-Label.2 Trac.2-

 カランカラン、と小さなチャイムの音に反応して、一人で席に座っていた少女の頭が小さく揺れる。日当たりの良い窓際の席からもその姿を望める城の側、ある港町の海沿いのカフェ。そこにぽつりと座る少女、鈴乃つばさは『能力者』であるが為に住んでいた村を追い出され、長く居場所のない旅から帰ってきたばかり。とある相手からの連絡を受け、この街へやってきた。

「よ、つばさ」

 遅れてやってきた姉のよくが、ひさしぶり、と呟いて懐かしそうに目を細める。数年ぶりの再会にも関わらず彼女はそちらを向かないまま、俯いて動かない。何をしているのかとよくが覗き込めば、膝下には一冊の本。どうやらこちらに集中したいという無言の抵抗らしい。こいつらしいな、と肩を竦めて正面に座る。

 そのすぐ後、もう一度チャイムの音。そして3つの足音が揃って向かってくる。こっちです、と手を上げる姉の視線の先。姉がつばさの正面の席から隣に移る。近づいてきた気配につばさもようやく本から顔を上げた。

 目の前に座ったのは二人の女性と、一人の男性。真っ直ぐ顔を上げたつばさの正面に居たのは、黒髪をひとまとめにした青い瞳の女性だった。

「……初めまして、つばさ」

 その視線に引き込まれる。初対面の筈なのに。こちらを愛おしげに見つめる視線に。優しい声に。表現し難い高揚感に。

 それが『初めて』の、鈴乃つばさとサナの出会い。そして『初めて』の、つばさの居場所だった。

***

 壁の向こうから聞こえる遠い、ガチャリ、という静かな物音に、つばさは目を覚ます。誰も目を覚まさないよう、極限まで気遣ったようなドアの音。静かに床を踏む足音。午前1時と……57分。皆が寝静まった静かな家の中。

 ここ数日、しばらく見なかった顔を見たくて、つばさは隣の部屋のドアノブに手を伸ばした。サナの寝室。明かりはベッドサイドの一つだけで、部屋の明かりは灯していない。その行動一つ一つが、誰かを起こさないような配慮で出来ているところに彼女の気持ちを感じるのが『嬉しい』。今までこんな他人の行動にまで感情を感じたことがあっただろうか。少なからず、感情の遠いつばさには初めての体験だった。

「……サナ」

 ぼそり、と薄暗い部屋の中、サナを探るように小さな声を発する。足元から伸びる影の先。ベッドの上に着替えても居ないサナの背があった。ひとまとめにした黒髪はベッドにゆったりと散らばっている。

 つばさはサナに近づくと、ベッドによじ登って隣に寝そべった。腕で表情を隠したまま横たわったサナは、つばさを静かに抱きすくめ、そのまま、黙ったまま寝返りを打つ。

「……何か、あった……?」

 そのサナの姿に、少女は疑問を抱く。明らかに元気がない。のに、どこか嬉しそうな、でも怒っているみたいな……。とにかく、見たことのないサナがそこに居た。サナと暮らし始めてどれぐらい経過しただろう。サナはルナやきぃに比べると家を空ける事も多かったが、つばさの魔法の師として一番つばさと長く過ごしたと思う。時に厳しい事もあったが、常に彼女はつばさの前では明るくそして優しいもう一人の姉のような、それでいて母のような存在だった。

 そんな相手が落ち込んでいるような、甘えるような姿を見せると、つばさは体感したことのないざわつきに襲われる。どうしたんだろう。不安も混じって、思わずサナにしがみついてしまった。

「いいえ、つばさ……泣いてなんかないわ、大丈夫」

 サナはつばさの質問に一拍だけ口を閉ざしたが、その姿勢のままいつもの通りの声色で返答を囁いてくれた。

 一方、サナはプレナイトと別れてきたばかりの、さっきまでプレナイトと繋いでいたその手で、つばさの小さな頭を梳くように撫でた。綺麗なストレートヘアが指をすり抜けていく。同時に、あの日の夕暮れ、サナにとっての初めて会った時のつばさを思い出した。いつから、この子はくせ毛になるのだろう。ぼんやりとそう思った。

