。僕が頼りないばかりに……。でも、それは違いますよ。……確かに、音胡さんの真意を確認しない事には僕も、確かな事は言えませんが……僕らの間で築いたものは、貴方が思うような傷を生むものではありません。例え、それでお互いに一度傷ついたとしても、癒える傷だと確認する為のものです。……どうですか、この答えを聞いても、僕がまだ音胡さんを相手にして傷つくと思いますか?」

 僕は真剣に、胸の内を明かす。数年前の僕ならば、絶対に彼とこうして向き合って、こんな真面目な会話はしなかっただろう。これだって音胡さんのおかげだ。それを仲間はずれにしようとした彼は、躊躇いがちに首を横に振った。

「……いいでしょう、反省してるなら。音胡さんを見つけて誤解を解いた後、アイス奢ってくれたら許してあげます」

「た、タダでは許してくれないんだな?」

 そのしおらしい姿は、あまりに見慣れてなくて僕は笑いそうになる。慌てて誤魔化しがてら立ち上がり、僕は父へペナルティを課した。父は冷や汗をかきながら、苦笑する。

「勿論です。いい加減、勝手な解釈して勝手に動くのやめてください。アニーとポートの時からさっぱり変わってませんよ、そういう所」

「クソっ……まだ怒ってるじゃねえか……」

 勿論、怒ってます。勝手すぎます。勝手な妄想で勝手に盛り上がられては、困りますので。

「ちくしょう、音胡ちゃんの影響か知らんけどお前、なんか大胆というか過激になったぞ……」

 ***

「お父さん、話があるの」

「なんだい、何でも言ってごらん」

 駅で待ち合わせて、私は父と合流した。平日の駅は流石に人並みもまばらだ。ライさんにバレず父と会うには、とても好都合な環境。私は制服の上に通勤着のコートを羽織り、一見制服で来たことを見せない格好をしている。彼は私が、今日仕事を休んで来ていると思っているはずだ。それが実はそうでないとすれば、私に辞めるつもりがないという意思表示になるはず、と思って隠してここまで来たのだった。すっかり私と住まい探しをするつもりで歩き出してしまった彼を止めるため、私は早急に話を切り出す。

「……ごめん、せっかく来てくれて悪いんだけど、引越しのことは……」

 そう口を開いた瞬間、ポケットに入れていた電話が激しく振動し、可愛らしいメロディを奏でる。私は驚いて思わず言葉を止めてしまった。父がそのポケットを指差す。

「電話、出なくて大丈夫かい?」

 私は携帯を取り出し、画面を確認する。ライさんからの着信だった。当たり前だ、連絡もせずに行かないままなら電話ぐらい来る。

「……ごめん、今はいいの。取り敢えず聞いて。私、やっぱり引っ越しはしな……――!?」

 私はそれを無視してもう一度ポケットにしまいかけるが、その腕を突如として父に取られた。その強引な手付きに、私は一瞬で困惑した。

「……コイツか、音胡の上司っていうのは」

「え」

 鋭い目で、私の手に握られた画面を睨む父。その口調は、今までに聞いたことのないような、乱暴な喋り方に変わっていた。

「音胡、よく聞きなさい。お前に選択肢なんてないんだよ」

 そのまま、腕を強く握りしめられる。この間のライさんがされたように。私はその痛みに耐えながらも、恐怖から震える唇をようやく開いた。

「……な、何故?」

 想像以上に重たい声が、己の口から漏れる。

「あんな人間とも動物ともつかない中途半端な劣等種、セニマルにお前は渡せない。いいから来るんだ、拒否権はない」

 その言葉は殆ど脅しに近かった。いや、完全に脅しだ。

「っ……! ……そんな言い方、ひどい……」

 私は彼の本性に唇を噛む。獣人のヒトをよく思っていない人が一定数居ることは、こういう仕事をしているからこそよく知っていた。そんな人達への誤解を解くのも、私や双子ちゃんの仕事だったから。でも、身近な……家族がそうだと知ると、やはりショックだった。しかも、優しいと思っていた人だから尚更。私は思わず泣きそうになるが、この言葉に人間の私が泣く権利はない。

「一度ならず二度までも劣等種に音胡は奪わせないよ。あの白猫だって折角追い出してやったんだ……上司の黒猫だってすぐ、やろうと思えば仕返しできる。生憎、この町の警察事情には詳しくてね……息のかかっている所は多いんだ。協力者だっている。簡単なことさ」

「っ……」

 私は息を呑んだ。かつて友達だった白猫のあの子も、彼の手で追い出された事実と彼の狂った素性に。危険だ。こんな人とライさんを接触させたら……今度こそライさんは無事じゃない。私は涙をぐっと堪えて頷いた。

「……わ、わかった。お父さんと行く。だから、お願い……ライさんには手を出さないで……なんでも、聞いてくれるんでしょ……?」

「あぁ、わかったよ。ありがとう、音胡。僕の邪魔をしなければ……彼の無事を保証してあげよう。だから……今日限りで署を辞めるんだ。退職の手続きは後からいくらでも、そうだな、後でお父さんと一緒に行こう。だから今日は……今日で引っ越すんだ」

 そうして私は腕を引かれる。私は頷く事しかできない。手の中ではまだ、携帯が鳴り響いていた。画面に表示される『ライさん』の文字は、涙で滲む。

 ライさん、ごめんなさい。ライさん……もっと話したかった、せめてお別れが言いたかった。ありがとう、ごめんなさい、それだけでも言いたかった。でも。

 私は、貴方を壊したくない……。

 父の足取りは早く、真っ直ぐ改札へと向かっていく。この電車に乗ってしまえば、私は多分、この町へ自分の意志で戻れはしない。せめて最後に、町の全てを目に焼き付けたいのに、涙で視界が遮られてそれも叶わなかった。

 双子ちゃん、励ましてくれたのにごめんなさい。元マネージャーさんも、双子ちゃんのこと、きちんと守れなくてごめんなさい。ケンさん、不器用だけどいつも気にかけてくれてたのに、きちんと名前呼ぶこともできなくてごめんなさい。スティーブさん、大事な息子さんを傷つけて、本当に、本当にごめんなさい。OBさん、貴方が先に築き上げてくれた地域課。その意味と意思を引き継ぐことが出来なくてごめんなさい。

 アニーとポート。貴方達が望んだ、スティーブさんとの新しい家族。私が誓った人間と獣人の架け橋になる約束。守れなくて本当にごめんなさい。

「ごめ、なさっ……うっ、うぅ……ごめんなさい、皆、ごめんなさいっ……」

 可愛いかなと思って設定した明るいメロディの着信音が、物凄く痛々しいものに聞こえてしまう。まるで悲劇で終わった映画のエンドロールの様に。もう我慢することも忘れ、涙は止まらなかった。あと数歩で改札。父の足が先にゲートを通りすぎる。

「――待って下さい」

「っ!!!!」

 私も、一瞬だけ躊躇ってから改札に向かって歩み出した。そんな中、唐突に握られる私の、もう反対の腕。ちょっとふにっとする、柔らかい毛に覆われた手。……ライさんの左手だった。

「ら、ライ……さん」

 ライさんのもう片腕には電話が握られている。それは私の電話をコールしていた。まさか、着信音を聞き分けて私を探したというのか。ライさんがその電話を切ると、私の腕の中にある電話も振動を止める。驚いて床に落とした電話は、あの日のひび割れにトドメを刺し、ついには完全に画面を粉々にしてしまった。

 まるでその様子が、私とライさんの関係の幕切を告げている様にすら、今の私には見えてしまう。

 それでも、ライさんはその足元に一切見向きもせず私を強く睨んだ。私にはそれが怒ってる様子に見え、その視線だけで萎縮してしまう。署に行かなかった事を怒っているのか、それとも、犯人の子であった事を黙っていた事に怒っているのか……判断がつかない。初めて見る顔だった。

 何か言わなきゃ。ライさんが快く頷いて見逃してくれる何かを。

「ライさん……え、えっと突然ですが、元の街に戻ります……父と、暮らすために……。後から然るべき手続きはしますので、その」

「嫌です」

「えっ……?」

 私はとっさに、どうにかライさんを守るために言い訳をする。ライさんが現れた、という驚きに涙は止まったが、両腕を男性に掴まれたままでは涙も拭えない。勿論、そんな顔でこんな事を言った所で説得力はないが、いつも他人を優先するライさんならば、説明さえすれば「そうですか」と手を離してくれるものだと思っていたので、速攻ではっきりと否定された私は思わず驚きの声を漏らす。

「なんでですか! はっ、離してください!」

「振り解けるなら、どうぞ。こっちは僕が怪我したほうの手です。まだ痛いので動かせません。貴女の力なら振りほどけるでしょう。……優しい貴女にできるのならどうぞ、ひ弱な僕など構わず付き飛ばして行けばいいですよ」

 私は慌ててライさんに手を離すよう求めるが、ライさんは聞いてくれない。私はその強気な発言に固まってしまった。確かに、強引に振りほどけば逃げられるかもしれない。だけど、そのまだ包帯が外れきっていない腕を、まだ痛むという手を突き放す覚悟は私にはなかった。

「い、痛い目見たいんですかっ? そっちこそ、振りほどけないの分かってるじゃないですかぁっ!! そっちが掴んだんだからそっちから離してくださいよっ!!」

「嫌です! いやだ! 音胡さんと一緒に居られなくなるなんて、また一人で……ただただ雑用をして、いい子のフリだけする日々に戻るなんて耐えられませんっ!! 僕は認めませんよ!」

「そんなの……し、知りませんよっ、ライさんがそうやって嫌がると思って隠し通そうとしたこっちの努力も察して下さいっ、ライさんの頑固者っ!!」

「な、なんですかっ、こっちこそそんな遠慮、望んでませんよ! むしろわざと黙っていられた方が余計に傷つきます、音胡さんの意地っ張り!! ちゃんと納得する理由を教えてください!」

 そうして始まったのは、まるで小学生の喧嘩だった。そのやり取りに改札の向こうで呆気に取られた父は、思わず私の手を離す。今まで父とは喧嘩をした事はなかったので、恐らく私が憎んでる相手とはいえ、上司に暴言を吐く姿に驚いたのだろう。そうして、離す離さないの攻防は私とライさんの一騎打ちだ。

「り、理由は! だから、その……家庭の事情で……引っ越しを」

 理由を聞かれると私は思わず戸惑ってしまう。狼狽えながら先程の言葉を繰り返したが、説得力は皆無だった。結局、まだ心の中では此処を去る覚悟は出来ていないのだ。ここまで来てまだ優柔不断とは、情け無い以外の何でもない。

「……はっきりしてください! 貴女が本当に去ると言うのなら、僕に止める権利はないですが……この二年間、僕は貴女の表情を見てきました。今の音胡さんは、この状況に納得してるようには見えません。僕、嘘を吐きなれてますから分かります。今の貴女は嘘を吐いています!」

「っ……!」

 そんな煮え切らない私の態度を、ライさんは鋭く指摘する。私はその言葉についに勢いを失って、うなだれた。

「音胡」

「……分かってる」

 改札の向こうから、父の重たい声がする。それ以上ライさんに構っていたら、容赦しないぞ、という警告の声だった。私は頷くと、覚悟を決めてライさんを跳ね除けようとする。だって、そうでもしないと、ライさんは身体の怪我よりもっと傷つく結論になってしまう。それだけは、いやだ。

「……ごめんなさい、音胡さん」

「……へ?」

 しかし、先に謝ったのはライさんだ。私はうなだれたまま首を左右に振る。

「……なんで謝るんですか、いっそ怒って下さいよ。私、結構、貴方に酷い事言いましたよ。苦しんでる貴方に強くなれだの、怖がっている貴方を無視して、それで嘘までついて……こんなに至らない部下とまだ一緒にいたいって、なんで言えるんですか?」

「だって……約束したじゃないですか、例え、耐えられなくなる時が来ても一緒だって。あれまでも嘘だったとは、言わせませんよ?」

 そう言ってライさんは、泣くどころか笑った。私の脳裏にフラッシュバックする。あの、寮の解体の日。約束。夢。

「僕は人との距離の図り方がよくわかりません。いつも、人とは距離を置いて居たからです。それが、貴女の迷惑になっていたと言うのであれば、僕は身の振り方を改めます。でも、距離を置くことだけが解決策じゃないと教えてくれたのは、いつだって音胡さんが先でしたよ。……先日も、貴女に叱られてしまった事は確かに傷つきましたが、貴女に大切にされている証拠だと思っています。普通の上司と部下では有り得ない関係ではありますが、僕にはそれが有り難かったんです。遠慮して生きてきた今までとは、違ったから」

「そ、それはライさんが優しすぎただけです……。普通は、腹を立てますよ……こんな生意気で距離感の無い部下……迷惑でしか、無いはずです」

 ライさんは黙って首を横に振った。

「いいえ、迷惑なんてありません。むしろそこに、僕は何度も救われたんですよ。何でも言ってくれる貴女が相棒だったからこそ、僕は今も僕で居られるんです。……さて、僕は本音を話しました。次は音胡さんが本音を言う番です」

