-Label.2 Trac.3-

「ありがとうございました~」

 切り立った山の麓。港街から外れた高台にある、岩肌のほんの端っこ。そこにぽっかりと開く穴と張り巡らされた蔦の先。私は蔦のカーテンを閉め、薄暗い洞窟の中に建てつけられた部屋に並ぶ本棚を見渡した。今日のお客さんは3人、売れた本は5冊……ここは、歴史、伝承、おとぎ話、童話……古来から語り継がれた物語だけを取り扱う、どマイナーな本だけを取り扱う小さな古書堂『うぃん』。

 『私』は数年前から、ここでひっそりと暮らしている。

 主な理由は3つ。

 私には子供の頃の記憶が無い。記憶の最初は16歳。気がついたときには何もない森の中を彷徨っていて、辿り着いた先がこの街だった。記憶はないと言っても何も出来なかった訳ではなく、同じく記憶が穴抜け状態だった姉となんとか共存して、ここに生活拠点を構えたのが数年前。それ以外は何も変わらない、何の特技もないただの人間だった。

 ただ、私は『何か』が人とは違う。そんな感覚が抜けきらない。時々、何かをふと思い出しそうになる。でも、結局そこは空っぽでそれがわからないのが、腹立たしい。それをわかりたくないのが、もっと腹立たしい。ここに並ぶ本のような出来事を紐解いてみたい好奇心と、その先にあるものが何か分からない恐怖から踏み出せない、臆病な自分。その2つから目を伏せて、私は今日も人目を避けながらいつもと変わらない日々を過ごしていた。

「そこの住人、どいてください」

「へいへい」

 本棚にかけられた移動式のはしごに寄生する姉は、今日も本棚の上でガラクタを売っている。こっちの方が売上がいいのが本当に腹立たしい。姉は自称研究好きらしく、発明品がどうのオーパーツがどうの……を店の片隅で並べたり、押入れを自分のラボに改造して夜な夜な何かを弄り回しては誰かに売りつけたりして居るらしい。その他にバイトも幾つかこなしているらしいのだけれど、どうせ理解しないと思うぜ、なんて軽く笑い飛ばして、具体的に何をしているのかは私に教えてさえくれなかった。

「ったく、うるさくなっちゃって……」

「どういう意味ですか、姉さん! いいからどいてください!」

「ちぇ……」

 そんな意地悪な姉は私の苦悩も知らないで、のらりくらり。強気で生意気、勝ち気。少し大雑把でなんでも適当。その顔に似合わぬ可愛いふりふり服を来た姉は、それでも私には無い自信を持っている。それが羨ましくて、腹立たしくて、毎日こうして邪魔される事に私はもううんざりしていた。本棚の梯子を乗り物かなんかと勘違いしているのか、未だその上で座り込む姉を邪険に本の整理をしながら、私は内心歯を食いしばる。

 ……勿論、そんなのただの嫉妬だって事も分かっていた。姉の才能。人当たりの良さ。似合うかどうかなんて気にしないで服を選べるその自由さ。全て私が欲しくても手に入らないもの。彼女は全てそれを持っている。それをただ、羨ましがるしか出来ない私……。意地が悪いのは多分、こちらなのだろう。思わずはたきを強く握り込んだ。

「……失礼、こちらが『うぃん』でよろしいでしょうか」

「あっ、もう営業は終了しました、が……」

 そんな中、蔦のカーテンが開けられる。掃除の為に部屋のドアはまだ閉めていなかった。しまった、閉店したことがわかりにくかったか、謝ってから時間外だけど入って貰おうか、と振り返る。窓の無い洞窟の中に漏れる光。窓が無い事と、私達の名前にあやかって、ここはいつしか『うぃん』と呼ばれている。

 その光の先から現れその名を確かめたのは、黒いスーツのガードマンらしき男二人と、金髪に桃色のグラデーションをを入れたツインテールの女の子。若く見られる私が言う事でもないけど……ぱっと見ティーンの、妙に可愛らしい女の子だった。

「……貴方が『鈴乃つばさ』さん、間違いないですね?」

「……はい」

 私が頷くと、後ろにいた女の子が急に顔を輝かせて、期待と奇異の瞳で私を見つめた。誰だか知らないが、どっかで見覚えがある……ような気がする。しかし、その子が放つ視線が、私の心に痛い。きらきらと、まっすぐで、なんか苦手な視線だ。

 私がこの店を捨てたのは、この日の一週間後。腹違いの義妹、鈴乃翅と出会った日。店に魔物が訪れた日。姉さんと翅が私の目の前で魔法を使った日。私にも能力者の血が流れていると知った日。初めて見様見真似で魔法を使った日。時間遡行の魔法で過去へ旅立った日。私の時間から逃げ出した日。

 そして、私は何も出来ない役立たずで、二人に勝てない弱い人間だと思い知ってしまった日。

 私の始まりと、終わりの始まり。

***

「お邪魔します……」

 アイオライト……サナさんと二人で行ったリゾートから、私は一人こっそりとこの国、このビルの街に戻ってきた。翅もサナさんも居ない今、この街に留まる必要はなかったのだが最後に一度だけ寄りたい場所があったからだ。

 一人帰国でもマスコミに騒がれないで帰ってこれたのは、天使であるサナさんの「加護」があったから。……サナさんは最後に、私への呪いを解いて行ったらしい。プレナイトとしての注目も、これでリセットされた。