「サナ?」

 つばさはそんなサナの様子に小首を傾げ、じっと彼女を見つめる。サナは未だ、寂しそうに微笑んだままつばさを抱きしめていた。……表情が見えない。笑っているように見えるけど、その表情に本心はない、とつばさは察した。いつもそうだ。この人は、本当の表情を見せてくれない。それが、つばさの乏しい感情ですら苦しいぐらい、あまりに苦しい事だった。

「つばさ、よく覚えていて。貴女はいつか自分が非力なことに悩むかもしれない。自分が役立たずで、何も出来なくて、それが苦しくて堪らない日が来るかもしれない。足掻いても足掻いても一人では抜け出せない困難があるかもしれない。でも、貴女は悪くないの。未来は絶対に悪くない。逃げても、抗ってもいい、それが貴方の道。それだけは、忘れないでいて……」

 サナがそう言って、またつばさをぎゅうと抱きしめる。

「……? うん……?」

 この意味は、まだ彼女には分からない。分からなくていい。ただ、この約束を覚えていてくれることを、サナは知っている。

「……わかった」

「いい子ね……」

 つばさは一度首を傾げた後、理解し難いとでも言いたげな顔で頷いた。その表情を確認してからサナはつばさを再度撫でる。そのままサナは静かに目を閉じた。まだ、あの世界、大人のこの子の笑顔。隣で聞いた力強い歌声が頭から離れない。

 でも、もう寂しくはない。戦おう、この子の為に。約束した未来の為に。また何度でも、またねの約束が果たせる未来のために。

 これが、二人が過ごした最後の夜だった。

***

 ノイズ混じりのTVの声が、突然の『異常気象』を慌て気味に報道する。人間をも脅かす地震のような地響きが、まさか『天使』の襲撃だなんて人間は思いもしないだろう。どうやら魔法で姿を消しているらしい。これは名誉派達からの、この地に落とされた罪を背負った天使たちへの宣戦布告だ。人間を人質に誘き出そうとしているのだろう。

「ついに、動き出してしまったわね」

 サナは立ち上がり、そう静かに告げた。サナが戦いに出ること。それはこの長く続いた5人での生活の終わりを意味していた。つばさはサナの言葉でその事実に気づき、小さな心を締め付けられるような気持ちでいた。終わってしまうのだ。今まで修行こそあれど、サナが帰ってこない日もあれど、サナと過ごした日々はつばさにとっても宝だった。能力者だからと故郷を追い出された自分を、こんなにも迎え入れてくれた彼女との生活が終わってしまう。

 それに、今サナがこの騒ぎの中心に顔を出せば、またサナは『悪魔』として人間たちに指を刺されるのだろう。もし無事にサナが天使たちに勝ったとして、サナとこの先も同じように暮らしていける保証がある訳では無い。つばさは息を呑んでサナを見つめる。が、サナの表情からその心配は一つも感じなかった。

「うん……行こう、サナちゃん」

 続いたのは、そのサナの強い言葉に応えるように頷くルナの姿。

「……私も行けるよ」

複雑な面持ちながも心を決めたらしいきぃ。

「オレも、大丈夫です。行きましょう」

 そして強い意志を表すよくの表情。

 ここで『行かないで』と言う事は、サナを裏切る事になる。サナが教えてくれた全てを無駄にしてしまう。つばさも返事代わりに強く立ち上がって、冷静な勇気を奮い立たせた。

「ずっと、説明して練習を重ねてきた通り、ついに『名誉派』がこの地上を襲ってきた。……これは戦争になる。地上に居る罪人の天使、堕天使や私達のほかに、能力者の人間も狙ってる」

「神は……彼らは魔法を独占しようとしてる。……お願い、力を貸して欲しい。僕らは神様のモノにはならない!」

 サナとルナがそう告げる。それが合図となり、5人は揃って暮らした家を後にした。城のすぐ近く、小さな民家。つばさはふと、その姿を振り返る。多分、あそこにもう揃って戻ることはない。目に焼き付けておきたかった。何があっても、絶対……絶対この景色だけは忘れたくなかった。

