-Labe3 Trac.2-

 プルームの襲撃から長く経過した頃。ふと考えると、もう遠い思い出な気もするし、最近の事にも思えるぐらいには時が経った。何度目かの結婚記念日も近いのか、それとももう過ぎたのか。それほどにHANEと私の関係は、あの事件を機に曖昧になっていった。元々親族同士の、それも女同士結婚など形だけでしかなかったのだからと、諦めも見え始めた頃。一時期は持て囃された作家業も、今では全く筆が進まなくなり、落ちぶれたとネットで笑われ始めた頃。

 HANEが、突然私の元から消えた。

 荷物を持ちだした跡があり、彼女の部屋はほぼもぬけの殻。どこに行ったのか見当もつかず思い立つままにTVを付ける。立体視対応のそれからぼんやりと浮かび上がる映像。

『HANE 事務所変え、スポンサー解禁!』というテロップと共に、髪を纏めた姿の彼女が会見会場に鎮座している姿が映し出された。

「……HANE……」

 あの永い旅を終えた時、もう結ばない、と言っていた髪を、再度結んでいる姿を見て、私は言葉を失った。彼女が髪を結ぶこと。それは彼女が、親の束縛から逃れた時の「決意」の姿だった。次は、私の手から離れていく決意だったのかもしれない。思わず立体視の画面を指でなぞる。勿論、触れる訳はない。虚しく映像がすり抜けていって、手のひらの向こうにどこか覚悟を決めた、すっきりしたHANEの顔があるだけだった。

 私は彼女のマネジメントの中で、彼女にスポンサーを付けた仕事はさせない方針を取っていた。別にお金目的で彼女をアイドルにしていた訳ではないし、能力者という面でも恋人という面でも、スキャンダルに囚われてしまえば、他人に迷惑がかかる。それを避けるため彼女と自分を守るために。……そんな配慮をしていた彼女に裏切られた私は、正直にいうと『少しだけ』ショックだった。

 だけど、彼女は歌が歌えた。私が家出した時、ショックから一度声を失ったのだという彼女から、今回は声が奪われていない。私も別にショックで、原稿が書けなくなるということはなく、良くも悪くもいつも通り。締め切りギリギリに原稿を提出してそれで一息。あの日、私が家出した日ほどのショックはお互いにもうなかった。

 お互いに何故かこうなるって分かっていた気がした。

(ごはん、どうしよ……)

 ここ最近では人を刺し殺す夢を何度も見るようになって、刃物が怖い私は料理ができない。武器を『造る』ときも、刃物類だけは手に取れる自信がなくてやった事がなかった。

(……今更、どうでもいいか……私は、ひとりになったんだ……)

 字は書けるのに、思考がふわふわと定まらない。頭の遠く、漠然にぼんやりとそう思いながら、ふらり、と外に出た。いつもと変わらぬ、眠らない夜の街。ビル明かりは液晶を見続けた私の目に眩しい。

「………?」

 誰かに呼ばれた気がして、私は静かに振り返る。しかし、そこには誰もいなかった。私の本名を知っている人は限られている。今ここに、私の名前を知っている人がいるわけはない。だって、逃げられたんだから。そして、逃げたのだから。

 空耳だろうか、帰ってきた頃には熱が出ている事に気がついた。多分熱に浮かされているだけなのだろう……。結局食べ物はほとんど口にできないまま、私はソファに寝転がった。

 長く揃えたコレクションの中でも、気に入っていたちょっと高いワインを開けてしまって、ちょっと後悔したけど、きっとこれがないと気が紛れなかったと思う。何も分からなくなるまでボトルを開けた。

 私はいつの間にか、眠っていた。

***

 サナさん……。私、何年も、何年も、いろんな街で、たくさんの時間の中で、貴女を探したんですよ。貴女を目標にして生きてきて、でも……貴女に会えなかった。見つけられなかったんです……またねの約束、破っちゃったんです……。

 サナさんが振り返る。2つに結んだ、長かった髪は半分ぐらいになっていて、ポニーテールにまとめている。おとなになったサナさん。それでも人より長い髪をなびかせて、振り返る姿はあまりにも綺麗だった。にこりと笑った彼女の表情は、あの頃とは違う。何か吹っ切れたような、明るい表情だった。

「つばさ」

どこかで聞いたような声で、私を呼ぶ。懐かしい声だ。

「よく聞いて」

「あの時の貴女に言えなくて、今の貴女に言えることがあるの」

「私のいる時間では、貴女はまだ子供。貴女が忘れた少女の時間。私は貴女の記憶を消してしまったせいで貴女が苦しむ羽目になってしまった。私は、それを謝りたかった。でもね、今でも貴女だけよ」

 サナさんが禍々しい、不気味な色の羽根を空に広げた。それは伝説、言い伝え、あの『悪魔の話』で聞くよりも、もっと妖艶で不気味な色の天使の羽根だった。

『ヒトなのに、私を怖がらないのは……』

 そう言って、サナさんは再度、私に背を向けた。私は手を伸ばして、叫ぶ。

「待って!」

「待ってください、サナさん! 私はまだ、貴女に聞いてない事があります!」

サナさんはもう一度振り返った。ゆっくりと。

「貴女はどうしてあんな事を、人間に、手を出したんですか? 貴女は何と戦ったんですか? どうして戦えたんですか?」

 ずぅっと聞きたかったことだ。サナさんがあのテロの犯人だと聞いてから、私は伝説の悪魔の話、つまり、人間の間で噂されたサナさんの事を調べ続けた。しかし、それでわかったのは、ただただサナさんが人間に手を出していた、危害と被害の話のことだけだ。

 何故、サナさんはあんな事をしたのだろうか。疑っている訳じゃないけれど、私はそれを人間の嘘や噂だけだとは思えなかった。サナさんは何と戦ったのだろうか。沢山の人を犠牲にしてまで、どうして戦えたのだろうか。

 サナさんは悲しげに目を伏せて、ただ静かに首を振るだけだった。

「……サナさんは、悪く無いって信じてます」

 強く、私はそう言った。でも、出たのは泣きそうな声だった。

 サナさんは、仕方なそうに笑い、私の足元を指さした。足元にあるのは、黒い穴。闇の底だった。

「サナさん!」

 私の身体は、地面に吸い込まれていった。

 一瞬本当に身体が落っこちたような感覚になり、ビクッ、と身体が震えて私は起き上がった。ソファから降りようとして驚いたのは、お気に入りのワインを零して床一面赤い海だった事だ。一瞬その夢見の悪さから不気味さを感じて驚くが、すぐに掃除の手間を考えて別の嫌な気持ちが湧く。

「……サナさん……」

 私はそのまま、夢の余韻と共に自分の膝を抱える。視線を落とせば、いつの間にか履いていたタイツが電線しているのに気づく。たったそれだけなんだけど、なんだかとんでもなく情けなくなってじわり、視界が滲んだ。

「サナ、さん……」

 逢いたい。忘れる努力、忘れたふりをしてきたけど忘れたことなんて一時もなかった。あの子の歌にすら、サナさんを見出そうとしてたからこその私はマネージャーだった。でも、彼女を直視していなかったから……私はマネージャー失格。こんな情けない私に、もう一度……サナさんは遭ってくれますか?

