NoTe -サナの物語-

両親を亡くしてきょうだいと生き別れた後、故郷から逃げ出し、色々な地を追い出されてから最後、小さな孤島に辿り着いた。

そんな『伝説の悪魔』の物語が世に出回り、孤島に閉じ込められた生活にも慣れた頃。

私は海岸で一人の少女を拾った。

「貴女はどこからこの島に入ってきたの? この国の人間は侵入できないように魔法を掛けていたはずなのだけれど」

はっきりしない地味目の顔立ち、構っていない髪型を括っただけの風貌。骨太だけど痩せぎすの体型。

一瞬喪服にも見間違える程に黒いベンチコートを纏った彼女は、名を穂村珠莉と名乗った。

「貴女のことが好きで誘いに来た。……サナ、『他の国』に興味はない?」

ひと目でぱっとしないと分かるその姿に似合いすぎるくらいに低く、ぼそぼそとした声。

その不思議に黒く、でもいまいちどこを見ているか分からない瞳がまっすぐこちらを見る。

それだけで、何故かこの普遍的な少女を只者じゃない、と感じている私が居た。

勿論、普通の人間が足を踏み入れられない場所に居る、という点で既に怪しいのは確かだ。

しかし問題はそこじゃない。私を誘いに来た? いやその前に何と行った? 『好きで』??

「……『他の国』?」

「……私は貴女と別の世界から来た。私は貴女の『物語』を見て」

そうして珠莉が取り出したのは、間違いなく『伝説の悪魔』の本だった。

しかし、この国のものとは装丁も違えば、そこに書いてある言語も違う。

一通り有名な言語は習った事のある私でも、それは見たことのない言語だった。

それは確かに、『他の国から来た』という言葉の証拠には間違いない。

「……私は……物語の世界を行き来できる。から、自分の国に人を誘ってる……ここより、良いところに……したい、と思って」

おどおどと、煮えきらない言葉。

断片的に話す様子は聞いていて腹立たしいというか、じれったい。いまいち言い切らないところも妙に怪しい。

何より、そんな上手い話がどこにあるのだろう。それが私の最初の印象だった。

此処より良い外の世界? 私を好き? 誘いに来た?? 全部罠にしか思えない。

「……行き来できる、ね。なら帰って貰える?」

「で、でも」

「悪いけど貴女が行った台詞、信用ならない。きちんと考え直して出直して頂戴」

その言葉のフレーズのどれもが、まるで怪しい勧誘のそれだった。ので、皮肉も込めてもっと上手く誘えないのかと言って見せれば、彼女はくるりと踵を返す。

「わかった。じゃあ、またね」

どうやら言葉の通り、『出直して来い』と言われて出直すつもりらしい。

瞬間、彼女の指先に一本の光が現れる。

「鉛筆……?」

指先で摘むように持ったそれを空で一筆、円を描いてはその中に黒い背中が吸い込まれていった。

「なんだったの……」

妙な珍客があっさり帰っていくのを見て、何の時間だったのか? そもそも何故行き倒れて居たのかを聞きそびれた事などを不意に思い出す。が、その頃にはもう遅い。空間に浮かんでいた円は跡形もなく消えていた。

まあ敵意もなく攻撃もされなかったのなら切り抜けたのだろうか?

