ファンタジカソング①

「――で、あるからして、この世に存在する人類は、魔法を使うことは出来ないが……訓練次第で『感知』や『召喚』は取得できる一般的な人類『人間』、特定の魔法のみを使うことができる『能力者』、天使や悪魔、妖精など、元々魔法を使う種族であった『魔族』に分類され、その役目は、霊等のこの世に留まる悪しき存在を、狩り、封印し、鎮魂……また生けるものを守るために戦う事。能力者、またはこの者達の職業を総称して『マジカリスト』と……――」

「さら! さらってば!! 起きてよ、ねえ……」

「あいたっ!!!」

 昼直前のある日の授業、教授の唱える長ったらしい睡眠の呪文にやられた少女が、額にチョークを食らって目を覚ました。黒板に長ったらしく書かれていた文字がふわふわと浮き、飛んでいったチョークをするすると回収する。と、同時にその魔法を解き放ち終わった教授は、チョークがクリーンヒットしてぐわんぐわんと首を回していた少女……さらをビシッと指さした。

「では質問です、さらさん。我らがマジカリストが戦うべき相手の一つ、感情の塊で出来た、悪しきもの……それはなんでしょうか? ちなみに授業ではまだ触れていない項目なので、居眠りしていようといなかろうと関係ない質問です」

 教授の目とハゲ頭、そして丸メガネがキラリと光り、きょとん顔のさらを捉える。

 仙人のお足元で三十年修行したという教授は、特定の魔法しか使うことの出来ないはずのマジカリストを逸脱し、天使と同等の能力を最速で納めた一人だ。しかし、それで得た魔力を三日で、『飼い犬の小屋を豪華にする』という願いの為に、で一度失ったチャレンジャーでもある。彼いわく、若気の至りだと言うのだが、その飼い犬が先日亡くなった時は、あと一歩で学園を原始的な方法で燃やし尽くす勢いで泣き喚いたのだった。

 そのチャレンジャー教授に睨まれたさらは、あくびを一度してゆっくりと立ち上がった。周りからはざわざわとした話し声が、波紋のように広がっていく。

「教授、犬失ってからキツくなったよな……」

「っていうかさらが寝過ぎなんじゃないの……?」

「に、したって習ってない内容を当てるとか無茶ぶりすぎじゃん、どう考えてもさらが予習してるように見えないし」

 好き勝手な感想が周囲に漏れる中、さらの隣にいた友達、ふりあが泣きそうな表情でさらの制服の袖を掴む。学科が違うものの、この「魔法歴史基礎」で出会い、今ではよくつるんでいる、ちょっと気弱な女の子だ。さっき居眠りしていたさらをなんとか起こそうとして、結局起こせなかったのも彼女である。

 さらにその隣の、もう一人の友達。ふりあと同じ学科に所属するつっこが、肩をすくめて苦笑いしている。彼女は活発で鋭いツッコミが得意な女の子。さらの行動にはもう察しがつく程に、長い付き合いだ。

 さらはそんな二人に軽くウィンクをして、いろいろと眩しい教授をまっすぐと見据えると、一呼吸置いた後、スラスラとさらは脳裏に浮かぶ言葉を読み上げる。

「『マジカリスト』が戦い、狩るべき相手は『シネン』です。魔女やゴースト、霊と呼ばれていたそれは『マジカリスト』という名称と同時期に設定された名称で、生き物の霊や恨み、後悔などが具現化した、いわゆるお化けで……――」

「わー! もういい!! 次の抜き打ちテストの範囲が……!」

「はい、おやすみなさーい」

 さらは習っていない範囲どころか、まだ資料さえ配られていない部分までをすらすらと答えた。教授が慌て出しストップをかける。習っていない範囲を突然テストするというドッキリを仕掛ける教授にうんざりしていた生徒たちは、テストの範囲を打破したさらに拍手を贈る。その賛美の中で、さらは先ほどと同じように机につっぷして眠りに戻ってしまった。

「ったく、さらは……一週間に一回は先生に怒られがてら当てられるな」

「でもそれで即答できちゃうのがさらちゃんだよねぇ……テストもほとんど満点だし」

 講義が終わり、昼休憩のチャイムが鳴り響く。空腹に目を覚ましたさらは、ふりあとつっこと共に、高くそびえ立つ校舎の外周をぐるりと覆うテラスを歩いていた。今日は天気がよく、細長く続くガラス窓から溢れる光が暖かい。室温調整ユニットが故障したという朝礼放送を聞いた時は不安だったが、寒い思いはしなくて済むようだった。

「いいじゃない、あの教授話が長くてつまらないんだもん、それにあの不意打ちのテストもズルいしさぁ。習ってない範囲のテストとかテストの意味わかってんの? って感じ」

「でもそれも正解するんだろ、あんたは」

「まあね」

 つっこが呆れたように指摘すると、さらは頭の後ろで手を組みながら、にやりと勝ち誇った笑みで振り返った。さらの手からぶら下がったサンドイッチと、後頭部で結った髪が揺れる。その表情は自信に溢れていた。

 さらは今年、この魔術専門学校、「スターダー学園」に入学したばかりの新入生だ。魔法と科学が共存するこの世界で、この学校の生徒は、人々の為に魔法を使う「マジカリスト」という存在を目指す。基本的に魔法の使えない人間、特定の範囲に特化した魔法を使う「能力者」、元々魔法を使える存在である悪魔、天使、妖精……一括りにするのであれば、「魔族」と呼ばれる存在……いろいろな存在が入り交じるこの学園の中で、さらは一、二を争う成績優等生だった。

 ……授業態度は最悪だったが。

***

「別に成績なんて悪くても良くてもどうでもいいの、私はやりたいことをやるだけだもん」

「はぁ、いいねえ……さらちゃんは悩みなさそうで」

「成績がいいからそう言って寝てても許されるんだぞ、思い上がるなよ~?」

 さらは腕を広げて空を仰ぐ姿勢から、つっこの説教に押しつぶされるように肩を落とした。不機嫌そうな瞳で彼女を横目に睨むも、つっこはそれを全力で受け流す。

 お気楽優等生で通っているさらだが、今まで誰かに忌み嫌われたり、変に敬われたりすることはなかった。常に自然体で、天真爛漫なさらは、常に『自分らしくある事』を心がけている。それが幸いして、どうやら「そういう人だから」と大目に見てもらっているところがあるのだろう、それはさらも感謝していた。

 だからこそ、やりたいことをやれて、友達とつるんで……そうゆう生活をできる今がとても楽しい。

「つっことふりあは次の授業何?」

 お昼時のテラスは混んでいる。少し歩いた所でようやく空いている席を見つけ、がたごとと椅子を引いて座りながらさらは問う。可愛らしい袋に包まれたお弁当を紐解くふりあが、やんわりと答えた。

「魅戦は魔法のステッキ作りだよ~」

「え、あれまだやってるの?」

「他の授業と同時進行なんだよ、魔法を放つ為に魔力波長を合わせるチューニングに時間かかるからな、なかなか上手く変形しなくて……」

 つっことふりあは同じ、『魅了戦闘』、通称『魅戦』コースに所属している。いわゆる「魔法少女」を目指し、人々を守るために戦う魔法を覚えるコースだ。

 さらは振り回してちょっとヨレたサンドイッチを頬張りながら、「ふぅん、大変だねぇ……」と呟いた。食べ物を口に入れたままなので、「ふぉ……ひゃいへんはへ……」としか発音できなかったが。

「そうゆうあんたは、次の授業なんだよ?」

 遅れてようやく持参のインスタント麺にありついたつっこが、さらに箸の先を向けて問う。さらはペットボトルの紅茶でサンドイッチを押し流して、ぶはぁと息を吐いてから答えた。

「歌唱コースは今日も明日も発声練習」

「うーん、どっちもどっちだな」

「まぁ、基本は大事だよ?」

 ふりあの言葉に、全員で頷く。さらが所属するのは「歌唱コース」。魅戦コースとニュアンスは似ているが、魔法の汎用性が広い。

 いわゆるアイドルのようなものを目指すコースで、歌に魔法を付加する事で遠くまで魔法を届けたり、攻撃を広げたり、時には「魅戦」をサポートする事もできる……歌を愛した天使が起こした奇跡、『神様の革命』があった事から、今では人気のコースだ。