***

「なぁ、いいのか、本当に……これから敵に回すことになるんだぞ……」

「……何が?」

 よくは目の前で、たった今綺麗な金髪に染めなおした髪を乾かす翅の背に、静かに呟いた。返事を返す翅の声は、可愛らしいアイドルとはかけ離れた、低い、冷たい声。

「……あいつのとこから、黙って抜け出して来て」

 昨日、『つばさの元から逃げたい』という連絡を翅から受けたよくは、娘がジュニアアイドルだった頃のコネを利用し、翅のマネージャーとスポンサーを付けて無理やり再デビューさせた。

 プレナイトとスタジオで再会したあの日よりも先によくは翅に出会っていた。プレナイトは隠していたつもりだが、翅はよくがつばさを追ってか追わずか、この国に来たことも連絡先も住所も知っていた。よくの娘がジュニアアイドルとして3年前まで活動していた事も、その子の父、よくの夫がよくを捨てた事も、その父親を探す為、その娘が物心ついた頃よくの元から離れたいと言って家出した事も……翅は全て知っていた。

 よくの娘は、最初から最後まで『鈴乃つばさ』に良く似ていた。よくはそんな娘をつばさに重ねてしまったのかもしれなかった事も、翅はなんとなく分かっていた。きっと、つばさに似た彼女につばさを見てしまったよくもまた、プルームの言う『愛される自信』を見失ったせいで、独りに戻ってしまった事を知っていた。

「……いいの。もうあの人は敵。要らない」

 翅は、短くよくの問いに答える。

「……それを証明して見せるために、私は勝ち上がる。今までの私を越えて後悔させてやるの。これが私の戦い方。歌であの人を潰して見せる。……私を置いて行った事を後悔すればいい」

 プレナイトとお揃いにしていた髪を、あの頃と同じ金髪に桃色のグラデーションに戻し、髪型はひとまとめに結ぶ。プレナイトのマネジメントで歌っていたバラードは全て捨て、それも正統派のアイドルソングに戻した。名前もあの時と同じ、『翅』に戻す。完全にプレナイトから与えられた全てを、翅は放棄した。

「……姉さんと同じだよ。 お姉ちゃんは私を見てくれなかったの」

 その言葉に、付き添っていたよくが静かに眉を潜めた。不機嫌そうに目線を逸らす。

「同じ? ……何が」

「なんでも。とにかく、もうお姉ちゃんは、お姉ちゃんじゃないの!」

 あれだけ長年追い続けてきた彼女の背中を離れる翅に、迷いは見えない。よくには、その理由がいまいちよくわからなかった。忘れるのならなかったことにすればいい。わざわざ敵に回す必要はないはずなのにそこまで何故意地になるのだろう。何故諦めきれないのだろう。執着の形が変わってしまった翅を、どこか遠い気持ちで眺める。

「……ずるいな、お前……」

 つばさの事を先に見限ったつもりでいたよくの立場は静かに揺らいでいた。2人の芸能活動に特別興味はなかったが、いつしか偶然ラジオで聞いた2人の歌を聞く限り、二人は幸せそうに見えていた。それも全部、もう嘘になってしまうのか。

「じゃ、ステージ行ってくるね!」

「おう、行ってらっしゃい」

 メイクを終えた翅は、ころりとアイドルの顔になった。可愛らしいミニスカートを翻し、すぐにステージに飛び出す。プレナイトが作り上げた『HANE』とは違ったハイテンポな曲を、文字通り今まで隠してきた能力で『飛び上がり』ながら次々歌い上げ、自慢の美貌で客の声援を浴びる。まるで今まで封じられていた何かをぶつけるようにアイドルらしい声で。

「……いいのかねぇ……」

 その姿を前に、よくは頭を抱えて呟いた。『変わりたくなかった』。よくは昔から、変わらないように願い続けてきた。つばさも、つばさとの関係も、勿論、翅とも。結羽とも。変わりたくなかった周りの景色が、よくの周りだけ急激に変わっていく。

「お願いだから、もう置いて行かないでくれよ……」

 未だ『HANE』の片鱗も見せず、復讐の為だけに愛想を振りまく義妹の姿を恐ろしく見つめることしか出来ない。その姿に思わず寂しさか、恐怖か……背筋にのしかかる重さによくは溜息を吐いて呟いた。

 妹二人が戦う姿を外から眺めていることしかこの先出来ないのだろうか。よくはそう考えてぞっとしてしまった。これ以上、つばさが別の何かになって自分から離れていってしまうのが嫌だったからこそ、あの日、つばさが初めてよくに反抗したあの日、自分からつばさの手を離して帰りを待っていたのに。あんまりだ。これ以上つばさが誰かになるのも、誰かのものになるのももう見たくない。

「戻りたい……」

 あの日に戻りたい。つばさとふたり、静かに暮らしていたあの日…………あれ?

「……あの日って……『いつ』だ?」

 つばさと同じく、よくにも子供の頃の明確な記憶はない。ただ、楽しかった事、つばさを必死で守ろうとしていた事だけがよくの記憶の底にある。守ろうとしていた事が、つばさを傷つけて『いなかった』あの日。

「つばさは能力者だったせいで村を追われた。親の離婚で離れ離れになった……ここまでは覚えてる……」

 声に出して記憶を辿る。その声は虚しく控室に染み渡った。遠くから聞こえる翅の歌声が、なんだか叫ぶような、少し悲痛な風味を醸し出している。どんどん、翅の声も、客の声もヒートアップしていく中、この楽屋だけがしんと冷たい海の底のようだった。

「……オレは、あの子と……どうやって再会した? 誰が引き合わせた?」

 疑問。それは、よくとつばさの溝にすっぽりと嵌まる。離れ離れになったはずの二人を、誰が見つけて、どうやって会ったのか。互いじゃないとするなら誰なのか。その再会を仕組んだのは誰だったのか。

「……誰が、オレ達を狂わせた……?」

 誰が、よくとつばさ、二人の間を捻れさせてしまったのか。

***

 翅の再デビューからしばらくしたある日。突然の事だった。結局、翅に頼み込まれては断れず、家族が居ないので時間もある。何より断る理由も特に見つからなかったよくは、忙しく翅の仕事に手を焼く日々を送っていた。雑用を兼ねて付き添った翅の次のオーディションの結果待ちの間、数カ月ぶりにTVの電源を入れる。

 忙しさのあまり、TVをまともに眺めるのは久々だった。芸能に関わっているにしては気楽なものだがそれよりも新たな部隊へと駆け上がるのに必死になっていた事を実感する。

 型が古いTVは画面が馴染むまでに時間が掛かった。カメラのシャッター音の雨のような音だけがしばらく聞こえ、少し遅れて画面に映し出されたのは久しくも見覚えのある顔。ちょうど楽屋に戻ってきた翅の手から、スタッフに貰ったらしい、差し入れの飲み物が滑り落ちる。