その時はそう思い、特に誰に話題にすることもなく、私もそのままその出来事を流した。

「そんな不審者、何回も許してたの!?」

「いいでしょ別に、何も危害加えられて無いんだから」

その後も珠莉は何度かこの島に足を踏み入れては、自分の国へと誘うような言動を繰り返してきた。

指摘した謳い文句は対してニュアンスは変わらなかった辺り、あの皮肉はやっぱり通じていなかったらしい。

その鈍さからも、仮に敵意があったとして大したことはないのだろうと判断して、私は珠莉のつきまといをほぼほぼ許していた。

数回話した頃にはなんとなく顔見知り程度に気は許して居たし、話す内にも彼女の素直というべきか、単純というべきか。

純粋な部分はわかり切っていたから安心もうっすらと感じるようになっていた。

それも今思えば、心底飢えていたのだろう。

同い年で同性で……自分の過去を知って尚接触してくるような、話の出来る相手が都合よく降ってきたのだ。

……口では平気だと言って、寂しさに勝てなかった自分がそこに居た。

勿論、その行動に私を心配するルナが怒らないはずはない。数度目でついにルナと珠莉が鉢合わせてしまった。

「あのねえ、ちょっとは危機感持ってくれない? 迫害された身なの理解ってる?」

「うるさいわね、あんな人間一人にやられやしない、他に誰かが侵入してる様子も、あの子が嘘をついてる様子もないじゃない!」

話をしている内に、珠莉が本当に島へ侵入する以外に出来ることは少ない、という事は理解していた。

これで戦闘能力のひとつもあるのであれば警戒もしただろう。

が、びっくりするほど彼女は不器用で、何なら一般に当たり前に出来そうな事すら時間が掛るぐらいにはどんくさい部類だった。

そんな相手を目の前にして警戒しろとか、危機感を持てとか、言われるだけこちらが舐められている気分になって気に食わない。

「ああもう、そういう意味じゃないよ……とにかく勝手に行動しないでって言ってるの!」

「何故貴方が私の行動を縛るの? 勝手に追いかけてきて勝手に家に住んでるって意味では貴方だって彼女と変わらないはずよ!!」

ルナが言い淀んだ隙に、私はルナと言い争っていた部屋を飛び出す。とはいえ、この島と自分の国以外に私に逃げ場は無い。

そう、今までならば。

「っ…………」

島に聳える一本の樹の元まで駆け出して、その幹にもたれ掛かるように膝をつく。後から出てくるのはもう涙だけだった。

10年ぶりに再会したきょうだいとすれ違い続ける事で、改めて自分が酷い生き方をしてきた事に気付かされる毎日に疲弊していた。

「大丈夫?」

その伏せた背に、やはりいつの間にか島に来ていた珠莉の手がそっと置かれる。

状況は理解っていない困惑した表情のまま、それでも私の背が静かに撫でられる。

「…………珠莉」

こんな心配を今まで誰かがしてくれただろうか。

厳しい躾を強いる父と母。それを遠巻きに見るだけのきょうだいなのに身分違いのルナ。私を殴って蹴って支配しようとした育ての親。迫害してくる人間達。敵対勢力。

そしてそれを運命づけ、私を呪ったこの世界の神様。

そこから逃れる手段が、今目の前に居て……しかも好意まで伝えてくれている。

……この子の優しさが欲しい。

…………呪いを忘れたい。

「珠莉……貴女の誘いと告白……受け入れるわ」

もう、もう全部疲れた。

だから、私はその手を取ってしまう。

それがかつて、自分の前世が……『のえる』が犯した罪と殆ど変わらない逃げであると、この時の私は気づきもしなかった。

NoTeと呼ばれるその国は、DESKと呼ばれる世界に存在する。文化は少し原始的だけど、元居た国とそんなに変わらない。魔法や神様の存在は無いが、私と同じようにその概念がある国から来た『移民』も多いらしい。から、無理に身元を隠す必要はないと彼女は淡々を説明を続けた。

「住まいは明日探そう」

そうして文化の入り乱れた街を紹介した後、珠莉は私をひとつの屋敷に送り届けた。私と同じかつての移民が管理するその屋敷は、シェアハウスの機能を兼ねているらしい。部屋は開いているから、とだけ言い渡され、そのまま珠莉の背はくるりともと来た道を戻る。

「じゃあ」

「……え?」

まかりなりにも数時間前に来たばかり。そしてその数時間前に……一応恋人になったはずの相手。

それが初日で置き去りともなればうっかり唖然としてしまう他なかった。

けれど、追いかけるにはあまりにも素直になれる性格じゃない。

まだお互いそう発展した間柄でもないんだろう。私が焦り過ぎなだけ。そう自分に言い聞かせて、屋敷の戸を開ける。

「ようこそ」

「……珠莉に案内されて来たのだけれど」

その扉の向こうに居た、玲子と名乗る少女は明らかに歓迎の顔をしていなかったので、思わず身構えた。その表情には覚えがある。いや、忘れる訳もない。敵意に染まった目。今まで自分の国で幾度となく向けられてきた視線と何も変わらなかった。

「知ってる。……早速なんだけど、珠莉に近づかないでくれる?」

一瞬はなにかの間違いだと思った。珠莉はこの国の住人の事を穏やかで争いも少ないと、嘘偽りなく伝えてきていたからだ。それがあくまで『珠莉にとって』と知るのはもう少し後だったけれど、このときばかりは玲子の態度に警戒を強めることしか出来なかった。

「聞いたよ。あんた、人殺しなんでしょ? いや、それぐらいはまあ……此処に居る人たちは経験してる人も大勢いる。大した問題じゃない。ボクも住んでる国を潰して、故郷となる本も燃やしたんだ。清々したよ。ボクは自分の国大嫌いだったからね」

「……じゃあ何故、私を敵視するのかしら?」

どうやら珠莉が持っていた『伝説の悪魔』の概要は、少なからず誰にも知れているらしい。私がその世界から来たことも。つまり私に最初からプライバシーは無くて、結論として後ろ指を指される人生に変わりがないことを示していた。それでも初対面の相手に面と向かって牽制を受ける理不尽さに、目眩を覚え始める。警戒して聞き返せば、玲子は噛みつくように私を壁に追いやった。

「でもそれで自分が可哀想だとか思ってるの見ててうざい! 珠莉の同情に甘えないでよね!! ま、珠莉の頼みだから今日のところは入れてやるけど、早く出てけよ」

「っ……!!」

そのまま蹴り飛ばされて、空き部屋に叩き込まれる。その言葉で分かった。玲子は珠莉に好意を持っている。これは嫉妬で恨みだ。

「…………痛い」

備え付けの家具に敷かれた、簡素なベッドマットに縋り付く。寝具は他に用意すらされていなかった。

ただ、余計な行動を取れば恐らく玲子と一触触発になる。息を殺す。一晩、涙を零して朝を待つ事しか出来なかった。

翌朝、住まいを探す為に珠莉が訪ねてきた。その事にほっとしつつ、朝食すら用意されていない屋敷から逃げるように出ていった。

「サナ、大丈夫?」

「……ええ」

その様子を知ってか知らずか……いや、多分知らない。知るわけ無い。玲子は猫を被るのが上手かった。人を妬むほど好きな相手が目の前に居たらそうだろうか。珠莉も好意こそ気づかないものの、頼れる相手だからと紹介し直されてしまえば、文句は言えなかった。

それでも、一晩泣いて過ごしたせいか本調子ではない私に『大丈夫?』と聞いてくれることだけが、この時の私の心の支えだった。それでも気づいて欲しい、助けて欲しい。それが言えなくて、ただ頷いてしまう自分に悔しさから唇を噛む。

住まいはまるで用意されていたかのようにすぐに見つかり、一軒家を借りることとなった。

これでもう誰かと喧嘩することもない、完全な一人暮らし。居場所を奪われることもそうそう無いだろう。もう誰かと争うのはやめると決めている。

そう思いながら一週間。街の文化や暮らしの大体のリズムは掴めるようになった。

というより、強制的にそうならざるを得なかった。

というのも、珠莉が毎日訪ねて来るようになったからだった。流石に見ず知らずの国で初めての生活を送るのに時間が欲しい、と思っても、一人の時間が欲しいと思っても、珠莉は悪気なく訪ねてきた。悪気がないからこそ断れない。やりたいことも、放って置いて欲しい時間も何かしらに誘われる。