「ま、実はテストより練習の時のほうが頑張ってる~! って感じで好きかなぁ、私」

「はぁ、さらってば、つくづくお前はお気楽でいいな」

 最後の一口を口に放り投げたさらは、口に残ったパンの欠片と共にペットボトルの中身を飲み干して、さらりとそう告げた。

「でも全然嫌とか言わないのが、さらちゃんのいいとこだよね」

「えへへー、ありがと、ふりあ」

 さらはそう言って立ち上がると、サンドイッチを包んでいた紙とペットボトルを手放した。しかしそれは重力に沿うことなく、ふわりふわりとゴミ箱まで浮かび、ストンとまっすぐその中に収まる。

「ナイスショット。そうゆうののコントールもいいんだよなぁ……くそー、天使なの私だけなのにマジカリストに負けるってどうなのー!」

「つっこにはつっこの特技があるよ~、ねー。ツッコミつっこさん!」

「魔法関係ないじゃん!」

 今にも食って掛かりそうな形相のつっこを宥めながら、さらは座り直そうと椅子に手をかけた……ところで、誰かがさらの名前を呼ぶ。さらは先程までの余裕そうな表情から一転、緊迫した表情を匂わせながら、勢いをつけて振り返る。

 さらが唯一この学園で、思い通りにいかない存在。さらと一、二を争う、もう一人の優等生。自信家できらきらしてて、でも謙虚で、優雅でかっこよくて、美しくて……みんなはちょっと近寄りがたいと言うけど、さらの自慢のルームメイト……せりかだ。

 プラチナブロンドのゆったりとしたウェーブヘアを、さらと同じ位置でまとめている。「おそろいだね」と言われた時には、もう心臓が弾けそうなぐらいだった。言うならば一目惚れのような相手。

「……あ、お邪魔したかしら? さら、そろそろ教室に行こうと思うのだけれど」

「あっ、あ、うん! あっ、ううん! 私もそろそろ行こうと思ってたら……っ、から一緒に行こう、せりか! じゃ、つっこ、ふりあ、また明日ね!!」

 さらは慌てて体勢を整え、せりかの手を取った。空いている方の腕でぶんぶんと腕を振る。残された二人は小さく振り返し、さらが見えなくなったところで顔を見合わせた。

「……乙女の顔をしておりましたねぇ?」

「……ですねえ?」

 その顔は二人とも、にやにやとしている。真意を問い出したことは無いが、せりかに対するさらの反応は、恋する乙女に準ずるものがあった。夢にまっすぐ過ぎて、どこか鈍感な彼女が、果たしてそれに自分で気づいているかどうかはわからないが……

「せりかさんじゃ仕方ないよなー」

「なに? つっこもさらちゃん狙いだったの?」

 ふりあのにやにや顔が強くなる。つっこは手のひらを横に振ると、ぎしりと音を立てて、椅子に体重をかけた。

「そうじゃねえわ! ……いつもマイペースなさらがさ、あんなにペース乱されるのが、せりかさんじゃ仕方ないって話。天才は天才にしか理解出来ないっていうかさ、二人の世界だよね。別に二人のことを悪く思ったりはしないさ、『愛はどんな形でも祝福されるべき』っていうのが今の神様の言葉だしね」

「あれ、そんなのあったっけ?」

 歴史の授業で習った言葉をなぞらえたつっこに、ふりあは首を傾げる。

「おい、お前は常に起きてる割に全然授業聞いてないな?」

「だっ、だって言ってる意味ちょっとよくわかんないし……私は早く魔法教えてもらいたいっていうか」

「今! 基礎が大事だと!!」

「早く基礎アイテム揃わないかなって……あ、ステッキの原型を考えたのが神様なのは知ってるよ?」

 つっこは空気が抜けたかのように、へなへなとテーブルに崩れ落ちた。

***

「本当にごめんなさいね、話を遮ってしまったみたいだったから」

「もういいよぅ、ルームメイトなんだし、遠慮はなし! ね!」

 せりかに始業が近いと呼ばれ、せりかと共に音楽室に足早に向かうさら。いつまでも突然話しかけてしまった事を気にするせりかに対して、さらは手の平を広げ、横にひらひらと振ってみせた。その手を背中で結んで、せりかを追い越すように少しだけ歩幅を広げる。

「それにっ、私はせりかに呼ばれて嬉しかったよ!」

 せりかの前にするりと飛び出し、せりかの顔を覗きこむように見上げながら、さらはそう言ってにこりと笑った。その表情と、少し緊張したように、気取ったポーズで返事を待つさらに、せりかも表情を緩める。

「……そうね、ありがとう」

 クスッ、と小さく、優しく笑うせりかの手を、自然とさらは取って引っ張る。強く引っ張るさらにつられて、せりかの足並みは早まった。

「ほら、そろそろ急がないとチャイム鳴っちゃうよ!」

「そうね、急ぎましょうか」

 午後の始業まで、あと一分程しか無い。柔らかな昼下がりの日光が射して、二人の長い影を落とす窓の大きな廊下は、次の授業に急ぐ生徒が多くすれ違う。ふいに、手を取り合って小走りに走る二人の横を、小さな女の子がすれ違った。

「……? あんな生徒うちにいたっけ?」

「……ああ、あの子は……どこかの科の先生が連れてきたクローン……? からくり? だったはずだわ」

 生徒と呼ぶには小さすぎる彼女の背を、二人は目で追う。ぽてぽてと駆けて行く姿は、遠目には普通の人間の子供だ。

「クローンは確か『革命』で禁止されたはずだからカラクリかな…? って事はあの子、人形なのかぁ」

「さすがさら、そうだったわね…… まあ、ここ最近、特にこの国での、人類以外のマジカリストは珍しくないから」

 お互いに、他の生徒では理解し得ない所まで深く話す。成績上位同士の的を射た答えに、そうだね、とさらは小さく頷いた。と、同時に校舎内にベルが鳴り響く。

「やばっ、私が良くてもせりかを遅刻扱いにはできない!」

「ふふ、さらと一緒なら先生も許してくれそうだけどね?」

「でも先生、苦笑いだろうけどね! さ、いこっ、さら!」

 二人は先生が来る前に、と急いで音楽室に向かい、駆けて行った。

 歌唱科の中でも特進の班にいるさらとせりかは、全体練習として日課である合同発声練習を終えると、他の班がすべて課題を終え、次の段階に進むまでの間、先に進みすぎないように、区切りのいい所で自主練となる。

 さらは魔力を込めると、ふわりと身に纏っていた制服が、ふわりと裾の浮いたスカートに、ケープがドレスに形を変える。せりかの姿も、お揃いの制服から、露出の高いドレスへと変化した。この舞台衣装が、ステージを造る『芯』になるのだ。ふたりはいわゆる「変身」を終えると、音楽室から外に出て校舎の屋上に降り立つ。

 ここは歌唱科専用の『練習舞台』であり、学園祭などの見せ物の時にはメインステージになるほど、目立つ大きなステージがある。学園の校庭を見渡せるこの場所は、照明などの設備からなにから、全てが壮大で……歌唱科の誇る、他の学科からも憧れの場所だった。

 「あっ、あー、あー、あー」

 さらは何度か深呼吸をし、声の出をまるでギターのチューニングのように、音程を上げ下げしながら短い声で確かめる。

「よしっ!」

 顔を上げ、拳を思わずぎゅっと握りしめて気合を入れると、さらのまとめた髪と、ステージ衣装の裾が飛び跳ねた。魔法を検知して自動的に再生される機器から、スピーカーへ……さら自身が授業で作り上げた曲が流れ出す。

 歌唱科が目指す『アイドル型マジカリスト』は、歌に魔法を付加して戦力にしたり、幻想を現して人に働きかける。それは時に攻撃にも防御にもなり、また癒やしや応援にも使われる。魔法の出処は、歌唱している本人の心だ。夢を現実にし、歌を通して映し出している……という感覚。

―― 虹をかけてその道を渡ろう 僕の先にあるもの全部 虹が教えてくれる ――

―― 怖いものはないよ なんだってわかってしまえば怖くない ――

 さらの歌唱が始まると、舞台は霧に包まれた。それをさらの腕が、鳥が翼を広げるように払っていく。風に押されて裂いた霧の間に、虹が生まれ……それは雨上がりの雲間にかかる橋になった。