 からん、と虚しいプラカップの音と、ばしゃん、と零れた飲み物の音が、そのシャッターの雨の合間に響いた。

 それをまるで合図にしたかのように、画面はインタビュー会見の映像からライブのハイライトに切り替わる。細身のマーメイドドレスのような、長く丸みを帯びた裾が特徴のスリットの入った舞台衣装に、宝石の散らばったようなデザインを施した髪留め、靴はヒールであるにも関わらず、スマートにステージを舞って見せる。圧倒的な歌声を披露している歌手が画面の中に居た。決して見た目が良い訳では無い、ただ、真剣な瞳、歌、その迫力が客を魅了しているその女性は。

「……つばさ……!?」

「お姉ちゃん……!?」

 HANEとお揃いだったはずの茶髪を、翅と同じく、元の黒髪に戻したプレナイトの姿だった。TVのテロップには、ここ最近、圧倒的人気を誇る歌姫! と肩書きが表示される。

 その気迫、元々下手ではなかった歌。一段と強く観衆を捉えて離さない雰囲気。それは、翅を『取り返し』に来たようには見えなかった。彼女は恐らく、翅を潰しに来ている。画面越しにちらりと合ったその瞳に映る強い意志。復讐のような、殺気を感じた。

「嘘だろ……」

 本当にあの子なのだろうか。勿論顔を見れば一目瞭然なのだが、あまりにも芸能とは程遠い、よくの知るつばさはそこには居ない。まただ。またこの嫌な気持ちが胸を締め付ける。また変わった。誰かに変えられてしまった。ぶつけどころの無い苛立ちを覚えてTVから視線を外す。

「…………分かった、それがお姉ちゃんの答えなんだね……」

 その視線の先では、同じく闘志に燃えた目で未だテレビを見つめている翅の姿があった。

 それからすぐ後のこと。何気なく耳を澄ませば、TV局内はプレナイトの噂でどこもいっぱいだった。ただ淡々と仕事をこなす彼女の姿は、そのアイドルらしくない部分を含めて好印象なようだ。背も小さくスタイルは良くないものの、それが逆に好感度を高めているらしい。どこか切迫した雰囲気と、元作家ともあり博識である事。普段着ですら決して飾らないスマートな女性というイメージが、ブレイクの要因になっているみたいだった。

 よくの知る、努力を怠り、諦め、憧れるだけで終わってしまう彼女はもう、どこにもいない。

 そのうちに、駆け上がってきた彼女が翅と同じ番組に出ることもあったが翅とプレナイトはお互いに牽制し合って積極的な接点は生まれなかった。とはいえ過去には並んで歌を歌った仲だ。番組の中でそれを指摘される事も1度、2度はあった。が、プレナイトはそれでも他人行儀。彼女は当たり障りの無い言葉で翅をのけ、心の底から言葉を交わすことはない。

 翅とよくの二人はそんなプレナイトに本心を聞く勇気はなく、そうでなくともこちらから声をかける隙が無いほどに今や引っ張りだこの存在だった。それだけプレナイトは真剣なのだろう。

 しばらくそんな牽制が続いたある日。チャンスがやって来た。ライブオーディションで、翅とプレナイトの楽屋が相室となったのだ。翅とよくは先回りして楽屋に入る計画を立てる。やがて待ちに待ったその日。涼しい顔で楽屋に入ってくるつばさを、よくは睨みつけた。それを見た翅も物怖じせず、プレナイトに立ちはだかる。

「……良く来たな……つばさ、いや……『プレナイト』。話を聞かせて貰おうか?」

 よくは静かに立ち上がり、できるだけ静かにそう叫んだ。しかしプレナイトは動じず、静かに口を開く。

「……言っときますけど、別に貴女達と戦いに来た訳じゃないですよ、仕事です。話すことなんてありません」

 ぼそり、とそっけない回答だった。敬語なのはもともとだったが、言葉を選んでいるような発言によくはカチンと来る。

 プレナイトはあくまでも、翅を潰す意図は無いと言い張った。そのまま、ほとんど無視のようにステージへ入る準備を始めた彼女に、よくはついに絶えきれず噛み付く。

「分かった、じゃあ、今日お前が翅に負けたら、あんたにはこっちの指示に従ってもらう! 翅の前から消えろ!!」

「……それって、営業妨害じゃないですか?」

 無理難題を押し付けてもまだ、涼しい顔をしたままのプレナイト。その態度にまたカチンと来た。こちらがどんなに対話を求めても他人行儀でしか返してくれないその態度に腹が立つ。しかし、こちらが熱くなりすぎてはいけない。よくはなんとか自制した。そんな状況を見てもプレナイトは未だ涼しい顔。翅も睨んではいるが、それにも動じるどころか、一瞥もしなかった。

「別に仕事するな、とは言わない。私と翅に従う。それだけだ。」

「……分かりました。いいですよ、私に勝てれば、ですけどね」

 そう言うと、プレナイトは早々と舞台衣装に着替え、楽屋を出て行った。

 

「くっそ! なんだあいつ!!」

そのまま、静かに楽屋のドアが閉まる。よくは全く手応えのない会話に悔しさを滲ませて床を踏みつけた。

「姉さん……私……お姉ちゃんに勝ってみせるから……」

「……そうだな、そうでもしなきゃ話が通じなさそうだ……協力するよ」

 地団駄を踏むよくに、やはり怒った様子の翅は意気込んでそう宣言した。プレナイトに勝たない限り、話し合いの場なんて持てそうにない。さっきのやりとりで2人はそう確信する。

 それにしても、あんなに自信のなかった彼女を、突き動かしているものは一体何なのだろうか。その『正体』がわからないのは少し不気味だが、頭を冷やさせて話をするためにも二人はプレナイトへ勝つしかなさそうだ。

***

「はぁ……っ、はあ、はああぁ……っ」

 トイレの洗面台の前で、脂汗を拭いながらプレナイトは息をついた。恐い。怖い。勝手に涙が出てくる。手足が震える。もうやめて、と叫びたかった。よくと翅にはああ言ってやったものの、本当は心を殺すのが精一杯だ。家から逃げ出す程のコンプレックスに向き合う事は、彼女にとって耐えられない恐怖でしかない。ただ、隙を与えてはまた元通り、二人に押し負かされて終わってしまいそうだった。

 あの2人を自分の力で越えなければ私はあの時のままだ。それは嫌だ。その気持ちだけがプレナイトを動かしている。同じ舞台で対等に翅と戦って勝つ為には、翅を踏み台にする他無い。

「ここじゃ、負けられない……!」

 ようやく軌道に乗り始めた冷静なキャラクター像を保つためにも、早く息を整わせなければいけない。気合に頬を叩く。そんな誰にも見せられない姿を、ある一人の人影が覗いていたのに、プレナイトは気づかなかった。

