こどもはたたかえない④-1

 私が働く小さな町の小さな署。普段は雑用ばかりの地域課でふいに湧いた出張話も、なんとかかんとか無事終了しました。上司の『黒猫』ライさんも、怯えたり泣いたりの散々な仕事が片付いて一安心……と思ったその時。

「……なぁ、俺も心配したよ。寂しさで死んだのは、一体誰だったんだろうなぁ? ってよ」

 ふいに後ろからしたのは、聞き覚えのある男性の声。さっきまで、いつものように穏やかな顔で笑っていたライさんの顔から笑顔は消え、恐る恐るとライさんは振り返りました。私もその異様な空気を感じて振り返り、目の前の光景に驚きを隠せませんでした。

「……な、レイル」

「……おじちゃん」

 カウンターに肘をついて、少し悲しそうな笑顔で片腕を上げて立っていた人物。それは、確かに……記憶を失い、老化が進んで、介護施設に入っていたはずのライさんの『育ての親』……スティーブさんでした。

***

「……っ!!」

「ら、ライさんっ!!」

 ライさんは彼の姿を目にした途端、二、三歩後ずさり、すぐにカウンターを蹴飛ばすかのような勢いで逃げ出した。私もすぐに後を追おうとするが、バタン、とカウンターのドアが叩きつけられた音に躊躇して、一歩遅れる。私は慌ててライさんの手を引こうと手を伸ばしたが、ライさんはパニック故か、普段はない機敏さで私の手をするりと避けた。

「さすが猫っ!?」

 私はあまり咄嗟の事に驚いてしまう。走るのも、機敏な行動も、普段のライさんでは絶対にしない。それだけ、唐突なお父さんの復活に戸惑っているという証拠だった。

「……」

 私は迷っているうちに、スティーブさんと目が合ってしまった。スティーブさんもこちらを一瞥して、すぐにライさんの背中に目線を向ける。

「……追ってやってくれ、俺はあいつが落ち着いた頃に行くさ」

 スティーブさんはこうなることを悟っていたのか、ヘラヘラと笑いながら手を振って私を促した。しっかりと、ライさんがこの後どうなるかも見越した上で。やはり、彼はスティーブさん本人で、記憶もしっかり戻っているようだ。どうしても彼の状態が気になってしまうが、その謎は今はいい。今はライさんの様子を見に行くのが先だ。私は小さく頷いて、ライさんが逃げていった方向へと駆け出した。

「ライさんっ、待って下さい、ライさんっ!!」

「っ、はぁ、っ……はぁ、っ……う、ううっ……」

 そうしてライさんに追いついたのは、署の裏すぐ。流石に長くは走れなかったらしいライさんは、数分で失速した。スティーブさんの予想通り、呼吸は不安定になっている。まともに話せる状況ではない。

「大丈夫ですか……?」

「……ど、どうして、何故、父が……っ」

 ライさんはそのまま署裏の壁に手をついて、呼吸と共に疑問を吐き出す。肩をそっと抱くと、やはり震えていた。そのまま、ライさんの背中をさすりながら、私も首を横に振る。

「私にも、分かりません……」

 その言葉に、ライさんは無言で顔を覆った。やはりまた、嘘や隠し事をされたのでは、という、ライさんの絶望が言葉にされなくとも分かってしまい、私も胸が痛む。ライさんに隠し事をしない、と、ライさん本人に宣言したのは私だからだ。

「……すみません、音胡さん……っ、また、勝手に逃げて、っ、しまいました……」

「いえ、驚くのも無理はありませんよ。私も、正直驚きましたから……」

 しかし、それでもライさんが次に口にしたのは、私への謝罪。その態度に胸を痛めつつ、私は強く首を横に振る。ライさんが謝るような事は何も無い。

「……っ! げほっ、 ひ、ふぅっ、はぁ、……っ、ひっ……」

 ライさんの背をそのまま撫で続けていると、不意にライさんは強く咳き込んだ。胸元を押さえると、苦しそうに肩を上下させ始める。発作が始まってしまったようだ。ライさんは、震える手でなんとか上着のポケットに手を入れるが、手が震えて薬が探せないらしい。狼狽えた様子で片腕を押さえる。

「ライさんっ……!」

「はぁっ、すみま、せっ……ひゅっ……っ、ぅ、う……っ」

 私は慌ててライさんの手ごと薬を掴んで引っ張り出した。薬の蓋を爪で弾き飛ばすとライさんの口に当てる。トリガーをカシャン、と引くと、ライさんは安心からかぐったりと脱力した。少しするとライさんの呼吸は落ち着いてくる。

「あ……ありが、とうございま、す……」

「……いえ……」

 そんな状態でもお礼を言うライさんが、あまりにも苦しそうで私は直視出来なかった。かける言葉も見当たらない。この状況、どうしてあげたらいいんだろう。

 その様子を遠くから、スティーブさんが見ていることに気づいて私は顔を上げる。ライさんもそれに気づいてはいたようだけど、やはり彼に向き合うのはまだ怖いのだろう。うつむいたまま、私の腕を頼りなく掴んでガタガタ震えるだけで、目を合わせることはなかった。

「すみませんが、今日の所はお引取りください」

「……そうする。驚かせて悪かったな、レイル。明日の朝、また来るよ」

 私はライさんの前に立ちはだかると、毅然とした態度で彼にそう告げた。彼は明確に頷くと、そう言ってあっさりと引き返す。……彼が何処に帰るのかは知らないが、明日の朝、また来ると告げて去っていった。

***

「ライさん、大丈夫ですか? 私、家までついていきましょうか?」

「……いえ、大丈夫です……すみません……」

 その日の帰り際。薬の副作用が落ち着いた後も、ライさんは一日中ずっとしょんぼりしたままだった。そのあまりにも落ち込んだ姿に心配になって、私は家まで付き添おうかと提案する。しかし、ライさんはその言葉に首を横に振った。返事は力なく、耳もしっぽもしょげきっているのに、やっぱりライさんは平気ぶる。

「ライさん……では、また明日」

「……はい……」

 一応、私はいつも通りの挨拶を交わす。その挨拶が、偶然にもライさんにとって酷な日を指定するものであったことに私は言ってから気づき、唇を噛んだ。それでも、ライさんはその挨拶にはいと返事をしてくれる。

 でも、そのままとぼとぼと帰路につくライさんの後ろ姿は、今までのどんな姿より頼りない。

「……でも、今のままじゃ……ライさん達は変わらない、よね……」

 ライさんを逃がすこと、逃げてもいいんだよ、と言ってあげる事は簡単だ。ライさんが明日、署に居なければいい、それだけだ。……だけど、それじゃあライさんの辛さは、変わらない。ずっと、分からない答えに怯えたままになってしまう。スティーブさんだって、きっと今日は何かを伝えに来たんだろう。ずっと言えないままじゃ、辛いはずだ。今までが、そうだったのだから。

 その夜、電話が鳴った。呼び出し画面を見ると、ライさんからのようだ。ライさんから電話が掛かってくるなんて珍しい、と思ったが、昼間の事を考えると不自然ではない。また、ライさんがヤケになっているのではないか、と少しハラハラしながら電話に出る。

「はい、音胡です」

『……』

「ライさん、ですよね? どうしましたか?」

 私は努めて、優しく声を掛けた。ライさんから話題があるとすれば、タイミング的に明るい話ではないはずだ。それをライさんから言い出さなければいけない、というのは、ライさん的にとても勇気が居る事だと、私は知っている。

『ね、音胡さん、すみません……どうしても、落ち着かなくて……ごめんなさい、上司の僕が、っ、おかしい、ですよね……』

「いいえ、おかしいことなんてないですよ。勤務時間外ですし、私とライさんの間に今更そんな堅苦しい上下関係、ないですよ? 気にしないで、遠慮しないでください」

 電話の向こうのライさんの声は、明らかに不安でいっぱいだった。また、泣いているのだろうか、声は少しだけ震えている。ライさんは一人暮らしだ。恐らく明日の事を考えていて、怖さに勝てなくて電話してきたのだろう、と察する。

『あの、昼間のこと、本当にすみませんでした……』

「ライさんが謝ることじゃないですよ、私も驚きましたから……まさか、御本人が自分の足でやってくるなんて、あの姿からは想像もしませんよ……」

 やはり、昼間の事を気にしているらしい。私も驚いたので、責めることはない。誰だって驚くだろう。

『……すみま、せん、やっぱり、こわくなってしまってっ……気が付いたら走り出してて……明日を考えると、も、足がすくんでて、は、はは……こんなことって、あるんでしょうか……あまりにも次々に事が起こりすぎて、おかしくなりそうです……』

「……ライさん……」

 限界からか笑い始めたライさんの声からは、感情がごちゃ混ぜになっているのがはっきり分かった。スティーブさんへの答えや事実をついに知らされてしまう不安や恐怖。告白までした相手ともう一度話せる機会が生まれた緊張や安堵、嬉しさ。知らないことが次々に起こる、驚き、悲しさや怒り……。色々なものに押し潰されそうになっている。勿論、それはライさんにとって、残酷な決定を自ら聞き出さなければならない、という決断の時でもあるのだ。

「……そうですよね、怖いのは当然です……でも、スティーブさん、私から見て、少なくとも怒ってる様子は無かったように見えました。なんか、謝りたい感じが強い印象です」

 私は思い出す。ライさんが逃げた時も、帰るようにお願いした時も、スティーブさんは優しくライさんの事を想って行動してくれていた。まだ考えている事までは分からないけれど、二人が最後に話したような、辞めろ辞めないの喧嘩をしに来たようには、私には見えない。

『そう……ですね……僕も意外でした。卒業間際の時は本当に喧嘩ばかりで、僕も僕で反抗ばかりしていて、まともに話すなんてとても出来ない状況でしたから……』

 ライさんにもそう見えていたようで、ライさんも同意する。記憶を失う直前のスティーブさんからは、想像できないぐらい昼間のスティーブさんの口調は穏やかだったようだ。

「……ライさん。私はこの一年半、ライさん達の話を聞いていて、もっと話ができたらライさん達はすれ違わなかったはずなのに、と何度も思いました。そのチャンスはもう、今しかないと思うんです」

『……はい』

 私はその言葉に確信を持って、ライさんに思っていたことを話す。ライさんは躊躇いがちにだけれど、しっかりと私の言葉に返事をしてくれる。ので、私は思い切って、ライさんに私の意見をぶつけた。