 静かな部屋の中、サナさんがいた形跡を噛み締めながら部屋を歩く。私はサナさんが借りていたあの部屋に戻ってきていた。ウィークリーリースだと言っていたからすぐに、簡単に、呆気なくこの部屋は解約できるだろう。ここで二人で過ごした日々が、ちくりちくりと胸を打つ。それは、寂しさだった。

「サナさん……ほとんどものを残してないんですね……」

 自分が立ち去るのを悟っていたのだろうか、私物はほとんど残してなかった。このまま、私がここを解約して立ち去ればそれで問題はない程に。

 ふと、リビングのテーブルの上に、いつも完璧に片付いている部屋には不釣合いな紙切れが佇んでいた。忘れ物だろうか? どちらにせよここに残してはおけない。何気なく手に取ると、それはサナさんからの手紙だった。それを認識するとまるで食いつくように手紙の封を切る。

 『私の愛する葡萄石へ

 私の運命に、貴女という宝石を巻き込んでごめんなさい。

 私は貴女を全力で守り、貴女が今ここにある未来にたどり着けるよう導く事を誓うわ。

 だから、貴女は、どうか、貴女の、たった一人の、私の大好きな、『つばさ』の人生を楽しんで。

 貴女を導く菫青石より』

「サナさんっ……!」

 その、まるでドラマのような気取った言葉の羅列を抱きしめて、私は微笑んだ。泣きながら、顔が緩んで、でも赤くなりながら。全く恥ずかしいことをしてくれる人だと悪態を吐きながら、体温も質量もない紙切れを、まるであの人に抱きつくみたいに強く抱きしめる。

 そうして私は、『鈴乃つばさ』は、静かに部屋を立ち去った。もうそこに『プレナイト』は居ない。もうこの街に私は居ない。必要ない。また、旅に出ることにした。もうあの人も私も探す必要のない、ただ、大切にする為だけの旅に。

 さようなら、夢の様な時間。それは悪夢でもあり、理想でもあった時間。

***

 そう深くもない森を抜けると、見えてきたのは港町。海の向こうに見える景色も、数十年経過した今、テロに遭ったことを忘れるぐらい美しい景色になっていた。潮風が少女の2つに結った髪を揺らす。それは不自然に巻いていて、バラバラと踊るようにしか揺れなかった。

 天使同士の戦いの後、サナが文字通りの決死の攻撃をし、親玉の天使と相打ちでその身を滅ぼした。その瞬間、ルナがそれを庇って共倒れ。二人は、天使の魂を葬ると共にこの世から去った。残されたのはつばさとよく、そしてあの場に居た『もう一人』。

 そうしてあの戦争が終焉した後、神様はサナが神に歯向かったことに対してついに怒り、サナとルナ、つまり『アメジスト』の処分を決めた。その際、一番大きな騒ぎを起こした人物としてサナは天界で見せしめを受け、重罪人として処刑されてしまった。

 しかし、あの戦争でサナが活躍したお陰で、平和を願う天使たちや、あの戦いでサナの姿を見ていた堕天使や能力者達が強く結託し、名誉派の悪事を暴き始めた。それはヘイヤの死も受け、天界、魔界を巻き込んで広がっていき、ついには長年の神様の企みと、サナの真実が広まった。サナが処刑されて形を保てなくなってしまった『アメジスト』の魂は同志によって保管され、今はそれをまたアメという天使に戻す試みが試されている途中だ。

 戦いの後、サナは死の間際につばさとよくの記憶を消し、普通の人間としてこの世界に返した。サナは恐らく、つばさの将来を案じたのだろう。それ以上のことはもう分からない。ただ、その結果、当事者で唯一この世界に残されたのはサナのクローン、『きぃ』だけだ。きぃはサナの処刑を見届けた後、サナの恐れていた肉体がサナへと近づく現象と逆成長が案の定進んでしまった。

 ウェーブの掛かった黒髪の少女と成り果てた彼女は、サナの居ない世界で『サナ二世』として旅をしている。

「サナの人生を悲しい話のままで終わらせない。その為に私は、サナを本当のおとぎ話に変える……!」

 旅の目的は、サナの伝説をなかった事にする事。サナの存在、爪痕を消し去り、サナが起こした罪をなかった事にする事だった。二世はその身体に刻まれたサナの記憶を遡り、今、あの港町に来ていた。

「……サナ、貴女の思い出の街……すっかり綺麗になったよ。あの時の景色とは少し違うかもしれないけど……」

 サナがテロを起こし、友だちを失い、ルナと再会した、あの時の街。サナの記憶の中でも、ここが区別な事を二世は理解していた。しているつもりだった。この旅の目的をサナが聞いたらきっと怒るだろう。これは『きぃ』の願いだ。

 しかし、それが本当に間違いだと知ったのはこの街に来てからだった。そう、それはあまりにも身勝手すぎた願いだったのだ。

 日が落ちた港町の隅、夕暮れの時間。その景色に触れ、二世はかつて知らなかった記憶を思い出す。恐らく、サナの身体がそうさせたのだろう。まるで記憶に飲み込まれたように、ありありと二世はその映像を目の当たりにする。それはオリジナルしか知り得なかった記憶。

「サナ……これって、この人って……!」

 サナが、心の奥底にしまい続けていた気持ちと出会った。またね、の約束。その時初めて自分から触れた手。自分を探すその姿。鈴乃つばさ。サナが、何よりも大事に、大切にしていた、たった一人の存在。