***

 そんな一悶着あった後のステージ本番前。いつもより緊張して、入念に衣装をチェックをする翅の携帯が鳴った。

「はい」

『よぉ』

 ナンバーを見て安心する。電話の先は、数年前に翅を殺そうとした男、翅の義弟、プルーム本人だった。あの事件の後、プルームは翅のファンの1人として、チケットをわざわざ買ってまで最前列に応援に来るようになっていた。翅が渡した連絡先にもこまめに連絡を取り、今回の騒動でも相談役になってくれたし、プレナイトの元から荷物をまとめて逃げ出すのを手伝ってくれたのは他でもない彼の協力だった。

「……お姉ちゃんが来たよ」

「つばさ……プレナイトは、最近特に伸びてるからな……気を抜くな」

「うん、ありがとう……。私、お姉ちゃんに勝って、話をしてみようと思う」

 珍しく強気でいる翅に、プルームは何かを言いかけて、口を噤んだ。今回のステージには強者が多い。他にも気をつけて欲しいライバルがいたが、こんなに意気込んでいる彼女の気持ちを沈めるわけにはいかないと思い留まった。

「あぁ、頑張れ。灸を据えてやろう、あの最低な奴に」

 プルームは一呼吸置いて、話を続ける。

「……もしも……つばさと話せたら、お前はよりを戻すのか?」

「…ううん。正式に縁を切ってもらう。と、おもう……私、もうお姉ちゃんを愛せない。というより、私の好きな『お姉ちゃん』はあの人じゃない……」

「……そうか……うん、頑張ってこい、じゃあな」

 翅は自分の告げた言葉を噛み締めながら、ゆっくりと電話を切った。そう、翅の憧れた『お姉ちゃん』は、決して『プレナイト』ではない。あの日、父の部屋にあった写真を見た、静かな瞳の少女『鈴乃つばさ』。それ一人なのである。

「……ずっと分かってたけど、見ないふりをしたのは私、なんだろうな……」

 そして、それはもう叶わない憧れなのだ。

****

 ついにライブオーディションが始まった。翅の付き人の立場として舞台袖に入ったよくは、翅と並んでパフォーマンスをするアイドル達を強く注視していた。実際、翅より先にステージに立ったつばさの歌は、身近に見ても見事なものだった。

 元々彼女は歌が上手い。歌が好きで歌を口ずさむことが多かった。でも、彼女自身は決してアイドル向きの風貌ではない。細身でありながら決して高くない背。スタイルも良い方ではない。そして、アイドルには珍しくにこりともしない真剣な表情。

 しかし、それらを全てカバーする歌声、迫力、ステージパフォーマンス。見れば見る程、敵に回すと手強い敵だった。

 よくは握りこぶしを震わせながら、次にステージに立つ翅を見据えた。翅は確実によくを見てから、強く頷く。

「私だって伊達にこの世界で仕事してない、声が出なくなった時だって……私は諦めなかった!」

 正統派のアイドルを路線して再デビューした翅に残るのは、もうキャリアとプライドだけだ。それでも負けられない。彼女の必死な歌も高く評価される。

「大丈夫だ、勝とう」

 よくは唇の動きだけで、ステージに駈け出していく翅にそう伝えた。ステージへ駆けていく翅の背を見送った直後、合わせて可愛らしいメロディーに、翅の可愛らしいコーラスと前奏に合わせたセリフ。観客からコールと声援が飛び出て、空気を震わせた。

 今日のために、よくは知り合いのツテを利用して昔からのファンにも届くように宣伝してきたつもりだ。完全につばさがアウェーなのは計画通り。ライブの順番も、正統派がちょっと続かなかった後の出番。アイドルらしくない曲に飽きた客のテンションが上がる。

 そしてもう一つ。よくの秘策。さっきまでどんよりとした空が、まるで翅に反応したように晴れ渡る。きらきらと光を反射した翅の姿は、差し込む光の中でまさに降臨したよう。……よくの能力で天候をステージ上空の天候を変える。

 翅が曲の振り付けで可愛らしく踊り、観客の中にはそれを完全に覚え踊る人も確認できた。

 舞台袖の向こう側。既に出番を終えたプレナイトが、震えているのがここからでも見え、よくはにやりと勝ち誇った笑みを見せた。

***

 はめられた。隠したほうが良いと思っていた『能力者である事』を全面に出しても尚、何十年も前のファンが付いて来るなんて思ってもみなかった。それだけ翅は、凄いアイドルだった。私が個人的な気持ちで、彼女が持つ才能を縛っていた事を見せつけられているようで気持ち悪くなる。結局、私は翅を支配していたかっただけなのかもしれない。現実を叩きつけられる。

 くらり、と足元が回るように揺れ動いて、私は立っていられなかった。力なく座り込む。向こうの舞台袖で姉さんが勝ち誇った顔を私に向けた。どうしよう、負ける。翅が歌い終わってしまう。嫌だ、いやだ。もう、私はあのふたりに、あの家に、縛られたくない。私が探し続けた自由は結局なかった。私は、あのふたりに届くものはなんにもない。大切な人ひとり、見つけられない。あの二人には勝てない。

 頭の中を絶望が巡る中、ついに翅の曲は終わり、空を飛んでいた翅が静かにステージに舞い戻った。着地から優雅に頭を下げる姿に、一拍遅れてファン達の歓声がステージを揺らす。すぐに投票は始まって私が得た票の数を……彼女の表は上回って、私は負けが確定した。

「っ……嘘……」

ついに、私は、いいなり……?

「うっ……うあぁ……やだ、やだよお……っ!」

 『プレナイトのキャラ』なんてもう忘れて、私はその場に泣き崩れた。その瞬間、私の魔法は解けて私は惨めな『鈴乃つばさ』に戻った瞬間だった。一度、たった一度。どんなに努力しても届かない。やっぱりダメなんだ。また脳裏に、あの日、サナさんと会った時の景色が蘇る。姉さん達にあんな事言ったから。歯向かったからダメだったのかな。後悔に握りしめた拳に涙が落ちる。

 その時だった。さっきよりも大きな歓声にステージが揺れ、全ての空気が変わった。その圧倒的な雰囲気に驚いて涙も止まる。何事だろう、と思ったがなんてことはない。翅の次に他のアイドルが出てきた。それだけだった。

 出番を終えて私の前に歩いてきた翅が、私に構わず、その歓声に振り返った。ステージの裏を通って翅の元に駆け寄ってきた姉さんもその雰囲気に思わず掛ける言葉を失う。

――I can not live without you♪

――I love you more than anything in the world♪

『君なしじゃ生きていけない、世界で一番大好きです』

 流暢な発音と、大人っぽい安定した歌声。歌い出しだけで判断するのなら、本当に正統派のアイドルのそれだった。ただ、ステージに彼女が飛び出すと、今までにない、ものすごい歓声が上がる。ビリビリと空気が震えるほどだった。