「い、言えないです……」

 私は口を噤む。何度か口を開こうとするけれど、結局私は首を横に振った。

「……ライさんの臆病、移っちゃったみたいです……」

 また泣きそうになる。どうしたらいいか、あのライさんにここまで言わせてしまってもまだわからない。背中に刺さる父の視線も、優しく私の声を聞いてくれるライさんの瞳も、どちらも痛くて苦しい。ライさんは困ったように笑って頷いた。

「……痛いぐらい、よく分かります。……でも、上手く形にする必要なんてありません。僕らは……折角話せる身体を持ち、話せる立場にあり、話せる場所に居ます。どんな形でもいいから、今思うままに話してください。音胡さんにとって、どっちも大切だから言えなくなってしまった事はよく分かりますが、口にしないと伝わらないんです」

 そう言うと、ライさんは私から左手を離した。

「っ……」

 私は思わずその手を引っ込めて、ちらりと父を見る。まだ改札の中に立ち尽くしている父は、どうやら私の出方を見ているらしい。私が裏切るようならば、きっと容赦せず立ち向かってくるだろう。

「……僕には、貴女とこの町があれば、怖いものなんかありませんよ」

 そうして、ライさんは私に、ゆっくりと手を差し出した。

 怪我をしていない方の手を。右手を。

 私はその、毛皮に覆われた指先を呆然と見つめる。

 ライさんの指先が、少しだけ持ち上がって、私を促した。

「……僕にも、貴女を助けさせてください」

 その一言で、私は改札の前から足を踏み出した。背中に、父のヒステリックな叫び声がしたけれど、耳になんか入ってこない。聞いてなんかやらない。その手にしがみつくと、やはりふにっとした感触がした。ライさんは飛びついてきた私の肩を抱き寄せ、勢いに押された私を抱き止めて体勢を整える。

「た、助けて、ライさんっ! あの人、貴方達を……獣人を嫌悪していて、私をこの町から連れ出そうとしているんです……スティーブさんを陥れたかも、しれない人、本人なんです……!」

「音胡、話が違うじゃないか! 何故そんな劣等種を選ぶ!! 血の繋がった本当の家族より、お前を悩ませる獣人ごときが大事だと言うのか!? ……チッ、スティーブからも引き離すつもりだったのに丸め込みやがって……!」

 その言葉についに逆上した父は、改札のゲートを飛び越えてライさんの元へと走ってくる。その口からはついに、スティーブさんを騙した事も飛び出た。

 完全な憎悪の視線でライさんとにらみ合う。

「……ごめんなさい、ライさん。隠してたのは知られたくなかったからなんです。私が貴方を不幸にした人の子だなんて知れたら、ライさんきっと傷つくと思ってっ……!」

 私はライさんの腕にしがみつきながら、そう弁解した。しかし、ライさんの顔は悲しむどころか、笑っている。

「なんだ、そんな事でしたか」

「そ、そんな事って……! 私、本気で悩んでたんですよっ!」

 どこか嬉しそうなライさんに、私は怒りながら驚いた。こんな場面で言う言葉じゃなかったからだ。

「僕が傷つくことなんて構いません。……説得力ないかも知れませんが、傷つくのが怖くて警察になんか入りませんよ。僕は確かに臆病ですが、その覚悟だけはしっかりあるつもりです。……それよりも自分のほうが辛いはずなのに、貴女は僕を想ってくれていたって事の方が大事です。謝らないでください、それだけで十分です。それに、不謹慎ですけど、僕ちょっと嬉しいです。音胡さんでも落ち込んで、話せなくなる事があるんだなって……」

 そう言って本当に嬉しそうにされると、何だか自分がカッコ悪く感じてしまう。私は言い返す言葉がなくて、むくれたままライさんの腕に顔を伏せた。勝ち誇ったような顔で、ライさんは私に微笑みかける。

「どうですか? ……ここまで聞いても、僕の意志を否定できますか?」

 私は無言で首を左右に勢いよく振る。ライさんは私の肩を抱いて、顔を上げさせると、私が羽織っていたコートを脱がせた。そして、自分が着ていた『地域見回り中』のジャンパーを肩にかけてくれる。

「さて、音胡さん……貴女は、何で、誰ですか?」

「私は……私は、この町の警察で、貴方の部下です!」

 問われて、答えた。私は……ライさんの部下で、相棒。この町の地域課の職員。この制服が、誰に問わずともそれを証明していた。

 私はライさんの腕を離し、父へと歩み寄る。

 そしてまっすぐ父に向き合い、素直な言葉を吐き出した。

「……お父さん、ごめん。 ……やっぱり私、離れられないよ。この町も、ライさんも」

 大事だから。最後の言葉は敢えて口にせず、私は彼に真剣な眼差しを向ける。その決意の視線に、彼は狼狽えた。

「何故だ、音胡……お父さんはただ、お前を心配しているだけなんだ。また子供の頃みたいに、居なくなられたら困る……それだけなんだ、お前はお父さんの娘じゃないか……血縁のない父を慕うのか? 人間ですらない成り損ないを上司として慕うというのか!?」

 彼の上げた声はあまりに悲痛だった。私はその言葉を静かに聞く。いや、聞かなきゃいけなかった。彼もまた、心配や不安を始まりにしていた事が、今の私には痛いぐらい分かる。ライさんとスティーブさん、そして今の私とライさんと同じ。最初はただ、互いの為だった。

 ……きっと、その不安を誤魔化していく内に、歪んでしまっただけで。

「……私にとっては、新しいお父さんも、ライさんも大事な『家族』だよ。この町では、ううん、この世界では、相棒や、仲間や、大事なヒトを全て『家族』って呼ぶのを、私は沢山見てきた。……私にとって、ライさんは上司で先輩で仲間だけど……きょうだいや親子と同じぐらいの絆があって、そして何より、私の『目標』なの」

 父は悲痛の表情で私を睨んでいた。私はそれに対して、優しい表情で彼を見つめる。その態度が何より、証明に、そして安心になってくれればいいと思って。少しばかり無理をしてでも貫き通すべきは、きっとどこでもない、今、この場面だ。

「ここに来るまで、私はいろんな事に悩んだよ。演奏する楽器、お母さんとお父さんのどちらかを選ぶこと、警察としての夢……何一つ、自分で決められなかった。だけど、ライさんと一緒に居て、初めて自分で決めたことがある。『この町の人間とヒトを繋ぐ架け橋になる』こと。それが私の今の夢なの。……それを譲らないって決めたことが、今は何より大事。その夢をくれたのはライさんだから。そしてこれは誰でもない私の決意だから。実の親子であろうと、止められるものじゃない……だから、私はお父さんの誘いを断るね」

「ね、音胡……っ、な、なんて、ことだ……!」

 その言葉に、強いショック受けた様子の父は膝から崩れ落ちる。正直、その姿は、私の良心に全く刺さらなかった訳ではない。が、私はあえて彼に強気で歩み寄った。彼の前にしゃがみ込んで、まっすぐ目を合わせる。父の、心からの言葉も聞きたい。

 どうしたら二人の『答え合わせ』が出来るのかどうか、知りたい。

「……お父さん、一つだけ聞かせて。話させて。……どうして、スティーブさんとライさんの仲まで引き裂こうとしたの?」

 私への心配は痛いぐらい分かった。でも、分からないのは、どうしてスティーブさんを陥れて、ライさんを憎んだのか、だ。

「……スティーブは……親友だった。学生からの……警察になることだって、誰より応援していたつもりだった。でも、あいつが最初のセニマルを亡くした頃から、俺はセニマルが憎かった。あいつを仕事に縛り付けて、その挙げ句、行かせなくすらした……友だったあいつを、遠い存在に変えてしまった気がして……また……そいつを飼い始めた時には、俺との関わりすらなくなって……寂しかった……友だと思っていたのに、裏切られたんだ……」

 そいつ、と言いながら、父は震える手でライさんを指差した。ライさんは眉を寄せ、父に悲しそうな目を向ける。スティーブさんがライさんを拾った事で、スティーブさんはライさんの世話で忙しくなったのだろう。その結果、父との友情を疎かにしてしまった。

「そいつが、警察になると決めた時、初めてスティーブが相談してきた。一瞬だけスティーブが戻ってきてくれたと思ったが、話を聞けばそうじゃない。そいつに告白されたんだと……スティーブは返事をどうするか、酷く悩んでいた。同じく子を持つ自分の話が聞きたいと、それだけだった……それが憎かった。スティーブの中に自分という友達はもう居ない。……音胡があの白猫を探して居なくなった時もそうだ。大切なものは皆セニマルに奪われる。一時は殺処分すら決まりかけていた、出来損ないの実験生物の癖に、気づけば人間と同等だなんて急に言われて、守られて、対等どころか、血縁すら無い癖に勝手に人の関係に割り込んできやがって……こっちには一切の救いもないのに……憎かった、憎かった、憎かった!!」

「……そんなの、逆恨みです」

 父は憎悪から、地面に拳を叩きつける。その憎悪の原因が、ライさんのかつての悩みでもあった事に、ライさんも悲痛から俯きながら……でも、正論をはっきりと彼に告げる。

「っ……! わ、分かってるよ、そんな事!! でも、諦めきれなかった……。仕事の人脈を使って書類を捏造してまでスティーブを納得させかけたのに、そのシステムが使い物にならなくて……戻ってこないならば、いっそスティーブの記憶を消してしまえばと思ったのに……まさか、完全に記憶を戻すなんて……どうやった!? 何をしたんだ!!」

「……っ!」

 父は逆上から、私に飛びかかってくる。胸ぐらを掴まれそうになり、私は咄嗟に自分を庇った。スティーブさんの記憶は……スティーブさん自身が、英雄の双子とした約束を頼りに自力で取り戻したものだ。どうやった、なんて聞かれるまでもない。スティーブさん自身が、自分で……アニーとポートの思い出と、ライさんへの愛情を糧に取り戻したものだ。

「……スティーブ?」

 思わず目を瞑った私の頭上から、父の震えた声が振ってくる。私は恐る恐る目を開けると、私の目の前に立ちはだかっていたのはスティーブさんだった。私は思わず驚きから瞬きを繰り返す。

「自分の子を信じてやれよ、カツさん」

 スティーブさんは悲しそうに微笑みながら、父の腕を掴んで撚る。高梨勝。それが父のフルネームだ。

「スティーブ、さん……な、なんで」

 私は思わず震えた声を漏らしてしまった。スティーブさんがここに来ることも、そして、私を庇う事も無いと思っていたからだ。だって私は、彼から直々に邪魔だとはっきり言われたばかり。それに、今は擦り切れた関係とはいえ、父とスティーブさんは親友なのだ。

 スティーブさんは振り返ると、私に苦笑しながらウインクを放つ。

「参ったよ、やっぱり怒られちまった。……音胡ちゃん、信じてやれなくて悪かった。悪いのはあんたじゃないって分かってたのによ。俺はレイルが可愛いあまりに、君に全て持っていかれてしまうんじゃないかと思って、君がどんな人間かを試したんだ。……ごめん。俺が意地悪だったよ。単純に嫉妬だった。……でも、君のほうがよっぽどレイルの事考えてくれてたな」

「い、いえ……私こそ。勝手な事を言いました……」

 呆気に取られたまま、私はその謝罪に謝罪を返す。まだ驚いたままの私の肩をライさんがそっと支えてくれて、ライさんはそのままスティーブさんの背後に歩み寄る。

「そもそも、システムに近づきさえしなければ、貴方はあのシステムに入ることすらなかった……余計な事を考えるから騙されるんですよ」

「すまん……お前が苦しむのを見たくなかったんだ。でも、今こうして働いているお前を見れば分かる。間違ってたのは俺だ。そして、カツさん、アンタもだ!!」

 そう言うとスティーブさんは父の腕を回し、地面に抑えつけた。ライさんが前にひったくり犯を放り投げたのと、とても似ているやり方だ。……もしかしてあれは、スティーブさんから学んだものなのかな?