 日が沈みきった頃に、静かにその記憶は止む。二世は気づけばずっとその場、サナがつばさとした約束の場に立ち尽くしていた。

「……そうなのね、サナ……貴女が彼女たちの記憶を消したのにも、神に抗ったのにも、きちんと意味があったんだ……」

 サナが存在した証を、二世はこれ以上、消す事は出来ないと悟った。自分は大きな勘違いをしていたのだ。サナは自分の運命を、きぃには継がせたくないと言った意味。それは辛くて苦しいことばかりだったからではない。サナにとって、それも含めて全部大切だったから。つばさに繋がる大きな運命だったから。サナは、彼女自身として生きた時間が、悲しいだけのものではなかったのだ、と知ってしまった。酷い目に遭い続けたからこその、微々たる穏やかな日常の、ひとつひとつを大事にしていた事に気づいてしまった。

 そして、その大切過ぎる世界を守るために、サナは自分から痛みを望んだのだと気づいてしまっては、2世はもうそれ以上の旅を続けられなかった。それを踏みにじることは、出来ないのだと思ってしまったから。

「だとしたら、私ができる事は……」

 ならば手法を変えよう。その軌跡を形にする方法が一つだけある。二世は新たな旅へと足を早めた。

***

 静かな夜。本を閉じて空を見上げれば、その日のことは今でも鮮明に思い出せる。嵐の夜、樹の下、あの歌声が今でも聞こえるようだ。

 私はそんな遠く愛しい時間に想いを馳せながら、窓を閉めようと立ち上がった。あの都会の喧騒から離れ住み着いた街、新しい喧騒の中にひっそりと混じる日々は前より少しつまらない。そんな埋まらない心の隙間すら少し愛おしいけれど、ちょっとだけ寂しい夜だった。

 窓枠にかけた手を離し、私は外に出た。冷たい夜風から守るように手を当てて、随分細長い煙草に火を付ける。

物足りないぐらいに軽いけど、寝る前だしこれぐらいにしておこう。そうして吐き出した煙の先に、突如、見覚えのある姿がぼんやりと現れた。

「……っ」

 驚いて灰を手に落とし、唇から煙草がこぼれ落ちた。

 思わず言葉を零す。

「……サナ、さん?」

「こんばんは」

 静かに近寄ってきたのは、黒髪を2つに結った少女だった。それは、あの嵐の夜に出会った、愛しい私の天使。……に、よく似た女の子。あの日の彼女より更に幼く、その髪は無造作にウェーブしている。顔立ちもサナさんとは別の方向に美しい、人形のような少女だった。

「……じゃ、ないですね。」

「……流石ね、つばさ」

 女の子はふふ、と笑うと、あの人と同じような顔で、言葉を似せて、柔らかく、でも勝ち気に頬を緩ませた。その態度がサナさんにとてもよく似ていて、でも何処かわざとらしい。敢えて似せているのだと気づいたのはすぐだった。

「私は二世。サナであり、サナでは無い『サナ二世』」

 そう言うと、二世と名乗る女の子は、私が落とした煙草を拾い上げる。まだ火の灯っているそれを私に向けると、『まるで魔法のよう』にフッと火が消えた。

「こんなもので紛らわす必要のない、『お伽話』を持ってきたわ」

「お伽話……」

 その言葉にハッと来るものはひとつ。

「『伝説の悪魔』の話ですか…!?」

 伝説の悪魔。それはかつてのサナさんを指す言葉。そして今は、ただのフィクションとして語り継がれる物語だ。勿論、サナさんの真実を知っている私だけは、その事実を未だ覚えている。けれど、時間の経過よりもずっと速く、サナさんはこの世から忘れ去られた。それは魔法のように、という枕詞を付けるに等しいが、恐らく『ように』ではない。誰かの魔法で、この物語の『サナ』という名前は上から白く塗りつぶされてしまった。

 二世さんは私の言葉に、応えるようにゆっくりと頷いた。

「『サナ』は処刑された。貴女達と戦ったサナは、自分を犠牲にこの世界を守った。けれど、それを神は許さなかった。あの人の魂はもうこの世に存在しない。……貴女の心の中にしか」

「……サナさん……っ」

 彼女が、ゆっくりと私の心臓を小突く。そっか、サナさんは、サナさんと私は勝てたんだ。でも、もうこの世には居ない。神様の手からは逃れられなかった。語られる事実に嬉しさと悲しみが入り交じる。

「サナの影である私は、この世からサナの名前だけを消した。これで伝説の悪魔は本当のお伽話になる。その前に、貴女にだけサナの全てを見せる。『本当の真実』を話すわ。貴女がサナの生きた証になるように。サナの生きた証を貴女に託す。……重い話になるわ、覚悟はいいかしら」

 意地悪そうな笑みとその静かな語り口は、当にサナさんそのものだった。触れ合うとわかる、彼女がサナさんであり、サナさんではない事が。サナさんが私に残した想い、心、魂が、触れ合うような感覚がする。サナさんは私に、自分の魂を預けに来てくれたのだろう。……またねの約束の目印になるように。

「……はい」

 私は強く頷いた。私が世界中を歩いても知り得なかったサナさんを、知って、心に留めたい。その一心だった。

「お願いします、見せてください、サナさんが辿ってきて、私を守るために選んだ全て――!」

***

 初めに断っておこう。この物語には、彼女の名前を記さない。

 これは『彼女』の物語でありながら、天使なんていない、ただのお伽話なのだから。

 彼女は、小さな独立国を統べる国王の元に生まれた。

 国王は天使だった。彼は地の天使を統括する程に力のある、心優しき天使だった。国王は争いを望まず、天の国から自ら地に堕ちる事を選んだ。

 何故こんなにも実力のある天使が地上に居るかというと、国王は結婚をしていたからだ。王妃は悪魔だった。天使である国王は、巡り合った悪魔と結婚し、森の奥の小さな街を総ていた。