 ポニーテールにまとめた髪に輝くシュシュ。観客のペンライトがキラキラと反射する。ピンクのドレスに、肩には飛べそうな程に広がった『翼』を模したレースが踊っている。その脚がステップを踏む度に、魔法だろうか。実体の無い花びらが静かに散って煌めく。

 彼女の黒髪と、青い瞳が跳ねる度に観客がこれでもかと叫んだ。「アイオライト」 それが彼女の名前。

 でも、私の口は、他の名前を呟いた。

「サナ……さん……っ!!!」

アイオライト。海の色をした…――サファイアに似た青い石。

「あいつ……っ!」

 呆然とする翅。涙を滲ませた私に、姉さんが舌打ちをして睨んだ。同時に、半野外型のステージに雨風が吹き込み、霧が発生する。

「や、やめて下さい!!」

「やめるか!!」

 私は思わず姉さんの腕にしがみついた。姉さんの能力、天気の操作だ。妨害しようとしている。

「なんでかわからないけど……あいつを覚えてる…! そうだ、あいつが現れてからつばさとの関係がおかしくなったんだ!! くそ、また邪魔しに来たんだ……!!」

「!!!!」

 姉さんはサナさんを強く睨むと、私がしがみついた腕を力任せに振り払った。武闘の経験がある姉さんの力に私が敵うわけはない。勢いで壁に頭を強打した。

「ぐっ……!」

 衝撃が身体に響いた。ぐらり、と視界が霞む。何故か執拗にサナさんへ恨めしい目を向けていた姉さんも、私の嗚咽にたじろぐ。2人の前で、耐えきれず私は強く咳き込んだ。一瞬、呼吸も出来ない痛みが身体を走る。でも、自分の心配より、今するのはサナさんの心配。流石にあの天気でパフォーマンスができるわけが……。

「……くそ、ここまでやってもフォームすら崩さないのか……!」

「さ、サナさん……すごい……」

 舞台はぼんやりとした霧でライトを淡く暈し、雨風で彼女の髪に躍動感と輝きを増したように見えた。それに、彼女は天候に左右されること無く、完璧なフリと歌を披露する。メイクが落ちてる様子すら思わせない。むしろ、サナさんがフリを踊る度に、煙った空気に魔法の花が反射してピンクに染まる景色が美しいとすら思えた。

 逆境の全てを味方に変えた彼女の姿に、旅の途中に噂で聞いたような『悪魔』は感じなかった。むしろ、逆境だからこそ輝いているような、ホントの強さの姿がそこにあった。その姿は、痛みですら、サナさんは強さに変えられるのだと、サナさんからの言葉を聞かなくなってその一瞬で知ってしまう程だ。

 その舞台を終えると、一斉アンコールがかかる。票数はぶっちぎりで、他のアイドルたちからも拍手が沸き起こる。会場は一体感に包まれていた。

 彼女はにこりと微笑むと、そのまま疲れも見せずもう一曲を歌い始める。誰も止めない、オーディション会場は瞬く間にサナさんの独断場へと変貌した。ステージにサナさんの綺麗で、それでいて圧倒される声が満ちる。

 私は、あの日の、あの時の……サナさんの歌を思い出していた。

***

 発表するまでもない結果の後、ステージを降りた彼女は、まっすぐ私達の元へ駆け寄ってきた。先程まで雨に濡れていたとは思えない程、あっという間に姿を整えているのは魔法か。その瞳が私を見ていることを確信すると、さっきまで崩れ落ちていた身体が勝手に浮き上がる。

「つばさ、おいで」

 待ちに待った彼女の声。年齢は変わっても変わらないあの声。何度も何度も頭の中で繰り返した声。そして、優しく差し伸べられる手。

 視界がじわりと、また滲んだ。勝手に腕が、だいすきな、大好きな人の胸の中に伸びる。指先が、彼女の手に触れるだけで、こんなに――――!!

「……サナ、さんっ!!」

「おいっ!」

 姉さんの静止の声なんか構わず、私はサナさんの胸に飛び込んだ。サナさんは優しく抱きとめて、ぐしゃぐしゃの私の髪を、優しく撫でてくれる。その態度だけで、嬉しいのに苦しくて、悲しいのに、たまらなく、ただただ嬉しくて、わからなくなる。

「遅くなってごめんなさい、辛い思いを沢山させたわね……」

「う……わぁ……どうして、どうしてですかっ……私、あの日のまたねって、約束……守ろうとしてずっとずっとずっと探してたのに、見つけられなくて……!!」

 その声を聞くと、もう涙は止まらなかった。ずっと、ずっとずっと、ずっとずっとずっと、探して、焦がれた相手の、腕の中。おかしくなりそうな程嬉しいのに、悲しい。この人の悪い噂ばかり聞かされて来た旅を思い出す。

「……ごめんね、本当は貴女に迷惑を掛けたくなかったから、ずっと遠くから見ていたんだけど……試すような真似をしてしまったわね、ごめんなさい。……迎えに、来たわ」

「……サナさん……」

 静かに、抱きしめられる。それだけでざわめいた気持ちは全部吹き飛んだ。そのの様子を見ていた姉さんは、わなわなと震えて大声を上げた。

「おかしい! こんなの変だ! 何をしたんだお前は!! 能力者なんだろ、イカサマしたんじゃないのか!!」

「いかさまをしたのは貴女よ、よく。この雨、嵐、霧……すべて貴女の仕業ね」

「くっそ! ふざけんな!」

 逆上した姉さんが高く拳を上げた。ついにサナさんに手を出す姉さんの武術を、サナはひらりと交わす。サナさんはどうやら、姉さんの事を知っていて行動はほとんど読めるふうだった。なぜ、と思うけれど、私の唇は『サナさん』としか動かない。壊れたみたいに、サナさん、サナさん、と呟いた。

「貴女の武術もワンパターン、あなた達につばさは渡せない。悪いわね」

「……つばさに何をする気だ!」

「そのコメント、そのままステージ前の貴女に返すわ」

 サナさんはさらり、と言い返す。そこには何の隙もないように見えて、さっきまでまるで脅威にしか見えていなかった姉さんと翅は、まるでちっぽけな小動物が狼狽えているように見えてしまった。

「サナ……聞き覚えがある……そうか、お前が……『伝説の悪魔』か…!」

「……そうね。そう。私が、『サナ』よ」

 姉さんもあの噂を知っていたんだ。先に息を呑んだ私を片手で軽く宥めながら、サナさんは笑う。私に向けたのと違う、意地悪そうな笑みだった。その姿はちょっと悪魔っぽかったけれど、私はやっぱり、あの日と同じように、サナさんを悪い人だとは思わなかった。

「さて、上位入賞者のアンコールが始まるわね。私、つばさ、そして翅。プロとして何があろうとも歌いきってこそ、アイドルだと思わない? どう? 私を負かして言う事を聞かせてみる?」

 サナさんは、そう言ってにこりと笑った。

***

 1位を取得したアイオライトのソロの後に、プレナイトと翅のコラボソング、という流れでアンコールが始まった。プレナイトと翅の舞台に流れるのはプルームが襲撃したあの日に公開した、あの歌、「NAZUNA」。最初のメロが流れると同時に、翅の身体が固まってしまう。