***

 サナ達が騒ぎの核心に辿り着いた頃……不幸にもそれは、サナが昔追い出された孤島のすぐ側で起きていた。コルトード・フォルクへ続く森の中。その海沿い。そこら一帯はもう、魔法の炎の海だった。恐らく神によるサナへの見せしめだろう。島自体を攻撃しなかったのは、恐らく人間の目に付く範囲で戦わせる事でサナに罪を擦り付ける為だ。5人がそこに辿り着いた時には、天使たちに攫われて来たのだろうか、もう多くの能力者が犠牲になっていた。

 ルナがひどい、と小さく声を漏らす。

 サナはその声を聞いた後、目の前の光景を静かに見つめると、くるりと振り返ってつばさとよくの背を静かに叩いた。

「……ふたりとも、無理だけはしないでね」

「……? ……うん」

「……はい」

 二人はその静かな言葉に、内心不思議に思いながら返事を返す。サナはまとめた髪を踊らせながら、またくるりと踵を返し、ルナと強いハイタッチを交わした。

「任せて、サナちゃん」

「任せたわ、ルナ」

 そうしてサナは突然、きぃの手を取る。

「えっ、えっ? サナ!?」

 サナに突然手を引かれ、驚愕しながらに慌てて身を引くきぃ。その髪はもう、殆ど黒髪に変化してしまったウェーブヘアだ。逃げの姿勢を取ったにも関わらず、サナに引っ張られて逃げられない。反動でその髪もふわりと宙を舞う。

 サナのクローンから誕生し、強制的にサナとの違いを付けるため改造されたきぃは、サナの魔力で無理やり成長させてしまった事で予定学類、身体がサナに近づき始めていた。もう少しすれば、その成長に追いつけないその身体は逆成長を始めてしまう。サナはそれを分かりそして恐れていた。……もしもきぃが完全にサナの姿になってしまえば、プレナイトと同じ。サナに掛かった不幸の呪いはきぃにも降りかかる。

 サナはそのまま、体制を崩して傾きかけたきぃの身体を受け止めると、するりと彼女の髪を梳いた。そうして、柔く抱きしめる。

「……っ、さ、サナっ……ちょっ、え……? や、やだ、恥ずかしい、離しなさいよ……っ!」

 きぃの抵抗も虚しく、きぃはサナに抱きしめられるまま。サナは小さく、きぃにだけ聞こえるように囁いた。

「ごめんなさい、貴女を戦わせるわけにはいかないの。これ以上魔法を使ったら貴女は完全に私に戻ってしまう。……そんなの耐えられない。私みたいな思いをするのは私だけで十分。貴女は、貴女のままで存在を終わらせるべきだから……今まで側に居てくれてありがとう」

「……っ! そ、そんなの、私っ……!!!」

 きぃはその言葉に、自分の言葉を詰まらせた。きぃがサナの為に戦うのはサナにとって残酷な事? ……でも、きぃ自身はそれでも構わない。なんならサナのようになっても構わないと思ってしまった事だってある。アメの優しさと勇敢さに憧れていたし、今まで二人についてきた事だって自分がしたくてしたことなのに……全部が、今のサナに訴えた所で重くなる。そう思うと否定も肯定も出来ず、結局、言葉は何ひとつ出てこなかった。

「待って、サナ! 嘘でしょ、サナ!! 嫌だよサナ!!」

 サナが魔法で檻を作ってきぃを閉じ込める。ルナがそれをバックアップするかのように、声が届かないように魔法の壁を二重にかけた。まるで大事な物を仕舞うように。宝石箱のように、ぱたりときぃの視界は閉ざされる。