 そこに生まれたのが、黒い翼を持った天使の彼女と、白い翼をもった悪魔の弟。

 彼女たちの魔法が目覚めるのは早かった。彼女たちは、とても強力な力を持っていたからだった。彼女『たち』はその強い力を持っている事から、天の国で神様の為に働く兵器として無茶な実験を繰り返す『一つ』の駒だった。そう、彼女たちは嘗て、一人の天使だった。

 しかし、幾ら強さを持っているとはいえ、繰り返される無茶な実験。一人の天使は長く負荷には耐えられなかった。その力を抑えきれず、彼女たちは国を焼き払い、失敗した罪を負うこととなる。神様は無理矢理にそれを引き裂いて、罪と称して彼女たちを支配する事を企んだ。神様は、天使の名を汚した者を許さなかった。

 それを知っていた国王は、争いを生む神のやり方に反発をした。自分の国に禁忌の魔法をかけ、神様から浴びせられる不幸から彼女たちを守ろうと躍起になった。それは、街の全てを記憶操作して、意識を無理やり変えるという魔法。この国の全てを使い、彼女たちの罪に蓋をするという魔法だった。

 やがて、催眠術をかけ洗脳した、という噂から、国王が望まなかったはずの戦争で国王が殺されたのはすぐだった。

 まだ子供だった彼女と弟は行き場を無くし、弟は親戚に引き取られる事となる。しかし、人に気味悪がられる罪を与えられた彼女には、ひとつの行き場もなかった。

 いつしか辿り着き、行き倒れたのは故郷からずっと遠い国。そこで別の国の国王に拾われ、彼女は召使として働くこととなった。

 暴虐で非道と城下で噂される王の元で、彼女はよく出来る召使になった。王も、とても彼女によくしてくれ、国民も王が穏やかになった事に驚いた。城下の子供たちとも馴染んで、彼女の生活は平穏だった。

 しかしそれも長くは続かない。王専属の騎士が長旅から帰ってくると、彼女の生活は一変する。

 騎士は、彼女の父親である国王を倒した本人だった。騎士の恋人である彼女の国の国民が、洗脳されている事に今でも怒りを覚えていた。何故なら、その国の王もまた、その魔法に掛かった本人だからだった。親の敵と対立の末、彼女は城を追い出された。

と言うより、もう此処には居られなかった。引き止める王に心を痛めながら、彼女は長い旅に出る。

それはそれは、酷い道のりを、一人で過ごす旅だ。

天使としての成長の速さと力を持ってしても、まだ何も知らない子供には、酷過ぎる道のりだった。

 そんな中で出会ったのは、彼女の親戚を名乗る男。彼の正体は彼女の魔法の力を狙う科学者であった。監禁、虐待の末、彼女は同じく捕まっていた魔物の一匹と共に研究員の一人を殺して逃げ出す。これが、彼女が直接手を下して、人間を殺した初めての日。彼女はこれをきっかけに、その力を欲する人間たち、その力を恐れ彼女を遠ざけたい人間たちから追われる事となった。

 彼女は人間たちの目を避けながら、連れだした魔物の一人を少年の姿に変え共に逃げ続けた。しかし、どう逃げても行く先、行く先、関わる人に不幸が訪れる。続けざまに追い出され、追いやられた先にいたのは、同じく居場所の無い子供たちの集まりだった。

 彼女は子供たちと協力して自分たちだけの住処を手に入れた。立場も種族もばらばらな子供たちに共通している事はただひとつ、皆、魔法が使える『能力者』だった、それだけだった。まだ『能力者』が表向きではないこの時代、珍しいことではなかった。

 しかし、その中で誰も天使と悪魔の血を持った彼女の立場は理解できない。徐々に、彼女はまた孤立していった。……やがて子供達、その中でも彼女と同じく妹分を連れて故郷から逃げてきた、一人の青年と彼女は強く対立した。彼女が連れた魔物の子は人質に取られ、身体の弱った魔物の子が命を落とすまでその対立は続いた。

 大切な人をまた一人失い、彼女はようやく作り上げた居場所もまた失い。彼女はさまよい続けた。しかし、どの世界で藻掻いても、藻掻いても結果は同じ。慕った想い人に傷つけられた事もあれば、沢山の人にまるで忘れられたかのように無視された事もあった。

 裏切られ、責められ続けた彼女の心は擦り切れていた。ショックから記憶が抜け落ち、時に蘇る過去の記憶に怯え、絶望に駆られた彼女は、悪の手先に手を貸した。自ら人を傷つけて、罪を背負った。そうすることで、理不尽な罪に意味を作った。

 その一方で、彼女は旅先で出会った一人の少女と旅をしていた。彼女は、国王が作った偽りの国で出会った幼なじみの妹だった。国の魔法がかかった彼女と、付かず離れずの旅。それは、悪になりきれない彼女の、安息の目印だった。

 しかし、その唯一の友達にすら、彼女の呪いは降りかかる。その日は、彼女がテロを起こした日、海の中から島を爆発させ、命からがら海の中から戻ってきた日。彼女の犯したミスを、テロ仲間は許さなかった。彼女の強い力には反発できないと組んだ人間たちは、彼女ではなく彼女の友を狙った。

