【スパイパロ】秘密結社・エンジェライト

ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ……。

コの字の廊下に並ぶドアの向こう。小さなシェアハウスの個室。の、どこかから聞こえるアラームの音で一人の女が目を覚ました。迷惑そうに何度か唸って、その音の正体を探った。冴えてくると状況を理解して腕を伸ばす。指先に触れた端末はまだ沈黙を続けていた。自分のアラームではないようだ。

「っぁ……んだ……? この音はサナのか?」

彼女の背丈は小さく顔はどちらかと言うと可愛らしい造形だが、その態度と喋り方は中年のそれだ。乱雑に布団を寄せ、ベッドから起き上がって隣の部屋のドアを叩いた。

「サナ、さーな! 起きる時間みたいだが、仕事じゃないのか?」

「う……おはよー、社長さん……」

「……大丈夫か?」

「うん、だいじょーぶっ」

揺さぶり起すと、布団に潜っていたのは長い髪を2つに結った少女。無駄に美人な顔立ちだが異様に明るい表情が逆に異様さを放っている。サナ、と呼ばれた少女は軽く伸びをして、元気にベッドから降りた。

「眠れたか? 薬は?」

「飲んでないけど、3時間ぐらいかな☆」

「……まあ、妥当か」

睡眠時間3時間は全く妥当ではないが、社長と呼ばれた女は頭を掻きながらも頷く。サナも満足そうに笑って頷いた。

「ふぁ、アイドル様とやらは大変だな、こんな時間からロケとは……」

「んー、でも、サナこっちのお仕事もあっちのお仕事も大好きだよ♪」

「そうか……なら嬉しいが」

社長は柔く笑うと、サナの頭をそっと撫でる。サナは嬉しそうに社長に抱きついてから、社長に促されて着替えを始めた。まだ薄暗い時間だがサナはすぐ出かけるようだ。

「じゃ、私は二度寝する。いってらっしゃい」

「はーいっ、おやすみなさぁい♪」

社長は自室に戻り、ベッドサイドに備え付けられた時計を確認する。時刻は午前5時。まだ他の社員は眠っている。まだ数時間は眠れるだろう……そう思いながら、社長は布団に潜り直した。

***

「ただいまぁ☆ あれぇ、社長さんはー?」

数時間後。サナが帰ってくると、シェアハウスのリビングには一人の男と二人の女がいた。全員がサナの方を向き、食事の準備をしながらサナを出迎える。

「サナさん! おかえりなさぁい」

「ただいまぁ、MY HONEY♡」

一目散にサナに駆け寄り、小柄な女性が抱きついた。サナはその女性を愛おしそうに抱き返す。そのまま嬉しそうに二人で飛び跳ねる姿から、もうそれは仲睦まじい様子が見て取れた。

「もう、サナちゃんもつばちゃんも、ちゃんと席について。きぃちゃん、お箸あったー?」

同じぐらい小柄で、中性的な雰囲気を持つ男性が、二人が暴れるのを咎めながら夕食を並べている。並べられている食事は家庭的で質素なものばかりだ。見た目にも味にも普通、と言った感じで、皆で集まって食べている……という雰囲気には及ばない。

「ルナのけちー」

「お箸、流しの方に落ちてたみたい……あっ、社長は単独で『仕事』に行ったよ」

その奥にサナと同じぐらい、顔立ちのいい少女がキッチンから戻ってきて席に着いた。丸みを帯びたシルエットのボブヘアは綺麗な金髪で体型も素晴らしく整っていて、圧倒される雰囲気だが、その口調は穏やかでおっとりしている。どうやら社長の予定を握っているのは彼女だけのようだ。

「ほら、社長が何かまた面倒事を持ってくる前にご飯食べちゃった方がいいよ」

「はーい、ママ♡」

「ママじゃないから!」

再度ルナが席につかないサナを咎める。サナは渋々といった様子で席につきながら、食事とお小言を用意するルナをからかった。その言葉にルナは眉を寄せて反論する。よく見るとこの二人は顔立ちがそっくりで、表情こそ違えど双子であることがよく分かる。

こんなちぐはぐな5人が一つ屋根の下で暮らすのには理由がある。社長のアメ。アイドルのサナ。秘書のきぃ。母親のように世話を焼くルナ。サナと仲のいいつばさ。5人が暮らすこの場所の名は『秘密結社・エンジェライト』。