―― この虹が消えるまで 僕になんでも聞いて? 君も一緒に行こう ――

―― 僕と君 世界のどこまでも ずっと先 未来のいつまでも ――

 さらのダンスと共に、揺れ踊っていた衣装のリボンがするすると解かれる。さらの指先を離れ、ふわりと宙に舞ったリボンは大空に舞う鳥になり、虹にぶつかって光を産んだ。

その光がきらきらとステージに舞い降りて、足元に降り注ぎ、最後にはステージを花畑で埋め……可愛らしいさらの声にそよいで、余韻となった。

「ふうっ」

「すごいわ、さら、綺麗に咲いたわね」

 そのステージを見守っていたせりかは、さらの歌い終わりを待って静かに近づく。そして、さらが咲かせた花の一つを摘んで手にとった。さらの魔法で生み出されたそれは、さらが咲かせた地面を離れ、ほろりと光になって空気に溶ける。残るのは花のほのかな香りだけだ。

「いい香りだわ」

「やっぱりすぐ消えちゃうね、もっと本物のお花を咲かせる勢いでいきたいんだけどなー、でも今日は調子いいかも、こないだは草原を表現しようとして麦畑になっちゃったしさ……」

 ぶー、と言いながら、さらは足元の幻想をキックしてみた。花が散って、光になって溶ける。

「あれはさらが変なところでくしゃみするからよ……ふふっ」

「あー、もう、思い出し笑いだめ! 恥ずかしいからやめてよぉ!!」

 先日さらがやらかしたヘマを思い出し、思わず笑ってしまうせりか。さらはその思い出し笑いを消すように、せりかの胸元をぽかぽかと殴る。せりかはひとしきり可愛らしく笑った後、くるりとステージに身体を向けて、自信ありげに微笑んでみせた。その姿は、凛々しく、勇ましく、そして美しい。さらはそう思う。

「さて、次は私ね、負けないわよ」

「ふふふぅ、絶好調の私の幻想に勝てるかな?」

 さらは妙な笑い声を漏らしながら、威張ってせりかを見送る。今日の演出は、いつもの彼女と肩を並べられる。さらは自身を持ってそう胸を張る。

 せりかはまっすぐと見据えたまま、静かにステージの中央に立つ。せりかの衣装が、静かに風に揺れた。やがて、その風とまるで呼吸を合わせるかのように、せりかは目を閉じた。スウッ、という深呼吸の音が、さらの耳にもはっきりと届く。

―― 眠るような静けさの中 私はただ一人 貴女の事を探してた ――

―― 海の底に隠された 本当の私をどうか 見つけないで欲しい ――

 その静かな深呼吸の後に、染みわたるような彼女の声がステージに響いた。魔力を増長させるマイクを持っていない彼女の声は、素直に空気を伝って、穏やかな深海の幻想を見せる。深く暗い青色の空気の中、重力から放たれたように、ひらひらと長い衣装の裾が揺れ、彼女だけが浮かんでいるように。

「わ、声量すごい……」

 マイクを使わないというせりかの自信は、声の大きさがあるからこそ形となる。さらはそれに魅了される。

―― 鏡の世界 見せないで ただ教えて 私だけの灯火 ――

―― 凍てつくようなこの気持ちを 漂うだけの星屑に変えて glitteringly ――

 せりかが魅せる海が、徐々に彼女の振りかざす手の先から、彼女を覆うように凍っていく。彼女が天を仰ぎ見ると同時に、それは細かく砕け散り、最後には夜空の星のようにキラキラと舞って消えた。

 さらの見せた花畑のように残ること無く、最後は元のステージに戻ってしまう。一見すれば失敗かとも思えるそれは、本当に夢から醒めたような、惜しくも美しい幻想だった。残るのは、余韻という感情の演出。

「……。」

「どう?」

 せりかが得意げな顔で汗を拭う。その発想はなかった、とさらは顔を歪ませたまま固まってしまった。そんなさらを前に、せりかはちょっとだけ胸を張りながら目線で感想を煽る。ようやくさらは負けを認めた。

「……威張ってすみませんでしたあ!」

「ふふ、わかればいいのよ。調子に乗るのは厳禁よさら。……でも、さらのステージも、やっぱり素敵。魅せてくれるって感じ……楽しそうだもの、貴女」

 そう言ってせりかは愛おしそうに目を細めた。さらはこのせりかの表情を見ると、もっと魅せる事ができる、魅せてやらなければ、という自信が沸き上がってくる。せりかが、隣にいてくれる事が、こんなにも嬉しいし、頼もしい。共に勉強するのに、最高のパートナーだと強く思った。

「さて、発声練習に戻りましょう」

「私そろそろ新しい曲書きたいかなー」

 気がつけばそこそこに時間も経過していて、もう一度ステージ練習をやるような時間は残っていない。二人は音楽室に戻って、反省会を兼ねた基礎の発声練習に戻ることにした。さらは腕を組みながら、ぶらぶらと新曲が欲しいと嘆く。

「そうねぇ、今度デュエット曲作らない?」

「えっ、いいの!?」

 歌唱科の授業の中では、作曲知識の教科もある。二人はもちろんその授業内容もマスターしており、今やステージで使う曲のほとんどは自作曲だった。

「まだ二人一緒でのステージってやった事ないじゃない、この先きっと同じステージに立つこともあるだろうし、いいんじゃないかって思うの」

「うんうん、じゃ、あとで話し合おうね!」

 せりかからのデュエット提案、それはとても魅力的だ。しかし二人はまだデュエット曲を持っていない。デュエット曲を持ってもいいのでは、というせりかの提案に、さらは強く頷いた。が、すぐに眉を寄せる。

「あ、でも私とせりか、声質も歌う曲も衣装も違うけど……同じステージで統一感出せるかな……?」

「ふふ、それについても後で話しましょ、いい資料があるのよ」

「やたっ、せりかのデータベース見れる!」

 さらはせりかのその言葉に飛び跳ね、握りこぶしを作ってガッツポーズで喜んだ。せりかもその様子に微笑むと、共に音楽室の敷居を跨ぎ、音楽室へと戻っていく。

「じゃ、とりあえず今の時間は発声に使うわよ」

「はーい」

***

 授業が終わった後、さらとせりかは、学園から少し離れた学生寮の自室に戻っていた。二人はこの学園に入った頃からのルームメイトだ。

 基本的にさらとせりかは、合同授業などで別々のスケジュールの時、さらがつっこやふりあとつるんでいる時以外は、ほとんど一緒にいる。せりかは特に『出来た』生徒で、自分で魔法の歴史を調べ、その集めた情報で情報データベースを築きあげる程の優等生な為、さら達が取っている『魔法歴史』の授業は取っていない。

 それだけの天才とだけあってか、せりかはなかなかに、他の生徒とは距離を置いている部分がある。しかし、さらが物怖じせず接しているおかげで、せりかの笑顔を引き出していることもあり、最近では空いた時間に他の生徒に勉強を教えたりすることもあるようだ。

「ちょっと待ってね、最近データベース、起動が遅くなっちゃって……」

「ほへー、それだけ集めたって事だね、パソコン、パンクしちゃわないかな?」

 せりかはそう言うと、起動がすっかり遅くなったパソコンの画面を手持ち無沙汰に拭いた。さらはその大容量に、思わずパソコンを心配してしまう。

 さらとせりかの部屋は、他の生徒の部屋よりちょっとだけ広くできている。建物の構造上、ちょっとおかしな間取りになってしまった欠陥部屋なのだが、始めこの部屋を見た二人は「この方が面白くていい」と意見が一致、すぐ入室を決めた部屋だった。

 五角形の部屋の真ん中を、左右から利用できる……今はベッドとして利用しているロフトが支配している。それにお互い背を向けるような机と本棚、クローゼット、テレビを兼ねたパソコン、共用の冷蔵庫、ユニットバス……学生寮だから仕方ないとはいえ、ほとんど必要最低限と言わざるを得ない、簡素な部屋だ。しかしそこは年頃の女の子二人の部屋。置いてあるものひとつひとつに手入れが行き届き、可愛らしくまとまっている。

 床に膝立ちでせりかのデータベース画面を眺めていたさらは、膝の疲れに耐え兼ね、ロフトの反対側から自分のキャスター椅子をコロコロと運んできた所で、ようやくせりかのデータベースが開いた。ヒョイン、いう軽快な音と共にウィンドウが拡大されていく動きですら、せりかが作ったのだと言うから驚きだ。このまま製品化してもいいのに。