「こ、こんなの……この歌、もうっ……どうして、きいてない…!」

 できればもう、翅は聞きたくない歌だった。翅にとって、自分の裏切りを叩きつけられるような歌だから。自分が勝手につばさに理想を押し付けて作り上げた、妄想の歌だから。あの時の愛が嘘だったと証明される歌だから。

 歌い出せない翅に変わり、プレナイトが出だしを歌う。歌詞が途切れると、プレナイトは翅に手を差し出した。それは優しさではない、歌え、という圧力。

「だ、れにも……そまらない……」

 声が震える。歌詞が思い出せない。笑えない。歌えない。あんなに得意だった、笑顔を作ることが、できない。

 ほぼプレナイトが歌いきったその歌の後に、『HANE』のナンバーであるお別れソングが流れだす。それも、必死に声を出そうにも出せない翅の代わりに、カバーとして、プレナイトが歌うとステージを熱くさせる。

 アイオライトは、静かにその歌声を聞いていた。よくがどうにか邪魔をしようとするが、彼女はその腕を強く掴む。

「お願い、あの子の歌を……止めないで」

 そう囁くと、それ以上、よくは押し黙り抵抗しなかった。無事プレナイトが歌い終える。翅はもう、動くことすら出来ない。

「……さよなら」

 すれ違い様、そう呟いたプレナイトの声。それは、嫌という程、翅の耳に残った。

***

「ごめんね、散らかってるけどどうぞ」

 サナさんが借りているという、モデルルームあがりのマンションの一室に足を踏み入れる。確かに妙な作りをしていて、散らかって……とは言うけど、綺麗に片付けられていて生活感はなく、もしかしたら他に別の家があるのかなと考えたりもしたが、それがサナさんらしい光景に思える。私はそのサナさんらしい光景に、再度、サナさんに逢えたという事実に涙が滲んでしまった。

「……何故……私を助けてくれたんですか……?」

 とりあえずの疑問はそれだった。私の中では深い、深い希望だったサナさん。ずっと探して、ずっと想ってきた相手だ。でも、サナさんの中で、私は何だったんだろう? あの日の約束を忘れないでいてくれたんだろうか? ずっと、遠くから見ていたと言ってくれた理由は? 聞きたいことはいっぱいあるのに、口が全然動かない。お喋りな昔の私は、どこに行ってしまったのだろうか。

「……迷惑だったら、二人の元に帰ってもいいよ」

 聞きたいことが多すぎて迷っている様子が困ったように見えたのだろうか、そう言って、サナさんは悲しげに微笑んだ。

「そんな事言わないで下さい……もう帰る場所なんてないですし、要りませんよ……」

 サナさんは泣きそうになる私の肩を抱くと、白いソファにそっと座らせた。サナさんがくれる優しさのひとつひとつが、本当に愛おしくてたまらない。嬉しい。敵ばかりだった『プレナイト』の生活で、すっかり押し殺した感情が戻ってきてしまう。

「そうね、つばさを誰にも渡したくなかったから、かな……。つばさは、貴女の勇気は、私の希望だったから……あの日に、貴女がくれたの」

「……私っ、私はっ……私、もっ……」

 その言葉を聴いただけで、こらえきれなかった。聞きたいことがいっぱいあるのに、言葉にならなかった。悔しさと嬉しさがこみ上げてきて、私は顔を覆って、また泣き出す。サナさんはまた、優しく寄り添ってくれる。

「貴女の想い、沢山もらった。探してくれてありがとう。私は貴女の味方よ」

 サナさんはそう言って、次は悪戯に笑う。それでも、言葉は優しいまま。泣きっぱなしで上手く話せない私の疑問に、全て答えてくれた。

「……ごめんね。貴女がこうなってしまったのは、私の『悪魔』の力が貴女の中に宿っていて、貴方を呪っているせいなの。よくが怒っていたのは、貴女が呪われたことに気づいていたから。これは私の責任。貴女にとっては事故。私がここにいるのは……あの日を忘れることが出来なかった私のわがまま。……許してくれる?」

「私だって……! 私だってあの日からずっとずっとっ、サナさんを探して、サナさんを目指してきた……! 私の生きがいだった……それを、否定するのも、されるのも……ずっと……苦しかった……!! わがままなんかじゃないです、事故なんかじゃないです、呪いなんかじゃないです……」

 サナさんは私の言葉に、嬉しそうに微笑んでくれた。それが、何よりも胸を締め付けられるように、私の心に染みていく。その言葉から察するにサナさんも多分迷ってくれたのだろう。一度は私のように諦めたのかもしれない。……けれどこうして、あの日の約束を果たしに来てくれた、それだけでも嬉しい。首を横に振って、サナさんの迷いは全部否定する。

「……貴女に初めて会った日、私は悪いことをして多くの人の命と、大切な仲間を失った日だった。貴女が旅の中で聞いた通り、私は沢山の罪を背負って擦り切れていた。悪いことをして、人の場所を奪うことでしか生きられない弱い生き物だった。でも、諦めないって、抗わなきゃって、貴女が教えてくれた。貴女があの二人の前でしたようにね。だから今日は恩返しにきたの。『今』よりもずっと昔から……」

 サナさんが、私の頬に触れる。同じだったんだ、大事だった。それを忘れようとした私。だから苦しかった。私は、ずっとずっと抱えていた言葉を零した。ほぼ、何も考えず、気づいたら口を付いて出ていた。聞いちゃいけないことかもしれなかったけど、聞かなきゃいけないことだった。

「貴女は……どうして、あの日、悪いことをしたんですか? そんなになるまで、罪を負ったんですか?」

「……長くなる、つらい話よ」

 少しだけ悲しい顔をして、サナさんは私の手の上に手のひらを重ねた。ちょっぴり低い体温が、染みるみたいに心地いい。覚悟は出来てる。私は、今ここでサナさんに例え呪い殺されても、きっと幸せでいれる覚悟ができている。私は強く首を縦に振った。

***

 ……あるところに、のえるという少女がいた。彼女は、教会の子に生まれたが、狂言者である神父を父に持つ影響から、神を信じなかった。

 彼女の父親は神に操られ、狂おしい信仰の元で魔族の言いなりになった。クラスメイトは彼女をその奇っ怪な教会の生まれという事で彼女を虐め、周囲も理解をしなかった。彼女は孤独と魔法、そして神様を憎んだ。強く、強く憎んでいた。

 全てに嫌気の刺した少女は、自らその身を投げた……。身投げの罪と、神への強い不信。その感情が神より強い霊を生み出してしまった。神は何より自分の地位が脅かされる事を恐怖し、少女を自分の手元に置く目的で天使へと生まれ変わらせた。

 『その天使、単純に言えば生まれ変わった私を実験に使ったの。そうして無理やりに与えられた実験に耐えきれず、失敗した私は、新たな罪を負うことになった。その罪は、不幸。私に触れるもの、近づくものの不幸。そして、私自身の不幸。噂も、伝説も……人間達がそう感じるように最初から神に仕組まれて出来上がったものなの。』