「る、ルナまで!! 嫌だ、待ってよ、また二人だけ……そうやって……私を置いていくの……?」

 悪魔の血が流れる能力者にありがちだという、魔法の制御が効きにくい体質のルナ。それでも手先は器用で、回復や支援魔法に長けているルナ。そんなルナも、この期間で魔法を鍛え上げ幾らかその攻撃魔法は実戦向きになった。それがこの日の為の、二人の成果。そして、ギクシャクしがちだった二人の間にいつの間にか出来上がっていた強い信頼。それがきぃにとって何よりも痛い世界にたった二人の変化。偽物の自分にはない『本当の』本人同士の絆だった。

 私は、所詮、造られたよそ者だ。アメの所にも、天界にも帰れない。

「サナっ……サナ!!」

 この声は届かない。わかっていても、叫ばざるを得なかった。私はいつまでも臆病で、素直じゃなくて、戦うのは怖かった。だけど、それが出来ない事がもっと怖いと今知った。サナを倒すために生まれた身体。目的は違えど、きぃの存在は『サナの為』にあった。それはアメに出会ってからも同じ。アメの為に戦うことを選んだのに、この結末はあんまりだ。

「サナ……っ」

 サナは振り返らずそのまま敵陣へと飛び立っていく。きぃは一人、その悲しすぎる喧騒を背後に、暗闇を見つめていることしか出来なかった。

***

 ―――あっという間に周囲を囲まれた。能力者達を狙ってやってきた天使の数は、どうやらサナ達が戦いの準備をしている間にも派閥を広げていたらしい。それに立ち向かう能力者や堕天使達が、あっけなく次々に殺されてゆく環境に戸惑いを覚えながらも、つばさは持ち前の軽い身のこなしでナイフを振り回す。サナに出会うより前に旅の中で覚えた戦術は、サナの魔法の指導と相まって一筋縄では行かない独自の型を編み出していた。

 右からパンチを出してきた男の後頭部を蹴り倒し、左から剣で斬りつけてきた女の足を払う。ナイフを空中に投げ、回し蹴りを両方から来た男に食らわせて、上から来た大男の胸にナイフを突き立てた。

「…………」

 そのまま引きちぎるよう勢いで持ち上げると、天使の上体は軽く投げ飛ばされる。刃に仕込んだ魔法が付随してその殺傷力は何倍にも跳ね上がっていた。

 ……これも、サナが与えてくれた技術。無理はするなと言われたけれど、サナを守らなければ、と想う、その一心。感情の遠い心でも、これが残酷なことだってわかっている。分かっているからこその覚悟で、つばさは次に向かってきた敵にまた刃を向ける。

「っ……!!」

「!」

 瞬間、不意に聞こえた悲鳴にに、ふと振り返る。聞き覚えのある声が自然とそうさせた。すぐ後ろではよくが、身長の高い男に羽交い絞めにされ、必死の抵抗で藻掻いている。刃を無意識にそちらに向け、つばさはその男を威嚇する。明確にナイフをその男に向けると、男はゆっくりとよくの首に腕を置き……軽く力を入れる。よくの悲鳴がまた漏れて、勝ち気に微笑んだ。

「…………」

 人質に取られた。その意味を理解したつばさは、やむを得ず、戦闘態勢を緩めて少しナイフを引く。

「止めろ、止めろっ、このオッサン!! オレを離せオヤジ!! はげおやじ!!」

 元から勝ち気な性格も相まってよくは口答えの言葉を吐き出す。身動きを封じられているお陰で天使の表情が読めないのか、自分の置かれている状況を冷静に理解できないよくは、更にじたばたと乱暴に言葉を吐きながらその拘束から逃れようとする。しかし、武術をメインに戦うよくは、手足を押さえられては満足な攻撃もできない。

 天使の男はよくに向かって乱暴に顔を近づけると、静かに言い放った。

「大人しく降伏すれば、命だけは助けてやる。お前は弱き者をわざわざ護るものを抱えなくて済むようになるんだ、楽になりたくはないか?」

 ぎり、と男の腕がよくの首元にめり込む。

「うぐ……っ!! ま、もる、も、の?」

 よくの視界が痛みと息苦しさにぐにゃりと歪んだ。それは意識を弱らせた上での、暗示魔法か、洗脳か。その様子を目の前に、静かに困惑するつばさの姿が、つばさを置いて出て行ってしまった……あの頃を思い出させる。