「カツさん、大人しくあの書類を渡しな。持ってるんだろ、まだ。それでチャラにしてやる。うちの兄ちゃんにまで変な噂を流して、署員を引っ掻き回してレイルを翻弄したんだろう?」

「えっ? そ、それって……?」

 スティーブさんから衝撃の事実が飛び出し、私は思わず口を手で覆った。スティーブさんはその真実を語る。恐らく水面下で調べていたのは、この事だったのだろう。

「ようやくカツさんの息のかかった署員が口を割ったよ。兄ちゃんが音胡ちゃんに怪我をさせたのも、レイルが俺を嫌うために記憶を飛ばした、という噂を信じたのも……全部カツさんが黒幕だったんだ。全ては、俺とレイル、そして音胡ちゃんを引き裂くためのな! ……レイルの元飼い主も、カツさんが声を掛けてこの町に戻ってきたんだ」

「そ、そうだったんだ……お父さん、そんなの、ひどいよ……」

 私はショックのあまりに、思わず愕然とした言葉を彼に浴びせてしまった。思い返せば、私が刺されたあの瞬間……出来過ぎていた。……署長以外の協力者がいて、それが身内だったと知れば……確かに狙いやすかっただろうと簡単に想像出来る。

 そして、その後もライさんに牙を向け続けた書類の噂……あの、ライさんが死のうとまでした事も、全部、全部、父の嫉妬が引き起こした事だったなんて……。私は再度、自分も事件の引き金であった事に、思わず泣きそうになる。が、その隣にライさんが来てくれて、私の肩を引き寄せてくれた。

「……僕はもう、あんな噂は信じません。……話して分かりました。彼の優しさを。互いに不器用ですが、きちんとそこに絆がありました。僕はもう絶望したりしません」

「……っ、それが、君たち『家族』の在り方、なのか……」

 ライさんはそう宣言する。その断言に思わず父が零した言葉に、ライさんは深く頷いた。

「……僕たちだけではありませんよ。貴方も、きっと、話せば分かる時が来ます」

 そう言うと、ライさんは私を見てもう一度頷いた。肩にそっと添えられていた手が、ぽん、と私の背を押す。私もライさんの、綺麗な目を見て頷いた。

 そして父の前に歩んでいく。呆然としたままの父に手を伸ばし……それを手に取る。

「っ、音胡、そ、それはっ……!」

 父の胸ポケット。探していた『最初の書類』がそこにはあった。恐らく捏造されたのであろうそれ。古い日付はもう滲んていて、それがもう用済みのシステムのものであった事を物語っている。

 ……その日付の頃の父といえば、とある科学企業で働いていた。警察にも深く関わるような、大きな企業に。恐らく、だからこそシステムに深く関われたのだろう。書類の下に社外秘、というスタンプが押されていた。

「お父さん。……私の決意は、こうだよ」

 私はその、くしゃくしゃの書類を更に手の中でくしゃくしゃにして、自分のポケットから、煙草に使うライターを取り出す。

「音胡? な、何故そんな、ものを?」

 近くの窓から身を乗り出して、火を起こすと、その青白い光を書類に近づけた。みるみるうちに赤い火が紙面を走り、後には白い灰しか残らない。

 その灰は、大好きな町の晴れ渡った空に、散った花弁のようにパラパラと舞っていった。

 父は私のその姿を、呆気に取られた顔で見つめている。自分の娘がまさか、人が持っていたものに火を付けるような子とは思わなかったのだろう。

「……何故だ、おかしいじゃないか、どうしてそこまで……? 彼は、上司なんだろう……?」

 彼にとっては、あまりに思い切った姿の私に、父は震えた声を漏らす。私はその声に、泣きも笑いもせず答えた。

「……ライさんは、確かに上司だけど……その前に、大切な仲間だからだよ。それが本当の私。貴方が育てた、娘の本当の姿。お父さんとお母さんの間で怯えてる子供じゃ、もうない。……だから、お父さんの理想の子には、ごめんだけど、なれない!」

 そう言い切った私を前にして、父は完全に意気消沈したらしい。娘の為にと行動した事をはっきり本人の口から否定されたショックから、がっくりとうなだれた。そんな私達の間に、ライさんもゆっくりと歩み寄ってきて、冷静に口を開く。

「音胡さんのお父さん……。確かに、僕は至らない上司かも知れません。娘さんに沢山の心配とご苦労をおかけしました。……でも、僕は彼女の目標に、彼女は僕の希望になりました。今更、それが覆るなんてこと、そんな紙切れ一枚でできるはずがない、させません。音胡さんの夢は、僕が壊させません……!」

「ライさん……っ!」

 私はその言葉に、また泣きそうになった。いつか、『自分達は紙切れ一枚でその存在を左右されるだけの存在』とも、私の夢を『我慢できなくなる日がきっと来る』とも言った彼の言葉だからこそ、余計に心に刺さる。

「僕と音胡さんの間には、上司や部下、男や女、人間と獣人、友達、家族、そんな名前の有る関係よりもシンプルで明確な『情』がありました……子供の僕が欲しても欲しても、掴むことの出来なかった形のものを、音胡さんは与えてくれました。ですから、僕は、誰を信用していなくても、音胡さんを信用しています。その情のお返しとして。……ですから、居なくなられては困るんです。恐らく、昔の貴方と同じように」

 そしてライさんが語ったのは、私に対する『信頼』の答えだった。ライさんはそれだけ言うと、父に向かって深く頭を下げる。父はその姿勢を見ると、流石にもう言い返せなかったらしい。悔しげに、ただ地面を握りしめてうなだれたまま震えていた。

「音胡さんが来るまで、僕は貴女から学ぶものは無いと思ってました。むしろ教える側だからと……でも、気づけば、今の僕の周りには、音胡さんが教えてくれたもので溢れています」

 ライさんはそう言うと、私を振り返って笑ってくれる。

 私もその笑顔を見て、心からの笑みを零す。涙も一緒に溢れたけれど、その笑顔が何よりの答えだった。

 ***

「……済まなかった、音胡……全て、お父さんの、独りよがりだ……」

「ううん、分かってくれたならいいの……心配してくれて、ありがとう、お父さん」

 父はどうやら諦めたくれたようで、私にそう深々を頭を下げる。そして、そのままスティーブさんと共に駅を後にした。どうやらスティーブさんは彼と二人きりで話をするらしい。長年擦れていた二人の関係も、これを期に戻ってくれれば、と私は心の中で願った。彼が感じた長年の寂しさが、癒えるように。そして私ももっと、彼にも親として向き合わないと、と胸に誓う。きっと、まだやり直せる。そう信じて。

 私達は二人の背が見えなくなるまで二人を見送った。二人がすっかり立ち去ると、それまでキリッとしていたライさんは、急に深い溜息を吐く。

「……っはぁー……」

「わわっ、ライさんっ、大丈夫ですか!?」

 そのままヘナヘナとしゃがみ込んでしまうライさんを、私は慌てて支えた。

「す、すみません、気が抜けたら……焦りましたよぅ、いきなり居なくなろうとするんですもん……」

 ライさんは安心しきった顔でへにゃりと笑う。さっきまでの気の強さは何処へやら……。すっかりいつもの臆病で穏やかなライさんだ。うん、こっちの方がある意味安心します。ちょっとキレ気味だったので、怖かったですし。

「いえ、こちらこそお騒がせしました……でも、お互い様ですよ。私だってライさんが海に飛び込もうとした時、どれだけ焦ったか……! 私の気持ち、分かりました?」

「あ、はは……痛いぐらい実感しました。気持ちが分かるって、羨ましいと思ってましたが、案外辛いものですね……。思わず、焦りすぎて冷静になっちゃいました」

 私はからかいついでに春の話を蒸し返してみる。ライさんは耳をぺたんと伏せたまま、困ったような照れ笑いで胸の内を明かしてくれた。私も、あの時は逆に冷静になりましたが……ライさんのさっきの態度もそれだったんですね。納得です。

「……でも、よかったです。僕、まださよならなんてしたくなかったですよ……」

「……本当にすみません……。私も、まだまだ貴方の部下は辞められませんよ!」

 でも、それだけ想ってくれた事は単純に嬉しかった。私はしゃがみ込んだままのライさんに手を伸ばす。ライさんはその手を、右手で握り返してくれた。やっぱり、ちょっとふにっとした。

「……音胡さん、おかえりなさい」

「はい、ただいまです!」

 ライさんの手を引っ張ると、ライさんはしっかり立ち上がる。そのまま交わした握手は、再出発の合図。そうして、私達は歩き出した。私達の活動の起点へと。この町の、小さくてボロな署の、地域課とは名ばかりの雑用課へと。

 その道すがら、私は彼の脇を小突いた。今まで言ってあげられなかった言葉を、そっと添えて。

「ライさん、かっこよかったですよ」

「ふふ、よかった。貴女の口からそう聞きたかったです」

 その言葉に、照れながらも嬉しそうにふんわり笑うライさん。そこにさっきのかっこよさの面影はもうないんだけど、その笑顔あってこそのライさんです。きっと、ライさんが例え臆病でも、皆に愛される部長で居られるのは、それを買われての事なんだろう。

「……まあ、しおらしいほうがライさんらしくて可愛いんですけどねー」

「え、ええっ……!? ああ……でも、可愛いと言われても喜べるペット時代の性が……あったりなかったり……!」

 ま、マジですか……。冗談のつもりでしたが……。でも可愛いのは事実なので、訂正しないでおきましょう。なんだかさっきより嬉しそうだし。うん、可愛いです。

 成人男性への評価がこれでいいのか? という疑問は残りますけど……。

 ***

「……ライ、ちょっと今時間、いいか?」

「ひ、ひえっ!! あ、ケンさん……ど、どうされました? 何かあったんですか!?」

 後日、地域課のカウンターに顔を出したのはケンさんだった。いつもより神妙な顔をしたケンさんは、その真剣な気迫に押されたライさんがいつもの茶番をしなかった事にも突っ込まず、ライさんを意味深に呼んだ。ライさんはようやく治った左手を机について、席を立ち上がりかけ……ケンさんの様子がいつもと違うことに気づいて困惑する。

「今、スプレー持ってるよな?」

「えっ……ええと、はい……」

 急にライさんの薬のことを確認するケンさん。ライさんは首を傾げながらも、その問いにイエスと答えた。話を聞いていた私も、そのケンさんのあまりの慎重さに、少しだけ胸がざわつく。

 ケンさんは申し訳なさそうに、頭を下げながら事を説明した。

「……すまん。実は、お前の元飼い主なんだけど……今日、俺んトコに自首してきてよ……最後にお前に謝りてえって言うんだよ」

「えっ……?」

「え!?」

 私達は揃って声を上げた。ライさんは、呼ばれて席から立ち上がりかけた腰を、脱力してしまったのか席に下ろしてしまった。尻尾は力なくへたり、と床についてしまう。

「……そのまま、座っててくれ。近づかなくていい。こっち向かなくてもいい。俺があいつの腕ガッチリ掴んだまま、此処から一歩も動けないようにする……だから、一言だけ、聞けねえか? 無理なら無理って言ってくれれば、俺はこのまま連れてくよ。お前が顔見ただけでも発作起こすかもしれねえことも説明した。ダメだってんならそれで納得するって言ってる」

 ケンさんが語るには、彼はどうやら誠意でライさんと向き合いたいようだ。しかし、その話を聞いただけでも、ライさんはもう震え始めている。無理だ。この場に居た誰もがそう思うしかない程に。

「え、ええと……」

「ケンさん、お気持ちは分かりますが……流石にそれはちょっと……」

 答えを言い淀むライさんの代わりに、私は首を横に振った。ケンさんも頷く。

「……だよな、悪ぃ……嫌な思いさせたよな。断ってくるよ」

 ケンさんは申し訳なさそうに頭を掻くと、カウンターの前を後にしかけた。その背と尾を、ライさんの震えた声が引き止める。

「あ、あの……! い、いいです。連れて来て下さい……目、合わせられないと思います、けど……」

「ら、ライさんっ、無理しちゃダメですよ! こんな申し出、自己満足に過ぎません! 応える必要はないです!」

 私は慌ててその返答を止める。ケンさんも耳までしょんぼりさせて、ライさんに無理をさせている事に胸を痛めていた。しかし、ライさんはその空気も否定する。

「違うんです、僕が……聞きたいんです。彼の、謝罪……。音胡さん、スプレー預けます……隣に居てもらってもいいですか……」

「……わ、分かりました……。でも、無理だと思ったら私の判断で止めますよ?」

 私はライさんが机に置いたスプレーを手に取ると、ライさんの椅子の隣にしゃがみ込んだ。ライさんは自分の拳を祈るように握りしめたまま、目線は机の上を睨んだままだ。

 ケンさんはまだ申し訳なさそうな表情で、柱の向こうから手招きした。静かに、ライさんの元飼い主の男性がこちらに歩み寄ってくる。どうやら、柱の陰で他のお巡りさんと共に待機して居たらしい。ケンさんが柱の方に頷いた。

「……レイル、いや、……今の名前は、ライ、だったな……」

「っ!」

 カウンターの向こうから、あの男性が声を掛ける。腕はケンさんに掴まれたまま、カウンターからも数歩遠ざかった場所に立っていた。どうやら、近づく意志はないらしい。

 ライさんは彼の声を聞くと、反射的にびくりと肩を揺らして声を詰まらせた。

 ……そう言えば、彼はライさんの……『レイル』の名付け親なんだな……と、思うと、私は激しく複雑な気持ちになった。

 ライさんはこの名を、捨てたと言ったこともあった。その時、どういう気持ちで『捨てた』のだろう?