 魔法も歌も勉強も完璧な彼女に、出来ないモノは何も無いのだろう。そう思うと、いくら天才と言われているさらでも、ちょっと……いや、かなり尊敬する部分がある。まあ、最初から、どこか敵わないな、と思っているのだけれど……。なんでだろう、と少し考えた所で、せりかが口を開いた。

「そうね、まず私とさらの演出方針がバラバラだという件について話をしましょうか……これ見て欲しいわ」

 せりかは軽快なクリックで、ある一つのサムネイルを選択する。データベース画面に覆いかぶさるように現れたのは、ひとつの映像だった。ノイズが酷く古そうな映像だが、それでも分かるほどキラキラと、星空みたいに綺麗なステージの映像だ。

 やがてイントロと共に現れたのは二人の女性らしき影。せりかはそこで動画を一時停止した。

「この二人を見比べてみて」

「……これは、デュオ? 二人共、大分、印象が違うね?」

「 そう、片方は背が低くて、スマートだけど、素朴な歌声の女性。もう片方は背は高いけど、モデル体型で、清純派アイドルって感じでしょ? 衣装もマーメイドドレスと、甘くて可愛らしい、アイドルらしい衣装……印象はちぐはぐどころか、正反対よね」

 せりかが動画の続きの再生する。

 歌詞が始まると、二人の衣装の色がゆっくりと変化した。しかし、その印象はやはりまだちぐはぐで、でもどこかその正反対さに一致感を覚える。曲もかっこよく仕上がっているが、アイドルソングにも通用する軽快さを持っている。スクリーンに映る一人の表情と、カメラに写るもう一人の表情は勇ましく、しかし可愛らしく。

 二人の振り付けに、揺れる髪、影。会場の声援、二人の視線。それが完全に揃っていた。揃っているだけではない、そこにある一体感は、言葉では言い表せない。信頼、愛情、絆、そんなものまで伝わってくるようだ。

「……これは革命前にいたアイドル型のマジカリストの映像」

「え、そんなに昔から?」

「いえ、『アイドル型マジカリスト』という名目の『マジカリスト』が活躍するのは革命後、この二人は『アイドル型マジカリスト』が生まれる前から歌を歌っていた、『ただの魔法使い』よ」

 映像は何度も使い古されたもののようで、ドアップになればなるほど、ほとんどがノイズで認識できない。せりかも、「この二人がなんて名前で、誰なのか……それだけは、どうやっても調べが付かなかったの」と呟いた。

「こんなにきちんと映像があるのに?」

「そう、顔がよく認識できないとはいえ、こんなにはっきり容姿も音楽も残っている……のに、まるで情報が見当たらないのよ」

「ふうん……まだ生きてたら、会って話とか聞いてみたいなぁ」

 さらはしょんぼりしながら、がっくりと肩を落とし、恨めしそうにじとっ、と画面を見つめる。

「さすがにもう生きてないんじゃないかしら? 革命があったのでさえずっと昔よ」

「わからないよ、魔法が使えるんだから人間じゃないかもしれないし」

「そう……ね……。妖精や悪魔なら数千年生きるものね……」

 せりかが緩く微笑む。さらも微笑み返した。その笑顔の下で、せりかの言葉の濁し方に、少しだけ疑問が湧いたけれど、さらはあえてそれを問わなかった。

***

「さら、さら……! 起きてってば、起き――」

「ぐぶぁ!!」

 昼を過ぎた教室の生暖かい空気の中、今日もチョークを食らったさらの叫び声が教室に響いた。何時にも増してアグレッシブな軌道を描くチョークは、さらのおでこにギュルギュルとスピンを食らわせ、さらが無理やりひっぺがしたのをきっかけに高く打ち上がり、さらの脳天に墜落して砕け散った。

 チャレンジャー教授はわざとらしい咳をウォッホォォォンン!! と響かせると、指示棒を机に叩きつける。心なしか少しツヤが失われたハゲ頭に、今日も天井の光が反射していた。

「えーーー! 課題を出します! 期限は先生が留守にして戻ってくるまでの間! 三週間!!」

 教室の隅々から、「教授、次は猫飼うみたいだぜ、探しに世界を回るんだって」「え、サルじゃねえの」「いやいや、みみずくだろ?」という、噂に尾びれどころか、大天使顔負けの大きな翼がついて大空に羽ばたいているレベルの、規模のでかい憶測が飛び交う。

「田舎の、ほ、う、じです!! ……ンンンッ! 課題は「魔族の歴史」を調べレポートにまとめる事! 歴史そのものでもいいし、魔族における事項の一部分……例えば、妖精の翅の進化であったり、悪魔の地獄拷問器具の歴史でもいい! 自分なりのテーマを見つけてください。」

 教授はそう言って、メガネをシャツの裾で念入りに拭き始めた。その間にさらはひとつ大きなあくびをする。スチャリ、大仰にメガネをかけ直した教授は、目を凝らしてさらを見つめなおす。

「他の生徒のレポートを丸写しは禁じます、が、一人までなら同じ科の生徒、またはルームメイトと協力してレポートを作成してもいいでしょう。しかぁし! さらさん! よくお聞きなさい!! 貴女のルームメイトのせりかさんが作成したデータベースの使用は禁っ止っ! ですよ!」

 そう念を押す教授に指差され、さらはいつだかのように仕方なく、だらーりと立ち上がった。

「そんな事しませぇん。……ので、教授もそのレポートで抜き打ちプレゼン大会を開こうなどお考えなさらぬようにお願いしまーす」

「……げっ……」

 嫌味なほど丁寧に、深々と頭を下げたさらに、生徒の拍手が鳴り響く。教授は顔を真っ青にしたまま、名簿を手にしてふらりふらりと教室を後にした。

「今日の教授とさらのコントも面白かったな」

「別にコントしてるわけじゃないんだけどさ、あのやり方本当ムカつくんだもん」

「もう、毎回ハラハラするよお」

 授業が終わり、さらは足をぶらぶらさせながら、つっことふりあと共に玄関口に向かっていった。ふりあはさらの無茶過ぎる行動からやっと胸を撫で下ろす。

「あ、せりかだっ、じゃあふたりともまた明日ねー! ……せりかー!! かーえーろ!!」

 唐突に、玄関の向こうにせりかを見つけ、二人に手を降ってさらは駆け出す。さらに呼ばれたせりかは微笑みながら振り向いて、さらはその腕にしがみつくようにせりかを捕まえた。その姿に、つっことふりあは苦笑しながら顔を見合わせて肩をすくめる。

「つっかまーえたっ、せりかー、課題出たのー、手伝ってもらっていいかな?」

「ええ、私でよければ」

「やたっ、じゃあ資料館寄って行こう! せりかのデータベース使っちゃだめなんだって言うからさ」

 快く承諾してくれたせりかの腕を引き、校舎横にそびえ立つ資料館に、さらとせりかは駆けていった。

 校舎に並ぶように建てられた広大な資料館は、螺旋階段状になった円筒状の建物の壁に、びっしりと魔法や魔族関連の書籍が並んでいる。吹き抜けの中央には空間を操る魔法で、映像資料や音声資料を記録したものが空中にふわふわと漂っている……まさに記録の塊そのものだった。

 さらはその中央に手を寄せると、ふわり、と検索用の画面を触る。

「で、さらは何を調べるの?」

「うーん、やっぱり専攻してるし歌関係かなぁ、魔族にとって歌はどうゆうもので、そこからどうやってアイドル型のマジカリストが生まれたとか……? それにこないだの二人のことも気になるんだ、他にも正体不明のアイドル能力者はいたのかな、とか」

「そうね……とりあえず歌に関する情報を集めて、そこからまとめていくといいかも。私は映像を探してみるわ。さらは書籍と音声を探して借りてきて?」

 さらはお喋り禁止の叫べない資料館内で元気に返事をする変わりに、大きな敬礼をしてみせた。せりかはその姿に応え手を振りながら、敬礼が逆ね……と、思ったが、あえて突っ込まないであげる事にする。