 つばさが能力を持つことで周囲に気味悪がられ、故郷の村を追い出されるより前。よくとつばさは親の離婚で離れ離れに暮らしていた時期があった。よくはその時の事を今でも覚えている。部屋で一人、感情も示さず本を手にしている妹。親の関心から遠く育ってしまったこの子には自分しか居ない、と確信した姉としての自覚。

 ……その後、どうしてもつばさを守る力が欲しくて、再会したにも関わらずよくはつばさを置いて家を出た。全てはつばさを守るため、武術を学ぶため。別れ際、見かけに分かりづらいつばさの表情が静かに濁った瞬間。それは、いろいろな意味で辛かった。

 結局、親や故郷の人々と同じように自分はつばさを捨てる真似をしているのでは、と悩んだことも当然だ。早く帰ってやりたくても、はやる気持ちだけが先に出て進まない修行。自分も持っているだけで、使い方すら分からない魔法の能力。そのせいで晒される偏見の目。そんな苦労に耐えて耐えて耐え抜いた頃には、行方不明になっていたつばさの行く先。

 ……どうやってつばさを探そうか、そう考えていた時に丁度サナがやってきて、再会にこぎつけた事。サナから魔法の事を聞いて戦いに力を貸して欲しいと言われた時。……この力はつばさの為にあるのだと必然的に考えついた。

 でも、それが、つばさに結局苦労をかけてしまった。自分が離れてしまった事でつばさは一人、自分の能力や、周りの奇異の目と戦った。戦っていくうちに、戦うためだけの力を、こんなにも残酷な力を持ってしまった。違う、オレが持たせてしまった。つばさには、普通の人間で居て欲しかった。自分が守りたかった。つばさという存在をずっとこの腕に抱えていた。

 もしも、もしもそれを今、ここで簡単に手放せることが出来たら、あんな苦い思いはしなくて済んだだろうか。楽になれるだろうか。

男が、よくの戸惑いに微笑を零した瞬間、突如としてその男の腕の力がすとんと抜けた。同時によくは、頭をガツンと殴られる。

「ってえ…………!!!!」

 頭が割れるかと思うほどの衝撃に、思わず頭を抱えて地面にしゃがみこむと、目を光らせたつばさが頬を打ってきた。

「った!?」

「……目的を見失ってはいけない」

 目の前にあるのはむくれた妹の顔。その眼は怒りに満ちていて、見放された可哀想な妹は何処にもいない。自分で強くなった、頼もしい仲間の顔をしていた。何を寝ぼけて居たのだろう、よくは同じ強さで自分でも、逆の頬をパシンを叩く。

「サンキュー、つばさ! 目が覚めたっ!」

 そう、今考える事はこの戦いのことだけだ。つばさの人生はその後で沢山守ってやればいい、それだけだ。平和さえ訪れれば力なんて二人の間には要らなくなる。そう信じる。

 よくは、一瞬でも変なことを考えた自分への戒めと、気合の意味を込めて後ろ髪を結びなおした。

***

「……自惚れるのはよくないけど、いい調子ね」

 つばさとよくの活躍により、一時は天使たちに圧倒されていた戦況も、あっという間に地上軍が優勢になった。サナはその様子を見て少し希望を見出す。まだ油断は出来ないが、戦況が変わって明らかに慌てふためく天使が一人。どうやら名誉派天使達の指揮を取っている人物らしい男は、あの日、亜天界でクア達を従えてアメを襲わせた天使らしい。