 また、人を殺したという噂が彼女を刺す。大事な友だちさえ守れない。彼女はまた逃げまわった。逃げまわって、逃げまわって、彼女は3つの存在に出会う。

 一人は、離れ離れになり、合わせる顔がなくなった自身の弟。

 一人は、自分を狙う敵が作った、自分を慕う自分のクローン。

 そして、もう一人が、なんの変哲もないただの女性。なんの変哲もない、『彼女の呪い』が効かない女性だった。

 彼女は、長い永い、そして酷い旅路の中で、その一瞬しか出会っていない女性に一生分の希望を見出した。自分がそばに居ても良い、初めての存在。自分の運命に抗う事を教えてくれた存在。

 誰かを傷つけることしか出来なかった彼女は、その力でついに神に抗うことを選び、その人間の為に戦った。そして、誰にも聞かせることのなかった声で、彼女は歌った。全てを取り戻すために彼女は歌っていた。また、その希望も彼女の隣で歌った。希望は、彼女と同じ呪いを持つ能力者だった。そして、女性にとっても、彼女は希望だった。お互いがお互いを探し合いながら、心からの旋律を響かせていた。

 二人の歌声は魔法になり、多くの人の中にある魔法の意識を変えていった。二人の戦いもまた、多くの能力者にとって、魔法の在り方を変えていった。

 天使と能力者、二人の希望は、奇跡になって響いた。大きな、大きな歌声になって響いた。

 そして、この物語は出来上がった。

 これが、私が愛した、私だけの天使の物語。

***

「出来た……!!」

「……見事ね、一度も躓かないでこんな短時間に……!」

 二世さんからサナさんの人生の全てを聞いた私は、その場で数年ぶりに筆を取った。『プレナイト』とあのビルの街を捨ててから、歌うことはおろか作家をも辞めた私は、今まで一度も文章を書いたことはなかった。

 そんなブランクも感じさせず、彼女が見守る中ほんの数時間で一冊の本になるまでに書き上がった。

 まるでずっとサナさんに寄り添っていたかのような感覚で、文字を打っている間そこにサナさんが見えているかのように、何を書けばいいのか、話の構成、順番の整理、そんな準備ひとつもしていないのに、全て手に取るように、あっけなく進んでいった。……違う、サナさんはずっと私に寄り添っていたんだ。

 自分を見失った私に、何も知らない私に、何もかもを知ってしまった私に。この魂、この身体、この力だって、サナさんが居なくなった今でも、ぜんぶ、サナさんのものだ。私はサナさんの一部だ、それを証明できるのは、私しかいない。

 私は、サナさんを知るたったひとりになる為に、必死で物語を紡いだ。

 その間、二世さんはただ、その姿を私の側で見ていた。見届けてくれた。サナさんのクローンでありながら、サナさんとは違う人生を歩んだ彼女は、その間、ぽつりぽつりと自分の目で見たサナさんの話を零した。

 プライドが高くて弱みを見せられないこと、意外と弟や幼馴染と上手くやっていたこと。夜中に音楽を聞くのが、追い出された中で唯一の楽しみだったこと。面倒見が良くて、私の子供時代も可愛がってくれた事。

「はは、サナさんらしいですね」

 その言葉のひとつひとつ、安易に想像出来るほど、サナさんらしいストーリーで溢れていた。私はその話に自然と頬を緩ませて答える。

 と、不意に彼女は少しだけ俯いて、付け加えるように呟いた。

 「……羨ましいよ」

 どこか『サナさんぶっていた』二世さんの口から素で飛び出た、静かな言葉だった。

「私はどうやってもサナの隣に並べなかった。アメジストの為の戦力になれなかった。私は造られた偽物でしかない。今こうしている事だって、サナがもしも見たり聞いたりしたら怒るのが解ってる。あの子には聞かれたくなかったのに、って言うんだろうなって……それはちょっとだけ悔しい……」

「二世さん……」

 悲しげに眉を寄せた二世さんは、正直サナさんに似てはいないと思っていたが、なんだかサナさんが泣きそうになっているようで心が傷んだ。

「でもね」

 しかし、そんな中でも二世さんは笑っていた。パッ、と表情を変え、未だ眉を寄せながらも、彼女は微笑んだ。

「サナが選んだのが、貴女で……つばさで良かった。会ってみて分かったの。貴女は、貴女を乗り越えて素敵な大人になったのね」

「そんな、私は……」

 それは、彼女の心からの言葉に、謙遜を言おうと思った。しかし、それは失礼に当たることに気がついて口を噤む。

彼女が聴きたい言葉はこれじゃないし、私はもうあの頃みたいに私を卑下しない。役立たずで疎ましがるだけの私では既になかった。サナさんに選ばれた勝者に与えられた権利は、これではない。

「……そうかもしれませんね」

 私は一言、二言、彼女に勝利の言葉を言ってやると、また原稿に戻った。

 この言葉、サナさんにも聞かせたかったなぁ。ねえ、サナさん。

 そうして、急速に出来上がった物語をかつての担当に見せるため、私の本を出してくれてた出版社に持ち込んだ。担当は皆、このお伽話を読んでは目を丸くする。私が『お伽話』を書くのは今までなかった事だった。活動をぱったりやめてしまった過去の作家の無茶ぶりに応えてくれた担当達のお陰で、そのお伽話はスピード発売された。