社員の目的は、『自分の為に働くこと』。

社訓は、『地位がなければ、奪えばいいじゃない。』

***

『よーしっ、サナいってきまーす☆』

『サナさん、今日はくれぐれもアツくならないようにしてくださいね! 人集まって来すぎちゃいますから!』

『はーいっ、大丈夫~♡ サナ、今日はルナ沢山ぶん殴ってきたからクールでーす☆』

つばさはその言葉を聞いてちらりと背後を見る。真後ろのソファでぐったりと、冷タオルを顔に乗っけているルナが目に入った。

「ご、ご愁傷様……です……」

一応労いの言葉をかけてから、現実から目を背ける。

『でも、一人も漏らしちゃだめですよ!! 命かかってますから……!』

リビングの地下。アジトに映し出されるのは、サナの服に仕込まれたカメラとマイクのデータだった。右端には地図も出ていて、とあるテレビ局の廊下にサナがいることを表している。

サナは半袖の白いシャツに灰色のベスト、ベストと同じ色のハーフスラックスに手の甲までぐらいの短い手袋……そし背中にはギターを背負い、屋根裏から廊下へと侵入する。

『アイドルなめんなっ☆ サナさんはアイドルだから涙しか漏らさないもん♪』

『こないだ皆でホラー映画鑑賞した後、私のベッドでおねしょしたのは誰ですか……』

つばさは可愛くウインクするサナに、敢えて先日の失態を明かしてやる。サナは、あわわ……と、明らかに動揺すると、意味不明な供述を口走った。

『あ、あれは意図的に出したんだもん。漏らしたんじゃないもん☆』

『人間的にアウトじゃないですか!! っと、来ますよ、サナさん!』

つばさはくだらない会話の合間にも画面を操作し続け、サナの姿を、制御を盗んだ監視カメラの映像で追っていく画面奥に騒ぎを聞きつけたスタッフが押し寄せてきた。予想外に人がいる。サナ一人で捌ききれるだろうか?

『サナ、今回はきぃも行けるみたいだが……』

『大丈夫っ、これはサナのお仕事だから♪』

『了解、ケガだけはするなよ』

アメもサナに問いかける。サナの耳に仕込まれた通信機から音声が流れるが、サナはそれを聞き取り切る前に即答で、きぃの応援を拒否した。アメは仕方ないな、という表情をして、サナを気遣ってから通信用のヘッドセットを下ろす。

「私は作戦を降りる。サポートは頼んだぞ、つばさ」

「はいはい、了解ですっ……と! よし、成功!」

つばさはアメの社長命令に頷いた。そのまま更に何かを操作をして、画面先に謎の波形を表示する。ガッツポーズを決めて喜び始めた。

「……なんだ、その波形? 音声ではなさそうだが……」

「これですか? これはサナさんの心拍数ですよ」

「心拍数」

予想外のデータの表示に思わず言葉を繰り返す。つばさはそれをまるで当然のように頷いた後、両手を組んでふにゃふにゃ笑った。

「あんな飄々としてて明るく振る舞ってるのに、ほら! 心拍数上がりまくり! めっちゃ緊張してるんですよ、可愛くないですか?」

「可愛くねえよ!」

真の変態とは正にこのことである。サナの様子がそうであるならまだしも、心拍数だけで『緊張しているなんて可愛い』とは、飛躍しすぎて到底解釈できない。そりゃあ見つかったら危ういところに乗り込んでいるのだから、心拍数も上がるだろうが……。

「あ~~~サナさんの心拍数かわいー……天使、マジ天使♡」

……お前の方が人間的にアウトだろ。内心そう思ったが、アメはもう何も言わないでおいた。社長のアメたる役割は、社員の作戦を見守る事。作戦中の変態行為にも……触らぬ神に祟りなしだろう…。

アメはサナの様子が盗撮されている画面に目線を戻す。警備員数人がサナの姿を見て騒ぎ始めた。その音声までは拾えないものの、恐らくこの国に住む人々は同じことを言うだろう。

『何故有名アイドルがこんなところに?』

収録も終わったテレビ局。それも制作フロアに有名アイドルであるサナが、しかも天井の通気口から出てくるのだ。その背中にはいつもステージでかき鳴らしているギターが背負われている。