「アイツが親玉か!!」

 よくがそれにいち早く気づいて彼の腕をひねり押さえつける。そのタイミングを見計らってサナは彼に静かに近づいた。

「……あの時は世話になったわね」

「くそっ、Amethystめ…!」

 天使はよくの押さえつけから逃げようと身体を捻りつつ、サナを睨む。どうやらあの3人とアメの戦いはしっかりこの男の目にも届いていたらしい。さてどうしてやろうか、と考えた所で、何者かが頭の上を掠めた。既に日は傾いていて、薄暗い空に天使と能力者の攻防から生まれる攻撃がちかちかと光っている。突如、その紫の空に不意打ちで助っ人か、別の天使が火の玉を降らせてきて、サナとよくは咄嗟にその攻撃を避けざるを得なかった。

「くそっ、逃げられた!」

「でもナイスファイトだったわ、よく、ありがとう!」

 その隙に『親玉』はよくの手をすり抜けて逃げ出す。そのままよくは攻撃した天使を追い掛けていく。サナは逃げた方の男を追いながら、未だ止まない攻撃をすり抜けて反対側へと駆け出していった。

「ルナ!!」

「オッケー!」

 未だ爆弾のように落とされれる魔法の攻撃を交わしながらサナが叫ぶと、ルナはサナに駆け寄る。合図と同時にルナがサナを上空へと放り投げた。ルナを土台に、自力では飛べないサナがびゅんと勢い良く飛び上がり、上空を逃げ惑う天使に追いつく、同時に剣を振り下ろした。どうやら男の羽根を掠めたらしい、仕留めそこねた。

「ぐうっ、そんな攻撃が通用するか、今度こそ貴様を倒してやる! この天使の面汚しが!」

「やれるもんならやってみなさい!」

 そのまま怒りに任せてサナを追ってくる彼を、サナはおびき寄せるように地面まで急降下。羽根を出して地上スレスレで急転回する。その瞬間を見据え地上で待っていたつばさが天使に攻撃をしかけた。

「っ……!」

しかし攻撃は跳ね返される。つばさは反動で後ろへ跳ね飛ばされてしまった。

「ふん、少しばかり魔法が使えるだけの人間如きが我々に逆らうな! 貴様たちの魂は我々のものだ!!」

「それはどーだろな!」

 天使はその隙を見計らって、つばさに魔法の攻撃弾をうちは夏。その瞬間を見据えたよくが、跳ね飛ばされたつばさを受け止めながら、瞬時に魔法で作った防御壁で攻撃を蹴り返し、天使の攻撃を防いだ。

「っ、何……!?」

 基本一種類の魔法しか使えないはずの能力者が、合せ技で攻撃してきた事に天使は驚いたらしい。これもサナとルナの指導の賜だった。反撃されると思っていなかったであろう親玉は墜落、よくとつばさがその背を追う。

「よし、つばさ……こっからが本番だ、マジで行くぞ!」

「……私は常に『マジ』」

 反撃成功に気を良くしたのだろう。気合を入れ直したよくの姿を見て、つばさが冷静に指摘した。

***

 つばさが地面を蹴り上げて飛び上がり行く手を阻む。相手が変えた進路を読み、反対側からよくが蹴飛ばす。挟み撃ちにされた親玉の天使が逃げ場を失った所を、つばさが一刀両断にする。つばさとよくのコンビネーションも、サナとルナに劣らず鋭いものだった。

「くっ!!」

「!」

 しかし天使の魔法が咄嗟につばさの刃を跳ね返す。つばさの体制が崩される瞬間、ルナがその懐に飛び込んだ。

「つばちゃん!!」

 跳ね返されたつばさを受け止め、体制を立て直す。そのまま、まるで発射させるように魔法でつばさを跳ね上げて、高く飛び上がったつばさが天使を追って刃で切り裂く。が天使はスレスレでそれを回避。またよくが追う。一進一退の攻防が続く。……皆が、戦っていた。

 気がつけば、既に戦いの場に立っている名誉派の天使は彼一人だった。周囲は傷ついた天使達や能力者で溢れ、まだ戦いの場に居る能力者達はそれに心を痛めながら、必死の抵抗を続けていた。

「っ……はぁ、はあっ……はあ……」

 サナも強くその失意を感じたが、もうそろそろ体力がついて来ない。一人でも多く犠牲者を出したくない、という気持ちだけでなんとか立ち上がろうとするが、徐々にその時間は長くなっていた。ついには膝をがくりと折り、それでも必死で息を整えようとする。くらくらと地面が回った。