その大体は一人でも出来るような……珠莉の趣味の読書や映画に付き合うだとか、目的もなく散歩するだとか……内心、私の趣味には合わないことばかりだった。

趣味だけじゃない。生活リズムもバラバラで、夜に少し話がしたくて電話すれば珠莉はもう寝ていたし、入浴中だからと言われて数分後に連絡を取り直してもまだ入浴中だったり、こちらから好きな音楽の話を持ちかけようとしたら、音楽は煩くて苦手だと言われてはもう話をすることもできなくなった。

こちらから遊びに誘ってみたこともあったが、出掛けるのは苦手だと言われてまた映画鑑賞に戻る。『物語』は苦手だ。自分が残酷な物語にされてしまった事を嫌でも思い出すから。貴女はこっちを見てくれないから。スクリーンじゃない、文字の連なる紙面じゃない、こっちを見て欲しい。そう、ただ祈る日々が続いた。

そのうち、ときには玲子や、もうひとり移民の知り合い…羽美花を連れてくる事が増えた。徐々にふたりきりになる時間さえ奪われた。

羽美花はどうやら不本意な理由でNoTeに来たようだったが……やはり珠莉の手で元の境遇から救われたことには感謝しているらしい。こちらの事情には同情も示してくれたが完全に分かり合えるような相手でもなく、誰かに半端な情を掛けるという性格でもないようだった。

さり気なく珠莉から遠ざけようと意地悪を仕掛けてくる玲子。それに対して他人事でスルーしていく羽美花。

その態度に疲弊していく私に気づいてくれない珠莉……。

私の消耗が激しくなるのにそう時間は掛からず、気づけば数ヶ月で元からあった過呼吸の回数は増え、フラッシュバックを起こす回数も気絶してしまう回数も圧倒的に増えていった。

そんな暮らしを続けて半年も経たない頃、突然玄関に知らない人物が訪ねてきた。

白灰の髪に小柄な体型、顔立ちだけは異様なまでに綺麗で、最初は少女かと見間違えた。

が、良く見れば骨格は細身ながらに少年のそれで、何よりその声と口調は意地悪かつ悪意がこもっている。

「あんたが『サナ?』」

「そう……だけど……」

その視線は玲子の比じゃない程に殺意に満ちていて、嫌に目も座っていた。一瞬でそれが自分の味方ではないと直感で警鐘を鳴らす。

これは戦いも免れない。武器である小さな剣を忍ばせて臨戦態勢を取った。

「ふーん、珠莉が言ってたより大したことなさそうだけど」

瞬間、その直感は正解だったらしい。男の片腕から四角い光の塊が生まれて、指先から放られた。咄嗟にその攻撃を避けたところで、掠った頬と髪先が音もなく切れる……いや、『消えた』。

「……残念だったね?」

「何が……?」

間一髪攻撃を避けた私を見て、目の前の少年はケタケタと面白そうに笑う。名をあかりと名乗った少年は、どうやら珠莉の双子の兄らしい。珠莉の力が『鉛筆』の役割を持つ『書く』能力だとするならば、彼の能力は『消しゴム』の役割を持つ『消す』能力で、対の役割として今まで珠莉を見守って暮らしてきた。玲子と同じく珠莉を心配しているからこそ私に近づいて欲しくない、と口では言うが、態度から見るにそれは陶酔や酔狂に近い歪な情を持っているようだった。

つまり、『愛する妹を誑かしたよそ者』を恨んでいるらしい。

むしろ安心感を覚える程度には見慣れた逆恨みに、またか、と思いながらに彼の攻撃に反撃しようかどうか悩む。

反撃することはイコールで私がこの街に騒ぎを起こすと同意だ。単純に命の危機だけを回避する為に戦うことは難しくはない。けれど、此処でもまた人殺しと判断されてしまえば……今より立場は悪くなる。判断しかねている内に、あかりはまた心底愉快そうに口を開いた。

「僕はアンタの物語を全部目にしてる」

「……どういうこと?」

「珠莉にのこのこ着いてこなかったら、アンタはつばさって子と再会を果たせて」

「っ!!」

瞬間、あかりが取り出した本に見覚えはなかった。すっかり覚えたこの国の言語で『うたごえ』とタイトルを銘打った本は、どうやら私の本当の物語……玲子が自身のを燃やしたという『故郷となる物語』らしい。

それによれば……『本当の私』の物語はつばさと再会を果たして……。

「アンタ達の敵である神様とやらにも復讐出来たのにネ?」

「やめて!!!!」

気づけば私はあかりに追われるがまま、町中に飛び出して金切り声を上げていた。

此処に居る町民は皆、珠莉に『訳あり』の立場を助け出されて住み着いた言わば珠莉の『信者』達だ。

珠莉に大しての不満を漏らそうものなら、敵認定は免れない。思わず出た悲鳴を飲み込む代わりに、涙を零して道端に座り込む。

そう。『本当の私』はつばさと再会して、神への復讐も果たせる。

じゃあ私は……私は……今此処に居る私は……?

珠莉に書き写された『サナ』の模倣でしかない…………?

あかりの手によって事実を明かされて、すっかり戦意は失っていた。

その様子にあかりは満足したらしい。

「取り敢えず珠莉のお気に入りであるうちは消さないけど……珠莉に変な気起こしたらすぐ消してやるからネ?」

そのまま、町中に取り残される。

呆然と、しばらく靴も履かず走り出して擦り切れた脚を眺めていた。

「っ……」

その内に降り出した雨か、それとも自分の涙か。

足元が徐々に水玉を描いていく。

「う……っ…………うう……」

大嫌いな雨。

あの日、春花を殺してしまった日の雨。

あの日、ルナを突き放してしまった日の雨。

あの日、つばさと出会った日の雨。

「あぁあぁぁあああぁああ!!!!!!!!!!」

明るいところが嫌いな珠莉が好きな曇った空。

珠莉、いや、ルナ?