「……聞いてくれてありがとう。……そして、申し訳なかった。お前に後遺症まで残してしまった事を本当に申し訳なく思っている。……この町に戻ってきて、お前の噂を聞いて、更に高梨とスティーブンから色々聞いて自分を恥じた。本当にお前に酷い事をした。どうか許して欲しい……!! 本当に申し訳ない!」

 男性はその距離から頭を深く下げた。ライさんは目を合わせられなかったが、私はその姿を目に焼き付けるべく彼を睨む。今更、許して欲しいとは、身勝手な話ではある。それこそ、ライさんは今だって後遺症に苦しんで、怪我までさせられて……それで謝るなんてずるいと思った。多分、同情の余地はない。……でも、彼の謝罪には確かに誠意はみられた。町の中で聞いたライさんの噂が、どんなものかは定かではないが、ライさんの優しさや頑張りをどうやら知り、己を恥じたのだと彼は明かす。

 きっと、ライさんの普段の姿が……今までの苦労が彼の目を覚まさせたのだろう。

「っ……ぅ、ぁ……」

「ライさん……大丈夫です、大丈夫ですから……ケンさん、もう……」

 ライさんはその言葉をきちんと聞いていた。だが、返事をしようとしても、震えからか言葉にならない。もう、彼の声に恐怖してしまうのは条件反射なのだろう。私はケンさんに、この場を離れさせるように呟いた。ケンさんも頷き、彼の腕を引く。

 と、ライさんは軽く首を横に振った。

「ま、まっ、てください……。ぼ、僕はっ……」

「ライさん、無理して喋ると苦しくなりますから……」

 無理矢理に喋ろうとするライさん。私はその肩を抱いて引き止める。明らかに呼吸数がおかしくなってきていて、とてもじゃないが、喋らせるには辛そうだったからだ。しかし、ライさんは首を振りながら私の手を振り解く。

「っ、僕は、お坊っちゃんの事を、友として愛していました……。僕は貴方が望むような仕事は何一つ出来なかった、お役に立てなかったとは思いますが、今でも、友を失った事は、とても悲しい記憶です。僕にとっても貴方にとっても、お坊っちゃんの死は不幸な出来事でした……」

「っ……そんな、事を、何故、言ってくれるんだ……?」

 そしてライさんは続けた言葉に、私もケンさんも、そして男性も驚きの表情を見せた。それでも彼を気遣う言葉から始まったからだ。確かにライさんらしいけれど……。そう思っていると、ライさんはまた首を横に振る。

「っ、はっ、あ、で、でも、貴方が僕にした事は、今でも忘れられないし、許せない……事です。怒ってはいますが……ぅ、僕に貴方を訴えるつもりま、までは、ありません。ただ、もう互いに交わらず生きていくべきです……だ、から、もう、僕の前に顔を、見せないで下さい……! 謝罪、は、受け入れられません! 貴方が謝っ、て、満足しておしまいには、させないし、したくないです! ……う、ぐっ……!!」

 ライさんは言い切ると、引きつった嗚咽を漏らし、激しく咳き込む。ケンさんはその様子に、もうこの場にいるのはまずいと思ったのだろう。慌てて彼を連れ、署の外へと出ていった。ありがとう、ケンさん。

「っ、はっ、っ……ふぅっ……!」

「ら、ライさんっ、薬使いますよ!!」

 それを見届けて気が緩んだのだろう、ライさんの発作は本格的になっていった。これ以上は危ないと判断した私は、慌ててライさんの口に薬を当てる。

「う、ぅぅっ……す、すみま、せん……」

 数秒程で、ライさんの震えはゆっくり落ち着き始めた。副作用からか、ライさんはぐったりと机に突っ伏す。耳からしっぽの先まで脱力し、指先は明らかに血の気が引いている。

「……無茶しないでください……また倒れちゃったらどうするんですか……」

 その姿に私は心配になってしまい、慌てて背中を撫でた。すると、浅い呼吸で上下していた肩が、突然として小刻みに跳ね始める。

「ふ、ふふ……あは、は……」

 ライさんの口から不意に漏れたのは……まさかの笑い声だった。

「ら、ライさん……!?」

 それはあまりに唐突だったので、ついに緊張のあまりぶっ壊れたのかと私は焦る。が、顔を上げたライさんは泣き笑いで、でもちょっと嬉しそうだった。な、何事?

「……い、言ってやりました、これが、僕の……勝たない……負けさせない、仕返し、です……」

「……! ふっ、あははは!! ……流石、いい性格してますね、もう!」

 その言葉に、私も先ほどの彼の絶望した様子を思い出して笑ってしまう。ライさんはその笑い声に、まだ苦しげだけど得意げな表情を見せた。多分、ケンさんが居なければ、多分ライさんはここまで言い返せなかっただろう。素晴らしい連携プレーだった。ケンさんにも感謝だ。

 ……こうして、ライさんの些細だけど、意地悪な、謝罪を受け入れないという仕返しが叶ったのだった。

 ***

「音胡さん、少しご相談があって……この後お時間ありますか?」

 そんな事件も一件落着の後、ライさんが遠慮がちに口を開いた。私はその言葉に、首をかしげる。

「……この後、って……夜に双子ちゃんにクリスマスパーティに誘われてましたよね? ケンさんと双子ちゃんの新居祝いも兼ねての」

「その前に、です。……その、非常に……恥ずかしいんですが、音胡さんなら聞いてくれるかな、と……」

「な、なんですか……? 今更何を恥ずかしがる何かがあるんですか? あんまり緊張されると、こっちも身構えちゃいますよ?」

 そんなこんなで、季節はすっかり冬になり、クリスマスと年末が目前に控えたある日の事。ライさんがやたらともじもじしながらそう話を切り出してきたので、私まで妙な気分になって返事をする。

 な、なんですかこれ。なんかのフラグですか? と、思ったのも束の間、ライさんの口から発せられたのは……なんというか、非常に拍子抜けした回答だった。

「……クリスマスプレゼントの選び方が分からない」

「そ、そうです。端的に言うと、そうなります……」

 ライさんから聞いた相談事を一言にまとめるとそうなる。私はひっくり返りそうになるのをなんとか堪えて、内心でまたスティーブさんコラァ!! とか思いました。

「つかぬ事をお聞きしますけど、誕生日の時みたいにクリスマスパーティをしたことがない、とか……」

「あ、いえ……ツリーを飾ってプレゼントを貰ってケーキを食べるぐらいは流石にしたことあります……」

 あ、よかったです。割と普通にクリスマスしてました。でもお花紙は見たことなかったんでしたっけね……飾りつけまではそうそうしないのか。男性所帯なら仕方ないんでしょうか。

「で、では何故……?」

「僕は働き始める前には父と疎遠になってましたし、働いてからは父があんな状態だったので……父に何か贈るという事がなくて。友達とかにも何かを贈った試しがないんです……何を贈ればいいのか、とか、迷惑じゃないかとか考えちゃうと……贈れなくて。でも、今年は誕生日のお礼も兼ねて……特に、父に何かを贈りたいと思ったんです」

 ライさんは泣きそうになりながら、そう経緯を説明する。考えすぎて結局プレゼントできないって……は、初めて聞きました。イベントごとひとつにここまで気を使うとは、もう未知の領域です。

「よく言うじゃないですか、お値段やモノより気持ちだって。好きそうなのを適当に選んであげればいいんですよ。難しいことじゃないですよ?」

 私はほぼ正論と思える持論を吐き出す。が、ライさんの顔色は明るくなるどころか、余計にしょんぼりしていった。

「その適当が難しいから聞いてるんですよぅ!!」

「えっ、えー! 逆ギレされても……?」

 ライさんの真面目が爆発して、もはや逆ギレに発展してしまった。私は困惑しつつ、コートを羽織る。

「分かりました、私も双子ちゃんとケンさんの分買わなきゃですし、どうせ一緒に行くんですから、一緒に行きましょう」

「す、すみません……お願いします……」

 ライさんはうなだれる。どうやら、この変なテンション、恥ずかしさからの行動らしいと気づいたのは、ライさんの目がこれ以上無いほど泳いでいたからだ。

 そうだよなあ……今まで反抗してた相手にいきなりプレゼントだなんて、照れ屋のライさんにしては思い切った行動です。

「喜んでもらえるといーですねー?」

「やっ、やめてくださいっ……! う、うぅ……意地悪です……」

 ライさんの初心な感情に気づくと、私は思わずニヤニヤしてしまう。ついでにライさんをからかうと、泣きそうな顔で私を睨んだ。

 そうして二人でやってきたのは、地元チェーンの小さなデパートだった。雑貨店や洋服屋さんのテナントが多く、大体の物はここで賄えるだろうと思って足を運ぶ。入店早々、ライさんは自分が人へのプレゼントを選ぶという緊張からか、明らかに挙動不審になっていた。

「……ライさん、落ち着いて下さい。怪しすぎます。仮にも警察署員の貴方が職質される目に遭ったら、部下として私はどんな顔をすればいいんですか?」

「だっ、だって、よくよく考えたら今日プレゼント選んで買ったら、クリスマスプレゼントにするって事がバレバレじゃないですか……な、なんか意識、しちゃって」

 すごい自意識過剰です。デパート側もそれを分かって商品並べたり人を入れたり客を迎えたりしてると思うんですけど。

「プレゼントするんだから当たり前ですよ! あーもう、それ以上ごちゃごちゃ言うなら、もうアドバイスしませんよっ! 私、ライさんの事嫌いになっちゃおっかな!!」

「い、嫌ですー! ごめんなさい!!」

 う、ううん……。私は頭を悩ませながら、狼狽えまくりのライさんを呆れた目で眺める。このヒト、スティーブさんの事になると途端に、いつも以上にビビりになるというか……精神年齢が下がる気がする。多分、一度拗れた事による不安とか、昔の事が頭を過るんでしょうね……。ここも克服できたら、もう少しライさんも落ち着いて過ごせると思うんですが。

「取り敢えず、ケンさんと双子ちゃんの分を先に行きませんか? その間にスティーブさんに合いそうと思ったのがあれば、それを買っちゃえばいいでしょうし……データ収集を兼ねて、見て回りましょうよ」

「そ、そうですね……。すみません、一回落ち着きます……」

 ライさんは自分の緊張に振り回されて疲れてしまったのか、肩を落として、テンションを下げた。自分で軌道修正してくれて助かりました。

「私は新居祝いにお花、双子ちゃんにはお揃いのクッションをあげようと思ってるんですけど、分からないのはケンさんなんですよね…… これと言ったイメージがないっていうか」

 エレベーターに乗りつつ、私達は作戦会議をする。ライさんのようにさっぱりわからないという訳でもないが、私もケンさんに対してのプレゼントは迷っていた。

「僕は逆に双子へのイメージが……今更なんですが、僕本来、子供って読めないので少し苦手で……やっぱりどういうのがいいのか想像つかないです」

「えっ!? 物凄く今更ですね!? あっ、でも双子ちゃんにからかわれた時かなりパニックになってましたもんね……。えーと、じゃあライさんが十歳の時って何欲しかったか覚えてます?」

 衝撃の事実を聞きました。でも確かに、問題児な双子ちゃんを手に負えてなかったので、そこは納得してしまう。

 私はライさんにヒントを出すべく、ライさんの過去から掘り下げてみる事にした。獣人の男の子、で一番近いサンプルはライさん自身な訳だし。

「……特に、何も……」

「ええ、いやいや、何かしらはあったでしょ?」

 ライさんは一瞬目線を上に向けて考えるが、あっさりと無いと回答した。

「すみません、本当になかったんですよ。というより、僕の十歳は丁度、人権保護が決まった年齢だったので、これから人間扱いされる事への不安しか記憶にないです……欲しいもの考えてる余裕がなかったというか」

「だ、だめだこりゃ……」

 私はがっくりと肩を落とす。ライさんはしょんぼりと耳を垂らしたまま、私のその姿を見つめていた。

「……やっぱり、まともな育ちじゃない僕には無理なことなんでしょうか……」

 ダメだ、と言われた事で不安になってしまったのか、ライさんは不意にじわりと涙を浮かべながら弱気になってしまう。私は慌てて取り繕う。

「待って下さい、ライさん! 重く考えすぎですって!? たかがプレゼントですよ!? 特に双子ちゃんなんてアイドルですから、この先いくらでも貰うもののひとつです。失敗したって、次挽回出来ますよ!」

 危ない危ない、ライさんのネガティブって何処で発揮されるのか、まだイマイチ分かっていない。この辺りが気まぐれで本当に猫っぽいとは思うんだけど。ライさんは納得したのかしてないのかわからないが、取り敢えず頷いてはくれた。

「……アイドル……! ああ、そうです。お二人が舞台に上がる時の衣装、耳にお揃いのアクセサリーしてますよね」

 そういうと、ライさんは自分の耳に触れる。丁度双子ちゃんがシュシュを付けている、耳の付け根を指差した。

「ああ、そう言えば片耳にシュシュ付けてますね。それにしますか?」

「あれ、シュシュって言うんですね……すみません、無知で……あれなら使って貰えるかな、と」

 ああ、名前知らなくてその仕草ですか。ちょっとかわいかった、というかあざとかったので驚きました。確かにいいアイディアです。

「ま、まあ知らなくて仕方ないかもしれません……あれ、本来ヘアアクセサリーですし。髪結ばないと縁がないですよね。でも、そんなに高くもないし、多く持ってても困りませんし、かさばらないのでプレゼント向けかもしれませんよ、見に行きます?」

 そうして私はライさんを連れて、雑貨店のテナントに訪れた。私が贈ろうと思っていたクッションはすぐに見つかる。新居ではスティーブさんが買ってあげたのだという、互い違いの二段ベッドに一人づつ寝ると双子ちゃんが言っていたので、そこに飾る用だ。