 タイトルは「うたごえ」。サナさんの名前を記さず、『伝説の悪魔』の話だと明言もせず、ただ、一人の天使の真実を綴った。

「発売おめでとう、私が細工なんかしなくても永く語り継がれる物語になると思うわ。本当にありがとう、つばさ」

「いいえ、こちらこそ。こんな場所まで来てくれて、そして全てを教えてくれてありがとうございました……」

 本が発売される瞬間を、書店の前で私と彼女は遠目に眺めた。その腕で光る端末が指す時間と日付は、彼女に出会って一ヶ月も経過してない。しかし、彼女は出会った日よりもずっと、小さく、幼い姿になっていた。そして、長く立っていられない程に弱っていっていた。

 逆成長が進みすぎているのだと彼女は言った。「もう、時間切れね」と、本当に惜しそうな声を漏らす。

「……もっと、見てたかった。でも、もう行かなくちゃ」

 彼女はそう微笑むと、どう声をかけていいか分からない私に微笑んだ。

「……どうか、残された時間を、健やかに」

「はい! に、二世さんも……お元気で!!」

 光に溶けていくように消えてゆく彼女の表情が、最後に柔らかく微笑んでいた。

 「うたごえ」の発売を見届けて、二世さんは私の元から去った。それは、全ての『サナさん』が、この世から消えてなくなるという意味。

 そう、もう私の天使は居ない。この世界には天使なんて、いない。

「……『またね』……」

***

「サナちゃん、久しぶり……お疲れ様」

 天界にこんな場所があるのか、あっていいのか、と思う程に、薄暗い牢の続く地下。とある一つのに、ルナは歩み寄って声をかけた。サナは後ろ手に枷を付けられたまま、簡易的すぎるベッドに腰掛けてこちらを睨む。

「やっぱり「この頃」の姿なんだね、なんだか懐かしく感じるよ……」

 押し黙ったままのサナの姿は、少女の頃の長い髪を二つに結った姿だった。ルナの身体も、同じ少年の身体に戻っている。地上に残してきたサナの抗いの為の魔法が解けたのだ。サナが全ての力を使い果たし、その存在を消された事によって大人の身体は失われた。

「一番、罪の重かった頃の姿をって……言われて……『伝説』通りの姿に戻されたの……」

 伝説。

 サナの『運命』の数々が、全て『伝説の悪魔』であるサナが起こした災厄として認識され、何年も何百年も語り継がれてしまった。その伝説は神にとっても、その正体がサナである以上気に食わないものらしい。実際、神の罰として与えられたサナの不幸は、サナが触れたもの、いた場所、サナ自身に降りかかるもので、確かに関係ない人から見れば、サナが運んできた災いにしか見えない。

 しかし、サナだって……いや、事の始まりである『アメジスト』だって本当は被害者なのだ。ルナはその言葉に唇を噛むが、牢屋の奥でぼんやりと座っているサナはもうその言葉に反論する気力もないらしい。

「あなただって同じ時期の姿じゃない。きぃ……いや、二世?でいいのかな……あの子は、最後の姿のままだった」

「来たの?」

「昨日の晩にね、昼間じゃまともに顔を見られないとかで。あまり近くに来てくれなかったけど……」

 サナは只、淡々と会話を続ける。その言葉に色はない。

「一番の被害者はあの子よ、何も悪くないのに私の姿で生まれただけの……」

「……自分の心配はしないんだね」

「は、これから殺されるのに何の心配をすればいいのよ!」

 自暴自棄になっているサナの姿は、今までずっと見続けてきたどんなサナの姿より痛々しい。どん、と唯一自由な脚で壁を蹴る姿にルナはそっと目を瞑った。

 神に抗ったサナの罪は、もはや地上送りで済むようなものではなくなってしまった。神はとうとう、サナを見せしめに殺す事で『アメジスト』を放棄するらしい。兵器としてはも扱うに値しないものと判断したのだろう。名誉派に逆らった天使の重罪人として、サナは処刑されることになってしまったのだ。

「……死ぬのは怖くない。何度も体感してきたことだから……」

 サナの決心は既についていた。サナはまっすぐにルナを捉えると、強い言葉でそう答えた。

「いいえ……頭が回らない、の方が正しいのかしら」

 が、すぐに言葉を濁らせる。

「心配だとしたら、この後、きぃがどうなるのか、ぐらい……もっと、あの子にはあの子の人生があったはずなのに……」

 あえて知らないふりをしてきたが、やはりきぃの願いを応えてあげられなかった事は、サナの中で大きな後悔だった。彼女がアメを救うために戦おうとしている事は知っていた。自分を尊敬してくれていることも知っていた。のに、戦わせてやらなかったのは自分だった。後悔させてやりたくなかった。こんなの、神の支配と何も変わらない。

「……それについては、僕が保証するよ。彼女に罪は絶対に被せない」

「……そう、なら、思い残すことはないわ」

 それだけ言うと、サナは壁に寄りかかって目を閉じる。死に際になった今、珍しくルナを表立って信頼したサナに、ルナ自身は困った顔で笑うしかなかった。反抗できないようサナの力が封じているからだろうか、普段はうっすらと感じる事のできる、双子として感情や感覚を感じることは、もうできない。

 その分、サナが何を考えているのかわからないのが、ずっとサナとつながってきたルナにとって、とても不安だった。

 しかし、サナが処刑されるとき、その痛みを感じないのだろうと考えると、いいのか……いや、悪いのだろうか? 混乱してきた。最期ぐらいその痛みに寄り添ってあげることが出来ない残酷さが余計に痛い。サナが感じる嫌なことから、最後まで自分は後ろを向き続けてしまった。そう後悔しても、もう、遅い。

 ただ、ひとつだけ確信が持てる事がある。

 神には逆らえないんだ。

 サナのされてきた事を、間接的ながらも体感してきたルナにはよく分かっていた。神がそう言えば、神より強い力があっても、神の言う通りになってしまう。神が頂点に居る限り、どんなに抗ったって自由は訪れない。どんなに正しいと思う事を言ってきても、結局自分たちの声は届かなかった。

 それだけを理解して、全てを失うのが、こんなにも虚しい。もしも、『アメジスト』が神よりも小さな力を持っていたら、どんな人生を送っていたのかな?