……もう、誰でもいい……たすけて……。

そこから更に数日。

玲子の嫌がらせにはあかりも加担するようになり、私の立場は徐々に狭まっていった。

もう、状況はルナと再会する前の自分と大して変わらない。世界を違えても自分の呪いは呪いのままだとどこかでは気づいていた。

それでも、珠莉だけは失いたくない。自分の選択を誤ったと思いたくない。

その一心で珠莉の事だけは受け入れる。珠莉の見ている世界の均衡をただひたすら守ることに、意味を見出そうとしていた。

珠莉に求められている、それだけが自分の存在意義だった。

もう、殆ど食べ物の味も感じない程に負担が掛かっている事はひたすら目を反らす。

「ねえサナ」

しかしその均衡も、私の力ではどうしようもないのだと珠莉自身が思い知らせてくる。

それは、いつもの通りに珠莉と映画を見ていた時だった。

見ていた映画の内容は迷惑な主人公がそのお騒がせで知らず知らず事件を解決するコメディもの。

勿論、気が重くなるような表現はなかった。

が、不意に珠莉が開いた口は、その映画には似つかわしくない程に重たかった。

「……私って、邪魔かな? うるさいかな、迷惑かな?」

”また始まった”

私の内心の第一声はそれだった。

私と関わるよりずっと前から珠莉は自分に自信のないところがあるらしく、気づけばこうして突然愚痴が始まる事があった。

その発言は突然、他愛のない話から始まるから回避できない。

「私がいない方が、みんなにとっていいんじゃないかな……」

「そんな事、ないわよ……誰が言ったの?」

勿論、それを無下に扱えば、慰めを求める珠莉の愚痴はヒートアップする。

だから、ここは穏便にその言葉を受け止めるに徹する。

「誰も言ってないけど……価値のない存在だと思うから」

「っ……」

ただ、内心は恐怖を飲み込むのに必死だ。この人は私から誰かを奪う恐怖を不意にこうして突きつけてくる。

また置いていかれる、と私を焦らせる。泣くことも怒ることも許されない環境に私を放り出す。

それは、私が珠莉にとって必要ないと宣告されているのと、私にとっては同義だった。

私には珠莉しか縋るものがなくても、珠莉はそう思ってくれない。

その現実を何度もちらつかせられる事に、徐々に疲弊していた。

でもそれを表情に出せばまた珠莉は傷つく。

だからただ、気にしてないふりをして、笑って話を聞く。

ここで発作を起こして、今度こそ見放されたら……考えるだけで怖い。膝を抓って正気を保つ。

「もしかして私、いなくなった方がいいかもしれない……」

「私は……思ってないわ。だからそんな事言わないで」

「そうだよ、珠莉、ボクらみんな感謝してるし、迷惑だなんて思ってないよ!」

話を聞いていたのだろうか、そこに偶然来ていた玲子が割り込んできた。

どさくさに紛れて、抓っていた脚を指先ごと玲子に踏まれる。

悲鳴を上げちゃダメだ。今は珠莉が『主役』なのだから。

私が自分を嘆くことは玲子自身の口から、不愉快だと初日に告げられているのだから。

でも、こうして私の気持ちは噛み殺し続けているのに……どうして、この子だけは本音も、弱音も許されるのだろう?

考えてはいけない、と理解っていても不公平だと頭の片隅で思ってしまった。

「ねえサナ、トラッシュって知ってる?」

そうしてすっかり私と珠莉の関係に、静かな亀裂が走り始めた頃。

いつもの通り不意に珠莉が呟いた。

「……トラッシュ? ……知らないわね」

「この国の怪奇現象……? って言えばいいのかな。『神隠し』って言えばわかる?」

「突然、消えてしまうという事?」

「そう」

相当に物騒な話をしているにも関わらず、珠莉はいつもの通りの淡々とした返答で小さく頷いた。

その言動で傷つけられている相手が目の前に居ることを、珠莉は夢にも思わない。

その鈍感さ、無神経さ、残酷さ……もう、受け止める気力は私には残っていなかった。

普段なら噛み殺せるはずの怒りの表情も、静かに顔に出てしまう。

が、やっぱり珠莉は気づかない。気づいてくれない。

この国に来て……珠莉の告白に応えて1年も近い。

身体を重ねた回数より、玲子やあかりに受けた傷を隠す為に接触を避けた回数の方が多くなった。

考えないようにしていたって、湧いてくる疑問はもう消せなかった。

「条件とかよくわかってないんだけど、憧れ……目標……ええと……違うな……」

「…………」

それでもどこか、嬉々とすら珠莉は踏み荒らしていく。

眼の前に居る恋人が縋る唯一を。

「私の夢みたいなもの」

その言葉でもう、疑問は確信になる。

私は。

この人の大切なものではない。

「……またそういう話」

付き合っていられない。

それが、理論より先に出た直感の答えだった。もう耐えきれなくなって、席を立つ。

唐突に見えたのだろうか、ぽかんとした珠莉の視線が私の顔を追うことにすら、怒りしか湧いてこない。

「悪いけど貴女のそういうところ、嫌い」

「……え、どうして」

「そのぐらい自分で考えたら?」

必死に守ってきた均衡なんてもうどうでもよくて、もう耐えられなかった。

今まで珠莉に合わせて大人しく演じてきた自分の背を蹴り飛ばすかのように、今まで座っていた椅子を蹴り飛ばして、ドアを拳で殴って部屋を飛び出す。人の力じゃないそれで蹴られ殴られた椅子とドアは真っ二つ。自分の心境のように粉々だった。