「……うーん、どうして書籍には検索かけれないのかなぁ」

 とりあえず書籍を探すことにしたさらは、階下からひとつひとつ本の背表紙をなぞっていた。しかし、この方法はあまりにも回りくどい、めんどくさすぎる。飽き性のさらには苦行だった。資料館の映像と音声は、魔法で中身を覗き見ることができ、検索と視聴である程度中身が絞り込める。しかし書籍のようにタイトルがないので、映像探しをしているせりかは、今頃一生懸命、それっぽい資料を見つけては、一つずつ開いて見て回っているのだろう。

 書籍は中身が検索出来ないので、背表紙だけが情報源だ。さらはとりあえず、ひとつひとつの背表紙を確かめているのだが……何千冊あるかもわからない資料は、背表紙だけでも、何時間掛ければすべてを読み切れるのだろう? 背表紙から本を見つけ出せても、書籍の中身が検索出来ないので、結局何が書かれているのかはっきりしないのもめんどくさい。

「仕方ない、魔法がかかってないなら、こっちからかけるしかないよね? もうすぐ閉館で人もいないし……よし!」

 さらはキョロキョロと当たりを見回した後、密かに、ふわりと魔法を放って変身をする。この間、せりかと共に曲を作っていたときに発見してダウンロードした、フリーデザインのアイドル向けセーラー服風の衣装だった。

「……よし」

 あまり大声では歌えないので、さらはそっと口ずさんだ。

―― 知りたいことに 付箋を付けて 誰に問いてもわからないまま ――

―― Question Question 教えて欲しい事 全部心のなか ――

 さらの歌声に呼び寄せられるように、資料館の本棚からすぽん、すぽんと本が抜け出す。ぱさり、と一冊の本がさらの手に吸い寄せられ、足元にも何冊か積み上がった所で……歌ったことがバレる前に、さらは歌と変身をやめた。

「あれ、あんまり資料ないなぁ……」

 とりあえず足元に積み上がった本を眺めるも、それのほとんどはただの音楽家の伝記だ。本の表紙をピンと指で弾くと、本は元の場所に帰っていく。学校の資料室とて、万能ではない。特に『歌唱科』は最近出来た科で、まだまだ対応しきれていない部分も多いので、当然といえば当然……かもわからない。

 元々世間にとって、『アイドルマジカリスト』とは歴史が浅いものなのかもしれないし……あの二人の名前が、せりかでも分からないぐらいなのだから、きっと元から調べるには、なかなか調べにくい事なんだろう。もしかして、厄介な課題を選んでしまったのではないだろうか……と、ふと、さらは不安に思った。その思いを振り切るように、手元の本に目を通す。

「……これ、は……? 伝記? ちがうか……」

 最後に自分の手元にあった本は、今までとは違う雰囲気を醸し出している。ゆっくりと表紙をなぞった。大分埃を被っている、深い緑色の表紙。

「『うたごえ』……?」

 シンプルな金箔押しでそう記されたタイトルの他に、あらすじもなければ、著者名もない。……ちがう。著者名が、消えてる? 何故かそう思った。

「これだー!!!?」

 だー、だー、だー………  さらの声がこだまする。直後、管理者の妖精のおばさんに強烈な体当たりを喰らい、さらは頬を腫らして、何の成果もなかったせりかと共に寮に戻った。というかつまみ出されたので仕方なく帰った。

「これが、あの映像の二人だという確率は?」

「うーん、良くて三割ぐらいかしら? あの当時に能力者と公言していたアイドルは、昔とはいえそこそこにいたと思うし、そうでなくとも能力者は存在していたでしょう……肝心の名前がわからないんじゃ、特定しようもないし、ただ名前が消えているという現象は他に聞いたことがないから、どうかしら……というぐらいね……。」

 さらは頭をひねるように腕組みをして、本を睨む。せりかも少し困った顔をしながら、小首を傾げていた。そのせりかの表情にかわいい……と、ふと思う。そんな、邪な考えはさておき、ほっぺたにぺたりと貼った絆創膏をさすりながら、さらは本を開いた。

 高価そうな表紙。ざらざらした紙の中表紙。それをゆっくりとめくった最初にページにかかれていたのは、一人の女性の事を綴った内容だという事だった。そしてはじめから、ひとつの謎が、謎を運んできた本人によって暴かれる。

『初めに断っておこう。

この物語には、彼女の名前を記さない。

これは彼女の物語でありながら、彼女なんていない、ただのお伽話なのだから。』

 二人はその表記に顔を見合わせ、再度首を傾げた。

「これは……比喩表現とかじゃない、の、かな?」

「うーん?」

 確かに魔法のことについて書かれているのなら、『主人公』がなんらかの魔法で消されてしまった、とも取れなくはない、が、しかし名前ごと存在が消えるなど聞いたこともない。消されたからこそ知らないのかもわからないが……。とりあえず読み進めれば分かるのではないか、と思い、二人は次のページをめくった。少しの不安を抱き、複雑な表情のまま。

***

 この物語には、彼女の名前を記さない。

 これは彼女の物語でありながら、彼女なんていない、ただのお伽話なのだから。

 彼女は、黒い翼を持つ天使だった。

 神よりも強い力を持った天使であった彼女は、神様の逆恨みによって、強い罪を背負うことになった。

 人と自分を強く恨むようになり、裏切られ、責められ続け、彼女の心は擦り切れていく。

 やがて悪に自ら手を出した彼女に、出会いが訪れる。

 何の変哲もない、一人の女性。彼女の『呪い』が効かない、ただの女性だった。

 彼女は、長い永い、そして酷い旅路の中で、その一瞬しか出会っていない女性に一生分の希望を見出した。

 自分がそばに居ても良い、初めての存在。自分の運命に抗う事を教えてくれた存在。

 誰かを傷つけることしか出来なかった彼女は、その力でその人の為に戦った。

 そして、誰にも聞かせることのなかった声で、彼女は歌った。

 全てを取り戻すために彼女は歌っていた。

 また、その希望も歌った。女性にとっても、彼女は希望だった。

 お互いがお互いを探し合いながら、心からの旋律を響かせていた。

 そうして擦り切れかけたその時……二人はやがて、再会し、手を取り合った。

 女性は、彼女と同じ力を持った、未覚醒の能力者だったのだ。

 彼女に触れ、自分の魔法を思い出した女性と、希望を得た彼女の魔法は大きかった。

 天使と能力者、二人の希望は、奇跡になって響いた。

 大きな、大きな歌声になって響いた。

***

「……すごく曖昧な表現だけで書かれてるね……」

「『なかった事にされる』というのを解っていて、それを前提に書くにはこうするしかなかった……といった所かしらね……」

 さらは静かに本を閉じる。この中から得られるのは、『あの二人かもわからない、誰かの意思を誰かが継いだ……』という情報だけだった。きっとこの本以外に、この物語を紡ぐものはない。この本は明確な手がかりにはなり得ない。さらのカンとせりかの予測はそう悟った。さらは残念そうに、切ない気持ちで本を閉じる。

「仕方ない、課題はステージ衣装の参考にしてた魔族の衣装の歴史まとめようっと、ごめんねせりか」

「いいえ、仕方ないわ」

 さらはぽん、と軽い音を立てて「うたごえ」を閉じた。しかし、本を戻そうとはしない。

「でもなんか、もっと歌うの頑張ろうって思えたから、これもうちょっと借りておこうっと」

「ふふ、思いがけない出会い、ね 」

***

 ――思えば、その日はおかしかった。

「――と、言うわけで、我々マジカリストが戦う敵、シネンとは、人間の言う幽霊、お化けのような「魂が悪しき感情によって変化」したり、「迷い霊がさまよい続けた場合に起こる変化」の最終的な姿であり、それは時に人間にとって脅威になる。例としては不慮の事故や、原因不明の病気など……はっきりと科学解明! できない場合の……――!」

「ぎゃあああああああ!!」

 朝日が眩しく差し込む早朝の教室に、ロケットのように飛んできたチョークが空中に白線を描き、それは毎度のことながら、さらの脳天にズドンと直撃した。さらは痛みに二メートルは飛び上がり、周囲からはさすがにくすくすと笑いが起きる。

「はい! シネンの脅威の例、事故、病気、はっきりと科学解明出来ない場合の人為的な事件……これらを引き起こす理由はシネンによる……?」

「えっ、はっ……えと」

 チャレンジャー教授が指示棒をビシッとさらに向けて、いつもどおりに当てる。教室からは既に先を見通した何人かの生徒がにやにやとしていたが、さらが言い淀むと、その視線もぱちくりとした驚愕の表情に変化した。それもそのはずだ、普段ならこのあと読心でもしたかのようにぴたりと言い当てるさらの言葉……「天才不良生徒さら」の姿がどこにも見当たらないのだから。