「う、ぐ……」

 ……戦力を最大限引き出す為に、魔力を犠牲にして作り出した『大人の身体』は、その維持のためにじわじわと魔力を使う。元々酷い目に遭い続けて消耗した体力を補い、動かない身体を無理やり動かす為にも魔力も使っているので余裕がある訳じゃない。加えてきぃをこの戦場から守るために使っている魔法。長くは飛べない身体を魔法を使うこと……全ての負担がサナの身体にのしかかる。

 そうでなくとも元々、神に刃向かえないように消耗させられてきた身体だ。目的の為に共に戦っているといえ、他の能力者だってサナの事はよく思っていない。手を貸してくれる人もいなかった。

「……そう、よね……私が、悪いんだもの……嫌われて当然のことをしたまで……そんなの分かってる……私が弱かった……孤独に、耐えきれなかった……私が悪いのは分かってる……」

 サナは内心、自分に悪態をつく。それは、今までも一度も口にはしたことがない、いつも押し殺していた言葉。誰かを傷つけて、それで自分を納得させようとして、結果もっと身近な誰かを悲しませてしまう。その繰り返し。そうしたのは自分の愚かな弱さだ。分かっている。痛いほどわかっている。サナは悔しさに思わず地を握りしめる。

「……でも、そんなの……今はいい、全部アイツを倒してから……神の手から逃れてから考えてあげるわ……!」

 しかし、その愚痴すら今は考える暇はない。それでも自分を鼓舞してサナは這いつくばっていた地面から身体を引き剥がし、気合で起き上がる。限界がなんだ。運命がなんだ。劣等感がなんだ。

「つばさ!!」

 天使の攻撃で身体を跳ね飛ばされたつばさが、地面に叩きつけられる。その光景に、動かないと分かっていても身体を動かすしかなかった。だって、約束したから。あの子と、つばさと、この身体、この未来。抗うことを教えてくれたこの子の為に戦うって約束したのだ。誰でもないつばさ、その本人と。

「つばさに手を出すなぁあああああ!!!」

 今の今まで立てなかったとは思えないスピードと高さで、サナは飛び上がった。とても空を飛べないとは思えない程の勢いで、サナは親玉の背を追う。その事情を一番側で見てきたルナを始め、突き飛ばされたはずのつばさですらその叫びにぽかんとせざるを得ない。

 その場に居る全員、自分の感情を押し殺すことばかりで本音を見せない、逆上したサナを見たのは初めてだった。天使はその叫びに一瞬たじろいだが、サナが追ってきた事をすぐに把握したのだろう。慌ててサナから逃げるように飛び上がる。

「ガル!!」

 サナは手の中からひとつの琥珀を放り投げた。その欠片が光り、ピギャアアアアアア! という雄々しい叫びと共に現れたのは召喚獣の大鳥。サナの相棒、ガル。つばさと出会ったあの日、サナが連れていた相棒。

 サナが死んだ時に手から転がり落ち失ったはずのそれは、『ライト』が放った爆発の中で奇跡的に無傷だった。サナはそれを見つけ出していたのだ。

 ……ただ、サナのせいで危険な目に合わせてしまった事に変わりはなく、周りの人と同じように、サナは相棒とも距離を取っていた。己の契約する使い魔なのに。召喚獣なのに、召喚する勇気がなかった。

「……ごめんねガル。あなたを頼れなかった私を許して……そして、力を貸して!」

 サナはそう言いながら、ガルの背に飛び乗り、その大きな羽毛を撫でる。ガルは視線と、小さな鳴き声でそれに応えて大空へ飛び上がった。

 ルナはその光景に静かに口元を緩ませると、サナの後に続く。手の中に炎の塊が渦巻いた。

「サナちゃん!!」

 サナを呼ぶ声に合わせてその塊をサナ目掛けて放つ。サナはアイコンタクトでタイミングを図ると、ルナの攻撃をサナの剣で受け止めた。そこにサナの魔力も重ね……燃え盛る炎の剣が空に線を引く。