「……ライさん、これは逃げちゃダメなやつです。厳しいことを言うかも知れませんが、これだけは……これだけは、後回しにしてはいけないことです!」

『……っ!』

 私はいつもより強くライさんにそう告げる。予想外ではあるけれど、私が今までライさんと共に居て幾度となく思った、ライさんとスティーブさんの対話の時が、今ここに巡ってきたのだ。ライさんにはここで、彼と話して欲しい。その思いを強く伝えた。ライさんはその言葉に、声にならない驚きを漏らす。

「……前も言いましたよね。ライさんが思ってるより悪いことなんて、滅多に起きません。……ですから、シンプルに、単純に、一番最初の答えをまずは、聞きに行きませんか。難しい事は聞かなくていい、ただ、イエスかノーか……それだけです」

 私は努めて明るく、ライさんにそう告げた。電話の向こうから言葉は聞こえないが、ライさんはその言葉を受け止めてくれている、と信じて私は言葉を続ける。

「大丈夫です、スティーブさんはライさんを酷く言ったりしないと思います。彼は貴方のお父さんです。仮にも、貴方は彼の大事な子供のはずです。……もし辛いことを言われたって、私が後から愚痴でもなんでも聞きます。……ね、大丈夫です。フラれたらアイスでもおごりますから」

 私はそう言って、ライさんに笑ってみせる。見えなくとも、笑っている事が伝わればいいなと思って、心の底から笑顔を見せた。本音としては私も怖い。噂だけでも死を選べるようなヒトが、もしも全てを打ち砕かれるような結果を知ってしまったらどうなるのか。

 ……でも、ライさんの方がずっと怖いに決まっている。不安がらせちゃいけない。だから、私は笑う。私が今出来ることは、それだけだ。単純だけど、きっと大事なこと。

『……っ、音胡さん、ありがとうございます……。貴女の言葉を聞いてる時が、一番安心できます……」

 ライさんは私の言葉に、少しだけ和らいだ様子でお礼を言った。そうしてまた明日、という約束をもう一度して、その日は電話を切る。明日。明日こそ、二人の間にあるものの答え合わせができたら。私は、何かにそう祈った。

***

 翌朝、スティーブさんは昨日の約束通り、署の横でライさんを待っていた。先に署の裏で待機していた私は、そこでライさんと待ち合わせる。私はライさんを不安にさせないよう、努めて明るくライさんを励ました。

「ライさん、頑張ってくださいね。でも、無理だけはしないでください」

 ライさんは私の顔を見て、泣きそうな顔だけど、それでも一度だけ深く頷いた。そして、上着のポケットから、あのスプレーを取り出して、私の手に押し付ける。

「……薬、預けます。使った後、どうしても朦朧としてしまうので、それで答えを有耶無耶にしたくない。もしも、僕が危ないと思ったら、音胡さんの判断でいいです。止めてください。……音胡さんの事だけは、信頼してます」

「……はい、その時は遠慮なく止めさせて貰います」

 そう言うと、ライさんは彼の元へまっすぐ歩いていく。私は手渡された薬をまるで祈るように、胸元で強く握りしめた。それは、ライさんの『側に居て欲しい』という暗の意志だったけれど、わざと私は口に出さないでおく。そして、勇気を出して向き合おうとするライさんをただ見送った。スティーブさんの元へと向かうライさんは、やっぱり身体は震えているし、足取りも重い。が、逃げることはしなかった。

「ライさん、頑張って……!」

 その頼りなくとも勇気に溢れた背に、私は祈りを呟かざるを得なかった。

 私は後からライさんをこっそりと追いかけ、壁の影から二人のやり取りを見守ることにした。辛うじて会話が聞こえるぐらいの距離。二人にとって五年ぶりぐらいのまともな会話の場。……ちゃんと話ができるのだろうか、と私は心配になりながら、ライさんの薬を胸元で握りしめたまま、立ち尽くす。

「よう」

「……」

 彼は壁に背を預けて、余裕そうに笑っているように見えるが、どうやらその笑みは彼なりの照れ隠しらしい。殆ど白髪だった頭は、綺麗に染め直してあり、壁に背は預けているとはいえ、車椅子を使っていたはずが杖すら無しに立ち歩いていた。あのおじいちゃんのような姿の彼は何処へやら、何なら体格がある分、実年齢よりもよっぽどしっかりして見える。

「偉いな、今日は過呼吸起こさなかったのか」

 スティーブさんは優しく、第一声を発する。しかし、その口ぶりはまるでまだ、ライさんが子供みたいな言い方だ。ライさんは反射的にムッとしてしまう。ふい、とライさんは彼から目線を外し、黙ったままそこに立ち尽くしていた。

「無視かよ、レイル」

「……子供扱いしないでください」

 ライさんは怒ったような声でぼそり、と返事を返した。私が聞いたことのないような、棘のある声。……多分、前署長が恐れた二人がすれ違う時の声。温厚なライさんに慣れている分か、他人の私でもゾッとする。ピリピリした空気を感じた。

「まだまだガキだよ、お前は」

「……」

「返事ぐらいしろよ、レイル」

 スティーブさんはその声も笑ってやり過ごし、仕方なそうな苦笑で返した。ライさんはその発言にも苛立ちを隠せない。その態度に、スティーブさんも自分を保てなくなってきたのだろうか、ちょっとだけ声のトーンが上がる。

「……その名は捨てました、今の僕は『ライ』です」

 その声に釣られて、ライさんの声のトーンもまた上がった。確実に、緩やかに、ヒートアップしていくのが分かる。……ああダメだ、これじゃあ彼らは、五年前と同じだ。ライさんは確実に耳を伏せて、スティーブさんへの疑いを強く滲ませる。やはり二人が、冷静に話し合うことはもう、叶わないのだろうか。私は悲しい気持ちになった。

「……貴方が捨てたんです」

 ぼそり、とまたライさんが、少しだけ悲しそうな声を漏らす。先程までヘラヘラしていたスティーブさんは、ライさんの放ったその言葉に悲しそうな表情を見せた。

「……俺はお前を捨てたりしないさ」

 彼が放った言葉に、ライさんは顔と耳を上げた。スティーブさんの表情は、いつの間にか殆ど泣きそうな笑顔に変わっている。その様子を見て、ライさんもほんの少しだけ驚きに表情を緩めた。

「あの夏、あの雨の日に拾ってからずっと、お前は俺の子だよ」

「……嘘です、信じられません」

 スティーブさんは、優しい声でそう語りかける。だけど、ライさんはその言葉に首を振って拒絶した。

「……じゃあどうして、僕のやりたい事を邪魔したんですか? 兄にだけ大事なことを話したんですか? 勝手に僕を元に戻そうとか思うんですかっ!? それを僕に言ってくれなかったんですか……? それなのに、大事な子だとか、好きなようにやれだとか……言ってることとやってることが違いすぎるんです! 僕に一体、どうして欲しかったんですか!?」

 ライさんは思っていた疑問を全てスティーブさんにぶつける。曖昧でヘラヘラした彼の言葉に、ライさんの怒りはただただヒートアップしていくだけだ。耳もしっぽもまっすぐ逆立てて、ライさんは完全に怒っていた。普段の温厚なライさんはそこにはおらず、冷静に聞くことはもはや出来そうにないようだ。

「……ごめんな、全部お前の為だった……嘘だと思われても仕方ないかもしれない、辛い思いさせたよな……」

 スティーブさんはそんなライさんを宥めようと手を伸ばすが、ライさんはその手をはねのける。スティーブさんはその強い態度に驚いたのか、目を見開いて半歩だけ後ずさった。ライさんは何度か首を横に振る。拒絶と、恐らく一瞬でも、彼の優しさが欲しくなってしまった己の考えを振り切るように。

「……そうやって優しくするから分からなくなります、はっきり言ってください。……どんな事実より、まずは貴方の気持ちを、答えを知りたいです。僕があの日に望んだのはそれだけです」

 そうして、ライさんは強くスティーブさんを睨んだ。何より、一番聞きたかった事を、ライさんははっきりさせようと立ち向かっていた。答えを聞くのは怖いだろうに、震えながらだけど、しっかり前を向いている。

 私はその姿に、涙が滲む。答えを知ることが怖くて、考え抜いて考えすぎて考え疲れて、噂を信じて自ら命を絶とうとしたライさんはもう、そこにはいなかった。

「どんな答えでも構いません。ノーと言うのならば僕は手を引くだけです。親子に戻るだけです。貴方が思ったままを教えて下さい……僕がそれで傷ついたとして、今までみたいに隠されたり嘘を吐かれたり、可哀想だと思われるよりよっぽどマシだと思えます。知らない事で悩む事の方が、息が出来なくなることより苦しいです」

 ライさんは毅然とそうスティーブさんに宣言した。スティーブさんはそこまで強く言われるとは思っていなかったのか、素直に驚いた顔をする。

「……分かった、ちゃんと話そう」

 彼はすぐにふっと笑うと、もたれかかっていた壁から背を離し、まっすぐライさんと向き合った。ライさんもついに知るその答えに、緊張からか拳を握りしめる。

 私も更に、ライさんの薬を握る手の力を強めてしまう。指先が白くなる程に。

 数秒、しん、とした空気がその場を包んだ。スティーブさんは一呼吸置いた後、ゆっくり口を開く。

「俺は……俺はやっぱり、お前を大事な子だと思ってる。大事な子を、こんな不甲斐ない男にくれてやれないんだ。それが、自分だとしても。相手が男でも親でも何でもいいよ、でも、お前を幸せにしてやれる相手を考えたらそれは俺じゃない。……遅くなってごめんな、勇気出してくれてありがとう」

 スティーブさんはライさんの頭を撫でる。その行為が、何よりもライさんの父である事を示している気がした。結果的に叶わなかった答えだけれど、その答えは何より愛情に溢れていることが、痛いぐらい分かる、優しい、優しい言い方だった。

「……なんで、優しくするんですか。僕は貴方の愛情を最低の目線で裏切ったのに、気持ち悪いとか、おかしいとか、思わなかったんですか……」

「思わねえよ、お前だもん。痛い目見ても辛い目に遭っても、全部我慢してきたお前が、唯一我慢しなかった事を……知らんぷりした俺がそんな事どうして言えるんだよ」

 ライさんはその優しすぎる返答に、声を震わせながら真意を確かめる。スティーブさんの声も、少しだけ震えていた。スティーブさんは更に、優しい声で答えを続ける。

「……俺は、大事な人と何度も別れた。結婚した嫁、そいつとの間にいた娘。そしてアニーとポート。それが何より恐ろしくて、思わずお前を試してしまった。そうしないと、お前を信じられなかった。……だから、お前を試すつもりであの法案にサインをした」