 今まで二人で一緒の布団に寝てたっていうし、これから二人バラバラの仕事をする日も出てくるだろう。その時寂しくないように……という願いもこめつつのお揃いだ。

 そしてシュシュを買おうとしたライさんなのだけれど……。

「う、うぅ……種類多いです……あと女性モノのフロアに居るのって……その……」

「……予想通りの展開ですね……。ライさん、元から可愛いタイプなので割とレディースフロアに居ても、こっちからすると違和感ないんですけど……」

「それはそれで恥ずかしいです……」

 うーん、買い物一つに試練が多すぎますこの上司。時間通りにパーティに行けるのか不安になってきました。

「二人共、衣装とか私物とか、赤と青でなんとなく色分けしてるんですよね。これとかどうです? 色違いでお揃いだけど、微妙にデザイン違いです」

 私は置かれていたサンプルの商品を手にとってライさんに見せる。ライさんはそれを凝視するも、すぐに首を傾げてしまった。

「う、ううん……? 正直、イメージが全然湧きません……」

 うーん。今まで名前も知らない物体じゃ当然なんでしょうか。それともライさんにアクセサリーを選ぶ能力がないんでしょうか。

「ライさん、私服はそこまでセンス悪くないと思うんですけど……服選びとかどうやってます?」

 とりあえずライさん自身の私服選びにヒントがないかと思い、私はライさん自身のセンスを探る。ライさんの私服や通勤着自体は、別にセンスが悪い訳ではないイメージがあった。

「ぼ、僕自身の服はベーシックな……といえばいいんでしょうか……こう、飾り気はあんまりなくて、シンプル中心のお店を選んで、着てみて買うって感じですね……アクセサリーには慣れてないです……」

 なるほど。そもそもお父さんと暮らしてきてますし、その前も男の子と一緒に暮らしてましたもんね……。アクセサリーは不得意ジャンルみたいだ。

 私は指差した商品サンプルを手に取ると、自分の髪を解く。自分も仕事中につけているのはシュシュが多い。仕事用なので飾り気はあんまりないけど。

「これでイメージ出来るかわかりませんけど、付けてみればこんなもんですよ」

 私は双子ちゃんの耳風に髪を持ち上げ、そこにシュシュで結ってみる。双子ちゃんはおそらく、シュシュで結ってるんじゃなくて通しているだけだろうから、実際見るのと少し違うかもしれないけど……。多少はこれで付けているイメージに近くなるんじゃないかと思う。

「……あ、ありがとうございます……。うーん、これだと、明るすぎてお二人の衣装に合わない気がしてきました。……すみません、こっち付けて貰っても……?」

「ああ、はい……どうです?」

 ライさんはそれでイメージを掴めたようで、冷静に分析した。別のサンプルを指差したので、私はそれも身につけてみる。

「あっ、これだといいですね……音胡さんは、どう思われます?」

「そうですね、こっちの方が喧嘩しない感じです。ライさん、やっぱセンスいいんですね!」

 確かにライさんが選んだ方が、浮かない、というか、可愛すぎずしっくりくる感じがする。私は素直に感心して頷いた。

「す、すみまっ、せん、音胡さんが選んだ方じゃなくて……」

「えっ!? そんな事考えてもませんでしたよ!?」

 が、次の瞬間にはまた表情を曇らせるライさん。自分が選ぶプレゼントだからいいのに! その後、どうにかライさんを宥めると、ようやく納得してくれたらしい。ライさんはやっぱり緊張しながらレジに向かい、緊張しながら包装を頼んでいた。

 そして次に向かったのはメンズフロアだ。ケンさんのプレゼントと、スティーブさんのプレゼントを選ぶ事になる。

「うーん、でも私、ケンさんの好きなもの知らないんですよね……この間、たらこパスタが好物って言うのは聞いたんですけど……乾麺渡すのはおかしいですよね」

「……それで辛くなるのは双子のお二人だと思います」

 ですよね……。ケンさんは料理音痴らしく、レパートリーが偏っていると、双子ちゃんが漏らしていたのを知っていた。ここでキッチングッズでも下手に渡せば、ただのゴミと化すのは目に見えている。

「ライさんは、ケンさん宛てには何か考えてます?」

「うーん、ケンさんって昔からあんまり物に拘るヒトじゃないんですよね……新居祝いの方を重点に置けば、インテリアとか掃除用品とかですかね……? タオルとかなら消耗品だしいいかな、と思ったんですけど……」

 ライさんの冷静な分析がここでも発揮される。冴えたアイディアに、私は感心した。

「ああ、それはナイスアイデアですね。……あっ、そういえば、ライさんとケンさんって最初に会ったのっていつだったんですか? 私が会った時には、あのビビりようからして顔見知りだったんですよね?」

 ケンさんも前に、ライさんを昔から知っているような言い方をしていたのを思い出す。どうやら前からの顔馴染みらしい言い方だったので、密かに馴れ初めが気になっていた。まあ、未だに慣れてなさすぎる馴れ初めだけど。

「最初はケンさんが学生で、父によく補導されてた頃ですね……怖かったので話したことはなかったですけど……。ケンさんが一回目の学校を出て最初に交番に配属された時に、地域課の同僚として話をしたのが最初だったんですが……そこで威嚇されてから、緊張が解けなくて……」

 ライさんは気まずい顔をする。そう言えば、ケンさん、最初は声すら聞いたことがないって言ってましたもんね。ケンさんが強く当たってきたせいで、喋れなくなってしまったようだ。

「あの場に音胡さんが居なければ、多分まだ僕はケンさんと業務連絡以上の話はできなかったと思います……歯向かわれるのは、やっぱり先輩としてダメだったのだろうかとか考えちゃってましたから……」

「……私も初対面のときはおっかないヒトだなあって思ってましたよ……双子ちゃんと会って大分丸くなりましたけどね」

 私は苦笑いで答えながら、お店の中を歩く。たどり着いたのは、シックな雰囲気がテーマのメンズ雑貨のお店だった。

「あ、そうだ……ケンさん、モノには拘りないですけど、双子ちゃんの事になると驚くぐらい拘りますよね……フォトフレームとかどうでしょう。双子ちゃんの写真を飾れる大きめのやつ……」

「あっ、それいいですね! 音胡さん、流石です」

 ライさんは私のアイディアに、手を合わせて褒めてくれた。お互いの贈り物がようやく決定し、ライさんはタオルセット、私はフォトフレームを購入することにした。

「すみませんライさん、レジ並んでますし、お金出すんで一緒に会計してもらっていいですか?」

 が、レジに並ぼうとすると長蛇の列。ギフト中心のお店でクリスマスなら仕方ないか、と思い、私は先に並んでいたライさんにお願いする。

「あ、はい。そっちの方が邪魔になりませんもんね」

 頷いたライさんに品物とお金を渡して、会計をライさんに託す。その後、梱包が終わるのをレジ横で待機していると、店員さんの一人が話しかけてきた。

「プレゼント梱包でお待ちの方ですかー?」

「あっ、はい」

 ライさんはレジで受け取っていた番号札を店員さんに渡した。私もライさんのすぐ隣にいたので、何となくで頷いてしまう。それが恐らく、店員さんの印象に残ったのだろう。

「お品物こちらになりますー。こちらが彼女さんの分ですねー!」

「か、彼女さん!!??」

 ちょっとからかうようなテンションで、店員さんが発したその言葉に、ライさんは驚く。耳をピンと立てて、一瞬体を引いた。

「……ライさん、落ち着いて下さい、ジョークです。お世辞ですよお世辞……!」

 私は慌てて、なんとか指摘する。と、ライさんはまともに受け取ってしまったことを恥じたのか、こちらを照れ隠しに軽く睨んだ。その反応がまるで中学生の反応すぎて、私は笑いを堪えるのに必死でした。

「……で、最後が問題のスティーブさんのですね……ちなみに、定番の服などは?」

 さて、最後はライさんの相談の本題、スティーブさんへのお返しを兼ねた贈り物だ。とりあえずライさんが考えるプレゼントの傾向を探るべく、定番の品から提案してみる。が、ライさんは頭を傾げた。

「……サイズ知りません……父が特別、服装に拘るタイプとも思えませんし……」

 う、うーん。スティーブさんもダサくはないんですが、確かにオシャレではないです。

「共通の趣味である釣りの道具などは? お誕生日は釣り道具貰った訳ですし」

「こっちは逆に拘りが強くて。長年やってますから、もう使うのが決まってるんですよ」

 これもうーん、です。ある意味当たり前といえば当たり前ですね。

「……詰んでますね」

「やっぱり、そう思われますか……?」

 私は率直な感想を漏らすと、ライさんはがっくりと肩を落とした。その目は少しだけ潤んでいる。

「……悔しいんです。彼が好きなものがパッと思い浮かべられないのが……好きとまで言っといて、何も教えてくれない彼と、何も話して来なかった後遺症です。ものすごく後悔してます」

「……それで、今日はちょっと元気なかったんですね」

 ライさんのネガティブの理由を知り、私は苦笑した。そんなことで落ち込んじゃうライさんは、ちょっとだけいじらしい。

「ここはド定番で行きましょうよ。身近すぎると好みが出ちゃいますけど、そうでない実用小物系なら大丈夫ですよ! 例えば冬ですし、防寒アイテムとか……お父さんへのプレゼントと言えばお財布とか……後はなんだろ……灰皿……は、ダメか。スティーブさん、アニーとポートの為に禁煙したまんまでしたもんね」

 私は自分で言っておいて、自分でその発言に頭を悩ませた。が、ライさんはその言葉に、急に表情を輝かせる。

「……アニーとポート……それです!」

「えっ?」

 どれですか。全然意図が読めず、私はひっくり返った声を上げてしまった。

「好きなものです!」

「えっ、待って下さい!? 宜しくないですよその発言!?」

 私はライさんから飛び出したまさかの発言に驚く。それ、自分で地雷だって言ってたじゃないですか。

 ライさんが先へと行ってしまったフロアは、最初に双子ちゃんのプレゼントを買ったレディース雑貨のフロアだった。

「す、スティーブさんのプレゼントなんですよね?」

「そうです……あ、ありました、これ、どうですか?」

 意外にも入っていったのはぬいぐるみのお店。ライさんは真っ直ぐにお目当てのものを探し当てると、可愛らしくその手を持ち上げて動かしてみせる。

「……なるほど、その発想はなかったです」

 その答えに、私は感心して頷いた。ライさんの手に収まっていたのは、三毛と灰色の兎のぬいぐるみ二対、そして黒猫のぬいぐるみだ。

「残念ながら男の子の人形はなかったので、兄には申し訳ないですが」

「あはは、そこは迷惑料って事にしておきましょう」

 ライさんは少し残念そうにする。律儀ですけど、前署長には反省もして欲しいですし、ちょっとぐらい意地悪してもいいんじゃないでしょうか?

「ふふ、そうですね」

 そう提案すると、ライさんは満足そうに笑った。

 そのまま、ライさんは早速ぬいぐるみをレジへと持っていく。その姿はもう恥ずかしそうでも戸惑っても居ない。

 ……ライさん、着実に自分の悩みを自分で克服できるようになっている気がします。その姿を見ると私まで嬉しく思えるような、でもちょっとだけ切ない気になった。

 そうして私達は個々にプレゼントを抱えて、店を出る。自動ドアをくぐると、刺すような冷気が顔に飛び込んできて、私は思わず顔をしかめた。

「寒っ!」

「っ、うわぁ……さ、寒いですね……」

「日が落ちてさっきより一段と冷えましたね」

 寒さに弱いライさんは、店を出た瞬間に襲う冷気に身を縮こませる。寒さが苦手と言う割には、防寒がコート一枚なのがいけないと思うのだけれど……。

「あっ、音胡さん、音胡さん! 雪降ってますよ!」

 私がそう思ってライさんの背を見つめていると、不意にライさんは空を見上げて指を指した。その先には、チラチラと空を舞う白い結晶。雪だ。

「道理で寒いはずですよ……でも良かったですね、ホワイトクリスマスになりますね」

 なるほど、それは急に冷え込んだわけだ。私は納得する。クリスマスに合わせて降ってくれるなんて、随分とロマンチックで粋な降雪です。

「そうですね! この町だと滅多に雪って見ないので、ちょっとわくわくしますねー」

 ライさんはその景色を見て、子供のように喜んでいる。寒さはどうやら忘れてしまったらしい。はしゃぎすぎるとあとで風邪引きますよ。

 私は仕方ないか、とため息をつくと買い物袋の一つから、とあるものを取り出す。ライさんの後ろからふわり、と回した。

「わぁあっ……!!? ……えっ? あっ、暖かいです……」

 ライさんは突如として目の前に現れた布に、反射的に怯えるが、状況を飲み込むと柔らかく笑った。

「……ちょっとフライングですけど、クリスマスプレゼントです。ちゃんと防寒して歩いて下さい。身体弱いんですから風邪引かれると困ります。ライさん、熱出すと一段と面倒ですし」