それでも珠莉は私を追ってくる気配もないことにまた小さく絶望して。

ああ、ほら。

またやってしまった。

また自分から壊してしまった。

情けなさに家に帰って咽び泣く。あかりの襲撃に怯えて、カーテンすら開けられなくなった薄暗い部屋。

いつの間にかどんなに苦しくても、発作は起こらなくなった。気絶も出来なくなった。

珠莉がいつの間にかそれを能力で塗り潰していたらしいと知ったのは後のこと。

哀れんだつもりだったのだろうけれど、今の私には逃げ道すら断たれているようにしか思えなかった。

そこから、もう気を使うという努力も、取り繕う気力も一切を失った。

今まで堪えていたたがを外したように、珠莉の気を引く為だけに衝動で動くことしか出来なかった。

「身なりぐらい気を使えない訳?」

「え、あ、ごめん?」

「人をほっといてなんとも思わないの?」

「え?」

「私にプライバシーってものは無い訳?」

「ええと……」

理不尽も八つ当たりも全部珠莉にぶつけて、それでも肩透かしを食らうことが殆どだから余計に怒りは蓄積した。

それでも偶に珠莉が傷ついた顔をすれば、思い知ったかと思うことが嬉しかった。

自分が受けた傷のひとつでも気づいてくれたらと期待して、どんどん珠莉への縋りは歪な執着に変わっていった。

いつしか珠莉を傷つけることが目標になっていって、玲子の嫉妬心やあかりの陶酔を笑えない程に歪んでいく。

「はっきりしなさいよ!!」

「ちょっと、珠莉に当たるなよクソガキ!!」

その内に避けていたはずの玲子との喧嘩も、珠莉の前で耐えられなくなっていった。気取らない口調で叫ぶこちらに、猫を被っていた玲子の言葉もついに素に戻る。

「うるせえとっくり女!! アンタこそ何ちょっと優しくされたぐらいでいい気になってる訳? おかしいと思わないの?」

「思わないけど!? お前のほうがいい年して子供みたいな態度取っておかしいでしょうがこの性格チビ!!」

「ちょ、ちょっ……ふたりとも……!!」

玲子の言う通り、すっかりこの時点での私の態度は拗ねた子供、それ相応だった。

どうやって感情を表現するべきか、厳しい躾の中で学べなかったただの子供。

問題行動で気を引く、ただの迷惑な子供。

「もういい……」

怒りは癇癪に変わっていく。喧嘩を始めた私と玲子。

珠莉が庇ったのは玲子の方だった。私をいじめ抜いた玲子。それに気づかないまま玲子を庇う珠莉。

「もういい、もういい、もういい!!!!!!」

叫んでも吐き捨てても、もう何も通じない。

怒りでおかしくなりそうな頭を掻き乱しながら、その場から逃げる。

それでも、後ろから聞こえる声は玲子が発する私の悪口だけ。

珠莉は止めてさえくれなかった。

その内に、当然ながら珠莉の手は徐々に私から離れていった。

今更寂しいだなんて言い出せなくて、顔を合わせれば悪態を吐くことしか出来ないのだから当然の報いだろう。

でも、いつか、どうか、そんな事を言わせてごめんとあの子が謝るのを期待して。

絶対に読んでくれないと分かっていたのに、言葉の裏を読んでくれるのを願って……。

「サナ、別れよう。私達」

そして、その日はやってきた。

珠莉に誘われてこの国にやってきた存在を『移民』と称し、色々な物語からやってくる人達。その種、存在は様々だ。

病院にはその種や年齢などプロフィールを特定する健康診断が存在し、その測定値で私の年齢が17の頃。

珠莉は20を越えたぐらいだったと思う。

気持ちも見ているものも、そして過ごしている時間すら最初から食い違っていた。

その現実を確固たるものとしたのが、その一言だった。

「婚約者が出来た」

恋愛どころか容姿にも疎かったあの人が、人並みに化粧で着飾ってきたある日、新月と名乗る男を連れて来た。

私が連れてこられた時とは空気感からもう違う。周りがすっかり祝いのムードになる傍ら、誰からも私と珠莉が恋仲だったはずと思う相手は居なく、あの玲子すらその現実を受け入れている事をどこか遠くに見ていた。

苦い顔をしていたのは私とあかりだけで、その視線に気づいた珠莉が一瞬、私の目を冷たく一瞥するのを見逃さない。

その目は、長らく無視とも等しい対応を続けてきたあかりに向けるものと何ら変わらなかった。

あかりが珠莉に嫌われている経緯は、あかり本人にも心当たりがないと言うので知らない。けれど、私にはもうそれと同等かそれ以下の存在でしか無いと示されたようで。

「……許さない」

それが余計に怒りやプライドにヒビを入れた。

一度は手を取っておいて、それを放って置いたと思えば、今度は突き放して……。

「そうやって、捨てるんだ……?」

捨てられた。

また捨てられた。

あの神様と同じように、また私は要らないものになってしまった。

絶対に、絶対に……後悔させてやる。

珠莉を、いや、『新月さん』に、傷をつけ返してやる……!!