「……あ……」

「え……?」

 ライさんの声と、私が思わず出してしまった声は密かに重なった。告白の答えの後にある、あのすれ違い、書類の一件、ライの疑問の真実。それが明かされる瞬間に、私も、ライさんも、確実に緊張する。

「……最初は冗談のつもりだったんだ。あんな法案、通るわけねえって鼻で笑ってた。いつかお前が気づいて、バカな事やってんなって叱ってくれたら、そうだよなって笑い飛ばせるって……勝手過ぎるけど、勝手に思ってたんだよ」

 そして、スティーブさんは、ライさんがさっき連ねた疑問の全てを、誠意で答えていった。ライさんもそれに逃げず、文字通りまっすぐ耳を傾ける。緊張こそしているものの、時折、小さく頷きながら、それでも全てと向き合っていた。

「でも、兄ちゃんは本気にしちまった。あのままお前が警察になるようなら、本気で止めるんだと。俺は自分の嘘と、お前のヒトとしての人生と、兄ちゃんの意志を全部守ろうとしてしまった。それが、本当の親になりきれなかった俺が、親として出来る最後の努めだって思っちまった」

 スティーブさんはそう言うと、痛々しく眉をひそめる。目は密かに潤み始めていた。

「兄ちゃんが望むように、お前が警察にいかなければ、黙っているままで丸く収まると思って、お前の気持ちを殺そうとしたんだ。全部、俺ごと、何もかも嫌になってくれたらお前を守れるって思ってた……俺を嫌うようになれば、諦めてくれる。俺が悪者になれば、嘘は嘘のまま、お前と兄ちゃんの両方を守れると思って……お前の想いを全部、全部踏みにじってしまった……っ、伝えても伝わらないと勝手に思って、伝えられなくなっちまったんだ……っ、俺はっ、ぅっ、親としても男としても、警察としても、人としても最低な奴なんだっ……」

「お、おじちゃ……」

 スティーブさんの声は段々と涙に濡れていった。ライさんはその様子と、語られた真実にポカンとしてしまう。

「俺は良かれと思って始めたことが、お前にとっては一番辛かったんだよな。お前は俺を信じてくれていたのを、今まで、俺と双子に遠慮して、一度も出したことのなかった類の勇気を出してくれたことを、知らないふりをしてしまった……。今更だよな……いつも同じ間違いを犯す俺を許してくれ……!!」

 そう言うとスティーブさんは、地面に這いつくばる。土下座でライさんの足元に頭を下げた。ライさんはその姿に慌ててしゃがみ込む。彼の頭を上げようと、必死で声をかけた。

「や、やめてください。僕そんな意味で貴方を責めた訳じゃないですっ! 答えだけで十分です、謝って欲しかった訳じゃなくて……!!」

「……いや、これは俺のけじめだ」

 しかし、スティーブさんは顔を上げない。ライさんはその姿を見て、一度唇を噛み締めてから、自分も彼に思いを素直に伝える為、口を開く。

「……違うんです、僕も悪かったと思います。あの時反抗せず、素直に、貴方に憧れていて、愛されたかったと、否定されて悲しかったのだと言えば済んだ話でした。みんなや貴方の心配を素直に受け止めて、もっと自分のことを考えるべきでした。そうすれば、貴方が僕を試すなんていう行動も起こさなかったはずです……貴方だけが頭を下げる必要はありません……」

 ライさんは必死でそう言葉を紡ぐ。自分の思いを語るのが苦手なその口で、一言一言、考えるように言葉を紡いでいた。今までのすれ違いを埋めるために、必死の言葉だ。

「……僕はあの日に、貴方に、またもや捨てられたのだと思いました。だから、今までの僕を……『レイル』を捨てたつもりでいたんです。本当にさっきまで。でも、振り返れば、傷つけられ、貴方に拾われた僕はどうしても僕のままだった。幾度となく反抗しても、命まで捨てようとしても変わらなかった。臆病で怖がりで泣き虫な僕は捨てられない。でも……音胡さんと会って気づいたんです。それも含めて僕だったんだ、って」

 私は物陰でライさんの姿を見ながら、肩をビクつかせる。私の名が出たことに、私は驚いた。

 ライさんは穏やかな声で、話を続ける。

「今、此処に居る僕は、『ライ』でも『レイル』でも、身体が弱くとも、まだ昔のことを忘れられなくとも、猫でも人間でもなくとも、そうであっても、貴方に憧れた結果で今があって、ちゃんと生きてます。貴方の子として。最期までどこにも行きません。……それ以上の意味は、誰にも縋らない僕自身の夢や目標は、まだ探している最中ですけど……貴方に謝られたら、それこそ僕は否定されてしまいます。あの時の貴方が居たから、今の僕が居ます。……だから、もうやめましょう。仲直り、です」

 そう言うと、ライさんはスティーブさんの肩を抱くようにして、顔を上げさせる。スティーブさんは涙を零しながら、ライさんと見つめ合った。

「……お前は、いい部下を持ったんだな」

「……おじちゃんが、僕を僕のままで居させてくれたから……そして双子が僕を生かしてくれたからです」

 ライさんはそう言って笑う。ライさんもスティーブさんの誠意に応えて、しっかり自分の考えを口にし切った。いつもは何を聞いても、自分の事ならはぐらかし、他人のことばかりを考えるライさんの言葉とは思えないぐらい、しっかりと。私は物陰でその姿に感動して涙していた。

 ライさんはスティーブさんの手を引いて立たせると、スティーブさんと握手を交わす。スティーブさんも泣き笑いでその手を取り、そのままスティーブさんはライさんを抱きしめた。ライさんもそのハグを受け入れる。

「僕、あのまま、貴方が死んでしまう覚悟もしてました。……でも、やっぱりそんなの嫌です。僕も、貴方も、話せる姿のままでよかった」

「ああ、俺だってあのままじゃ死んでも死に切れなかったさ……俺も、話せて良かった」

 スティーブさんはポンポンとライさんの頭を撫でる。ライさんはその子供をあやすような仕草に、照れるように笑った。

「おかえりなさい」

「……あぁ、ただいま」

 そうして交わされる、五年ぶりのおかりなさいとただいま。そして二人の笑顔。

 私は二人の一通りの『答え合わせ』が終わったと確信し、慌てて涙を拭ってからライさんの元に歩み寄った。

「ライさんは真面目ですから、間違った愛情も受け取ってしまおうとしてしまいますよ?」

「……ああ、全くだ」

 二人に向けて私は言う。スティーブさんには戒めとして、ライさんには教訓として向けた言葉だった。スティーブさんはその言葉に苦笑して頷く。

「……音胡さん」

 そうしてライさんの隣に並ぶと、ライさんは私を見て安心したように微笑んだ。私は預かっていた薬をライさんに返す。ライさんは聞かれていたという事を自覚したからだろうか、照れた様子でそれを受け取った。今日のライさんは発作どころか、一度も泣かなかったのに気づいているだろうか。

「ライさんが私の名前出してくれるとは思いませんでしたよ。……本当はちょっと無理させちゃったかなって思ったんですけど、そう思ってくれてるなら嬉しいです。ありがとうございます」

 私は素直に、さっき名前を出された事が嬉しかったので、お礼を言ってライさんに頭を下げる。ライさんは小恥ずかしそうに、でも嬉しそうにはにかんだ。

「……すみません、なんだか……勢いで思わず言ってしまいました……改めて言われると、ちょっと、恥ずかしい、です、けど……っ……」

「ライさん?」

 しかし、そんなライさんの言葉が突然詰まる。ライさんは数歩、後ろによろけた。

「レイルっ!」

「ライさんっ!?」

 私は反射的にライさんの腕を支えるとライさんは私の足元に崩れ落ちる。スティーブさんも反対側から支えてくれて、倒れ込むのだけは阻止できた。

「あ、あれ……? すみま、せん……。音胡さんが来たら安心しちゃって、立てなく、なっちゃいました……」

 ライさんは倒れたのを数秒遅れて自覚したらしい。力なく笑う姿は、やはり、ちょっぴり痛ましかった。……やはり、あの緊張状態でダメージが無い訳じゃなかったようだ。気を張っていたのが緩んだようで、くたりと座り込んでしまう。

「……緊張してましたもんね、署に戻りましょうか」

「ごめんな、いきなり来ちまったもんな……」

 私はライさんを支えて立ち上がらせる。ライさんに肩を貸して歩くスティーブさんも、申し訳なさそうに謝った。

***

 場所をいつもの地域課のデスクに戻し、スティーブさんはライさんの席に、ライさんは、デスクの椅子より低い、給湯室にあった折りたたみの椅子に座っている。まだちょっとぐったりしているが、どうやら落ち着いたみたいだ。

 私は自分のデスクにつき、改めてスティーブさんに頭を下げた。

「一年半前より、ライさんの部下としてこちらでお世話になっております、音胡と申します」

「分かってるよ、知ってると思うけど一応俺も……スティーブンだ。まあ、この町では『スティーブ』で通ってるから、スティーブで構わない。……君、何度か会いに来てくれて、双子の荷物持ってきてくれた子だよな。こっちこそ、息子が世話になってるだろ? 泣き虫でビビりだけど、良い奴なのは保証するよ。これからも宜しく頼む」

 スティーブさんも頭を深く下げる。今更な挨拶だけど、ある意味私にとっても先輩なので、そこらへんの礼儀はライさんを見習った。

「覚えてらしたんですか?」

「あぁ、どうやら記憶を失ってた間の記憶も、きちんと繋がってるみたいだ。……大分、迷惑かけたな。……音胡さん、うちの兄ちゃんも貴女に酷い事をしたと聞いてる。本当に申し訳なかった。改めて、レイルにも……謝罪する。すまなかった!」

 スティーブさんは再度、申し訳なさそうに呟いて深く頭を下げた。ライさんも私も、その言葉に首を横に振る。私は、彼ら迷惑だなんて思ったことはない。

「……ところで、スティーブさん……どうやって戻って、どうやって此処にいらっしゃったんですか……?」

 一通り自己紹介したところで、私はライさんの意志に配慮しつつそう聞いた。まずはスティーブさんが、どうやって記憶を戻したかを確認することだ。『記憶を何故無くしたのか』については、もう少し彼の言葉が信頼できるものと確信した時、ライさんの心の準備を待ってからにしようと決めていたので、あえて『記憶をどうして失ったんですか』とは聞かなかった。