「……う、うう……言い返す言葉がないです……で、でもありがとうございます! それにしてもタイミングがかっこよすぎます……」

 どうやら不意のプレゼントに感動したらしいライさんはキラキラした目で私を見る。止めて下さい、そんな恋する乙女のような目線で見られても、どうすることも出来ません……。

「えっと、じゃあ、お返しを……」

 ライさんも買い物袋を漁ると、私の手のひらに小さな小袋を押し付けた。

「わっ、用意してたんですね……ありがとうございます。開けてもいいですか?」

「は、はい……自信、無いですけど……好きに、使って下さい……」

 照れながら微妙な言い回しをしてくるライさん。何が入ってるんでしょう? 私は早速袋の中を覗いた。ソイツとはすぐに袋の中で目が合う。

「か、かわいい……! です、けど……」

「……す、すみません……」

 ゴムをつまんで袋から出す。その先にくっついていた猫のマスコットがこちらをじっと見ていた。確かに可愛いんだけど……それはどう見ても小学生向けのヘアゴムだった。小柄なライさんより、背が低い私がこれを付けたら、リアルに小学生っぽくなりそうだ。

 ライさんも薄々自覚はしていたようで、しょんぼりしてしまう。

「やっぱり贈り物、難しいです……」

「……いえいえ、ライさんが自分で一生懸命考えてくれたんですよね。なら、私にこれを拒否する理由はありませんよ」

 私は元々していたシュシュを解き、それを手に巻いた後、そのヘアゴムを咥えて髪をまとめ直した。猫のヘアゴムを通し、髪をくくる。

「どうです?」

「お似合いです、と言ったら怒るんでしょう?」

 私のポニテの上で、ライさんと睨み合うマスコット。……それは黒猫のマスコットだった。

「に、してもなんで黒猫なんですか?」

 黒猫に黒猫贈られる音胡。まるで早口言葉です。スティーブさんのプレゼントのこともあり明らかに自分を模したと分かりやすい流れでもあります。ライさんがそこまで私に対して己をアピールしてくる理由が分からなかったので聞いてみる。

「ま、また……辞められそうになったら、困る、からです……」

「あはは、なるほど」

 歯切れ悪く答えるライさんの言葉に、私は頷いた。迷子札かよ……とは思ったが、迷子になりかけたのはこっちなので言い返せない。何にしろ、頂いたものだし無下には出来ませんけど。

 そうして、そのまま私達は双子ちゃんにお呼ばれに応えて、ケンさんと双子ちゃんの新居へと向かった。小さな中古住宅ではあるが、こじんまりしていて綺麗な家だ。ケンさんのセンスで選ばれたものだとすれば、ちょっと驚くぐらいセンスも良かった。双子ちゃんの為に頑張ったのだろうか?

「おっ、音胡が猫付けてやってきた」

 玄関先のチャイムを押すと、ケンさんが出迎えてくれる。私の頭を見て、相変わらず失礼な発言をしてくれました。そういうところ、初対面と変わりません。

「鴨がネギ背負って、みたいに言うの止めてくださいよ。ライさんがくれたんです」

 そのままリビングに通されると、双子ちゃんとスティーブさんは席についていた。リビングテーブルもケンさんのセンスとは思えない、シンプルで綺麗な木目の白木のテーブルに、同じく統一された丸いチェアがかっこいいセットだった。誰なんでしょう、彼に家具を売った人は。商売上手です。

「おっ、音胡ちゃん。面白いアクセサリーしてんな。それが貰ったやつか? レイルもそのマフラーどうしたんだ、お前にしてはおしゃれだな」

「音胡さんがくれましたー」

 ライさんはスティーブさんの褒めが嬉しかったみたいで、のほほんと笑う。

「……お前ら、小学生みたいなプレゼント交換してんな……」

「う、うーん……言われてみるとそうですね……」

 ケンさんに突っ込まれて、私は確かに頷いた。客観的に見ると、ヘアゴムとマフラー……小学生女子の交換っこみたいです。

 ***

 スティーブさんが買ってきたケーキと、ケンさんが用意したピザを囲み、クリスマスパーティを兼ねた新居祝いはすぐに始まった。

 概ね、ライさんの誕生日会と何も変わらず、選んだプレゼントも喜んでもらえた。特にライさんがスティーブさんへプレゼントを贈った場面では、思わず感激したスティーブさんが涙ぐむというシーンもあり、私はライさんの必死のプレゼント選びに協力できて、心から良かった思う。

 が、そんなほのぼのとした誕生日会と違う点がひとつあった……スティーブさんがお酒を用意していた事だ。そして、私達は来た時には既にその栓は開栓されていた……。

 と、なると、宴が進むに連れてお酒も進む訳で。

「ん~、レイルー、似合うぞーそれぇー」

「は、はい……」

「スティーブさん、それもう五回ぐらい聞きましたよ……」

 すっかり出来上がったスティーブさんがそこに居る……。それだけで、主にライさんが大変な事になるのだった。

 ライさんはすっかり酔ったスティーブさんのおもちゃにされ、さっきのマフラーをターバン風に巻かれたり、私のヘアゴムで前髪をちょんまげ縛りにされたり、かと思えばぐっしゃぐしゃに頭を撫で回されたり……。

「も、もう嫌です、許して下さい……」

「なんでだよぉ、可愛いじゃねえかよぉ」

「いやです~~~!」

 人見知りで照れ屋が故に構われることに耐性のないライさんのストレスと、世話好き子供好きで構いたがりのスティーブさんの攻防戦が激しくなってきた。またこの場で喧嘩されると困るので、私はなんとかスティーブさんを引き剥がそうとする。

「スティ、僕のは僕のはー?」

「おう、のぞみのも可愛いぞー」

「僕のもー?」

「いのりのもー!」

 双子ちゃんも空気を読んで、スティーブさんに話しかけてくれる。スティーブさんは、双子ちゃんに新衣装をプレゼントしたらしく、図らずとも私達が選んだシュシュと共に、新たな舞台衣装のセットが出来上がった。それをお披露目するスティーブさんはもう、孫を可愛がるおじちゃんのレベルにデレデレだ。

 そしてその横ではケンさんも、新しいフォトフレームに収めるべくその姿を必死に撮影している。が、写真が下手くそらしいケンさんは、シャッターを一枚切る度に「あっ、ブレやがった!」「ピント合ってねぇ!」と声を漏らしている。

「ケンさん、そのカメラ、無駄にゴツいんですけど……」

「おうよ、双子のライブを遠くからでも写せるようにちゃんと望遠レンズまで揃えたんだ……でもいまいち設定が分からなくてよ……」

「そ、そうですか……」

 うーん、情熱の掛け方を間違えている気がします。シャッタースピードの設定間違ってるんじゃないですか? とか、連射機能あると思いますよ? とか言おうと思ったんですけど、中々に気持ち悪かったので言えませんでした。

「あ、このちょんまげなライさんの写真も面白いんでお願いします」

「おうよ」

 でも、アルバムのためにもいい写真を収めるチャンスです。ので、私はライさんの遊ばれた様子も撮影するように頼みました。上手く取れたらカウンターに貼ってあるポスターの隣にでも貼っておきたいです。

「えっ、待ってくださいよっ!! なんでですかぁ!!」

 勿論、抗議するライさん。

「かわいいぞー、れいるぅー」

 それに絡むスティーブさんも勿論撮影されました。

「もー嫌ですっ、うっ、うぅっ……ぅわぁぁあん!!」

「あっ、泣いた」

「わあっ、ライさん、落ち着いて下さい……!! 泣き顔撮られちゃいますよ!」

「それも嫌ですーー!!」

 流石にライさんも耐えきれなくなったようで、ついには怒りながら泣きだしてしまう。私は慌ててライさんの背中を撫でながら励ますも、ライさんは更に声を上げて抗議した。元々癇癪が酷かったらしいライさん、怒りながら泣かれると流石に宥められませんでした。

「ぐすっ、ぐすん……」

「……すみません、ライさん。大丈夫ですか……?」

「ごめんな、調子乗って……ぬいぐるみ貰ったの嬉しくてよ……」

 それから数十分、なんとかライさんが泣き止み、スティーブさんの酔いも覚めたらしい。ライさんは頷いて涙を拭うと、自分の鞄から袋を取り出した。

「えっと……こちらこそすみません、取り乱しました……あの、お時間貰ってもいいでしょうか?」

 おずおずと手を上げながら、珍しくライさんからの提案に、誰も断ることはなくうなずく。ライさんは袋から、私が前にあげたおもちゃのピアノを取り出した。

「あ……」

 私はそれを見て、あの日以来、ライさんにピアノを教えてあげていない事を思い出す。気まずくなって、ライさんに練習を催促される前に帰ってしまっていたからだ。

 ライさんはそんな事を思い出してしまった私に気づいたのか、私とふと目線を合わせて、そして、軽く笑った。

 巻かれたピアノを広げて電源を入れると、ライさんは何回かそれを鳴らした。どうやら音を変更しているようだ。おもちゃの電子ピアノではあるが、幾つか音色がインプットされている。高い、コロコロとした音色に設定すると、ライさんは少しだけ辿々しく鍵盤に指を置いた。まだ教えてなかったのだけれど、指の位置は合っている。

「……」

 ライさんは一呼吸置いた後、ゆったりとピアノを弾き始めた。

「……えっ?」

 その曲の招待が分かった途端、私は驚きの声を上げてしまった。ライさんが弾いたのはクラシック音楽だ。私と共にやっていた時は、まだ童謡とかそのレベルだったのに。

「お、おい音胡、これどういう曲……? 聞いたことはあるけど……」

「あ、えっと、ショパンのノクターン二番です……ゆっくりに聞こえますけど、結構忙しいし、似てるように聞こえてフレーズがちょっとづつ、ずれたり変わったりするので、難易度高いはずなんですけど……お、教えてないです、私……」

 確かに音は覚束ないし、飛び飛びになる所もある。が、それはおもちゃのピアノだからという事もあるし、そもそも譜面を覚えるのだってそう簡単じゃないはずなのに。

 ……一人で、練習したって事?

 ……私が、勝手にライさんを見放した後も……?

「っ……!」

 そう思うと、次は私が泣く番だった。慌てて嗚咽を抑える為に、私は口元を手のひらで覆う。ライさんのピアノを聞くために、私達は全員、テーブルを挟んで向こう側にいる。右隣に居たのはスティーブさん、左にいたのはいのりくんだった。スティーブさんが私の背をそっと撫でてくれて、いのりくんは膝にしがみついてくる。

「ライ兄、おにいちゃんしたんだね」

「……そうだね……」

 いのりくんは私の顔を覗き込み、そう言って笑った。スティーブさんも優しく微笑んでくれる。

「……アイツが趣味で努力するなんて、滅多にあることじゃない。音胡ちゃんがきっかけ作ってくれたんだな、ありがとう」

「……いえ、こちらこそ……一人で落ち込んで、勝手に放っておいたのに、ここまで一人で出来るなんて……勧めたかいがありますね」

 私も二人の笑みに釣られて、泣きながら笑った。多分、最初は興味も何もなかったはずなのに、ライさんが全力で応えてくれたのが何より嬉しい。

「……っはぁ……ええと、終わり、です……」

「ライさぁん!! ありがとうございます!!」

「すごいねライ兄!」

「僕らにも教えてー!」

「よくやったな、レイル……」

「すげーな、俺全然音感無いから羨ましいぜ」

 ライさんも緊張していたのだろう。弾き終わると、すっかり深い溜息を吐いて、少し疲れた様子で顔を上げた。私はその姿に思わず叫び、それに続いて皆もライさんを取り囲む。

「い、いえ……結構突っかかっちゃいました……まだまだですね」

「いや、凄いですよ! このおもちゃでこれだけ弾けるんですから……! ああ、本格的なのを贈るべきだった……」

 私は自分の軽率な選択を悔やんだ。やっぱりおもちゃじゃダメだった……! せめてもう少し、ちゃんとした楽器を贈るべきでした。ライさんの為にも、もっと真剣に考えればよかったです。

「いえ、この巻く形だから僕、多分やれたんだと思います……。音胡さんが帰った後に、署員の皆さんに聞いてもらったりして、譜面の読み方とかネットで調べて……音胡さんが戻ってきた時に、少しでも教えることが減ってたらいいなって……」

「ら、ライさん……! も、もうぅぅぅ……!! 何でそんな見捨てた奴にまで優しいんですかぁ!!」

 ライさんの『応え』に、私はまた感涙する。ライさんは照れたように笑うだけで、多くは語らなかった。

 ***

「驚きました、自力練習であれだけ弾けるようになるなんて」

 夜も十時を周り、パーティはお開きになった。私とライさんは帰り道を揃って歩いていた。ライさんは遠回りして私を送ってくれるという事で、そのご厚意に甘えて共に夜道を歩く。

「いえ、あそこで音胡さんが居ないからと言って、音胡さんがくれたものを投げ出すのはどうしても出来なかったんですよ……。師匠から見て、合格点でしたか?」

「その誠意が嬉しいです……勿論、合格点ですよ!」

 私はオッケーのハンドサインを出しながらライさんに笑ってみせる。と、ライさんは嬉しそうにパタパタと耳を揺らした。もしかして、褒められたいが為にやってたというのなら、あまりに可愛らしすぎやしませんか?