珠莉の婚約を気に、NoTeの様子は少しずつ変わっていった。移民同士の結婚や加齢による世代交代もあり、珠莉が救世主である事を知らない移民の子の増えてきた中、私がかつて珠莉の『お気に入り』だったことも、人間ではないことも殆ど忘れ去られていく。

「一応アンタも子供だしさ、行っておいて損はないでしょ?」

そうなると私はただの未成年の子供で、珠莉から離すためか、それとも現実から目を逸らさせる為か。

いつの間にか預かっていただけの屋敷を正式にシェアハウスへと変え、管理人として働いていた玲子に学校へ行くことを勧められた。

「……別に、義務教育に等しい内容は子供の頃に一通り済ませてるんだけど?」

「そうだけど、こう……生活の中でしか学ばない事とかもあるじゃん」

私より年齢を越えた事で、玲子は少し性格にも落ち着きが出るようになった。

私にとっても玲子は何度も本音同士で喧嘩したせいか、玲子とはぶつかり合いこそあるもののある程度を素で話せる相手にいつの間にか変わっていた。

「……仲間はずれにされたり追放されたりする以外で?」

「偏屈だなあ、この性格チビ」

「……そうしたのはあんた達でしょ」

そのせいもあってか、嫌味こそ言われるものの嫌がらせの回数は大きく減り、玲子は私に大人として接するようになっていった。

どうやら玲子は珠莉に捨てられた私に同情を見せているようで、その言葉にも困った子供だなあと笑うだけだ。

その子供扱いがどうにも気に食わない。

と、同時に、もうどうだっていい。反抗も噛みつくようなものではなく、いい加減な返事で濁すだけになっていった。

……真正面から、求められたはずの相手に要らないと示されたのだ。

あの神様と同じように結局必要ないと判断された以上、何かに縋ることも叶わないなら……私も私自身が要らない。

何かを求め、維持して、守って……生きるために何かをする気力は完全に失ってしまっていた。

「勝手にすれば」

反論すら面倒で放り出す。

すぐに玲子の部屋へと引っ越す羽目になり、国境にある学校へと在籍手続きも進められた。

そこからの学生生活は、正直面白みも感じなければ、かつての玲子やあかりのように陰湿に攻撃される事もなく、かといって今更勉学に励める程の意欲も出なかった。授業は適当に聞き過ごしたり、出たり出なかったり、制服も適当に着崩してる癖には私服に着替えるのは面倒だからと楽になる方に逃げた。

その内にすっかり不良扱いされる頃には、先生達も私のことを諦めたらしい。注意は保護者である玲子に行くようになり、玲子の説教を聞き流し、自室で本を読むという、珠莉と共に居なければ覚えなかったであろう現実逃避でやり過ごすようになった。

物語の中に、自分より酷い末路を迎えた者が居れば少し安心するし、想い叶わなかった者を見れば自分だけじゃないのだと諦める事に励ましを見出し、誰も居ない天文部に入って空を見て星には手が届かない事にまた安堵して。

「あ、新月さん、居たんだ?」

「……サナ、学校……どう?」

「別に、フツー」

そうして結局、珠莉……改め新月さんにはやっぱり冷たくすることしか出来なかった。新月さんは別れを切り出しても尚、私を気遣うような素振りで構ってくる。自分は大人ですという顔をして近づいてくる。捨てたのなら捨てきってくれればいいのに、そうはしてくれない。

それがどうにも腹立たしくて、余計に私は反抗を重ねていった。

そんなある日。

「…………アンタさ、自分の力が弱まってる理由分かってる?」

その反抗、苛立ち、捨てられた悲しみや憎しみ……それにつられて足を引っ張られるかのように、私の魔力は日に日に、今までよりも急激に消耗していった。精神を柱とする己の『魔力』は、ただで減りやすくなっている。その上、神様の呪いで傷つけられまくった身体も心も魔法で今まで支えてきた。魔法で補って居なければ、私は歩く事は愚か、視力すら失って生活は成り立たないだろう。

その上で、神様が存在しないこの国で、神様の所有物である私は魔力の供給を多くは受けられない。

となれば減る一方なのは確定で、明らかに倒れる日が多くなってきた頃、見かねたあかりがそう私に告げた。

「理由? そんなの、此処に閉じ込められて何年経ったか分からないじゃない。勝手に減りもするでしょ。使う一方なんだから」

その言葉にあかりはただ、静かに首を振る。

珠莉に別れを告げられた頃から、あかりは私に対して玲子と同じく仄かな同情を見せ始めた。そこには片割れであるはずの妹が人を潰してしまうかも知れないと不安も混じっているようで、でも敵対していた上に、最愛である妹を傷つけまくった相手に情けを掛けるほど優しくもなれないのだろう。

時折中途半端に諭してくる様子は、珠莉や玲子と同じく、私にとって目障りで余計なお世話でしかなかった。

だからこの時も、最初はあかりのお節介でしかないのだと思った。その言葉を聞くまでは。

「……珠莉がアンタを放したからだヨ」

「は?」

「そしてアンタが珠莉から離れたから」

意味が分からなかった。何故珠莉?

正直、私は珠莉の手から自分が離れて、寂しいとは思っているが清々もしていた。愛玩動物みたいに愛してる時だけ好き勝手可愛がられて、要らなくなったら放られて。その結末そのものは、他に関わった人間たちとなんら変わらない。皆、私の手から勝手にすり抜けていく。だから諦めて来たし、目を逸らして終わればそれでいい。

だから、玲子たちが私に新月さんの幸福を認めさせようとしている今の状況が大嫌いだ。中途半端に手を差し伸べて置いて、その手を取ろうとすれば突き放す真似を繰り返してきた癖に、今度はそれを受け入れろとか。あかりもそう言いたいのだろうか? そう一瞬思ったところで、それにしては雰囲気が重たい。次の言葉を待った。

「……珠莉がこの世界を作った。僕は珠莉の次に、珠莉の手から直接生まれてる。だから、珠莉がこの世界をどうやって構築したかも全部見てきてる」

「そこにあんたの主観は入ってない?」

その言葉の意図に気づく。が、私はそれだけでは信用をしない。珠莉に一番盲目的だったのはこいつで、私がまだ珠莉のお気に入りであった頃は、嫉妬から一触触発に発展したことは珍しくなかった。だから、続く言葉も比喩表現で在ることを疑わない。