「いっくよー☆ せーのっ、スリー、ツー、ワン♪」

サナの姿は明らかにテレビ局のオフィスで浮いている。アイドルの服装としては可愛らしくはないが、潜入するには可愛すぎる服装で、可愛く飛び上がった。ギターをジャンジャンと素早くかき鳴らすと、すぐにサナの歌声が廊下に響く。

サナを目撃した警備員やスタッフは、その姿に見惚れて動きを止めた。もうピクリともサナを捕らえようとは、誰も思わないし『思えない』。

「今日もサナさんは百発百中ですねぇ」

「そ、そう……だな……」

満足そうな顔をしながらも、手元は常に●RECボタンに指をかけているつばさの呟きに、盛大にヒきながらもアメは答える。画面越しとはいえ、社員たちもサナから目を離せない。

サナの歌声には、誰かを惹きつけて身動きを取れなくする力がある。それはもはや、魔法や呪い……超能力の類だ。

この世界、主に裏社会には、このような超能力じみた『能力』を宿す人間が存在する。

そして、その多くが……表の社会には馴染めず失敗してしまう者が多い。ここは、そんな者達が集まり少しでも『勝ち』を手に入れるために暗躍する者が集う秘密結社だ。

そして、今のサナも……まさしくアイドルとしての『勝ち』を手に入れに行っているのである。

『はぁい♡ じゃああとはMY HONEY☆ 宜しく♪』

『はーいっ、まっかせてくださーい☆』

「推しすぎて口調移ってるぞ、つばさ」

一曲を終えると、メロメロになった警備員達はサナを捉えることを完全に諦めていた。サナはそのままダンスのステップで目の前の端末に手をかける。手元にはつばさが操作する端末と繋がった通信機。見た目にはポケットWi-Fiのそれから、収納式のコードを取り出し、サナが居る先にあったパソコンに接続する。

途端、つばさの意識は自身が発明した電脳に乗っ取られる。この方法で、つばさはサナが出向いた先にあるデータを意のままに出来るのだ。能力を持たないつばさだが、この技術で先に出るものはない。

『任務完了です!』

つばさの合図で、サナは撤退する。待機していたきぃと、監視していたアメもやれやれと肩をすくめた。ルナは終始寝込んだままだった。

「たっだいまー♡」

『今週のCD売り上げランキング!』

サナが帰社すると、つばさがチャンネルを合わせていたテレビから、ちょうどCDランキングの番組が始まる。ドラムロールの音に合わせ、誰もが聞いたことのある曲のシングルタイトルや、大御所アイドルのベストアルバムなどのタイトルが叫ばれていく。

そして最後にその名前を呼ばれたのは……。

『今週の第一位は~~~~~? ぶっちぎりで初ランクイン! 人気アイドル、サナの初ベストアルバムが堂々第一位だーっ!!』

「書き換えたな」

「書き換えたね」

「書き換えちゃったね」

「書き換えました~」

「書き換えちゃったぁ☆」

***

「しゃちょ、社長さん……」

「ん、サナ?」

深夜2時を回った頃、アメはサナの声と共に揺り起こされる。いつも元気なサナの声は、今に限って蚊の鳴くような、ちいさな声。

「つばさとルナは?」

「寝ちゃってて、開けてくれな、ひ、は……っ」

いつもなら先に起こす二人の事を問うと、どうやら既に部屋に出向いたようだった。その間に耐えられなくなってしまったのか、少し過呼吸気味のようだ。上手く口がきけないようで、最後には涙を零しながらブルブルを首を振る。

「ん、そっか。怖かったね、おいで」

布団を持ち上げ、ベッドをぽんぽんと叩く。サナはいつから泣いていたのか、濡れた冷たい頬をアメの胸元に押し付けてきた。アメはそんなサナの髪を梳くように何度も撫でながら、布団を肩までかけてやる。