「あれ、ここって教会……やってないんじゃありませんでした?」

 ふと顔を上げると、道路脇の教会に明かりがt灯っているのが見えた。こんな時間に明かりがついていることも、そして確か、管理者が居なくて機能していないということも知っていたので、意外に思う。

「あ、お伝えしてたと思ってましたが……先月、管理者の方が代わって再スタートしたんですよ。今は、限定三ペアの結婚式を無料でやる、というイベントをしているそうなので、それの準備でしょうかね?」

「ま、マジですか……ぼーっとしてて聞いてなかった可能性が……す、すみません、怠慢な部下で……」

 丁度、私が完全に上の空だった時期の案件だ。私はその話を全く聞いていなかった事を反省する。ライさんは黙って首を横に振った。

「それにしても、結婚式、無料なんて素敵ですねぇ。最近だと費用がかかるからやらない方もいるみたいですし」

 気を取り直して、再度教会を眺める。小さい町の教会ではあるけれど、その小ささが逆にロマンチックだった。夕方に少し降った雪も薄く屋根に積り、クリスマスらしい景色に私は想いを馳せる。ここで結婚式かぁ、いいなあ。

「……音胡さん、もしや結婚のご予定が……? し、式には呼んでくださいねっ!? この間みたいに内緒で嫁がれたら嫌ですよっ!!」

 私はそのキラキラした光を見上げて、なんとなく、特に意味はなく呟いたつもりだった。すると、ライさんが急に慌て始める。な、なんですかその、ちょっと疎遠になったおばあちゃんみたいな目線は。

「あ、ありませんよ!! 残念ながらね!!?? そう言うライさんはどうなんですか!」

「あるわけ無いでしょう……。フラれるの、しかも男性で父親が相手だったの、見てたじゃないですか……。それに、僕自身、そもそも結婚願望はないんですよ」

 そうでした。私は納得しかけたが、後半の言葉が引っかかった。素直に、その疑問を思わず口にしてしまう。ここが、私の口の悪いところだとは分かっているんですが……。

「……結婚願望なし、ですか……それは失礼ながら、恋愛対象の問題って事ですか?」

「あ、いえ、そうじゃないですけど……仮にこの先、意中の女性が現れたとしても、結婚するつもりはありません。僕ら、寿命も短いですし、子供にも規制がありますから……結婚した所でお別れもすぐでしょう……お相手が人間だったら尚更、ただ籍に無駄な傷を付けるだけな気がして……あ、個人的意見ですよ? 誰かが結婚するのは、それは勿論おめでたい事です」

「ああ、なんかライさんっぽい理由ですね……納得します」

 なるほど。ライさんらしい、ちょっと考えすぎな意見です。でも、結婚する程の相手だったら、正直気にしないのでは? と思ったので、私は念を押してみる。だって、悲しいじゃないですか。それって、ライさんは好きな人との最終点を、しかも、本当はいいなあ、って思ってることを、自分が傷つけたくないから諦めちゃうって事でしょ?

「……でも、その考えは愛情を甘く見すぎですよ?」

「あはは、音胡さんならそう言うと思いました。……でも、僕にはまだまだ、想像できない世界です。生きてる内に理解できるようになれますかね」

 そう言ってライさんは笑い、教会から先へと進もうとする。私はライさんの言葉を反芻して、ちょっとだけ切なくなった。

 ライさんは色々なことをこの一年で乗り越えて来たけど、どうしてもその先の未来の寿命……死ぬことを、ただ待っているように見えることがある。あの日、死ねなかった代わりに、死ぬことを恐れなくなっただけのような。

 ……そう、あの時私がどう言って、ライさんがどう思いとどまったとしても……私が普通に生きるよりも、ライさんは圧倒的に短く、最期の日が来る。それが今、ライさんの側にいる上で、最も怖いことだ。

「……ライさんが、あと十年ちょっとで亡くなるなんて考えると……その時が来ちゃうの、見たくないです」

「だからといって、勝手に辞めるのはナシですよ? そっちの方が寿命縮んじゃいます」

 意地悪にライさんが微笑む。また、大事な話をはぐらかされました。私はむくれてライさんを睨んだが、ライさんは気づかないフリで目を逸らす。

「にゃーん」

「あっ、白猫ちゃん!」

「ああ、前に寮で会った子ですね……お家、ここらへんなんでしょうか?」

 ちょっとだけムスッとしながらライさんの背を追おうとすると、その足元に見覚えのある白猫が現れた。寮へ書類を探しに行ったとき、そして居なくなったライさんを探したときに、私を導いてくれた白猫ちゃんだ。

 チリリンと小さな鈴を鳴らしながら、私の足元にすり寄ってくる。どうやら顔を覚えてくれていたようだ。私はその場にしゃがむと、白猫の首元を撫でる。ゴロゴロと喉を鳴らしながら手にもすり寄って来てくれた。

「この間はありがとう……おかげで、大切なヒトを守れたよ」

「なぁん」

 私は白猫を抱えあげると、春の……ライさんを見つけられた事へのお礼を述べた。ライさんは鞄から例のニボシを出すと、今日は二匹だけ私に手渡す。

「……クリスマスなので。どうぞ、音胡さんからあげてください」

「すみません……というかまだニボシ食べてたんですね。それで栄養摂った気になるの、よくないですよ」

「……そ、そこは突っ込まないでください……」

 ライさんがしょぼんとしてしまったのを尻目に、私は猫ちゃんを足元に下ろして、鼻先にニボシを置く。猫ちゃんはすぐにニボシを咥えて、そのまま走っていってしまった。

「ありゃ、食べなかった」

 私はその行動に呆気にとられてしまう。すかさず、ライさんが口を開いた。

「お家に持って帰るんじゃないでしょうかね……? 安全な所で落ち着いて食べたい、という本能があるらしいので。もしくは子猫がいるのかも知れませんよ」

「そんな事まで解説しちゃいますか……」

 さ、さすが猫……? ライさんの解説好きも、ここまでくると博士みたいだ。

 猫ちゃんも行ってしまったので、私も立ち上がって教会を後にしようと歩き出す。

 と、背後から不意に声がかけられ、私の足はまた止まった。

「あれ……? もしかして……高梨音胡、ちゃん……?」

 聞き慣れない声だ。女性の、可愛らしい声で、名を呼ばれる。その声に思わず私は硬直してしまった。高梨の名で私を呼ぶ人はあまり居ない。……家が不穏になった頃から、ずっと隠してきたからだ。

 そんな私を、昔の名で呼ぶ相手……パッとは思い当たらず、私はおずおずと振り返った。振り返った先、教会の入り口から出てきたのは……私の友達、そして初恋の相手だった。白猫の獣人の女の子。確か、名前は――

「ミコちゃん……?」

 声は自然と出た。

「やっぱり、音胡ちゃんだ……!」

 ミコちゃんは、パッと笑顔を浮かべて、私の元へと駆けてくる。そう、ミコちゃん。存在すら忘れていた彼女の名を、すんなり出せた自分に驚いてしまう。

「嘘、ミコちゃんなの……?」

「そうだよ、あっ、今は『波々』って名前だけどね」

 ああ、そうか。ミコちゃんもあの時はペットだったのか。彼女をペットどころか、獣人としても意識していなかった、当時の記憶が蘇る。ライさんやケンさんの過去を知る今、あの時のミコちゃんは……ペットとしても幸せだったのだろうか、と一瞬だけ考えてしまい、私は狼狽えた。

「そっか……そ、そうだよね! ……えっと、私も、親が再婚して今は『吉岡』姓なんだ」

「あ、そうなんだ! でもびっくりしたぁ、こんな時間にこんな所でまた会えるって思ってなかったから……」

 私もだ。なんか、変に意識してしまう。いつもの調子が出ない。顔赤くなってたりするんじゃないかな。彼女も、そのギクシャクした空気を感じ取っているようで、少しだけ目を泳がせる。

「……ええと、音胡ちゃんは、お仕事帰り?」

「う、うん。そんな所……あ、あそこに居るヒトが上司なの。今、警察署で働いてて……ちょっと先輩後輩と飲み会してて、その帰り」

 私は少し遠くで、遠慮がちに立っているライさんを指差しながら、そう説明した。うん、嘘は言ってません。私はスティーブさんの暴走に巻き込まれてそんなに呑んでないけど。

「そっか、クリスマスだもんね! ハッピーホリデー! 警察かぁ、やっぱりかっこいいね、音胡ちゃん……」

「うん、あ、ありがとう……」

 ミコちゃん改め、波々ちゃんは可愛らしく手を上げて笑った。この明るさというか、天真爛漫な感じ……懐かしい。と、同時に、なんだか胸の奥がひりつく。まだ、少しだけ……ほんのちょっとだけ好意の目で見てしまう。要らない熱が視線に混ざってしまう。

 だけど。

「……あ、あの、謝りたいことがあって……うちの、えっと、高梨のお父さんが……貴女に酷い事をしたと、思うの……えっと、今更遅いと思うんだけど、ごめんなさい!!」

 私に、彼女を望む立場はない。私は、結果として彼女を追い出した身だから。私は慌てて頭を下げた。彼女に言うべき第一声は、どうしてもこれだ。

「……えっ、いやいやいやっ!! 謝らなくていいよっ!! 別に気にしてないし、私も勝手な事をしたと思ってるから……ね? 私は十分幸せに暮らしてるし……最近、他の指定区からこの町に引っ越してきたんだ」

「そうだったんだ……じゃあ、色々手続きの時には署で会えるかもだね」

 彼女は必死に私の謝罪を否定すると、此処にいる理由まで教えてくれた。引っ越したばかりか、なるほど。……そうなると、獣人のヒト達を管理している私は、いつか多分、仕事中に波々ちゃんに会うかもしれない。波々ちゃんは、少し照れたような笑みを浮かべて頷く。

「うん、勿論。……それでね、移住してきて色々調べてたら、結婚式の無料キャンペーンがあったから、応募したら当たったんだぁ」

「……へ」

 が、その照れたような笑みの意味が、すぐに彼女の口から告げられて、私は思わず妙な声を漏らしてしまった。

「あ、これ招待状なんだけど、良かったら来て! ……って、あっ、ごめん、そろそろ打ち合わせの時間終わっちゃうや……じゃあね!」

 彼女の懐かしく、細くて小さな白い手で、ふわりと握らされたチケットを呆然と見つめる。白地に金の箔押しが施された、花柄のカードだけが虚しく私の掌に残された。

 ***

「ぼ、僕まで良かったんでしょうか……? 完全に赤の他人ですよね……?」

「大丈夫ですよ、あの場で受け取ったチケットが二枚だったんですから。それに、お祝いごとは人が多い方が良いって言うじゃないですか、ほら、緊張してるだけ損ですよ!」

 それから時は過ぎて、挙式が行われたのは三月のこと。ケンさんに窓口のお留守番を任せて、すっかり和解したお父さんとスティーブさんに双子ちゃんの仕事のお手伝いをお願いして、私は波々ちゃんの挙式にライさんと共に顔を出した。

「ただ、すぐ仕事に戻らないといけないので、制服で出席する事になったのはある意味損ですけどね……」

「す、すみません……もう少し僕が強くお願いできていれば、丸一日お休みにもできたのでしょうけど……」

 またライさんがそう言って謝る。私はぶんぶんと首を横に振った。招待状を貰った時は信じられなかったけれど、波々ちゃんに再会することも、波々ちゃんが結婚することも、お父さんとスティーブさんが和解することも、そしてお仕事をお任せしてこうして仕事を二人で抜けることも、今となってはなんというか……。遠いところまで来たんだなあと思ってしまう。いい意味で、だけど。

「いえいえ、まさか二人揃って丸一日も窓口を空っぽにしておく訳には行きませんから。ケンさんだけだと、何しでかすか分かったもんじゃないですし……あ、ほら、ブーケトス始まるみたいですから行きましょうよ!」

「ええ! 僕別にブーケは要らないんで、遠くから見てますよぅ……」

 そうしてライさんの手を引いた。ライさんは耳も尻尾もしょんぼりさせて地面を踏ん張ったけれど、私はその背を押して強引に群がる参加者の中にライさんを埋める。この場でまだ遠慮するなんて、どこまで欲の無いヒトなんだか……。

「招待されたからには問答無用です! 部下であるこの私の親友からの幸福のお裾分けをないがしろにするなんて、部長失格ですよ!」

「ひぃぃ、音胡さん、そうやってすぐ強引な理由をつけるのやめてくださいよー!」

 そうして始まったブーケトス。式場に現れた波々ちゃんのドレス姿は、式の最中とはまた違う、まるで桜の花のような淡いピンク色のカラードレスだった。春風に揺れるレースの装飾を見ていると、彼女と出会った季節、そして、私の好きな春の景色を思い出す。

「……音胡さん?」

 その姿に釘付けになってしまって、いつしか拍手も忘れて会場に立ち尽くしていた。

「あ……」

 心配したライさんの声も耳を通り抜けて、まるでその場から私だけが遠く離れてしまったような……。いつしか、ライさんが元飼い主さんに襲われた時と似たような……でも、あのときより甘くて、痺れるような……毒が回った、とでも言えばいいのだろうか。世界がスローモーションのように回って見える。その世界が、じわり、と滲んで、勝手に奥歯が震えて。