「間違いなく、珠莉はアンタの世界で言う『神様』だよ」

その言葉に返す言葉はなかった。神の違えた世界で、神から生まれた自分は形を保てない。その力を維持するためには、近しい存在の供給を受ける必要がある。その供給が緩くでも確実に続いていたのは……神の立場に一番近い、珠莉の『お気に入り』だったから……。酷く皮肉な話だった。

「…………そう、で?」

「……アンタって本当につまんない奴になったね。いいの、消えちゃって?」

その事実には確かに驚いた。が、今更それを聞かされたところで、珠莉は私を捨て、私は珠莉を捨てたその事実は変動しない。変える気もなかった。あかりはその返答に機嫌を悪くしたらしい。どうして欲しいつもりだったのだろうか、気づきたくはないので、目を逸らす。

「……私の命なんて、私の勝手……もう誰のものでもなくなった以上、あんたが関わることじゃないでしょ」

それであかりは怒ったらしい。視界から消えていくのを敢えて追ったりはしなかった。

その後も授業に出たり出なかったり、倒れたり反抗したりしながら、どうでもいい日々は続いていった。

その間も徐々に力は減っていき、目が見えなくなる日も増えてきた。長く続いた葛藤の疲労から高熱を出す日もあったが、勿論誰をも突き放した生活でそれに気づいて貰える事はない。自然に微々たる魔力を吸って回復するのをじっと待つ、手負いの獣のような生活で凌ぐ。人目を避けながらただ、生かされるだけの日々。

しばらくして、あかりがひとつの提案をして来た。

「クソガキ、アンタ、教会でバイトしない?」

「教会?」

教会。神の居ないこの国でそれは、神の文化や習慣があった移民が見様見真似で築いたマークでしかない。形式も文化入り乱れ、それはもうこの国独自のものとなっている。魂の存在も無いものとされているこの国では、移民の肉体はあかりが消し、遺体の代わりに故郷の物語を燃やすのだという。あかりが神父に伝手があったのはその関係なのだろう。

「……僕の知り合いの神父のおじいさんがそろそろ歳だしって……空き部屋もあるみたいだし……くだらないぐらい悪い人じゃないヨ……」

「…………神事に関われば少しは力を吸える、って?」

珍しく言い淀むあかりの言葉に、その真意を見出す。敵対視している相手に面と向かって心配の様子を見せるのは複雑なのだろう。あかりは、まあ、そう、かもネ。と歯切れ悪く頷いた。

「……余計なお世話焼くところはほんっと……似たもの兄妹。気色悪い」

「…………いいならいいケド。そのまま野垂れ死ねば?」

そのお節介もムカつくものでしかないので悪態を吐けば、あかりの綺麗な顔が毒々しく歪む。

「……野垂れ死ぬ? まさか」

……何故私が延命を望まないか。誰にも話さない。話したくもない。

けど、きちんと目的がある。

この命、どうせあの日、あの海の中で死ぬはずだった人生。

うっかり命拾いしてしまっただけでここまで来た。

それでもやはり長くは生きていられないというのならせめて……あのひとの……新月さんの前で死ぬ。

それであのひとを傷つけ返せればそれでいい。人が死ぬ恐怖をあの人も味わえば良い。

それでかつて自分が言った事を後悔させてやれれば復讐になる。

例えその理由が恨みでも、怒りでもいい。一度で良い。

私のことを考えて、私だけを見てくれたら……。

そのチャンスを待てるのなら不都合も使ってやる。

「でもね、玲子のお節介にもうんざりしてたところ。離れられるのなら悪くないわね」

そうして私は、大嫌いだったはずの『教会』に身を置く事になった。

そこからしばらくは、教会の手伝いをしながら学生として、相変わらずふらふらした日々を送っていた。

大元、前世は教会の子だ。集会の手伝いをする事もあれば、神父の代わりに懺悔を聞く役割も持った。

神父は聞いていたとおりに人が良く、こんな不良の為にも保護者として関わってくれていた。

が、それもどうせ珠莉の為だと思うと野暮ったくて、結局のところ私は深くは神父と積極的に『家族』になろうとはしなかった。

ただ、少しだけ心境は変わった。

手放されたのならば、縋るものが他にあったらいい。でも縋る先は見当たらない。

今まで悪いことをしてそこに居場所を求めて、最初は必要とされても最後には捨てられる。

なら、逆のことをしてみたらどうだろう?

勿論、積極的にそうするほどの気力も体力も魔力ももう持っていない。

だけれど、明確に、確実に私は他の人間より物理的に力を持っている。

目の届く範囲で、気まぐれに人を助けるようになったのはこの頃からだった。

別に神父の優しさに絆されたとか、恩返しとかそういう優しさじゃない。

恩を売ってみようとか、評価が欲しいとか、もっとそういう汚い感情の偽善だった。

車に轢かれそうな移民を守るために車を蹴飛ばしたり、強盗を殴って止めたり……その方法も暴力とほぼ変わらない。

今思えば、殆ど八つ当たりだったかもしれない。ストレス解消の類。正しさを振りかざす快感。

そこには感謝もあったが、同時に私を人間だと思いこんでいた……正直、私も自分が人じゃないことを忘れていたけれど、そんな人達からは畏怖もされるようになった。

それは恐らく、長らく側にいた珠莉……新月さんも同じだったのだろう。

「サナ! どうしてまたそうやって危険な事をしようとするの?」

「…………」

偶然に新月さんが大型トラックに轢かれそうになったところを、反射的に助けたのはそこからしばらく経った頃。

昔より少しはしっかりした印象だけれど、まだまだぼんやりしていることの多い彼女は、まだ『死にに行っている』気がして、なんとなく腹立たしいかった。だから轢かれそうになった新月さんの目前に、これ見よがしに突っ込んでいって、トラックを蹴り上げた。