「……きっかけは、あのアイドルの子達のニュースを見た時だった」

「……っ」

 ぼそり、と小さな声でスティーブさんは答える。その言葉に、ライさんは密かに息を呑んだ。恐らく、やはりきっかけが『双子』であった事に、ライさんは少しだけショックを受けたようだ。ライさんがどうやら嫌われていない事はさっき確認できたけれど、彼にとっての一番がライさんなのか、双子なのか……というライさんの悩みはまだ解決されていない。

「……いのりくんとのぞみくんですね」

 私はそんなライさんのショックを、あえて気付かない振りをした。これは彼らが話し合って、折り合いをつける次の議題で、私が今、口を挟むことではないと思ったからだ。そして、話を促す為に、話の意図を確認する。彼は頷いた。

「……ずっと、記憶がバラバラになって宙に浮いているような、夢の中にいるような感覚だったんだ。自分の身体が別のモノになっちまったような……でも、あのニュースを見た途端、まるで手を放してしまった風船を掴めたような感じで……全部を思い出したんだよ。ああ、そうだった、俺には双子との約束と、大事な息子がいる、って。……抽象的で分かりづらいが、なんつーか……急に記憶の回路が繋がった感じがしたんだ」

「……おじちゃん……」

 彼の話からすると、スティーブさんが記憶を取り戻したのは、本当に唐突だったみたいだ。ライさんは『大事な』と形容された事に、少しほっとした顔をする。

「……検査を受けて、記憶と身体が回復してるって分かった時には、丁度、お前たちは出張に行く寸前だった。その時会いに行く事もできたんだが……あんなに似てる双子に会いに行くお前たちに、余計な混乱を与えるのはよせって、皆に言われてな。帰ってきて案件が終わるまで待ってたんだよ。俺もあの子たちの正体を知りたかったしな。結局他人だったようで安心したよ。俺が死なせたのは結局何だったのか、と思っちまった」

「そうでしたか……」

 私はその説明に頷く。ライさんも同じく頷いた。彼の不安はよく分かる。私達も、彼らの正体が分かるまでは、何度も何度も憶測をしたからだ。

「……本当は黙っててもいいと思ったんだ。元々は隠し通すつもりだったし、レイルは俺の事を嫌がると思ったからな……でも、皆が言うんだ。『もう、ライに失礼だから、配慮した嘘や隠し事はやめることにした』と。……あの書類も自力で探して、それを妨害してくる兄ちゃんも己で捕まえたって聞いて、ちゃんと向き合おうとしてくれてるんだなっていうのを知ったら、黙っていられなくなった。だから、俺も話そうと思って待ってた……。今日、話せてよかったよ……本当に、良かった」

 スティーブさんは心の底からほっとしたような表情をして、笑って立ち上がる。その動作に違和感はない。スティーブさんは自分の身体を確かめるように、何度か片足をぶらぶらと揺らした。

「こうして歩けるようにもなったし、髪も染め直したし、話せるようにもなった。……なぁ、レイル、今からでも遅くねえよな?」

「……はい、勿論です」

 スティーブさんはライさんに向かって、微笑んだ。ライさんも、いつもどおりの穏やかな笑顔をようやく見せる。

「じゃあ、邪魔したな。もう時間だろ、仕事に戻ってくれ……また後で来るよ。レイル、あんまり無茶するなよ?」

「いえ、スティーブさんこそお気をつけて」

「おじちゃんも、検査は終わったといえ、回復したばかりですから無理しないでくださいね!」

 そのままスティーブさんは、手を振りながらカウンターを出た。私達は、カウンターの中から彼を見送る。

「……もう一つ、聞きたいこと、あるだろ? ……そもそも、俺がどうして記憶を無くしたのか……」

「!」

「!!」

 しかし、スティーブさんはそこで足を止めた。そこで口を開いたのは……私達があえて聞かなかった、記憶喪失のきっかけの話。私とライさんは、ついに語られる事実に慌てて唾を飲んだ。

 しかし、振り返ったスティーブさんはイタズラに笑う。恐らく、重くならないように配慮した笑顔のようだった。

「……ごめんな、俺も咄嗟の事でまだ、ちゃんと話せるぐらいまとめられてねえんだ。もう少しだけ待って欲しい。ちゃんと全体が見えるようになったら、二人に……犯人探しを手伝ってほしいんだ」

「そ、それって……?」

 私は恐る恐る、その言葉を確認する。

「……俺は、誰かにハメられて、あのシステムに入れられた。記憶を失ったのは、そのシステムの作用そのものだ。副作用じゃねえ。意図的に、俺は記憶を消されたんだ」

***

 その衝撃の事実から数日後。私達はいつものパトロールをしていた。結局、この日までにスティーブさんから真実が語られる日はなかった。ライさんも慌てたり、焦ったりすることはなく、しばらくはいつの雑用をこなす。今日のライさんは時折目を擦ったり、あくびをしたりと、少し眠そうだ。

「ライさん、眠そうですね? また洗濯機ですか?」

「ああ、すみません……いえ、昨日は父と出かけていて、まあまあ振り回されました……危うく朝まで呑みに付き合わされる所でしたが、僕は呑めないし、既に眠いしで……呆れられたのか、なんとか開放されました」

「……飛ばしますね、スティーブさん」

 まあ、仲睦まじい感じでなかなか微笑ましい話ではあるんだけど……本当にこの間まで、おじいちゃんレベルまで生活力が落ちてた人のする行動じゃないな。ライさんはさすが猫と言うべきか、睡眠時間を長く取らないとダメなタイプなのでちょっと辛そうだ。私はスティーブさんのタフさに苦笑するしかなかった。

「そういえばライさん、もうスティーブさんは怖くはないですか?」

「うーん……そうですね」

 私はその話を聞いて、安心はしていたが、一応ライさんの意志を確認しておきたかったので、そう聞いた。ライさんは少し考えると、軽く頷く。

「でも、まさか騙されてたなんて、と思うと、ある意味怖いには怖いです。でも、一番混乱しているのは父でしょう。気がついたら五年も経っているんですから、整理する時間はあって当然だと思います……僕はそれを待ちたいと思います。遅かれ早かれ、結果は知るべきことですから、もう遠回りはやめますよ」

 私の半歩先を歩くライさんは、少しだけ声のトーンを落としてそう続ける。やはり、スティーブさんがどうして記憶を失ったのか……その結果を知るには、恐怖を感じるようだ。……しかし、スティーブさんの意図的なものではなかった、と知った今、ライさんは逃げることをやめたらしい。

「……少なからず、記憶を飛ばしたのが父の意志でなかったことは安心しました。……戻す法案の事は、冗談には重すぎましたが……なんと言いますか、もういいんです。僕は生きてる。ああして話せた。それだけで今は十分です。答え合わせはこれから少しずつしていこうと思います」

 そう言うとライさんは、控えめなガッツポーズを決める。その姿は、全くと言っていいほどライさんに似合わない。

「なら、良かったですけど……本当に大丈夫ですか? ……もう少し怒っても良かったと私は思いますよ、いくらライさんが反抗してたとはいえ、それとこれとは釣り合わない、結構勝手が過ぎる話でしたよ?」

 私はライさんをじーっと見つめる。ライさんはすぐ強がるので、安心できない。

「本心ですよ、信用ないのは分かりますけど……! まあ、上手く出来るかどうかも、自信がないのは確かです。僕、最近泣きっぱなしですし……ああ、本当にお恥ずかしい限りです」

「いえいえ、そこはもう……慣れましたよ。むしろそっちの方がライさんらしいなって思います。頼り甲斐のあるライさんなんて、不気味ですよ」

「……割と酷い意見じゃないですか?」

 私の辛辣な感想に、ライさんはむくれてみせる。そういう態度だから格好がつかないんでは? まあ、そこがライさんの良いところだと私は思うんだけど。

「……でも、はっきり言ってもらって諦めはつきました。きっと、次を見つけるのに必要な過程だったんだと思います」

 ライさんは立ち止まり、空を見上げながらそう呟いた。私も真似して立ち止まる。よく晴れた秋空は、高く澄んでいた。……ライさんの表情は見えないけれど、恐らくこの空と似たような色をしているような気がする。まだ、ぽつりぽつりと怪しげな雲は浮かんでいるけれど……悩み続けた不安の一つに、終止符を打てたのだから。

「音胡さんは僕のこと……どう思われましたか……?」

「僕のこと、とは?」

 私は首をかしげる。ライさんはそのまま、また歩き出した。私もその背を数歩遅れて追う。毎日慣れた道だ、上を向いていても、ライさんはまっすぐ歩いていく。仕事中のライさんはなんというか、姿勢が綺麗だなぁ、とか、話に似合わない感想を頭の片隅に思い浮かべた。

「父を、好きだったことです」

 ライさんはまた立ち止まる。次は俯いたまま、耳を伏せていた。ああ、なるほど。私は心の中で納得する。……叶わないまま失恋に終わって、時間を置いて落ち着いてきた今、ライさんは後に残る燃えかすのような、小さな感情の数々を振り返って、不安になってきたんだろう。この先、どうスティーブさんと向き合うべきか。

「どうとも思いませんよ。スティーブさんは優しい方ですし、ライさんが惹かれたのも分かります。私も前にちらっと言いましたけど、初恋は友達です。今更、関係も性別も、種族だって、文化や生き方が入り混じるこの町では、どうってこと無い話だと思いませんか?」

 私はその頼りない背を、ちょっとだけ強めに叩いた。ライさんはビクッと肩を跳ねさせて、私を振り返る。半歩前に出て隣に並んだ私と、ようやく目が合った。その目は、やっぱり泣きそうになっている。

「情って、種類がありますよね。でも、その種類で立ち位置を変える必要って無いと、私は思うんです。愛情、友情、劣情だって相手を想ってるのには変わりないでしょ?……だからライさんも、欲しかったものとは違うと思うんですけど、スティーブさんへの情を全て諦める必要は無いんですよ……ですから、そんなにナーバスにならないでください。親子としての再スタートが折角切れたのに、そんな泣きそうな顔じゃあ、また心配されちゃいますよ。また動物に戻してやる、なんて思われたら大変です」

 ライさんは私の言葉を聞くと、慌てて目を拭った。そして、いつもの穏やかな笑顔に戻ってくれる。

「……ありがとうございます、そうですよね」

「ライさんがまずは笑ってないと、町のヒト達に示しがつきません。……私達は町のヒトと人間の架け橋になる為の地域課ですよ? 貴方はその部長なんですから、皆の幸せのお手本になってあげて下さい」