「あれ、おかしい、な……忘れてた、ぐらいなのに……」

 ブーケが放たれた瞬間を見届けて、喧騒の中で私は気づけばそう呟いていた。ブーケに夢中の周りの人達には、多分聞こえていないであろうその呟き。

「音胡さん、分かります」

 ただ一人、隣でその頭の上にある、大きな耳をこちらに向けたライさんだけが、その言葉を拾ってくれていた。まるで、投げられた花束を優しく拾い上げるように。

「……それは、忘れていたんじゃなくて……忘れていたほうが、楽だったんです」

 聞き慣れた落ち着いて優しい声が、騒ぎの中で私の耳にまっすぐ届いた。私の耳が良いからとか、すぐ隣に居たからとか、そんなんじゃない。ライさんはこの中で、私だけを見ていた。声だけじゃない。そっと握ってくれた手から、ふにっとした感触と毛皮の柔らかさの向こう側から、確かに語りかけてくれた言葉が……彼の指先に溢れてしまう。

「っ……!」

 気づけば私の頬には冷たい涙が幾筋も伝っていた。上司だけれど、臆病で体も弱いライさんは、確かに私の先輩だ。……そう、初恋の期限が切れてしまった瞬間を知る、大先輩だった。

 ライさんは制服のポケットからハンカチを取り出すと、そっと私の手に握らせてくれた。見覚えのあるハンカチを見て、私は思わずそのご厚意を無下にして袖で目の前を拭ってしまう。

「これって……」

 ケンさんがいつだかに、ライさんにプレゼントしたハンカチだ。律儀に使っている辺りが、ライさんらしいなと思うとちょっと微笑ましくなる。けれど、それをわざわざ私に貸すのも、またライさんらしい。

「……寂しいですよね……きっと、辛いことだと思います……でも、この先……癒えた時、側には僕らが居ますよ。これは、貴女が教えてくれたこと、です」

 そう言って、ライさんはにこり、と笑ってくれる。その顔に、いつもの臆病な姿はなかった。まるで少年のような、あどけなくも自信に満ちた笑顔だった。私はその言葉に、思わずまた深く嗚咽を零す。ああ、いつもと逆になってしまった。

「ライさん、なんでそんな優しいんですか……!」

「言ったでしょう? 全て、貴女が教えてくれたことですよ」

 ライさんはまた念を押す用に、笑ってハンカチを私の手に押し付ける。私はそのハンカチで顔面を隠すと、ひとつ深呼吸をした。ハンカチに残る柔軟剤の匂いから、ライさんの丁寧さと誠実さを汲み取って、また笑って。

 ……ああ、もう大丈夫だ。多分、時々はまだ青春の残骸が胸に刺さってしまうかもしれないけれど。

「ライさんは私が育てた!」

 今だけは、笑えるからきっと、この先も変わらないのだと、私は信じた。

 それから、波々ちゃんに軽く挨拶をして、また会う約束もして、会場を後にした後のこと。ライさんから誘われて、いつだか双子ちゃんがライブをした遊園地に立ち寄った。時間大丈夫ですか? と私が問うと、ライさんは「少しぐらいサボっても怒られるような事はないでしょう」と笑う。つまりサボりである事は認めるんですね……。

 何処へ行くのか、と問う私にまぁまぁ、と聞く耳持たずで足を運んだのは観覧車。躊躇うことなく観覧車へと乗り込まれて、私もつられて彼の真正面に座ってしまった。ゆっくり回るゴンドラの中、ライさんの姿はやたらと落ち着いている。

 遠く町を見下ろすライさんの目は、いつも通りにキラキラと輝いていて、先程まで居た教会も見下ろせた。まだ式は続いている。先程放たれたものだろうか、赤い風船が遠くにゆらゆら、何処までも高く登っていくのが見えた。あれっぽっちのガスを詰め込んだ風船が、何処まで行けるのだろうか、とふと疑問に思って、口にした。

「風船って何処まで飛べるんですかね」

「どうでしょう? 海の向こうや宇宙まで行けたら楽しいですよね」

 珍しくライさんから、非現実的な言葉が飛び出して、私は思わず口元を綻ばせた。私も窓に近づいて、見慣れた町を見下ろしてみる。小さく、ミニチュアみたいな世界が足元に広がっていた。それでも、目を凝らせば分かる、町の隅々まで。あそこは側溝の蓋が欠けていていて、あの電柱には相合い傘が落書きされていて、あの家のおばあちゃんは今風邪を引いていて、あっちの家にはもうすぐ赤ちゃんが生まれそうで。

 ああ、仕事のことばかり考えてるなあ、と思って顔を上げれば、同じような顔をしたライさんが苦笑していた。すっかり、このヒトの毛皮の下にある表情にも気づけるようになってしまったな、と思うとまた笑ってしまう。

「そういえばライさん、高い所、怖くないんですか?」

 そういえば、その顔に曇りの一つもない事に私は気づいた。いつだかに皆で乗った時は、生まれたての子猫のごとく震えていたはずなのに。

「ここからは大好きな町がよく見えます、それのどこが怖いんですか?」

 そういってまっすぐ、ライさんの瞳が私を見つめた。その余裕そうな笑顔に、いつもと違うライさんを見出す。と、ライさんが、珍しく低い声で私に囁いた。

「かっこ悪いですけど、いいえ、かっこ悪くていいんです。むしろかっこ悪いほうがいい。もう出来もしない見えを張るのはやめようと思います……ですので、僕の……見栄を張らない主張を聞いては貰えませんか?」

「はい」

 その真剣そうな空気に、私も応えるべくしっかり頷く。あのライさんが、臆病で、逃げてばかりで、その癖、嫌なことからは逃げる努力も出来ず潰れてばかりで、一度は死すら決めた彼の言葉が、ここまでしっかりした輪郭を持ったのは始めてだった。その言葉を、私が聞き漏らすことがあってはいけない。私は窓から顔を離し、しっかりライさんに向き合った。

「僕、あの空き地を地域サロンにしようと思っています」

 静かに言い放たれた言葉は、声色に反して一見すると重たいセリフではない。私は一瞬キョトンとして聞き返した。

「地域サロン? 寮のあった所ですよね」

「はい、公園を兼ねて、地域の交流と治安を守る場にしたいんです」

 取り壊した、スティーブさんの寮があった場所。アニーとポートが懸命に生きたあの場所。一度は嫌で出ていった町の為に、ライさんが考えた精一杯。その言葉に、私は思わず膝の上で握りこぶしを固めた。確かに、嬉しい。ライさんがようやく決めた夢のことだ。ライさんらしい夢でもある。

 だけど、私はその言葉だけじゃ、うんとは頷けなかった。だって、それは。つまり。恐る恐る、私は脳裏に浮かんた言葉を口にする。

「じゃ、じゃあ、ライさん、警察や、め……」

「……音胡さん、付いてきてくれませんか」

「へっ!?」

 が、その言葉はライさんの次の言葉でぱちんと消え去った。驚きに口をぱくぱくさせる私に、分かっている風な態度のまま、ライさんはしっかりした口調で続ける。

「少し前から考えていて、一度は無理だな、と思ったんですが……。貴女とならできそうだと思ったんです。他人に縋らない夢は、僕には見つけられなかったんですが……言うなれば我儘です。いつも音胡さんがいてくれたからこそ、持てた夢と思います……」

 そこで、いつもらしいライさんの顔がようやく見えた。耳を垂れさせ、俯く。言い切った事で冷静になってしまった様子だった。まだぽかんとしている私に、もうひと押し、声を絞り出すように付け加える。

「出来れば夜間も対応できるようにしたいので、住み込み、になりますが……厳しい、です、よね……?」

 ダメ、ですか? と小首を傾げられて、私も正気に戻る。冷静に考えれば、かなりブラックな仕事のお誘いだ。警察という生温い環境を出て、ほぼ民営、自営になるというリスクもある。それでも……そんな環境だからこそ、私を誘った。そう理解して、ライさんの情の重さに……バカな私は勝手な名前をつけてしまう。

「それって……告白、ってことですか?」

 言ってから、そんなアホな、と思ったけれど遅かった。ライさんの目が、きゅっと驚きに丸くなる。

「えっ、そ、それは……!」

 慌てるライさん。分かってる、ライさんはそんな大胆なことを表立って言えない。ビジネスパートナーとして、あるいは良くてもバディとしての言葉だ。うっかり言ってしまった言葉だったけれど、私はそれを、ライさんを試す言葉として訂正しなかった。スティーブさんの嫌な部分が伝染ってしまったのだろうか。これでライさんに泣かれてしまったとして、またギクシャクした関係に戻っても仕方ない、とさえ覚悟して、謝りそうになってしまうのを堪える。

 ライさんは暫くあたふたした後、己のネクタイをぎゅうと握りしめて。なんと、頷いた。

「……そう、かも、しれません……」

「しれないって……」

 噛みしめるように、肯定の言葉が吐き出される。ただ、その言葉はふんわり、ライさんのはにかみと同じ程に柔らかい答えだった。少し呆れて、ため息混じりの確認を漏らした私に、ゆっくりと首を振る。

「はっきり、僕にも分かりません。でも、音胡さんといると安心するのは本当です。それが恋人関係かと言われると違うかも知れません」

 そう言い切ったライさんの目は、やっぱり涙には濡れていない。呼吸も、静かだった。私もその落ち着きに釣られて、私も静かに聞き返す。なんだか、不思議な感覚だ。観覧車の中で、転職の面接を受けているとしか思えない。客観的に考えると、とってもシュールなのに、思わず私は背を正してしまった。

「貴方にとっての私ってなんですか」

 最後にご質問は、という面接の常套句をなぞらえたかのように、私は聞き返す。ライさんは少し考えたものの、迷いなく言葉を紡いだ。

「言うならば、母ですかね」

「は?」……は?

 ここで始めて、私の感情が大きく揺らいだ。何言ってるんだこの上司。やっぱりセクハラか。それともパワハラか? 困惑する私を見て、ライさんは意地悪に、でも愛おしそうに目を細めて笑う。そのふと漏れた吐息が、それを冗談では無いのだと証明した。

「僕を愛しながら叱ってくれるから。怒るのでも、可愛がるのでもない、きちんと人として扱ってくれるのは貴女だけだった。貴女が来て始めて、僕は弱くて戦えない、子供では無くなったんですよ」

 その言葉に、私は思わず制服の胸ポケットを握りつぶす。その感情が何なのか、分からなかったけれど……いや、分からなくていい。私がこの気持ちに、名前を付けるのにはきっと、時間が幾つあっても足りなかった。

「……ライさん」

「はい」

 私はライさんの目をしっかり見て、そのキラキラした瞳の奥を覗いた。彼のまだ見ぬ所を見なければいけない。さっきの質問は、かなり意地悪な質問だと思った。そんな意地悪をした私に、ライさんはまだ、勇敢にも私へ穏やかな笑顔を向けている。はっきりと頷いて返事をした。

 私はまだ、ライさんの何も知らない。だから、一言で貴方は私にとって何だ、なんて言えるわけもなかった。それはもしかしたら、この先、上司と部下にだって、相棒にだって、親友にだって、親子にだって、兄妹だって、家族にだって……なんだってなれる気がしたからだ。

「貴方の夢、もう少し聞かせてください」

「……はい!」

 まだ、もっと、貴方の夢を、したい事を、この先を聞きたい。強く頷いたライさんの目に、何時も通り涙が光っているのを見て、私は思わず笑ってしまった。このヒトの涙には、絶対に勝てないな、と思いながら。ライさんもその笑みに、似たような既視感を覚えたのだろう、二人でくすくす笑っていると、ふと、観覧車の扉が開く。観覧車はいつの間にか、季節と同じくぐるりと一周していた。

「……もう少し、話そうか」

 ふたりで揃って頭を下げて、もう一周。ふたりの大好きな町を見下ろしながら。

 ***

 それから、季節はまた瞬く間に変わっていって、また、そしてまた。またまた。数えきれない程にまた。まちに待った春が来た。花びらの踊る道は、やはり私を特別な思いにしてくれる。

 あの後、ライさんは約束通り、寮のあった空き地に地域サロンを建てた。小さなカフェを備えた、本当にささやかで、でも温かみのあるアットホームな佇まいと、有志で力を合わせて作った手作りの遊具。ライさんらしい、と誰もがその形を見て笑った。

 さて、それからの話はここまで。本当にそれから、ライさんがどうしたのかは、また別のお話。

 でも、ライさんは最期まで幸せそうでした。

 ライさんが猫としての本能で最期に発揮したのは『死期を悟ること』。でも、ライさんはその恐怖から逃げませんでした。ライさんはいつまでも、私の良い上司で、先輩で、目標で、最高の仲間で……親子で、恋人でした。

「ライさん、行ってきます!」

 そうして私は、今日もこの町の春の道を、履き慣れたスニーカーで走り出しました。