「今日は寝られないかもなあ」

ベッドサイドボードから紙袋を取り出す。中に入っていた薬のシートから錠剤をぷち、と外してサナに渡した。サナはあんまりこの薬は好きじゃないみたいだ。渋々受け取った。

「明日……じゃなかった、今日のアイドルの方の仕事は?」

「ゆうがた、から、音楽番組……」

「じゃあ大丈夫だな、頑張らなくていいから横になれ」

サナが薬を飲むのを見届け、もう一度隣に寝かせる。サナはアメの部屋着をぎゅうっと握りしめ、アメの腕の中でしばらく震えていた。

「ごめんなさい、社長さん……」

「大丈夫だ」

こうなったサナは、普段からは想像出来ないほどしおらしくなる。

昔のサナはこんな感じだったのだろうか、と思いを馳せつつも、落ち着くまでは何も聞かないことにしてあげている。

しばらくすると薬が効いていたのか、サナはうとうとし始めた。ただ、完全に眠るまではもう少し時間が掛かりそうだ、撫でる手は止めないでいる。

……そう。サナは、元からこんなキラキラアイドルだった訳ではなかった。双子の弟のルナと共に、この街に逃げて来たのだ。

サナはその声で他人を誘き寄せる、という、『体質』から、いじめや暴力の標的にされる事が多かったらしい。そうなるまでの経緯までは、アメは詳しく知らない。ルナが余り語りたがらないからだ。……ただ、それが原因でサナは精神のバランスを崩してしまった。そして、限界を迎えて、数年前より後の記憶を失ったそうだ。

その結果、沈着冷静で年齢より大人びた印象だったらしいサナは、今のような子供っぽい言動と過ぎた表情……ご覧の通りの性格になったらしい……とルナから聞いている。

あの嘘つきの言うことなので、どこからどこまでが本当なのかはアメには判断がつかなかったが、サナは毎晩、自分の過去にうなされ、睡眠剤を服用しないとほとんど眠れない状態に陥っている。

それでもアイドルとして活動するサナの姿は、社員たちも、そしてアメも心を打たれるものだった。感動というよりは、少し痛々しい努力ではあったものの、失った記憶を埋めるために自分でなんとかしよう、自分でやらなければ……サナはずっと、ずっとそう必死に願いながら、ファンの前で笑っている。

「だからこそ、心配なんだ、サナ……また、潰れちゃうんじゃないかって」

ようやく眠ったサナの頬を撫でる。

サナは特定の相手にしか弱みを見せられない。普段はどんなに苦しくても我慢をしてしまうのだ。こうして我慢の限界に来たときだけ、アメやルナ、たまにつばさを頼ってくる。それを突っぱねず、過度に心配もせず、そっと見守る。それが暗黙の了解となっていた。

「もっと頼って欲しいなぁ、サナ……ランキングなんて書き換えなくても実力で天下取れるのに、ひとりで危険を犯すのは、自分で自分を傷つけるためなんだろう……?」

薬で何日かぶりの深い眠りに入ったサナは答えてくれない。アメは眠っているサナにもう一度布団を掛け直してやると、その黙っていれば大人っぽくて凛々しいのに、まだあどけなさを残すような……中途半端な子供の表情を眺めていた。

***

翌日、サナは残る眠気も我慢して、なんとか起き出してきた。どうやら発作は治まったようで、つばさとゲームをして遊んでいる。つばさは先に寝てしまった事をサナに謝ったようだが、サナは「んーん、いいよ~」と、話をそらした感じで許してくれた、と言っていた。

「ん? サナ、収録はどうした?」

「延期になっちゃったぁ、一年ぶりに完全オフだよ☆」

「ありゃ、それは珍しいな」

いつもなら着替えている予定に時間になっても、サナは準備をする気配がない。聞いてみれば、人気アイドルとして多忙だったここ数年には無かった一日完全オフになったのだと言う。それは寝てもられないだろう。サナはつばさに負けてゲームコントローラーを放り投げる。

「サナ疲れた~♡ きぃちゃんもやってー☆」

「えっ? 私……?」

「おっ、いいですね、きぃちゃんもやりませんか?」

画面に映し出されているのは対戦のシューティング系ゲームだ。アーケードゲームから移植されたタイプのゲームで、コントローラーも銃の形をしている。

「い、いい、けど……」

きぃはあまり乗り気ではないのか、渋々つばさの元に歩み寄った。

「おい、つばさ、油断するなよ?」

「へ? きぃちゃん相手にですか? ま~さ~か、私、世界大会優勝者ですよ?」

サナは冷蔵庫からジュースを持ってきて注いでいる。きぃが代わりに投げ出されたコントローラーを拾い上げていた。

「きぃは『実物』の大会の優勝者だぞ」

「ファッ?」

コントローラーを持った途端、いつもはふわふわっとした天然なきぃの目つきが完全に変化した。狩る者の目だ。あれはもう獲物を見つけた肉食獣のそれだった。途端、ゲームが始まり、つばさは慌てて構えたが……得点の開きは既に天と地の差だ。