 私もその笑顔に、少し意地悪な笑顔を返した。ライさんは私の強引な励ましに、頭を掻きながら笑う。ひとしきり笑ってから、「音胡さんには敵いませんね」と言葉を返してくれた。

「あ、そういえばフラれたらアイス奢ってくれるって言いましたよね。あれ、フラれたと思うんですけど、どうですか?」

「……コンビニのでよければ後で買ってきますよ」

 また数歩歩いた先で、ライさんは思い出したように立ち止まった。そうして私を振り返り、そう言うと少し得意げに笑う。これがドヤ顔ってヤツか。私は苦笑いで誤魔化した。ライさんを励ます為とはいえ、なんて余計な約束をしてしまったんだ……。数日前の私を恨んだ。

***

 署に戻ると、地域課のデスクでスティーブさんが待っていた。それにしてもこの人、元関係者とはいえ堂々と入って来すぎじゃないですかね? 一応先輩なので口には出さなかったけど、私はその当たり前のよう過ぎる笑顔に心の中で突っ込みを入れる。

「ようやく検査が全部終わったよ、長かった長かった」

 私達の姿を見つけるなり、彼はやたらといい笑顔でそう告げた。まだ検査の結果も知らないのに、昨日は夜通しのつもりで呑んでたんですか。仕事熱心で真面目だった、って聞いてはいたが、割とそうでもないみたいだ。ライさんが真面目に育ったのは、ただの奇跡だったのかもしれない。

「全部異常なしですね……元に戻った、と判断してもいいでしょう」

「す、すごいですね……ある意味」

 ライさんに書類を渡すスティーブさん。ライさんはその中身を確認すると、スティーブさんの記憶喪失や老化が全て戻ったことを確認した。やっぱりスティーブさん、タフすぎる。私はあまりの凄さに、驚きを通り越して呆れた。

「そういえば、スティーブさんって……ライさんと同居されてるんですか? それともまだ施設に?」

 ライさんは書類を入っていた封筒に戻す。その様子を見ていると、封筒の住所に目が行った。流石にライさんの家の住所は知らないんだけど、住所が書かれている以上、スティーブさんは何処かに定住している事になる。

「いや、今は先輩の家にお邪魔してるよ。昔の持ち物とか全部預かって貰ってるからな。でも、そろそろ住む所探さなきゃなぁ……気が付いたら家はともかく、土地の所有権を折角手に入れた寮までぶっ壊されてるし、レイルは知らん内に引っ越してるし……」

「先輩……あ、OBさんか」

 スティーブさんは肩をすくめつつ、座っていたライさんのデスクチェアでくるくる回りながら愚痴を漏らす。ちなみに彼が席についているせいで、ライさんはカウンターの前で中腰で書類を確認していた。そんなに回る程元気なら、そろそろどいてあげて欲しい。

「寮も家も残した所で住めたものじゃなかったですよ、築年数結構ありましたから」

 しかし、ライさんはそれには突っ込まず、家も寮も処分されていた、という苦情に口を挟んだ。家は見なかったけど、寮は私も見た。あれは確かに住めるもんじゃない。

「つって、実家が嫌で戻らなかっただけだろうがよー」

 スティーブさんはその突っ込みに、突っ込みで返す。スティーブさんは笑っていたが、その冗談はライさん的には笑えないのでは? と、私は若干ハラハラする。

「僕がめちゃくちゃにした家になんか、二度と住みたくないです」

「お前は人の家をめちゃくちゃにする天才だからなー」

 ライさんは機嫌悪そうにそっぽを向く。が、スティーブさんはまだ笑っていた。どうやらお互いに冗談らしい。ライさんもつられて苦笑した。どうやらライさんの身内に対するちょっとだけ冷たい態度は、愛情表現のそれらしい。ここがなんというか、子供っぽいというか猫っぽいというか、ライさんの可愛らしい所だな、と思う。

 それにしても、ライさん、二度も部屋をめちゃくちゃにした過去があるんですか。何処行った、病弱。

「そういえば、ライさんのお部屋って前に覗かせて貰ったんですけど、何もなかったのはめちゃくちゃ対策なんですか?」

「ええ……音胡さんまでそんな事を言うんですか……違いますよぅ」

 私はその話の流れで、前にライさんの家にお邪魔したことを思い出す。ライさんに届け物をした時だったのだけれど、その時に見た部屋の様子といえば、殆ど引っ越してきたそのまま、みたいな状況だった。その言葉を聞いたスティーブさんは、少し焦った風にライさんを叱る。

「おいおいレイル、多少は飾り気でも色気でも、最低限、趣味でも無いと、さっさと老けるぞ!」

「実際にさっさと老けた貴方に言われると、説得力が違いますね……」

 その説得力しかない発言に、ライさんは溜息を吐きながら呆れた様子で肩を落とした。

「一応、釣りはまだ続けてるんですけど……それ以上を探すのはなんだか気が引けてしまって……でも、ちょっと頑張って探してみようと思います。不器用ですけど、何か上手く出来るものを見つけたいです」

 ライさんは少し恥ずかしそうに宣言する。最近のライさんは、自分の話をただの卑屈で終わらせなくなっていた。自分のことを少しは考えられるようになったのだろうか。私はその発言に、微々たる成長を感じた。

「大体、そんなに何も無い家で、ちゃんと自炊してるのか? また栄養補助食品だのインスタントだので済ませてねえだろうなぁ? 多少は気持ち悪くなっても、自炊で食わないと体力つかねえって言ったよな?」

「う、うう……分かってはいるんです……自炊、苦手ではないんですけど、他の用事に気を取られてしまって、どうしても効率的な方を選んじゃうんですよぅ……」

 しかし、スティーブさんの説教はまだ続いていた。ライさんは痛い所を突かれたらしく、耳をしょんぼりさせて涙目になる。

「お、おお、論破されてる……さすがお父さん」

 その態度に、私は軽く拍手をした。私が同じことを突っ込んだとして、多分ライさんは笑って誤魔化すからだ。流石父親、息子のことはよく分かっている。

「あのなあ、俺もそうだけど、お前もそろそろ長生きを考えるトシだぞ、レイル」

 スティーブさんは情けなく言い訳をするライさんに、自嘲を兼ねて釘を差した。しかし、ライさんはさらりと当たり前のように言い返す。

「貴方と死ねるなら、別にいいですよ」

「おいおい、重いなぁ、お前……いつからそうなっちまったんだよぉ」

 スティーブさんはその重たい言葉に、驚きつつもまんざらじゃなかったらしい。おそらく、ライさんなりの愛情表現だと知っているのだろう。嬉しそうな様子でライさんの頭をわしわしと撫でた。ライさんは冷静さを装いつつも、少し恥ずかしそうだ。

「……可哀想だよな、精神的な成長と身体の成長が一致しないなんてよ」

 ライさんの頭から手を放し、スティーブさんはぼそり、とそう呟く。ライさん達の種族は、動物差はあれど最長でも五十代で寿命が来る。しかし、精神的な成長は人間と同じだ。猫のヒトの寿命は平均三十五歳……人間の精神年齢ならば、まだまだやりたい事の多い時期。

「……そう、なん……ですかね」

 そう考えると、私の心臓も跳ねる。ライさんが自ら選ぶのとは、違う死が、そう遠くはない。下手すれば、スティーブさんだってもう一度、愛する子との死別を経験する。それは、少し……いや、かなり悲しい事だ。

「可哀想とか、思わないでください」

 ちょっとしんみりしてしまった部屋の空気を切り裂いたのは、ライさんの強気な言葉だった。私は思わず落としていた視線をライさんに向ける。ライさんは珍しくキリッとした顔で私を見つめていた。

「僕は、まだやりたいことをはっきりと見つけてはいませんが……自分がする事やした事を可哀想だと思われたくはないです。僕にとっては当たり前の事ですから。身体が弱いことも、虐待されていたことも、人間より寿命が短いことも含めて、比較して残念だという評価をされると困ります」

「ライさん……」

 スティーブさん復活の一件から……いや、そのまえの双子ちゃんを迎えに行った頃から、ライさんは前よりずっと、考えを口に出せるようになった。その姿を見ると、私はなんだかじーんとしてしまう。そうだ、これはライさんに失礼な事だ。私は考えを改めた。

「……あのよ、盛り上がってる所わりーな」

「ひゃいっ!?」

 が、カウンターの向こうから不意に声を掛けられて、先程までの勢いは何処へやら、ライさんは驚きに声を上げて私の後ろに隠れてしまった。どうやら臆病克服はまだまだのようだ。

「……あ、ポチさん」

「ケンだよっ!! ライも!! いつ慣れるんだ俺に!! ……って、え? ライ、おめえの親父さん、えっ?」

 カウンターの向こうから顔を出したのはケンさんだった。どうやらライさんの演説が終わるまで、隠れて待機していたらしい。私の発言とライさんの行動に突っ込みを入れた後、その奥に座っているスティーブさんを見つけて、面白いぐらいに狼狽えた。

「おぉ、お前、ケンか! その制服、まさか……お前まで警察入ってたとはな! いやあ大きくなったなあ!」

「あ、面識あるんですね」

 スティーブさんはケンさんの制服姿を見て、腹を抱えて笑い出す。そんなに予想外だったのだろうか。対してケンさんは気まずそうに頭を掻いていた。

「け、ケンさんは……よく現役時代の父に補導されてたんですよ」

 ライさんがすかさず、隠れながらにそう解説する。安定の解説ありがとうございます。

「いやあ、ケンは多分、一番多く補導したな。マセたガキでよ、イタズラだの暴力だの、そんなんばかりだったな」

「そんなにケンさん、荒れてたんですか……ライさんの反抗も想像できませんが、ケンさんも根はいいヒトなのに、補導の常習犯だったんですね」

「元族だからな……結構やらかしたし、この町でなきゃ警察になんか受かってねーだろうよ、はぁ、しかし、どうしてこうなってんだ? 出来れば記憶を失ったままで居て欲しかったよ……でも、敵わねえなぁ、アンタには」

 ケンさんは黒歴史にも等しい過去をペラペラ暴露され、深く肩を落としながらスティーブさんを嫌味混じりに睨む。が、最後にはため息混じりで笑っていた。スティーブさんはそれに上機嫌でピースサインを出していた。