 その疑問を飲み込んで、ルナは何も言わずその場を去った。お別れの言葉は、言えなかった……。

***

 翌日、サナは公開処刑の形で処刑されることとなった。天界では、サナ以上の罪人がサナの前に居ない為、処刑のシステムが無い。これはサナを、神に楯突いた犯罪者を、見せしめにする為だけに用意された舞台だった。

 ルナは心の内で、どうしてこんなにも残酷な事を許されてしまうのかを考えざるを得ない程に、無念でいっぱいだった。しかし、昨日も強く感じたように逆らえない。それだけはもう自覚してしまった。サナのように抗える強さは結局持たずじまいになってしまう。今動けば、サナをまだ救えるかもしれないのに。サナと神の間にあった呪いは今ルナに強く絡まっていた。

 早朝だというのに、その場はたくさんの天使で埋まっていた。名誉派も平和派も、特になんとも思っていないその他大勢も。大体の天使たちは、神の側に使えていた『アメジスト』を噂程度にしか知らないため、神のモノの癖に神に背き、街を滅ぼし、人間にまで手を出した極悪人だ、という印象しか持っていない。それは名誉派も、そうじゃない天使たちの眼にも、今やサナは野蛮に写っていた。

「ルナ……」

「……きぃちゃん」

 会場の角に、髪を下ろした2世……きぃがいた。この騒ぎの中で、クローンである事を悟られぬよう、ウェーブのかかった髪はくくっておらず、深くケープとフードで顔を隠している。ルナも似たようなポンチョコートに帽子で正体を誤魔化していた。

「………」

「………」

 名を呼んだはいいけど、お互い話すことがない。

 やがて、酷く脚色されたサナの罪が大声で読み上げられた。人を滅ぼし神に逆らった罪だと。サナが存在することで、『名誉派』が出来たと、戦争に発展させた張本人だと。それを理由にした重罪なのだという神の判断した、と明言されると、広場の大半から大きなブーイングが飛んだ。

「むちゃくちゃだ……っ!」

 ルナは周囲にに聞こえないよう、そう呟き腹を立てる。歯を食いしばって抑えるしかないのが、余計に腹立たしかった。ここで暴れてやってもいい、と一瞬怒りに任せて思ってしまう。が、勝算は一つもない。悔しさに俯くことしか出来なかった。

 そのすぐ後、サナが連れてこられた。昨日と同じ様子で、無表情に黙ったままだ。彼女はもう、本当に、決心が付いているのだろうか。その足取りは機械的で、怯む様子も抵抗する様子も見せない。神直属の兵士に取り囲まれ、言われるがまま自ら静かに膝を折り頭を垂れ……文字通り首を差し出したサナの姿に、ルナは叫びだしそうになった。

 すぐに、サナの身を切り落とす剣が振り上げられれば、ルナは顔を背ける。きぃは、ただ、泣きそうな顔で、それでも見届けようとまっすぐ見ていた。

 その時だった。

『神は嘘を吐いている! この災厄の正体は神の呪いだ!!』

 その場がざわついた。

 広場にいる一人が声を上げ、また一人が声を上げる。ぱらぱらと腕が上がる。その顔の複数人にルナは見覚えがあった。あの戦争の日、サナと天使の戦いを見ていた堕天使や能力者。天使たちに戦いに引きずり出された罪人の天使たちの姿がそこにはあった。混じって、悪魔の姿もそこにある。ヘイヤの死が真実を暴いたのだろう、どんどんその腕の上がる数は増え、そこに加担する者も現れる。

「罪人と反逆者を捕えろ!!」

「させるか!!」

 神を指示する天使たちがそれを弾圧しようと兵を送り込む。それに立ち向かう能力者や悪魔たち。一瞬にして、静かだった広場は騒然とし、また戦いが始まろうとしていた。

「早く処刑しろ!!」

「さ、サナ!!」

 その騒ぎの中、それでもサナを廃棄しようと命令が下される。きぃがその言葉を聞いて悲鳴にも似た声を上げた。振り下ろされる剣。その瞬間、パリンと強く割れるような音が響いた。

「……! サナちゃん、ううっ!?」

 それは、暗示魔法の壊れる音だった。神が天使たちに掛けていた魔法を壊した音。同時にルナの身体から一気に力が抜け、その場に倒れ込む。息苦しさと痛みに耐えてサナの居る処刑台を見上げれば、サナの黒い羽根が大きく開かれていた。その意志の篭った強い瞳が全てを睨んでいる。その目は涙に濡れていたが、確実に強く、まだ神に抗うことを諦めていない眼だった。

 神の操り糸が切れた天使たちは、次々と攻撃の手を止める。それに呼応して、神へ反逆心を表していた者達も手を止めた。

 しかし、振り上げられた刃は止まらない。サナの身体を刃が貫き、強い意思を持った瞳は静かに伏せられる。大きく広げられていた黒い羽根は風に散って、魔法の解けた兵達が、自分がした処罰に怯えて剣を手放した。がらん、がらんと虚しい音が響く。