「あの……手品ぁ?」

 どうしてもわからなかったさらは、おとぼけついでに頭と手でパーを作っておどけてみせた。クラスからはドッと笑いが起き、それとなく教室の空気は薄ら寒いお笑いムードになる。

「ふふふ! ははははは! は・ず・れ! ついにボロが出ましたねぇ、さらさん? いけませんねー、どうせ今までも誰かにカンペを貰っていたのでしょう! っ、はいっ! 答えはシネンの呪い! シネンによる呪いで起きた、天界第三事件は……――」

 調子に乗った教授の姿とクラス中の嘲笑に、さらはふてくされて席に座り直す。ペンをくるくると指先で操って冷静さを装うが、さらの心のなかは、そのペンの回転よりも簡単にかき乱された。いつもなら簡単に回せるペンが、指先から滑り落ちて、虚しい音をカランカランと響かせる。

 何かがおかしい。何だかすらわからないけど、何かが……――

「さら、大丈夫か?」

「あ、うん……うん」

「本当に大丈夫ぅ? 熱でもある?」

 魔法歴史の授業が終わり、数学と魔法文字の授業もやり過ごし、ようやくお昼休みを迎えた。いつもなら仲良し三人、意気揚々とテラスに昼食を摂りに向かう所だが、今のさらにはそんな食欲も気力もなかった。

 つっこが肩に手を起き、ふりあがさらのおでこに手を当てる。ふりあの手が冷たいのか、自分が本当に熱でもあるのかわからないが、ひんやりとした手のひらと、煮えくり返った自分の頭との温度差に、さらは静かに目をつぶる。

「保健室行く?」

「う、ううん、いいよ! 大丈夫、大丈夫!」

 さらの腕を引くふりあに、さらは元気を装って軽く手を振りながら立ち上がる。ふりあは『納得行かない……』というような顔をしていたが、それ以上何も言わなかった。

 ろくにものを食べずに昼食を終えると、先ほどの授業の様子を知らないせりかが、いつもようにさらを呼ぶ。さらは不調を悟られないように、いつもどおりに友達と別れ、歌唱科の授業の為、音楽室に向かった。

 今日はせりかと一緒に作ったデュエット曲の練習をする日だ。

「よし、じゃあ行くよ!」

「ええ」

 魔力増長マイクを握りしめ、天高く掲げる。さらは大きなリボンを背負ったふりふりのミニスカにブーツ、アイドルらしい可愛らしい衣装に変身。せりかはノースリーブのすらりとしたシルエットのワンピースに、ヒールのあるショートブーツ。大人っぽい衣装だ。

白地に青緑のチェックを入れて、色合いを統一する事で統一感を出している。形は違えど、お揃い。

 そう考えるだけで、さっきの憂鬱が吹き飛ぶほどにさらの胸は高鳴った。

―― 空に舞い踊る この星の片隅 ――

 せりかの強い歌声が、ステージの色をがらりと変える。

 さらは自分のパートを忘れそうになるほど、その声に酔った。

―― 騒ぐ町、通りすぎ 夢の中へ Dream ――

―― 歩き出す足音(おと) 静かに沈んでく ――

 せりかがさらにパートを受け渡すように、手のひらをコチラに向けた。

 さらははっ、として慌てると、自分のパートを歌い出す。

―― 沈まる陽、行かないで まだ朝で いたいから ――

「……っあっ……!」

「さら!!」

 ようやく最初のサビ、さらとせりかの声が重なる寸前。さらが急に咳き込んだ、と同時に、ずるり、と不吉な音。ステージから足を踏み外す。

 一階の屋根の上に作られたステージは、地上からもよく見えるよう、一階の屋根からも距離があり、結構な高さがある。一般的な人間より身体の丈夫なマジカリストでも、転落して無事な高さではなかった。せりかが普段の落ち着いた雰囲気からは予想できないほどの声を上げて、さらの腕をとっさに掴んで引く。

 しかし、片腕でさらの体重を支えきれるほど、せりかに力はない。せりかとて、強化はしてあるものの、力量はただの少女だ。せりかのブーツから伸びたヒールがギギィ、と地面を引っ掻いた。ふたりでぐらりと傾く。せりかは間一髪で、さらの落下を引き止めた。

 しかし、それも長くは続かない。ついに、せりかの努力虚しく……せりかの足が離れてしまう。さらはその驚愕に、声すら出せず、傾く身体……重力についていかず、ふわりとそよぐせりかの髪……そのすべての瞬間をスローに感じながら、もうだめだ、と目を、ぎゅうっと音が聞こえるほど静かな世界で、強く閉じた。

 この高さからじゃ、少なくとも大怪我は必須……ヘタすれば死んでしまう。私はともかく、せりかを道連れには出来ない。そんな、妙に冷静な考えが、さらの頭を一瞬で駆け巡り、さらはせりかが自分の上になるようにせりかをかばって抱きしめた。

 せりかはそれをさらが恐怖を感じていると考えたのか、抱きかかえ返して来る。せりかの最期の優しさが――……

『インクラ!』

 もうダメだ、と思った瞬間、ふいにさらの耳に聞いたことのない言葉が飛び込んできた。せりかが魔法の呪文を唱えたのだ。その数秒後、さらの背に何か……ぐにゃりと弾力のあるものが触れる。

 そのまま、ふたりは一階の屋根の上……の、数センチ手前でバウンドした。

「……え?」

 さらは目をぱちくりとさせると、慌てて振り返る。背中のすぐ後ろ、そこには透明な膜が二人の体重を支えて、ゆったりと潰れていた。大きなシャボン玉のようなそれは、驚異的な弾力で二人を受け止め、虹色の皮膜を輝かせていたのだ。

「さら、平気?」

「え、ええ、うん……」

 せりかが身体を起こして先に降り、ぽかんとした顔のままのさらの手を取る。さらは呆然としたまま、されるがままで一歩、二歩。優しく手を引くせりかに起こされ、そのシャボンクッションから降りた。一呼吸置いた後に、それは普通のシャボンのようにパチリと弾けて消える。

「せりか、今のは……?」

「魅戦の呪文よ、専攻してる教科以外の魔法も極力できるようにしてるから……覚えておいてよかったわ」

 その立派過ぎる言葉に、さらは尊敬と共に、再度とんでもない後悔に襲われた。こんなにも立派な人を、自分では追いつけない、手の届かない領域にいる人を……危ない目に遭わせた、という恐怖に震える。そして、今までにないほど不調で「何も出来ない、役に立たない」自分にも恐怖した。こんなに、出来ないことが、怖いなんて知らなかった。せりかの隣に居れる自分というのは、『天才』の自分である事を自覚してしまったのだ。

「やっぱりさら、貴女……調子が悪いのに無理してたのね」

「やっぱり、って……」

「顔色が悪いわ、朝起きた時から少し様子がおかしかったもの……貴女……」

 見抜かれていた、鋭いせりかには、隠し事すらできない。なんというか、せりかには、勝てない。さらは心臓をゴツンとやられたような衝撃に、密かに胸をおさえた。こんな小さな失敗が……重たくて痛い。

 二人で一、ニを争う天才だった私達。ライバルで親友で、ルームメイトだったはずなのに。何故か距離を感じてしまう。その言葉で夢から醒めたようだ。思い返せばここ数日、さらはせりかの足を引っ張るだけだったことにようやく気づいた。

 いつもは自分からせりかを授業に誘っていたはずなのに、昼はせりかからの呼びかけ、魅せがレベル違いなステージ、見当違いな課題の選び方、小さなミス……今まで「天才」だったさらに、小さなミスの山という荷物。失敗を忘れた少女にとって、それはとても重たくのしかかってきた。

「ねぇ、本当に大丈夫……? とにかく怪我もしてるかもしれないし、保健室、行きましょ……――」

 せりかがさらに再度、ゆっくりと手を伸ばす。しかし、さらは思わずその手を振り払うと、思わずその場から飛び出してしまう。

「さら!!?」

 一目散に駆け出すさらの姿は、すぐに小さくなっていく。せりかはヒールで走りにくい事すら忘れて、その背中を追って飛び出した。さらは恐怖とせりかが追いかけてくるという焦りに駆られ、がむしゃらに廊下を駆け抜ける。