「……ところで、何故署に……?」

 ライさんはようやくケンさんに慣れたのか、私の後ろから出てくる。ケンさんは、あれっ、と目を丸くした。

「聞いてないのか」

「言ってません」

 私ははっきりとそう答える。一ミリもライさんには伝えてない。相変わらずゆるっゆるな私達の関係に、ケンさんは遂に呆れ返って苦い顔をした。

「……お前の上司だろ?」

「な、なんですか!? まだ僕、聞いてないことあるんですか!?」

 ライさんはすっかり不伝達がトラウマになりつつある。私は落ち着いて、と手のひらを揺らしてジェスチャーすると、ライさんに向き直す。

「ライさん、町の外れに遊園地ができたことは知ってますよね?」

「……あぁ、はい。昔潰れた遊園地を、有名企業が買い取って……確か、音胡さんの故郷の都市と共同開発した都市型の遊園地でしたよね」

 ライさんは頷いた。先月、田舎には不釣り合いすぎるぐらいしっかりした遊園地が開業したのだ。

「そうです。いろんな企業がタイアップしていて、町の内外から沢山のお客さんや関係者が来ます。……中には、ライさん達種族を見たことが無い世代のお客さんも来ます」

 ライさんは頷く。町の活気に関わることは、ライさんにとっても嬉しいことだ。

「……その中で、遊園地に出資しているステージ設営に関わる企業さんが、この間のニュースでTLBに興味を持ってくれました。ですが、双子ちゃんはまだ新しいマネージャーさんが決まってません」

「そうでしたね……」

 ライさんは再度頷く。私は勢いに任せ、腕を振り上げて発表した。ライさんはその動きに驚いて、少しビクッとしてしまう。

「という訳で、双子ちゃんの護衛と、この町のPRを兼ねて! 地域課としての広報活動を入れさせて頂きました! その第一弾が、遊園地での双子ちゃんライブです!」

 私は正真正銘のドヤ顔で言い放つ。

 ……。

 ……。

 あれ? その場がしん、としてしまいました。

「……聞いてないですよ?」

「ええ、私が独断で入れた仕事です」

「そういうの、上司に通さないんですか?」

「課長と現署長には通しましたよ?」

 ライさんは真顔で聞き返してきた。ので、私も真顔で返す。勿論、署外活動の許可もばっちりです。町内活動なので、ライさんに外出許可は必要ないし。

「僕に内緒にしないとかいう宣言はどこへ?」

「だって、遊園地に行くって事前に言ったら、多分ライさんその日まで緊張してそうじゃないですか」

 ライさんは疑いの目を私に向ける。私だってただ上司をからかって遊んでいるわけではない。これはライさんをスムーズに連れて行く為の手段だ。よって、決して、上司への不伝達でもライさんへの不条理な隠し事でもありません。今喋ったので。

「事前に言われてもしますよ……乗り物ダメだし、町外のお客さんも来る、しかもアイドルの護衛……ああ、でも確かに今から仕事ですよ、って言われると、断れません……やりますね、音胡さん……」

 私は振り返ると、がっくりと打ちひしがれるライさんを背に、こっそり得意げに笑った。スティーブさんがその先で、悪戯に笑っている。

「諦めろ、レイル。 仕事は仕事だ」

「……はぃぃ……」

 スティーブさんに肩を叩かれて、ライさんは頷く。やけくそに泣き笑っていた。

***

「ライ兄ーっ! お姉ちゃん!!」

「ケン兄!! ……と、だれー?」

 そうして双子ちゃんと待ち合わせの為に、私、ライさん、ケンさん……あと、何故かスティーブさんも同行して、遊園地へとやってきた。打ち合わせは事前に他の課の人が引き継いでくれたので、ここから二人の護衛とマネージャー代わりを交代する。私達と合流した双子ちゃんは、スティーブさんを見て不思議そうに首を傾げた。

「ライさんのお父さんだよ」

「よう、スティーブだ。宜しくな」

 スティーブさんは双子ちゃんに目線を合わせるように、腰を落としながら丁寧に挨拶をする。その姿を見ていると……あぁ、やっぱり、と思ってしまう。

「……嫌に、似合いますね」

「彼は元から子供好きですからね」

 ライさんはあっさりとそう言うが、やはり落ち着かないようだ。しっぽがせわしなく揺れているのを私は見逃さない。とはいえ、ライさんに嫌と言えるような、スティーブさんの行動を縛る権利はない。……多少はあってもいいと思うけど。

「スティ! 遊ぼうよー!」

「スティ、お化け屋敷いこう!」

「お化け屋敷? おい、待て待て、おじちゃん、このままじゃ真っ二つに裂けちゃうぞ」

 双子ちゃんはどうやら、スティーブさんの子供好きな態度を感じ取ったらしい、一瞬で懐き、そしてあだ名まで付けて、スティーブさんの腕を両側から引いていく。

「遊ばせていいのかよ、これから仕事なんだろ?」

「ま、まあ、遅刻しなければいいんじゃないですか? リハまでまだ時間ありますし」

 ケンさんはその行動を止めない私達に呆れる。が、時間はある。二人も初めての遊園地だろうし、お化け屋敷一回ぐらいなら遊ばせてあげてもいいかな、と私は思った。スティーブさんに駆け寄り、一応耳打ちする。

「……スティーブさん、のぞみくん……あ、三毛の子の方、心臓弱くて、疲れすぎると不整脈で動けなくなったりするかもしれないです。ライさんと同じスプレー持ってるはずなんで、もしもがあったらお願いします」

「おう、分かった……よし、のぞみ! 肩車で行くぞー」

 スティーブさんは小さくサムズアップで応えると、のぞみくんを肩車した。その姿は五十代とは思えない。流石、逞しい。私はその後ろから、三人を追いかけるようにお化け屋敷へと向かう。

「元気だなぁ、双子はともかく、お前の親父さんも」

「全くです……ちょっとはしゃぎすぎですけどね」

 その後ろを、更にケンさんとライさんが、三人の元気過ぎる姿に呆れながら付いてきた。……ところで、何気なく付いてきてるけど、ライさんお化け屋敷とか大丈夫なタイプなのかな?

 ここのお化け屋敷、最新技術で、リアルな映像投影が売りなんだけど……。

***

 父に肩車されたのぞみくん、音胡さんと手をつないだいのりくん、その後に仕方なさそうに笑いながら、ケンさんが入っていく。

 よくよく考えてみたら、僕は生まれて始めてお化け屋敷に入る。流石にビビりを自覚している僕でも、相手が作り物で、驚かしてくると判れば平気だろう、と軽く考えていた。

 この間は父を見ても発作を起こさなかった事もあって、ちょっと調子に乗っていたのもある。それと、昨日の夜更かしで頭が回ってなかったのかもしれない。

「っ、……ぁ」

 入り口に入った途端、嫌な汗が僕の身体を伝った。薄暗い室内、嫌に湿っぽい空気、床の不安定に柔らかい感覚、遠くに見える、なんだかグロテスクな色。一瞬で、くらりとした目眩が襲って、思わず後ずさってしまった。

「す、すみません、もうリタイア……」

 これはダメだ。咄嗟の判断で僕はまともに踏み出せないまま、来た道を小走りで戻る。何か物音がした気がしたけれど、それにも構わず一目散に引き返した。脳裏に何かが蘇ってしまいそうで、必死で先程までの風景を振り切るように、少し前にあったカフェスペースまで戻り、僕は脱力したようにベンチに座り込む。

「っ、は、っ……」

 まだ薬を使う程ではないけれど、まともな呼吸じゃなくなっている事を自覚する。いける、と思っていた分、僕は焦ってしまった。平気だと思ったのにまた逃げてしまった。父は、こうしてる間にも、双子と仲良くしている。そう思うと胸が締め付けられるような苦しさを感じた。考えてはいけない、と必死で意識を逸らしても、息苦しさが僕を現実に引き戻す。

「っ、はぁ、大丈夫、だと、思った、のに……っ、うぅ、うぅ……」

 情けない。一人、ベンチで苦しんでいても、周りのお客さんは楽しそうで。楽しそうな音楽がかかっていて、楽しそうな遊具や装飾に囲まれていて。そのギャップですごく孤独に感じてしまう。……それは、音胡さんが来る前、一人で地域課をやっていた時に何度も感じた感覚だ。僕だけ一人、遠巻きに皆をただ眺めているしかない、本当に一人でいるよりも虚しい、そんな感覚。

 ……ダメだ、今は呼吸を整える事に集中しなければ。僕は慌ててポケットを探る。このままだと、酷くなった時に手に取れない。音胡さんも父も側に居ない一人きりの今、今のうちに握りしめておくしかない。と、思ったのに。

「ぇ、な、ない……?」

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。頭の中が確実にパニックになるのを感じてしまう。薬がない。落としたのか、忘れたのか。探しに行くには、自力で落ち着く必要があるのに、酷くなったらどうしよう、という気持ちがそれを邪魔する。鼓動が気持ち悪いぐらい速くなっていく。

 また、こんなミスをしてしまった。悔しい。本当に格好悪い。

「うぅ、っ、う……」

 涙で目の前が滲む。恐怖に手が震えて、また僕のせいで周りの雰囲気を台無しにしてしまうのだと、ある意味諦めに似た絶望を抱きかけた。

「……大丈夫か?」

 その時、僕の目の前に探していた薬が差し出された。顔を上げると、ケンさんがスプレーを差し出している。僕は一瞬、意外な相手の登場に、ある意味呼吸するのを忘れた。

「お前のだろ、落としてたぞ。使えなさそうなら俺がやるけど……使うか?」

「す、みま、せん……でも、まだ……いい、です……副作用、ある、から……自力で、落ち着けます……」

「ん、分かった。でも、今より酷くなったら使うからな」

 いつもは見るだけでびっくりしてしまうケンさん相手に、僕は少しホッとしてしまった。ケンさんは驚かさないようにだろうか、僕の隣にそっと座るとゆっくり背を撫でてくれる。

「もうちょっとゆっくり吐け、吸う時深くなるから」

「……すみません、ありがとうございます……」

 さするのに合わせながら、ケンさんが呼吸のリズムを取ってくれる。僕はそれでなんとか持ち直した。ケンさんは落ち着いた僕を見て、どこか安心したような顔をする。そのまま、何も言わず薬を僕に渡してくれたので、僕はそれを受け取った。