普通の銃声が「バン、バン」ならば、きぃの放つそれは「ダダダダダダッ……ン!」という音なのである。まるで連射銃か? と思う程であるが、生憎、このゲームに連射は存在しない。

「あわ、あわわ……」

「おおー、すごぉい♡」

「ゲーマー天才ハッカーも正当なゲームプレイにはお手上げなんだな」

慌てるつばさ、ガチプレイ中のきぃ、はしゃぎながらジュースを飲んでいるサナ、何故か自分まで得意げなアメ……。

そしてゲームセットのゴングが鳴った。

「……ふぅ……ゲームの銃だと判定難しいね」

「きぃちゃんお疲れ様♡」

倍以上の点差をつけて、つばさは敗退する。

「う、嘘です……なんですかこの肉体チート……!」

つばさは両手両膝を床についてがっくりうなだれた。きぃはコントローラーをガンマン風に何度か回してみせる。サナが拍手をした。

「あああ、サナさんまでもが取られるぅ……」

サナはすっかりきぃのパフォーマンスの虜になり、つばさに見向きもしなくなっていた。サナ推しの過ぎるつばさにとっては、もはや舌を抜かれるような地獄の罰よりひどい出来事だった。さらさらと灰になって風に飛ばされていく気分だ。

「能力だと思うか?」

「……きぃちゃんの能力は時間停止ですから不可能では無いとは思いますけど……仕組みが、わかりません……! ああ、くそっ、知りたいっ……!」

社長はニヤニヤとその姿を眺めていた。つばさはとても悔しそうに床をバンバン叩く。サナもその姿にニヤニヤ笑いながら、つばさのハッカー故の性を見出していた。

「きぃちゃんがプログラムだったら良かったのにねえ♡」

「ほんとそれー!!!!!」

「いや、私が嫌だよ……」

サナが面白そうに笑うと、つばさはそれに全力同意した。しかしきぃは呆れてしまう。

つばさは世界に名だたる天才ハッカーとして今まで生きてきた。会話のための言葉よりも、プログラミング言語を先に覚える程のハッキングの神童だったと言う。

数年前まで色々な裏企業を渡り歩いて来たが、それでは物足りなくなり、エンジェライトに辿り着いたのだった。その探究心はもはや異常を通り越し変態の域で、今は家の前の人通りから、近所のスーパーの値引きの時間、挙句の果てには大好きなサナの毛穴の数から心拍数、食事量までなんでも知りたがるのだ。

そんなつばさが知らない事がまだまだある……と思うと、つばさの悔しさといったらない。しかし、それを面白がり、主にサナとアメはつばさに対して、色々な隠し事をしては遊んでいた。特にアメときぃは昔馴染みの関係らしく、二人の間にしか存在しない情報もある。

「あー、面白かったぁ♪」

「私で遊ばないでくださいよぉ……」

まだ悔しさに床を転げているつばさの横に、サナも寝転がる。二人でコロコロ。サナはゲームに退屈してしまったようで、完全につばさにじゃれて遊んでいる。

「次、何して遊ぶっ?」

「そーですね、ゲーム飽きちゃいましたよね~」

そっちにコロコロ。くっついてコロコロ。

「がっ……!」

「あっ、ゴメン」

やがて踏まれるつばさ。ルナが申し訳なさそうに片足を上げる。

「うら若き乙女を踏んづけるとは……フフフ、やりますね、ルナさん……!!」

「いや、うら若くないでしょ、君は……っていうか何キャラ?」

つばさは踏まれた顔面を厨二風に押さえながら悶える。先に起き上がったサナが、ルナが腕に抱えまくっている荷物を見てうろうろしていたので、つばさも落ち着いてから起き上がった。