 私は、その言葉に胸が押し潰されそうだった、強く、強く痛んだ。サナさんは、何も悪くない。悪魔なんかじゃない。口じゃ言えなくて、私は強く首を振り続ける。違うのに、サナさんは違うのに。

 サナさんはそんな私を見て、優しい声で言った。

「でも、私もね、自分から悪いことを沢山してきた。何かを背負う事で自分が受ける罰を正しいものにしてきた……私は嫌われて当然だって思いたかったの。神様を裏切る勇気がなかった。あの日の貴女と同じで、どうせ無理だから戦えないんだって。でも違ったわ、つばさ。貴女が抗うことを教えてくれた……そう、私は抗わなくちゃいけなかった……貴女を思い出して、それを思い出したの。貴女を諦めることだってそう、違った」

 そう言うと、サナさんは私をそっと抱きしめる。

「……ありがとう、つばさ」

「あっ、……うっ、うっ、うわぁあぁあぁぁああぁ………!」

 欲し続けていた、夢にまで見た彼女の腕の中だ。今まで耐えていたものが、耐え切れなくなって私はサナさんにすがりついて号泣した。今まで感じなかった、我慢してきた、胸奥から強く、サナさんを好きだ、大好きだ、愛してるという気持ちだけが溢れる。

「今まで、追って来てくれてありがとう、つばさ。今度は、私が守るわ……痩せてるね、無理させてごめんね……」

 その夜、サナさんは私が眠ってもずっと、側で抱きしめ続けてくれていた。

 次の朝、サナさんは言ってくれた。もう私が無理をして『プレナイト』として歌う事はしなくていいのだと。翅はもう歌えない。芸能界に出てくることはないだろう。それは貴女が歌で負かしたからだと。負けたアイドルの情報を信用するメディアももう居ない。『プレナイト』が翅の手でもう不利な状況に陥ることがないだろう。

 私はアイドルになってから、まともに食事も取れないほどがむしゃらで、そしてボロボロだった。このまま続けても、いいことは……ないかもしれない。

 でも、違う。私が今までずっと、ずっとサナさんを追ってきた意味はここにある。あの日のサナさんの、歌。忘れられない歌声を側に、舞台に立たない選択肢はなかった。

「私は……サナさんの隣で歌いたい。サナさんの歌を聞きたい。一緒にいたいんです……」

 そうしてサナさんと『スノーフレーク・ソルベ』という名のデュオを組んだのは、すぐの事だった。サナさんと一緒に歌う日々は、待ち望んでいただけあって楽しかった。

 そこから半年ほどだろうか。彼女と一緒に活動した。一緒に住んで、一緒に仕事をした。 正統派の可愛いアイドルの『アイオ』と、クールな『プレ』は正反対で、でもそれが妙にバランスが取れていたのだろう、瞬く間に大注目された。サナさんは魔法でステージ上に花の姿を映し出す、幻想魔法をパフォーマンスに取り入れていた。私は氷の結晶を映し出し、二人で歌うとそれは雪の結晶の姿になる。旅していた頃はひっそりとした『能力者』の存在は、私達の手によって一躍、注目される存在となった。

 そんな生活の反面、サナさんは時々、どこかに出かけて居なくなる事があった。一晩二晩開けて、でもすぐに戻ってきた。どこに行っているのかは知らない。サナさんは、そばに居てもまだまだ謎の多い人だった。基本的に、聞かなければ言わない人だから。それはなんだか、聞いちゃダメだと言われているような気がして……踏み込む勇気もなかった。

 どうして聞かなかったんだろう、と後悔したのは、ようやく訪れた、このビルの街も凍えるような冬の日の事。

 年末も過ぎれば、多くの芸能人も休暇に入る。私達にも連続したオフが出来た。ユニットを組んで初めて、一緒にリゾートに行かないか、とサナさんの方から提案があった。

 サナさんはやはり旅人だっただけあって、家でじっとしてるのを勿体無いと感じる人だった。何度か出かけることに誘ってくれる事もあったのだけれど、私はなんだか気恥ずかしくて、断ることも時々あった。

「バカンスなんて、『プレ』のキャラじゃないんですよ……」

 年末旅行に行く芸能人というのは、妙にもてはやされる。私はそれが怖くて、ちょっぴり拗ねた。本当は、サナさんと出かけれる事は嬉しかったけれど、『プレナイト』としてはしゃげなかった。きっとあの日の私……『鈴乃つばさ』なら、飛び跳ねて喜んだんだろう。

「あら、あのステージ以降、表情が柔らかくなった、ってよく言われてるし、イメージ低下には繋がらないと思うけど? もう、ちょっとからかわれるぐらいで照れちゃダメよ」

 翅を負かし、サナさんと共に活動するようになってから、私は少しだけ表情が出るようになったのだと言われていた。

サナさんもそれに関しては良い事だと思ってくれているらしく、そう言って手を取ってくれるサナさんを見ていると怖いことは何もないように思える。

 そう、その日まではそう思っていた。

***

 海の上に築かれたコテージ。桟橋のすぐ近くはもう水面。サナさんが選んだ、小さな南の島はとても静かで綺麗な場所だった。

 リゾートファッションに身を包んだアイオライトと、Tシャツというシンプルな格好のプレナイトについてまわる取材陣もここまでは来れないらしい。芸能人御用達のお忍びリゾートと言うことで、プライベートに厳重なのがサナさんの気配りなのだろう。こういうところに抜かりがないサナさんの配慮がやっぱり嬉しい。

 辛いことばかりだった、今までのことを考えれば、拍子抜けする程美しく、平和な風景に私は言葉を失った。

「やっと来たね、サナちゃん」

 しかし、その静けさを破ったのは、一人の男性の声だった。リゾートで借りた部屋に到着した瞬間、冷たい声がサナさんを刺した。『サナ』の名を知っている人は、プレナイトをつばさと呼ぶ人物と同じく、限られた人物しか居ない。サナさんの伝説がある国はもう遥か遠く、時間もかなり経過している。もう『サナ』の名はおとぎ話だ。

「……っ」

 いつもは余裕ぶるサナさんが、その一瞬に顔をしかめた。その瞬間しまった、という嫌な空気が感じ取れる。一瞬、警備の漏れでもあったのだろうかと疑ったが、すぐに彼の顔を見て違う、と確信した。彼は彼女によく似た顔立ちをしていて、その雰囲気に覚えがある。姉さんにどこか似ている。

 サナさんは前に、自身が双子で生まれたこと、そしてサナさんの運命が私に引き継がれてしまったことを『私達の魂が、あなた達に宿った』と、私と姉さんが能力者である原因を教えてくれた。その『私達』の意味。顔を見るだけで分かる……彼は、サナさんの弟だ。