「……薬のこと、というか、発作のこと……ケンさんに言ってないですよね……何処で……?」

 手の中で薬を改めて確認する。間違いなく僕の物だ。ケンさんに、このことを話した記憶は無いので、不思議に思った。

「知ってるよそりゃあ、町にいればお前の噂は幾らだって聞くからさ……お前は嫌かもしれねぇけど、それだけ皆、お前のこと心配してんだ。分かってやれよ?」

 ケンさんは少し、ぶっきらぼうにそう答えた。けれど、その口調はいつもより優しい。

「なぁ、ライ。……ごめんな、今まで色々と、ひでぇ事言った……」

「……? どうしたんですか、急に。ケンさんらしくないですよ」

 唐突に僕はケンさんに謝られて、僕はいつもと違う意味で驚く。慌てて聞き返すと、ケンさんは気まずそうな顔で目線をそらした。

「……双子に聞いたんだよ、ライが双子を迎えに行った時に、双子がやらされた事聞いて泣いたって話。前にも言ったけど、俺はお前の生まれが羨ましかった。だけど、お前は俺が知る以上に嫌なことも一杯あって、でも、お前は自分が大変でも当たり前のように、他人のことだけ思って生きてきてた……それって、すげえ勇気だと思うんだよ、俺みたいに自分勝手な事をしてその意義に縋ったのとはぜんぜん違うからさ。だから、そこんところは先輩としてすげー尊敬してっからな」

 ケンさんは真面目な顔で、僕に思いの丈をぶつけてきた。僕は、その意外さにぽかんとしてしまう。そう思われていたなんて思っていなかったので、正直驚いた。

「……ケンさんは、暴走族に何を求めていたんですか?」

「……何やってんだって、怒ってくれる奴、かなぁ。ペットのなり損ないが、間違った事したところでうちの親は怒らなかったんだよ。可愛がりの延長線、っていうかさ。ヒトとしてイマイチ、教えて欲しいことを教えてくれなかった。なんか、生きてる心地しなくなってよ。でも、お前の親父さんだけは、俺のことめっちゃ怒ってくれてさ、ムカつくけど嬉しかったんだよ」

 恥ずかしそうに胸の内を明かすケンさんの指先は、照れ隠しだろうか、地面の石を拾い上げて適当な所に投げつけていた。

「……だから、なんつーか……元気出せよ、俺も親父さんが戻ってきたの、嬉しいよ。上手く言えねえけど、そんだけ」

「あ、ありがとうございます……!」

 ケンさんは投げやりにそう言うと、僕が完全に落ち着いたのを見て立ち上がった。僕は慌ててお礼を言うと、ケンさんはお化け屋敷の方向に戻っていく。表情は見えなかったけれど、どうやら元気が無いことを察して心配してくれたみたいだ。その不器用な励ましが、嬉しかった。

「双子と親父さん、迎えに行ってくるよ。お前らがここに居るの、知らせなきゃだろ」

「お前ら……?」

***

 ケンさんと入れ替わりに、私はライさんの隣に座る。なんか話してたみたいだけど、二人の世界っぽかったので声を掛けなかったのは、バレてたらしい。それにしても、何気にライさんとケンさんって並んでみるといいコンビっていうか、絵になる感じがする。ライさんがビビるせいで、まともに並んだことないけど。

「いやぁ、お化けにびっくりして大声出したら、お化けの方がダウンしちゃって……恥ずかしいんでリタイアしてきました……いやぁ、あれは私でも怖いですよ、ライさん、入らなくてよかったやつです」

「……やっつけちゃいましたか……さすが、音胡さんですね……」

 照れながらそう言うと、あんまりなエピソードにライさんはちょっとひいた。うーん、この声量……どうにかした方がいいのだろうか。

「ケンさんと何話してたんですか?」

 私は先程のケンさんとライさんの会話に探りを入れてみる。が、ライさんは満足げな顔で首を横に振った。そして聞き慣れた言葉を口にする。

「秘密です」

「またぁ……次は何の秘密だって言うんですか……」

 私はその返答に肩をすくめる。ライさんは笑うだけで、今回は『何の秘密』かも言ってくれなかった。私はその流れで、ライさんにとってのケンさんって、何なんだろう? と頭を巡らせてみたけど、脳裏に過ぎったどれもしっくり来ないというか、確信が持てないので探るのを諦める。

「すっかりスティーブさんに、双子ちゃん任せて来ちゃいましたね」

「ああ、それは……大丈夫でしょう。扱いには慣れてるでしょうし、……彼は面倒見いいですからね」

 私は話題をスティーブさんの事に変えた。うっかりスティーブさんを双子ちゃんに会わせてしまった事を、ライさんはどう思っているのだろう、と思って軽く口にしてしまった。ライさんは双子ちゃんの扱い自体には、どうやら信頼を置いているらしい。しかし、言い終わる辺りでライさんの表情は曇った。

「……でも、やっぱり……嫉妬、してしまいますね……」

 ライさんはくしゃりと表情を歪めて、泣きそうな顔になる。やはり、双子ちゃんへのスティーブさんの態度は、ライさんによって良くないものらしい。

「……いのりくんとのぞみくんにですか?」

「違う、とは言い切れませんが……厳密には、アニーとポートに、です」

 ライさんはついに、静かにポロポロ泣き始める。私は話を振ったことに少し後悔した。

「……やっぱりああして見ると、きっと、アニー、ポートもああやって可愛がって貰ったんだろうと思ってしまって、本当に、なんというか、胸の奥が冷えるような気持ちになります。もうすぐ二十三歳にもなる大人が感じるジェラシーじゃないと思いますけど、遠慮した事を後悔してしまいますね……」

 ライさんはそう言うと、本当に苦しいように胸元を押さえた。発作はないようだけど、それとは違う苦しさは、今もライさんを苦しめる。

「表現の仕方が分かりませんが、一人で地域課をしていた時も、よく感じました。なんだか、心臓が重くて、冷たくなる。だけど、焼き切れるようにチリチリ痛む気がするんです……」

 ライさんはどうやら、その気持ちを表現する言葉が出てこないらしい。私はその感覚に、当てはまる言葉を思い浮かべた。

「……ライさん、寂しかったんですね」

 その言葉は、賑やかで明るい遊園地に、似つかわしくない色で薄暗く溶けていく。

「……そっか……そうですね。そうです。……僕は、寂しかった、んですね……」

 ライさんはその言葉を、確かめるように噛み締めて、何度も頷いた。頷く度に、涙がポロポロと落ちていく。私はそっと、ライさんの背を撫でた。嗚咽に跳ねる彼の背は、彼より小さい私から見ても、やっぱり小さく見える。

「……寂しいなら寂しいって言っていいんですよ。今からだって遅くないです。多分、スティーブさんも遠慮しちゃったんですよ、ライさんが嫌がるんじゃないかなって。……それに双子だって、スティーブさんが留守がちになった時、きっと寂しいって思っても言えなかった。だから、スティーブさんは解らなくなっちゃったんです、本当の寂しい。これから、ライさんが教えてあげなきゃですね」

 私はそう言って、ライさんに笑って見せた。それが泣かせてしまったせめてもの償いだ。ライさんはその涙に濡れた目をキラキラさせて、私の言葉に何度か頷く。

「音胡さん、やっぱりすごいです。人の気持ちを考えるのが本当に上手ですよね」

 その表情が少しだけ明るくなったかと思えば、急に私を褒め始めた。私は恥ずかしくなりつつも、その評価には素直にお礼として頭を下げる。そのつもりはなかったんだけど、言われてみれば……そうなんだろうか? 自分では良く分からない。でも、ライさんの考えてることは分かりやすすぎるんですよ。

「ありがとうございます。うーん、そうですねー、私は親がモメた家で育ちましたから……多分、『自分が先回り出来るなら、どうにかしよう』って思うんですよね。それが、相手の立場に立って考える、っていう癖に繋がってるのかもしれません」

「素敵な心がけだと思います。音胡さんのように、僕もなれるでしょうか……」

 私は理由に頭を巡らせて、曖昧な答えを出した。その答えにライさんは遠い目をする。目線の先にあるのは観覧車だ。偶に私みたいになりたい、って言ってましたけど、そういう意味だったんですか。私は微妙に納得するが、ライさんも十分、遠慮で自分を固めてしまう程には他人思いのヒトだ。

「十分ライさんも気を配ってると思いますよ?」

 私は思ったままにそう言うと、ライさんは静かに首を振る。

「考えすぎて僕みたいに動けなくなってしまうのは、下手くそのする事です……音胡さんはそこの所、とっても上手ですけど、僕みたいにならないように気をつけてくださいね?」

「あはは、そうですね。肝に銘じておきます。ライさんは、もう少し私みたいに考えすぎず行動しても大丈夫だと思いますよ!」

 私は笑いながら、ライさんの背を、励ます意味で軽くポンと叩いた。ライさんはそれに反応して、しっぽをピンと伸ばす。

「でも、本当に音胡さんの考え方って凄いんですよ、結構出来ることじゃないんです。カウンセラーとか目指してみたらどうですか?」

「そうなると私、辞めちゃいますけど……ライさん一人で大丈夫ですか? また寂しい仕事場に戻っちゃいますよ?」

 ライさんはその指摘に、う、と言葉を詰まらせる。

「……それは」

「嫌、でしょ?」

「はいぃ……」

 ライさんは耳を伏せて、観念したように返事をした。私はその態度に思わず吹き出してしまう。ライさんはちょっとむっとして、私の事を睨んだ。

「そうだ、ソフトクリーム奢りますよ、約束でしたよね? だからもう泣き止んで下さい。何味がいいですか?」

 しまった、と思った私は、ご機嫌取りに例の約束を思い出して立ち上がった。ライさんはその言葉に耳をぴょこんと立てると、慌てて涙を拭う。

「……うぅ、チョコと苺のミックス……」

「ま、また可愛らしいモノ頼みますね……」

 出た、女子力アイス。さてはライさん、苺好きですね……。私は遊園地のカフェスペースにあるソフトクリームの屋台で、チョコと苺のミックスソフトと、自分用にバニラソフトを買って戻ってきた。私もミックスにしようと思ったが、色んな味がありすぎて迷ってしまったので、シンプルにした。

「美味しいです、アイスクリームも好きですけど、ソフトクリームのなめらかさもいいですよね、チョコの甘さと苺の甘酸っぱさってやっぱり合いますー」

「……うん、気に入ったなら良かったです」

 そしてそれを喜んで受け取ったライさんの食レポは、相変わらず健在だった。機嫌がいい時のライさんは、本当に楽しそうによく喋る。スティーブさんが復活してから悩むことがいっぱいで忙しそうなライさんだけど、時々でもこうして忘れてくれるのなら、アイスの一つや二つ、安いものだ。