「どうしました、サナさん」

「何のお買い物~?」

サナはルナの持っている買い物袋を引っ張った。ルナはああ、と言って袋を広げてみせる。

「買い出ししただけだよ」

「ほんと?」

「ここは嘘吐いてもしょうがないところでしょ、僕はちゃんと仕事とプライベートは分けて考え……って、聞いてる? サナちゃん」

嘘つきなルナの性格を見越して、サナはルナを疑ってかかる。ルナの持つ買い物袋をガサガサと漁って見るが、ハムとか洗剤とか、本気でただの買い物だった。

「なんか食べたかったぁ、つまんないの☆」

「サナさんお腹空いたんですか?」

つばさは立ち上がる。ご飯でも食べに行きましょうか? と、言うとサナは嬉しそうに頷いた。

「少し早いけどもう昼も近いんだな、食いに出るか」

時計を確認すると、大体11時半ぐらいを指していた。

アメときぃも頷く。ルナだけは「ええ……皆出るなら僕のおつかいはなんだったの……」と不満そうだ。が、構わず話は続いていく。話し合いの結果、近所のレストランに出向く事が決定した。

「サナ、着替えてくるねっ☆」

「正体バレないようにしておけよ~」

人気アイドルであるサナはアイドルである事を隠す為、外出の際は変装は必要だ。出掛ける前に着替えをしに部屋へ向かう……つもりで部屋を出る姿を、一同が見送る。

「ぎゃっ!?」

「きゃー☆」

が、サナが廊下を出てすぐ、『二人分の』悲鳴が廊下に響き渡った。

「どうした!?」

アメはその悲鳴に慌てて立ち上がる。いち早くサナの悲鳴を聞いたルナが先に部屋を飛び出したので、アメは様子見にドアに近づいて覗き込んだ。

何かにぶつかったらしいサナが廊下に転がっている。その手前には、段のついた黒髪をポニテにまとめた少女が、おでこを押さえて蹲っていた。黒いベンチコートに男性もののごつい安そうな黒いスニーカーを履いている、やけに細い……骨格はしっかりしているのだが、なんというか、肉も骨もなければ色気もない雰囲気のガリガリな女の子だ。

「……? あいつ誰だ?」

「わーん、ぶつけたぁ~☆」

サナが先に起き上がり、一目散につばさのもとへと逃げ出す。どうやら二人で鉢合わせして頭をぶつけ合ったらしい。知らない人にぶつかってパニックになったのだろう。サナは慌てたようにつばさの腕の中に飛び込んでいく。

「バレたんですかね?」

「どうだろうな……」

余程びっくりしたのか、焦りまくるサナを宥めながら、つばさも廊下の向こうに聞き耳を立てる。少女の慌てた声が聞こえてきた。

「……っあ、今の!! サナ!?」

「あー、ばっちり見られてたみたいだな……」

少女はようやく顔を上げると、逃げ出したサナの行く先を眺めて目をキラキラさせた。サナの正体バレに、アメは頭を抱える。人気アイドルが秘密結社の一員など、シークレット中のシークレットだ。

ルナは倒れ込んだ少女に手を貸して抱え起こしながら、少女に問う。

「お姉さん、何か御用かな? ごめんね、我が社は関係者以外立ち入り禁止なんだ、用事が無ければ今見たことはご内密に……」

「あっ! あのっ!!」

「えっ?」

とりあえずは一般社員の体で少女の前に強引に出て、サナを追うのを食い止める。少女は飛び起き、再度身体を床に。膝を折って手を床につき、頭を深く下げた。それはまごうことなき土下座だ。ルナは自分の言葉を遮られ、ましてや土下座されるなんて思ってもおらず、先程の紳士な振る舞いを忘れてマヌケな声を上げた。

「お願いします、ああ、あ、あかりを助けて欲しいんです」

「……え?」

どもりながら、少女は確かに『あかり』なるものを助けて欲しいと訴えた。しかし、ルナには土下座される理由も、ましてや誰だか知らない人に知らないものを助ける義務も意味も持っていない。一瞬うろたえるが、すぐに笑顔に戻る。