 サナさんは私を背後に押しやると、盾になるように腕を広げた。

「別に攻撃したりしないよ」

「……どうだか、貴方は手段を選ばない時がある」

 サナさんの警戒した声。繋いだままの手がギュッと握られた。危機を、なんとなく察してしまう。サナさんにとって彼は敵なのだろうか。不安に眉を寄せて、私も彼を睨んだ。

「いつまでそうやっているの、サナちゃん」

 彼の言葉は、口調は穏やかだが、どこか責めている、怒っているようだった。

「…………」

「もう時間はないよ、わかってるでしょ」

「でもこれは……」

 姉さんにさえ勝ったサナさんが、言い負かされている。サナさん……。その光景を思うだけで心が締め付けられた。私の知らない何かが、サナさんと弟さんの間で起きているらしい。そしてそれは、多分……私がサナさんを引き止めたせいで。

「サナちゃんが人を助けたという点は僕も評価する。でもね、やるべきことはやらないと、彼女だって消えちゃうんだよ? それに……」

「やめて!」

 彼がまるで、言葉を選ぶように一度口を閉じた。ただ、選んでいる言葉は良い言葉じゃない、あえて悪い言葉を選んでいるような気がした。サナさんが叫ぶ。まるで、私に聞かれたくないみたいに。

「『つばちゃん』、寂しがってるよ」

 私はその言葉を聞いて、サナさんと繋いでいた手を放した。サナさんと、一歩距離を取る。私に距離を取られたサナさんは、今まで強気だったサナさんの表情が初めて崩れた。それはまるで、痛みに耐えているような表情だった。それもそのはずだ……一瞬にして、私はサナさんの味方ではなくなったのだ。それは、裏切られて育ったサナさんには、酷く残酷な態度だったろう。

「……サナさん、説明してください……」

 低い声が、サナさんを責める。聞かなきゃという気持ちと、なぜ此処で自分の名前が出てくるのか、という不信感が、サナさんを一瞬だけれど裏切ってしまった。

「ごめんっ、違うの、つばさ……いいえ、そうね……黙ってた、私が……悪いわね……」

 サナさんは泣きそうな声で、でも表情が見えないように俯くと、淡々と語り始めた。それは私がサナさんに聞き忘れていた事。私が忘れていた私の子供の頃の話だった。

「私は一度、貴女と会った後に天界へ戻った。貴女が私を探してくれていることを見届けた後に。そこで神様と間接的にだけど対決をしたの。私達の魂を自分のものにしたい神と……だけど、前にも言ったように、事故で貴女とよくに力を与えてしまった。貴女が思い出せない子供の頃の貴女に、呪いが宿ってしまった……。私はその時間から、魔法で貴女がいる時間に来ているの」

 それは、サナさんが時折あの部屋を抜け出す理由の全てだった。

 両親の離婚後、能力者だからと住んでいた村を追い出され、ばらばらに生活していた私と姉さんを呼び出して再会させたのはサナさんだった。サナさんはサナさん達の魂、つまり能力が宿った私と姉さんを監視する事を義務付けられ、天界からこの星に戻ってきたらしい。サナさんが元々戻ってきた世界の私は、16歳。姉さんは20歳。私の記憶の上では、あの日サナさんに会うよりも前の時間という事になる。

「……そして、本来ならば、貴女の能力が消滅するまでを見届けるだけ、それが私の役目だった。それを私はあえて、貴女が戦えるまで育てることにしたの。今、私の時間では『天使たちの意見の相違』で、大きな戦争が起ころうとしている。貴女も、私の力を持っているせいで殺されてしまうかもしれない。私はそれに抗うことを貴女を思い出して決めた。でも、これは、何も知らない貴女を利用しているって事に……なるのよね……ごめんなさい……」

 いつかに見た、サナさんの夢と似たような事をサナさんは言った。最後はもう聞き取れない程、消え入りそうな小さな声でサナさんは謝った。大人しかった過去の私は、サナさんと共に暮らしサナさんの為に戦っている。ふと、何度も恐怖したナイフの夢を思い出した。一緒に過ごす間で、サナさんの目の前でもうなされた事があった。これも、この時の記憶なんだ。

「私はこの戦いが終わったら、貴女の記憶を消して人間として生活させる。でも、それが……貴女を苦しめてしまう未来がある……それに耐えきれなくて貴女に会いに来ていたの……」

 サナさんはそう言うと、私に完全に背を向けてしまった。その表情に、私を助けた時の勇敢さはもう感じない。ただ、私の反応を見て怯えているように見えた。任務を放り出して、どっちの時間の私も裏切ったとでも思っているのだろう。

 けれど、私はその説明に一切の悪意は感じなかった。むしろ、強い愛情を感じる。そして、何度も思う。サナさんに悪気は無い、サナさんは悪くない。うなされる私を見て、サナさんだって苦しかったのだろう。子供の頃の私に戦いを教えるのだって、将来私が苦しむ事を考えると気が重かったはずだ。でも今この時間、私はここに居る。私は現状、戦って勝った未来に立っている訳だ。サナさんの教えによって。

 ひと通り説明されると、サナさんの弟が口を開いた。

「つばちゃん……いや、『プレナイトさん』。サナちゃんがした事、というか、この先する事は君を守るためのものだ。人の為に彼女がここまで、課せられた使命とは別に自分の意思で動くのは、きょうだいとしてずっと彼女を見てた僕も初めて見た。決して酷く働かせよう、戦わせようとか思ってるんじゃない。それだけは保証するよ」

 言われなくなって分かってる。サナさんは、ずっと私の為に、私の側に居てくれた。離れていても寄り添ってくれていた。

「………わかってます。サナさんを疑ったりはしません。サナさんはいつでも私を想って行動してくれてたんですね。……すみません、怒ってるわけじゃないんです、ただ驚いただけですから、サナさん、そんな顔しないでください……」

 その言葉にサナさんが顔を上げる。油断したらすぐにでも泣きそうな表情を無理やり押し殺している、そんな表情で。私はサナさんに歩み寄り、放した手をもう一度手を握った。

「サナさん、どうか……小さな私の為に、未来の私のために、そして今ここにいる私の為に。よろしくお願いします」

「つばさ……貴女はそれでもいいの?」

「こんなに愛されてるってわかってるのに、拒否する点がありますか?」

 サナさんに向かって微笑んでみせる、もうキャラとかじゃない。これは私……鈴乃つばさの意思。

***

 それから、2人で静かに桟橋に座って日の落ちゆく海を眺めた。あの日の別れ際を思い出す。またねの約束。姉さん達に立ち向かったあの日。あのあと何年も何年も。サナさんにとっては何百年かもわからないけど。私はサナさんに愛されていた。それは私が生き続ける限り変わらない。

 夜が明けるまで、特別な言葉を交わすことはなく、私達はただ寄り添っていた。

 日が明ける頃には、サナさんは帰る。

 小さな私のいる時間に帰る。

「サナさん、さようなら……またいつか会える日まで……『またね』」

「つばさ、さようなら。また、過去か未来のどこかで、『またね』」

 キスを貰った頬が、私のものではない涙で濡れた。