 その瞬間、戦場に居た誰もが、『悪魔』と呼ばれたサナのその描く軌跡に見惚れていた。

「もう逃げられないわよ、貴方達の……いいえ、神の好き勝手にはもうさせない……! 私が勝つ!!」

「神の所有物の癖に飼い主に噛みつく真似をっ……ぐああっ!!!」

 天使に追いついたサナが大きく剣を振りかぶり、天使を切りつける。天使も回避を試みたが、一瞬、サナの方が早かった。攻撃は天使の、天使の証である半透明の羽根を突き破り、飛ぶ術を無くした天使は悲鳴を上げながら真っ逆さまに落下していく。サナも構わず、落下していく天使を追って急降下。その天使と並んだ。

「これで勝負あったわ……降参して我々から手を引きなさい!! 争いを終わらせましょう!!」

 サナは敢えてとどめを刺さず、そう叫んだ。ここでこの親玉を殺したところで、神が派閥を持つ限りこの争いは終わらない。それにサナはこれ以上、誰かを殺すことを望んでいるわけではなかった。……甘く言えば、まだ話し合いが通じるとも思っていたのかもしれない。

 しかし次の瞬間、天使はニヤリと顔を歪ませると、決死の攻撃をサナに向けた。……サナの言葉は、聞き入れられなかった。

「っ……」

 閃光がサナの眼の前を掠め、サナの持つ剣の光とぶつかり合う。サナも咄嗟に剣でそれを受け止めた。が、威力が足りない。召喚獣の使用、普段は出来ない自力での飛行、長く続いた戦い……。

「……サナっ!?」

 最初に戦場に響いたのは、サナが魔力を使い果たした事で、サナが作った檻から開放され、自由になったきぃの叫び声。

「サナ!!!」

「サナちゃんっ!!!!」

「サナさんっ!!」

 危険を察して駆け出すつばさの、珍しい叫び声。

 サナを守るために、サナの目前に急ぐルナの叫び声。

 いつも堂々としていたよくの、震えた叫び声。

「みんな、」

 その声が、何故かこの状況で、強く微笑むサナの『最期』の決意を押した。腕に、もうその力の入らない腕に、とにかく出せるだけの力を込めて、貫く。眼の前の天使の身体を、サナの攻撃が貫いた瞬間。サナの身体も、天使が放った閃光に貫かれた。

 ぶつかり合う攻撃の光が、周囲を包む。辛うじてサナの影が落ちる姿を目に、ルナはその光の中へと飛び込んだ。誰かがルナを止めたのだろうが、静かな爆風がその言葉を許さない。天使とサナの間で起こる強い爆発、光に溶けるサナとルナの姿。

 きぃ、つばさ、よくは、その真っ白になった目の前を呆然と見ているしかなかった。ただ、世界から、消えるのを見ているしかなかった。天使との戦いが、サナという存在が、消えるのを、呆然と。

「サナ……?」

 光が3人を包む。痛いほどに眩しかったその光が……気づけば柔らかく、優しい何かに変わっていた。ふと、つばさは手からすり抜けていく光を感じ、眩しさに閉じた目を静か開いた。サナの声がした気がしたのだ。まるで、サナがゆっくりと自分に絡めていた腕を解くような、奪われていく優しい温度。戦いの前の晩、静かに抱きしめてくれた時のあの感覚。

「サナ……嫌だ、行っては駄目……」

 その光は、切ない気持ちだけを残し、愛しい人の記憶を拭い去っていく。つばさの記憶の中から、サナの思い出を連れ去っていく。つばさの涙ごと連れ去っていこうとする。つばさは必死でその光を追いかけた。けれど、手を伸ばしても光を掴める訳はない。

 その記憶が、心の奥底に欠片ほどにしか残らなくなるまで溶かす。

「サナ……サナ……!」

 後に残るサナの面影を、ただ呆然と見つめていた。