「サナちゃ、」

 最後にサナが放った魔法。魂だけとなったサナに残された力は全てを『神を道連れにする事』だけに注がれていた。それは神を超えた『アメジスト』の魔力ほぼそのものだ。勿論、その半分はルナが持つ力でもある。それすら使い切り、ルナの身体も崩れ落ちた。後に残るのは、隣で慌てるきぃの声。

 そして、サナが最期の最期に放った魔法により、味方誰一人、偽りのものであったと暴かれた神の慌てる姿、それだけだった。

 サナが消え、ルナが消え、神が消え、神が放った魔法も消え、そうして革命は起こった。数日もすれば天界には新たな風が吹く。『アメジスト』に施された実験の正体、その弟子であったヘイヤの正体、『伝説の悪魔』と呼ばれたサナの真実、沢山の事実が知れ渡る。

 と、同時に始まったのは二世による、サナの伝説の抹消。勿論、それは「うたごえ」を残し、サナの名だけを消す結末に終わる。

 しかし、二世の強い願い、つばさが残した物語、真実を知った天使たちの努力……そして名誉派達が人間を操って行おうとしてした『アメジスト』のクローンの実験。それらが重なり合い、新たな軌跡が生まれようとしていた。

 それは、神を越える、新たな女神の誕生。

***

「全く、無茶をするものだな」

「ごめん、アメ」

 きぃは、独り言にも似た呆れた言葉に、短く返した。

「本当ならひっぱたいて怒るとこだが、もう手遅れなんだろう」

「……いいよ、怒ってもいいわよ。わかってるもの、自分勝手だって……」

 天界の上、神しか入れない領域。前を行く彼女の、緩くウェーブした髪が柔らかく風に吹かれる。ケープの裾から伸びるのは、桃色の幾重にも重なる羽根。その羽根の形こそ神の証だ。

 隣にいるのは、金髪を揺るがせた黒いドレスの少女。

「アメ、本当にここでいいの?」

「うん、ここなら皆を見下ろせる。全ての願いを聞くことが出来る。……神様らしいじゃないか」

 アメはそういって、孤独な場所にふわりと舞い降りた。天界よりも、亜天界よりもずっと空の上。小さな、小さな神様だけの城。この先アメは……いや、神を越えた神様の『コエ』は、ここで孤独な唯一神としての暮らしを始めることとなる。今日はその準備の日。きぃは今日だけ、その領域に足を踏み入れる事を一般の天使として初めて許された。

 新しい神として選ばれたコエは、天界の世代が入れ替わるまで、天使たちと隔離される。彼女を知るものが居なくなるまで。きぃはその姿をどこか悲しく見つめている。折角『アメジスト』として復活出来たのに、これではあまりに寂しすぎる。

「そんな顔をしないで、きぃちゃん……別に一人ぼっちなんかじゃないさ」

 コエはそう微笑むと、きぃの頬を優しく撫でた。

「ここまで付いてきてくれてありがとう、お礼をしなくちゃな」

 そう言うと、一段、何枚もの羽根が綺麗に広がった。綺麗な、綺麗な、神様で初めての色付きの翼だった。

***

 この惑星の上、雲の上のもっと上。誰もたどり着けないような世界の片隅に、神様は居ます。

 緩くウェーブした黒髪と、ケープの下から覗く幾重もの桃色の翼を持ち、何時でも皆の願いを聞いています。

 そんな神様の願いはただひとつ、「誰も泣かせない」事です。

 あの革命から何千年の時が過ぎただろう。長らく神様不在であった天界に、ようやくアメが戻る日が来た。神の力で耳に届く歓声の元、まるでステージに上がるのを待つ歌手のようにアメは深呼吸をした。その心に宿るのは、いつしか愛する人の為歌ったサナの心。記憶の中で生きる永遠の希望。

 一歩、この先に進めば、アメは『アメ』ではなくなる。その名は神越えの意味を持つ『コエ』。それも利便性上の呼び名で、神様は『神様』でしかなくなる。皆の願いを静かに聞き、誰も泣かせず、世界を静かに回す神様になる。

 いつしか、きぃが言った言葉をふと思い出した。

「寂しくないの、か……寂しくはないだろうな」

 爪先を一歩、神の領域へ踏み出す。ここから先はもう戻れない神の道。

「だって、私の耳にはこんなにも『願い』が聞こえてくるんだ」

 神の座に静かに足を下ろせば、その願いはより強く、より多く響く。過去からも、未来からも聞こえてくる。その声がある限り、恐らく寂しくはならないだろう。コエは遠く、世界を見下ろしながらその願いに耳を澄ませ、神としての産声を世界に響かせる。

「さあ、新しい歴史を始めよう」

  その日、数千年ぶりに新たな女神が誕生がした。以前の神の悪事が暴かれたあの日、魔族たちはこの日を『革命』と呼ぶ。

 神は世界を統べるその日、新しい世の決まり事を幾つか取り決めた。

 魔法が使える人間の名を、能力者から『マジカリスト』に呼称を変え、それを種族名ではなく職業名とすること。

 天使が担っていた魂を『シネン』と呼び改め、それらを狩る種族に制限を設けないこと。

 世の均衡を保つ為に、これ以上の『魔族のクローンの製造』を禁止とする事。

 そうして彼女は、最後に声高らかにこう言った。

『例え石ころ一つであろうと、どんな種族であろうと、全てに希望を持つ権利は有り、どんな形でも祝福されるべきもの。私は誰一人罰することは無い。……必要罪を裁くのは己であれ』