――怖い、怖い、怖い。自分のヘマで誰かを傷つける事。

――せりかの隣にいられなくなる事。

――……耐えられない。

「あっ、ああぁ……!」

 廊下の突き当り、階段を降りようとした足がもつれ、さらは階段から転げ落ちた。踊り場に反響するどん、どん、ドスン……という音。

「いっ……つ」

「さら! 大丈夫!?」

 顔をしかめながら、さらは強打した腰を押さえて立ち上がる。その音に、追いかけてきたせりかの、綺麗な声が届き、その場と頭の中に響く。反響する声がさらの身体を包んで、それは刺さってきた。心配しきっている、普段は聞かないぐらいに焦った声。その声はさらを追い詰める。もう、せりかに心配されたくないという、鋭い痛みだった。さらはその声に押されるまま、立ち上がり、近づいてくるせりかを正面に構える。

どうしよう。どう言い訳しよう。この焦りをどう説明したら――――。

「……ほっといてよ!!」

「……さら?」

 思わずさらはそう力の限りに叫んでいた。階段の上に、踊り場にはめ込まれたステンドグラス窓の逆光に照らされて……悲しそうな、困惑した表情のせりかが立ち尽くしている。彼女を傷付けている、その事実を突きつけるその表情に苦しくなり、さらは泣きそうな顔で階段の下からせりかを睨んだ。

「……ほっといて、私は……――」

 平気だから、と言おうとして、涙が込み上げてくる。平気なわけがない。この状況は絶望的だ。もう八つ当たりもしたくないし、ごめんなさいって言いたい。でも心配されたくもないし、この人の重荷になりたくもない。

 長く続く沈黙に耐え切れなくなって、さらは何も言えないままに踵を返して逃げ出した。せりかは動けないまま、ただ黙ってさらを見送るしかなかった。

***

「うぁっ……あぁ……あぁあぁ……」

 授業を抜け出してしまったのは初めてだった。授業中に寝るとか、別の本を読んでるとか……そんな事をしているおかげで、不良扱いは受けてきた。それも、さらはある意味その状況を楽しんでいた。しかし、その場にいればそれだけで大体授業を把握できたさらは、それで点数を落とすことはなかった。

 今まで目をつぶっていて貰えていたのは、いつだかつっこ達が言っていたように……天才だから、成績がいいから。それだけだ。せりかに出会えたのだって、成績順に寮の部屋が決まったからで。

「やだよう……せりか……」

 まだ、せりかを巻き込んでしまった事が脳裏に焼き付いて離れない。さらはそれを振り切るように涙を拭い拭い、ただ一目散に、逃げ出して、駈け出して……そして、いつの間にか、薄暗い谷に迷い込んでいた。

 日が落ち、霧雨の降る川沿いの谷には、冷たい空気が流れ込んでいる。それが余計にさらの心を冷やし、なんともいえない気持ちが渦巻いていた。階段から転げ落ちて出来た怪我も痛むし、昼食をまともに摂っていない身体は、もう疲労しか残っていない。今まで道に迷ったことなんかなかった、いつでも思うように突進してきたさらに、それは大きなダメージだった。

 しかし、いまさら呼べる助けもないし、もう、どうしていいかわからない。小さなミスが降り積もり、完全にさらは、冷静な判断を見失っていた。

……それは……マジカリスト……この世界の魔法使いには、致命傷。

「……あぁあぁぁあぁぁあああ!!!」

 歩くほどに、その想いは募る。やがてさらは頭を抱えて、ただただ泣き叫んでいた。せりかとの、お揃いだった誇らしい衣装が、さらの悲鳴に染まるようにじっとりと、孤独色のドレスに変化する。

 アイドル型マジカリストにおける「歌」は、本人の心をメロディに乗せて広げる呪文……。さらの叫びが、さらの声と共に魔力を放出させてしまったのだ。それはメロディとして歌っているつもりがなくとも、さらの頭の中に『曲』と『感情』があれば……具現化してしまう。さらの心の中には、どこかで聞いた悲しい曲と、せりかの表情がいくつもよぎっていた。

 薄暗かった谷底が、夜空のような深い闇に染まる。紫の霧がさらを包んで、楽しかった思い出だけがぼんやりと光って……狂った星空がそこにはあった。自分の肩を抱いたまま恐怖に震え、泣き叫ぶさら。それを取り巻く幻想の世界は、まるで地獄のようだった。

 怖い。怖い。何もわからない事が、こんなにも怖い事だなんて知らなかった。私は、どうなってしまうのだろう?

 せりか……ごめんなさい、あなたを傷つけたいわけじゃなかった。あなたの側に居られる事が幸せで、ずっと一緒にいたかった。

 怖くて聞けなかった。突然部屋が一緒になった私と、せりかがいつも私の隣にいてくれる理由は? ただ、私があなたと肩を並べれる場所にいたから?

 だとしたら、ごめんね、私は天才なんかじゃない。せりかと同じ場所にいるような人じゃない。あなたはきっと私を……同じ立場で同じ目線を持った友達だと思っているんだよね……

 私、そんなに……きれいな言葉で表現できる気持ちを持ってない……ただ、せりかに、せりかと一緒にいたかったから……羨ましくて、目標で、下心で、私は……ずっと、ここにいたんだ。

 でなきゃ、私はとっくにやめてた。飽きてたよ。

私 だって、本当は、最初は、アイドルになんてなりたくなかったんだ。なんでか分からないけど、歌に興味がなかったんだ。せりかに出会って、せりかが、いる場所が、欲しかっただけなんだ。せりかを見て初めて、せりかの隣でだけ歌いたいって……歌に真剣なせりかを見てると、酷いことなんだって思うんだ……でも、せりかが、歌しか、見てないなら――

 …………………………壊して、しまおうか。せりかを、自由にして、あげられるなら。

 でも、せりかが目指しているものに、傷なんか付けられない。

 ……なんで?

 ぱしん、と軽い音がさらの左頬から奏でられ、静かで真っ暗な谷底に響いた。その音が、さらの生み出した幻想を、まるで波紋のようにかき消して、谷底は元に戻る。すっかり夜になった谷底は、その隙間から天高く輝く星空と、足元の水たまりがそれを反射して、宇宙空間さながらに輝く。……まだ、夢の中のようだった。じんじんと痛む頬を押さえながら、うつろな表情のままさらが顔を上げると、そこにいたのは紛れも無くせりかだった。

「せ……りか」

 呆然と零した言葉が、谷底に響く。せりかは泣きそうな、しかし怒りに染まった顔をして震えていた。

「歌は人を励ますためにあるのよ、貴女の傲慢な感情を助長するためにあるわけじゃないわ、悲観に浸る歌なんて……冗談じゃない!」

 震えた、強い声がさらに向けられる。

 さらに向かってせりかが強い声を発したのは、これが初めてだった。さらの……もとい、人の考えに、遺憾を示す言葉もだ。さらは度重なる見たことのないせりかに、呆然が止められない。これも自分が見せた幻想かと思うぐらい、いつもの冷静に、優しく微笑んでいる彼女とは違った。

 彼女の手から、恐らくさらの捜索の為に持っていたであろうランタンが滑り落ちて、地面にぶつかった。カシャン、と軽い音がして、水たまりに落ちる。当然、衝撃に耐えられず壊れたそれは、灯が消えてしまう。静かな、暗い谷底が、まるで深海のように静かで。上だけが明るくて。

 そんな中、せりかが……さらを強く抱きしめた。さらは目を見開いて、予想もしなかった状況にこれ以上ないほどに目を丸くする。それなりに長く二人でいたが、せりかからボディタッチすらされた事は、さらの記憶にはまだない。

「……だから……一人で悲しんだりしないで、さら、歌じゃない貴女の言葉を聞かせて……」

「……せりか……」

 さらの衣装を、せりかの細い指がぎゅうと握りしめた。その言葉と、せりかの体温。さらはようやく自分がした事に気がついた。せりかを裏切り、せりかの愛を拒絶した自分の態度に。さらも、せりかの……思ったより小さな背中に腕を回して、そっとその背を撫でる。