一瞬、新月さんのせいでこちらが死ぬかもしれないと思わせようと。

勿論、運転手も救ったので人命に被害はないものの、トラックや通りはその勢いで大破したし、勿論それを目の前で見ていた新月さんにとっては自分が死のうが生きようが、私が招いた大事故に見えたのだろう。

「化け物……」

間一髪助けて後ろを振り返った私と目が遭った新月さんの第一声はそれだった。

聞こえてないとでも思ったか、一瞬で正気に戻った新月さんに腕を引かれ、そのままふたりで玲子のシェアハウスに連れて行かれて、始まったのは説教だった。

「何? そのまま轢かれたかった訳? まだそういう事しようとするんだ? 恩人に仇を売るの上手いね?」

「そうじゃない……助けてくれた事は嬉しいけど、サナならもっとやり方が分かるよね?」

「なにそれ? わからないけど? 新月さんの言っても分からないのが感染っちゃったかもね」

勿論、車を静かに静止させて被害を最小限に留めるやり方もなくはないだろう。

けど、それは魔力に余裕がある時の話。……イコール、私の気持ちに余裕があった時の話。

自分も周りもぞんざいに扱ってきた奴を助けるのに、こちらが繊細を求められる謂れはないとでも言いたげに、私は乱暴に席に座る。

「……どうして、どうしてそうやっていちいち反抗するの……なんで私を困らせようとするの?」

その様子を見て、新月さんはまるで心外と言った呆れた声を零す。

どうして? そんなの、目の前に居るお前を傷つけたいからに決まってる。

私が傷ついた分だけ傷つけば良い。自分がしてきた事を返してやってるだけ。

そうして困っている間は私の事を考えてる。それが嬉しい。

「反抗されたくなきゃ構わなきゃいいじゃん、『化け物』なんかに。必要ないって言ったの、そっちなんだから。必要、ないんでしょ? ああ、さっき轢かれればよかったね、ごめんなさいね、無事で?」

『化け物』?

そんなのとっくだ。わかってる。自分が一番理解ってる。

何度追い出されたか、何度襲われたか、何度罵られたか。最終的に伝説の悪魔と呼ばれ、物語にされ、追い出され。

毒を盛られようが、命を狙われようが、必要とされようと人を殺してきた自分が『化け物』なことぐらい。

「!!!」

瞬間、向かい合って座っていた新月さんがおもむろに立ち上がり、勢い良く私の頬を叩いた。

恐らく怒り任せの咄嗟だったのだろう。私より先に、私が痛みを感じるより先に、新月さんの表情が曇る。

「……ほら、やっぱり……」

じん、と頬が痺れる感覚は、ひ弱で気弱な相手だったとは思えない程に痛かった。

手加減なんかない。本気のビンタだった。

それはもう、私に手加減は必要のない、怒りをぶつけるべき相手だったという証拠で。

命を救った、それ以上に『化け物』で、不要な相手だと言うことを何よりも示しているように思えた。

だって。だって。仮にもう恋人じゃなかったとしたって。

ただの大人と子供だとしたって。

あんなに大好きだった『ごめん』も『大丈夫?』も、もう貴女の口から聞けないって理解ってしまったんだから。

「さ、サナ……違う……違うの」

「違わないじゃん」

勢いで床に転げた私に、言い淀みながらもやはり手すら伸ばさない。

この人のこういうところがいつまでだって嫌いだ。口ばっかりで心配して行動に移す勇気も無い癖に。

私の言葉の裏すら読まない癖に、読もうとも思ってくれない癖に!

期待だけさせて、縋ることも許してくれない、その手も掴ませてくれない癖に!!!

「…………もう危険な事は、やめて……」

そう言って新月さんは逃げるように、玲子の屋敷から出ていく。

ほら、結局そうやって逃げていく。

「……チビ、今のは……その、やりすぎだって思うよ。ボクからも言っとくから……」

「…………必要ない」

どうやら影で事を見守っていたらしい玲子も口を出す。けれどその心配ももううざい。

だって、今のではっきり、もう拒絶しかされないんだと心が決まってしまったから。

腫れた頬のまま私も立ち上がる。玲子が止めかけた手を払い落として私も屋敷を後にした。

帰り道、沈む夕日に思い出す。島に追い出される前の日の事。

つばさとしたまたねの約束も破った。何度も迎えに来てくれたルナの手を取ることすら出来なかった。

「……はは……」

乾いた笑いを最後に、これ以降私の口から声が出ることはなかった。

そこからの生活はもう記憶に薄い。

事切れた、とでも表現したら良かっただろうか。

言葉を話せなくなり、大好きだった歌もこれで完全に失った。

学校には行っていた、ように思う。が、結局授業の記憶はないので授業には出ていなかったと思う。

どこに帰っていたのか、教会か、玲子の屋敷か。はたまた帰らなかったのか。

ただ、曖昧の記憶の中で、どう死ねたら新月さんに……珠莉に最期の仕返しが出来るのか。

それだけを考えてひたすら藻掻いていた。

魔力はすり減り、意識は濁っていく。徐々に身体は動かなくなる。

最後に覚えているのは、自分の涙があまりにも冷たくて、ああやっぱり人の心なんて無いって自分を嘲笑した事。

本当は死にたくなんかなかったという後悔。

そんな後味の悪い気持ちだけだった。

でも、もうこのまま助からなくて良い。助かろうとすればするだけ、寂しくなるだけだった。

反抗しか出来ない自分にもう疲れた。

ハッピーエンドなんて求めない方がいい。

化け物が消え去ったら、だって、たぶん、きっと。

この物語の中心に居る、あの子の『めでたしめでたし』なんでしょう?