「おっ、いいもん食ってんなぁ、レイル、俺にもくれよー」

 そこに、お化け屋敷を無事完走したスティーブさんと双子が戻ってきた。ライさんが食べているアイスに目をつけたスティーブさんは、羨ましそうにライさんを見つめる。しかし、ライさんは明らかに嫌そうな声で唸った。

「ええー、嫌ですよ、これは音胡さんに買ってもらったんですー」

 さっきまで可愛がってくれなかった、寂しかったと泣いた相手への態度とは思えないぐらい、本気で嫌がっている。それだけアイスが好きなのか、それともライさん、実はツンデレ体質なのか。

「……お前、堂々と部下に奢ってもらうなよ……」

「あっ、いえ、前にライさんにご飯奢ってもらったこともありますから、お返しも兼ねてです。大丈夫ですよ?」

 その態度にスティーブさんは、割とガチでひいた。正論ではあるが、ここは私から奢ったものだし、ライさんの失恋記念(?)なので、私からフォローを入れる。ライさんも部下に奢るという行動が取れる、と知ったスティーブさんは、ならまあいいか。とあっさり引いた。

「……ってかお前、また発作起こしたろ?」

 が、一度引いたスティーブさんは、再度ライさんに詰め寄ってライさんの顔を凝視する。ライさんは、一瞬固まったがすぐに頷いた。アイスから口を離さずに。

「えっ、そうなんですか? よく見抜きましたね?」

 私はそれに気づかなかったので驚く。お化け屋敷、割と本気でダメだったんですね。様子からして薬は使ってなさそうだけど、どうやって落ち着いたんだろう。ケンさんと話した何かに秘密があるのかな……いや、無いか。ケンさん見るだけでびっくりするのに。……それを見抜いたスティーブさんは、意外な言葉を発する。

「……一瞬だけど2A医目指したことがあるんだよ。丁度レイルを飼い始めた時に勉強してさ」

「それは、ライさんの身体の事を考えて、って事ですか?」

 スティーブさんはその言葉にちょっとだけ首を傾げてから、頷いた。

「……結果的にはそうだな。もう双子みたいな事は繰り返したくなくて始めただけなんだけどよ。まあ、勉強するのが遅すぎて、医者にはなれなかったけど、こうやって仕事してる姿を見れるようになったと思うと感慨深いよなあ」

 スティーブさんは満足そうにそう言ってライさんを見る。が、ライさんは聞いてるのか聞いてないのか、さてはあえての無視なのか、とりあえずアイスに夢中だ。私はその様子に気が抜けてしまった。肝心な所で何処か抜けているのがこのヒト達らしいな、と思うと、笑みすら出てしまう。

「まあ、良いんだか悪いんだか……今は元気にアイス食ってますもんね」

「……まあ、そうなんだよなー。音胡ちゃんも食っちゃえよ、溶けるぞ」

 スティーブさんも同じ気持ちらしく、苦笑して頭を掻いた。私は促されて、自分の手の中にあるアイスを思い出す。もう周りが溶け始めていた。その様子を見てか、スティーブさんもアイスの売り場へと目線を上げる。

「俺も食おうかな、おーい、のぞみ、いのりー、アイス食うかー?」

「僕ジュースがいいー」

「僕もー」

 少し先で追いかけっこをしていた双子を呼びつけたスティーブさんは、アイス売り場を指差す。双子は反対側の自動販売機を指さした。スティーブさんは頷くと財布を取り出す。どうやら彼らに奢るつもりらしい。

「ケンはアイスいるかー?」

「……俺もいいのかよ?」

 次にスティーブさんはケンさんも呼びつける。ケンさんも誘われるとは思っていなかったのか、自分を指さして驚いた。

「いいぜ、一年遅くなったけど、就職祝いって事で」

「……就職祝いがアイスかよ。まあ、そういうことなら有難く頂いとく」

「バニラでいいか?」

「ああ」

 おお、流石の面倒見だ。私はその振る舞いに感動しかけて、ふとある疑問を浮かべる。

「……スティーブさん、どっからお金が……?」

 しばらく施設入所していたスティーブさん。あの症状が発覚してから仕事はしていない。その前だって、ライさんと出会う前は仕事を放棄していた。まともな収入はなかったはずだけど……。

「まぁ、金には困ってないよ。……あいつらと……双子と暮らすために稼いでた分がまだ殆ど残ってるからなぁ」

「……あぁ……」

 私は納得した。あの英雄の双子を育てるために頑張った彼の功績は、結局何にも使われずにいる。なんだか、虚しい話だ。

「だからよ、レイル。なんか趣味見つけたら道具ぐらいは買ってやるから、言えよ」

「……! い、いいんですか?」

 スティーブさんはそう言って、ライさんの頭をいつもどおりに撫でた。ライさんはようやくアイスを片付けて、ぱっと顔を上げる。

「いいに決まってるだろ、変なやつ」

 スティーブさんはそう言うと、双子ちゃんと共にジュースとアイスを買いに行く為に、お店の方向に歩き出す。ライさんは少し嬉しそうに、アイスのコーンにかかっていた紙をきっちり畳んで近くのゴミ箱に捨てた。

「ライさーん、良かったですねえ」

「……これは、選び方が重要になってきました」

 えへへ、と笑うライさん。うん、機嫌が良さそうで本当によかった。

 数分して、スティーブさんと双子ちゃんが戻ってくる。双子ちゃんが手にしていたのは野菜ジュースだった。『アイスもあるのに、野菜ジュースでいいの?』と聞いた所、二人は野菜ジュースが好物らしい。う、兎だから?

「レイル、お前も見習えよ」

「……は、はい……」

「ライさん、もしかして野菜ジュース飲めないんですか……」

 野菜ジュースが飲めないらしいライさんは、スティーブさんに軽い説教を食らって遠い目をしていた。相変わらず子供より子供舌なんだな……。

「ねぇ、ライ兄、観覧車いこー」

「え、僕ですか?」

「次、ライ兄と遊ぶ順番!」

 ジュースをすぐに飲み終わったいのりくんが、ライさんの手を引く。のぞみくんもそれに習って、ライさんの反対側の腕を引いた。ライさんは、急に双子に絡まれてわたわたと立ち上がる。そのまま観覧車の方へと連行状態だ。ライさん一人じゃ、二人を見きれないと判断したのだろうか、ケンさんも慌ててその姿を追う。

「……双子ちゃん、楽しそうですねぇ」

「あれじゃ、仕事前にくたびれちゃうんじゃねえか?」

「あはは、十分元気ですから大丈夫だと思いますよ。何ならこっちが先にくたびれちゃいそうです」

 未だにアイスを食べているスティーブさんに話しかけると、スティーブさんは肩をすくめて笑った。私はその話題をきっかけにしてか、なんとなく疲れを感じてしまい、とりあえず休憩がてらに煙草を取り出す。スティーブさんとは結構距離もあるので、煙がかかったりはしないだろうけれど、一応火を点けながら風下に移動した。

「お、音胡ちゃん、喫煙者なのかぁ……いいねぇ」

「……吸います?」

 私はスティーブさんに余りの煙草を一本差し出した。女性用の細くて軽いやつなので、多分吸わないとは思いつつ。予想通り、スティーブさんは手のひらを見せながら首を横に振る。

「いや、だいぶ前に禁煙してるんだ」

「あ、そうでしたか……寮に灰皿があったので、喫煙者なんだと思ってました。昨日も呑みに行かれたと聞いたので、現役なんだとてっきり」

 スティーブさんはアイスを食べきって、コーンの紙をくしゃりと潰した。それをゴミ箱に向かって放り投げる。狙いは正確で、ストレートでゴミ箱にインした。

「酒も煙草もアニーとポートを拾った時にやめたんだよ、というか、気が付いたらやめてた。そのまま忙しくなって、それどころじゃなくなって……レイルにも良くないと思ったから煙草は吸わずじまいだなぁ。もう、己の身体にも良くないから、戻さないと思うけどな。音胡ちゃんも程々にしとけよー?」

 そう言って、スティーブさんは笑う。割と笑えない話で笑ってしまう所は、ライさんとそっくりだ。流石親子。血が繋がっていないのに、こんなにも血の繋がりを感じる。

「……スティーブさんは、アニーとポートの事を、今はどう思ってるんですか?」

 話の流れでアニーとポートの話を当たり前にするスティーブさんを見て、私はそんな疑問を浮かべた。聞いてはいけない事かもしれなかったが、口を滑らせたとも言える。最低、ライさんについてどう思っているかを聞かなかっただけ、マシだと思いたい。

 スティーブさんは微笑みながらため息を付き、空を見上げる。観覧車と、秋空の真っ青な空間が私の目に入るけど、スティーブさんにはきっと違うものが見えている。幼い兎の二匹が。

「……正直、今も頭からこびりついて離れねえよ。毎日脳裏をちらついてる。あんなに辛い日はなかった。あいつらがどんな思いで俺を待ってたかと考えると、今でも怖えよ。生きるか死ぬかの話なんて、普通にだって怖いのに……あんな小さな子二人、病気抱えて、怖い思いさせて……」

 スティーブさんはそう言うと、言葉を詰まらせて顔を覆う。私はその話に、スティーブさんの葛藤とライさんの葛藤の二つを感じてしまい、唇を噛んだ。

「……レイルには悪いと思ってる。もう悔やんだって遅えんだ。せっかく記憶が戻ったんだ、俺はちゃんと、今度こそ今を見なきゃな。ちゃんと償いたい……いや、償うよ。……協力してくれるか、音胡ちゃん」

 そう言うと、スティーブさんは私に手を差し出した。私はその腕を、がっちり握る。

「勿論です、貴方は上司のお父さんで、署の先輩です、守るべき町民です。協力しない理由はありません!」

「……本当にレイルはいい部下を持ったよ。……君の方が頼もしいぐらい、いい部下だ」

 スティーブさんにウインクをされて、私は照れてしまう。照れ隠しにもう一度、空を見上げて見る。やっぱり私には、観覧車しか見えない。高く、空の上を回る観覧車……。

「……ところで、ライさんって高い所もダメでしたよね」

「……そうだな」

「双子ちゃん、ストーーーップ!!!! 待って!!!!」

 私は観覧車乗り場まで、犯人逮捕以来の猛ダッシュを決めた。