「……ごめん、せりか。私ね……あなたの事が、好き。大好き。……だから、怖くなって逃げ出しちゃった……自分の失敗で、せりかに何かしちゃうんじゃないかって。失敗することで、せりかに嫌われるんじゃないかって、何もできなくなった私は、せりかの隣にいる価値がないんじゃないかって……。でも、もうやめる。うん、やめる。誰だって、笑ってる人が一番大好きだよね。私は、何があっても笑ってせりかの隣を、せりかの笑顔を……せりかを、守りたい。」

「私も、ごめんなさい……貴女に嫌われるかと思うと、私……貴女の異変を指摘するのが怖かったの。だから、遅くなってしまった。もしかしたら離れ離れになってしまうんじゃないかと、思ってしまったの。貴女といるのが、今までにないぐらい楽しいの……だから……ううん。さら……私も、貴女が大好きよ」

 二人で抱き合ったまま、たくさん言い合いたい反省を飲み込んで、二人は顔を見合わせて笑った。泣きながら笑う。失敗知らずに育ったさらと、失敗を恐れて何も言えなかったせりか。どっちも、相手を想ってやった事なのに、と思うと、笑えてきて仕方がなかった。

「さぁ、もう反省会はおしまい。帰りましょう、魔法で目印を付けて来たから、最短で帰れるようにしてあるわ」

「うんっ! ……おっと……?」

 せりかがさらの腕を引き、さらはなんとか立ち上がった。ぱしゃんと足元の水たまりが跳ねる。しかし、さらの身体は上手く支えきれず、へたり、とさらは再度しゃがみこんでしまう。

「あ、あれ、足が……力はいらな……ごめん」

「……仕方ないわ、あれだけ派手に魔法を使えば……それに……あっ、さら!?」

 立ち上がろうとしたさらを、せりかは肩を貸して立ち上がる。しかし再度倒れかけたさらを、せりかは間一髪抱きとめた。

「ご……め、なんか、目眩、が……う……」

 さらはそのまま、せりかの腕の中でがくり、と意識を失ってしまった。

***

 それは入学してすぐの事だった。『魅了戦闘科』の生徒として入学した私は、学園長室で土下座をしたのは、校門をくぐって三時間後の事だ。

「どうしても歌唱科に入りたいんです、もう一度、再試験をお願いします」

「そう言われても……ねぇ……」

 教頭の苦笑いを今でも覚えている。校内ですれ違う時に、今でも似たような表情をされるからだ。

 魅了戦闘科と歌唱科の授業スタートは、ほんの数日だけタイムラグがあったのを私は知っていた。まだ間に合う、と職員室に駆け込んだのが三十分前、押し問答の末の土下座だった。

 頭を地面ですりおろして五分、何も言わなかった校長がようやく口を開く。

「貴女は魅戦に入りたい理由を、『不特定多数を守るため』だと面接で言ったね。魅戦のひとつも習わないうちに歌唱科に転入したい理由とは何なのかね?」

「歌が、歌いたいからです! 今、心から、歌が歌いたい……それだけです!!」

 私は、強く、はっきりとそう言って、校長をまっすぐ見据えた。嘘だけは、言わなかった。けれど、もちろんホントはそんな単純な理由ではなかった。

 校門をくぐって十分と四十六秒ぐらい。校舎裏に、銀色の髪をなびかせた女の子が立っていたのを見て。その子の歌が、とっても綺麗だった。あの一瞬で、私は歌を歌いたくなった。今までにないぐらい、強く、強く、まるで我慢を解かれたかのように、欲求のように思った。そして、私ならできると、とてもはっきり……ビジョンが見えたのだ。それがまだ、髪を結んでいないせりかだと知るのはもうちょっと後。

「……誰かいるの?」

 近くに迫る私の気配に、歌を止めて問う、きれいなせりかの声から隠れるように、私はその場を去って、その足で職員室のドアを叩いたのだった。

 校長を見据えた私の目が、校長を睨むまでの何時間、何分かもよくわからないぐらいの張り詰めた時間が過ぎた後、校長は静かに頷いた。

「いいだろう」

「校長! そんな!」

 教頭のキョドった表情もまた、未だに忘れられないおもしろ顔だ。

「ただし条件がある、既に我が学園の試験はすべて終了している。君は歌唱科の試験を受けた生徒すべての成績を超え、今の歌唱科の成績、トップ三位内に収まる点数を再試験で取りなさい。再試験は本試験よりレベルを上げて行う。今まで出したことのない問題だから予測問題もない、実施は明日……失敗すれば魅戦科だけでなく、この学園から去ってもらう」

「……わかりました」

 私は強く頷いた。この時成績トップだったのが、せりか。文句なしの満点プラスで、先生たちからも高評価だった。

 翌日、校長が出した無茶ぶりテストに私は挑んで、今までにないぐらいすらすらと、迷うこと無く私は答えを出した。結果はせりかと一点差。二位に滑り込んだ。約束の三位以内に余裕で届いて、私は晴れて歌唱科で……せりかの隣を手に入れたのだ。

 そう、私は勉強して成績が良かったわけじゃない。受験勉強は魅戦科を目指して勉強していた。だけど魅戦科のテストは上位でも特別伸びたわけではなく、私も特に自信があったわけじゃなかった。

 ただ、せりかを見た時、歌唱科へのビジョンが見えた時、まるで、頭が冴えたように、考えなくても答えがわかった。

 まるで、魔法のように。

***

 「 おそらく、彼女は予測、予知ができるのでしょう……あり得ない事ですが……無意識のうちに。眠っていてもテストのヤマが当たる理由はそれです。しかしその方向は、自分が興味を持ったもの……自信のある方向にしか働かない……そして本人は意識してない以上、常に魔力を消耗している事になりますから……さらは、ここ数日、気になることがあるといって、とある本をずっと読んでいました。集中していたのが身体に触ったのでしょう……」

 ぼんやりとしたさらの頭の片隅で、せりかの小さな声が響く。先生達と話しているようだ。先生のそうか、そうかと頷く声は、できる生徒のせりかを信用している証拠だ。

 せりかは他の学科の魔法も覚えている上に、自分でも知らないことは徹底的に研究を続けてきて……データベースもほとんどがそれでできている。知識の山。それがせりかの強さ。

 懐かしい夢が跡形もなく消えた後、聞こえてきた言葉を反芻して、さらは唇を動かした。

「そ、か……私、予知魔法ができる、のか……」

「さら!」

 ゆっくりと起き上がり、さらはそう呟いて、白いシーツと布団に触れた。どうやら気を失った後、せりかに運ばれて保健室に寝かされていたようだ。

「ごめんねせりか、『うたごえ』がどうしても気になって、全然休んでなかったもんね」

「いいえ、判ってて止めなかった私も悪いの、もう平気?」

 せりかがさらの手をぎゅっ、と握ってきた。少し泣きそうになってるぐらい心配してくれている。

「うっ、うん、平気平気! これでも滅多に病気しない健康体が自慢なんだからね!!」

 さらはせりかの腕を解いて、ぎゅっと握りこぶしを作った。と、同時にさらは大変なことをぼんやりと思い出す。そういえば気を失う前にせりかに告白したような気が……とおぼろげな記憶に息を呑みかけた瞬間。

「……よかった……」

「わっ……わわ」

 せりかが急にぼろぼろと涙を零し始めた。さらは慌てて拭うものを探すが、そんなもの持っているわけがない。それどころか、恐らく寝苦しいと思われたからだろう、制服のジャケットすら着てなかった。

「あー……もうっ……」

 とっさの判断で、さらはせりかを抱き寄せる。

「迷惑すごいかけちゃったね、ごめん……じゃないな、ありがとう、せりか。その、大事に……します、これから」

 私はどうにかして励まそうとして、でも言葉が出なくて…プロポーズじみた発言をしてしまった。言ってから何言ってるんだ、私は……と突っ込んでしまう。つっこなら確実にお前何言ってんの? と言うだろう。

「ふふ、なにそれ……」

 せりかはぽかん、とした表情の後に、軽く吹き出してそう笑った。

「わっ、笑わないでよ、今必死に考えたんだからっ」

「ふふふ、わかった、ふふ」

「もーう!!」

 完全に泣き笑いになっているせりかの頬を撫で、涙を拭う。

 私の必死の言葉に笑いの漏れるせりかの口を塞いだ。

 さらの、唇で。