「ええと、何か勘違いしているんじゃないかな? うちはしがないただの商社だよ?」

ルナは能力を持っていない。代わりに嘘が上手い。その口の巧さで相手を騙すのが得意技だった。

「こっ、ここにくれば、大概の無茶は能力でなんとか出来るって聞いて、て……」

が、猪突猛進のこの少女は聞く耳を持たない様子で、その口の巧さも通用しないようだ。ルナは二度も誤算を食らって唖然とする。ぼそぼそと喋る彼女の言葉は聞き取りづらいが、アメの耳にもはっきりと内容は届いた。

あっちゃー、それ、うちです! まごうことなき我が社です! アメは内心で頭を抱える。誰だよそんな噂流したやつ……。

「……。ええっと、あのね……。僕らは別に人助けをしてる団体じゃないんだ、むしろ陥れるに近いかも……君、そんな会社と関係持ってまでその、あかりって子を助けたいの?」

ルナもこの態度にはタジタジになってしまう。嘘は通用しないらしいと判断し、取り敢えず話を合わせた。少女は土下座のまま動かないでいる。

「どうします、社長……?」

「どうって……」

一緒になって聞いていたつばさも青い顔をして、アメの顔を見つめる。アメはうろたえたが、ここで見てるままでは社長としていけない。仕方ない、と深い溜め息をついてから、パチン、と自分の頬を打った。

瞬間、アメの姿は見えなくなる。これはアメの能力だ。アメが手で衝撃を与えた相手の姿は見えなくなる。

アメはその姿のまま少女に近寄り、少女の姿をぐるりと見渡した。どこかのスパイという訳ではなさそうだ。ぼさぼさの頭をまだ床に押し付けている。見れば見るほどその姿は一言で言えば『貧相』で、正直、彼女を助けても、何かこの社にプラスになるとは思えない。悪いがお帰り願ったほうがいいだろう。気弱そうだし少し押せばなんとかなりそうだ。アメは深呼吸し、彼女の目の前に足を踏み出す。

「君は、何か特技を持っているのか?」

「ぎゃっ!?」

そうして少女の目の前で姿を現す。少女は驚きに飛び上がって2,3歩後退した。

「君は『能力』を持っているのか? ここにいる人間は殆ど能力者、でなくとも、多少の特技は持っている。君には何か無いのか?」

「あ、ありません……無い、から、お願いし……」

アメのいじわるな質問に、ルナが眉を寄せて「やめましょうよ」と止める。しかしアメは構わず続けた。

「君は何か勘違いをしているな。我が社は自分のことは自分でやるのが方針なんだ。どんな訳ありであろうと努力を惜しまない。君にその能力や努力はあるのか? 土下座なら手足があれば誰でも出来るぞ?」

「う……な、ない……です」

少女は泣きそうだ。なんだか楽しくなってきた。うちの会社を舐めて掛かりやがって……と、悪者になりきってみると意外と出来るものなんだな。

「社長、意地悪が過ぎますよ」

「本来警察に行くべきだろうに、こんなところに来たということは、勘違いであれヤバイ案件に間違いないんだろ? それを頭一つ下げるだけ。何もしないで頼みに来るなんていい度胸じゃないか。もううちの秘密も知ってしまった。それにうちのアイドルの額にケガまで負わせたぞ? マネージャーにどう謝る? ただでは返せないな」

「あの、その、すみません、すみません……」

ルナはその理論に肩をすくめて呆れて物も言えない。少女は慌てて謝り直す。遊ばれているのも気づかずに。

「すみませんなら誰でも言えるな? 人にものを頼む態度というものがそれなりにあるんじゃないか? 例えば、法外な料金を支払うとか」

「お金なんて……」

「世の中の裏事情をタレこんでくれるとか」

「知らない、そんなの……」

やはりな。彼女はただの……いや、よっぽどに他力本願で後ろ向きな少女だった。

「身体で支払うとか……いや、君は貧相すぎるな。ちゃんと食事しているのか?」

「……たまに、食べないけど」

「……体調管理も出来ないのか……となると健康面もダメ、臓器もダメか」

「い、命なら差し出せます! い、痛いのは、嫌、だけど……」

「それ、こっちが人殺しになるだけだな、なんのメリットもない。それに痛みを感じずに死ぬなんて無理な話だろう? 地獄が温泉で出来てるのは観光地だけだぞ? それに命かけるなら自分でやったら?」

「う、うう……」

完全に論破され、少女は泣きながら黙ってしまった。アメは悪い顔で少女のポニテの毛先を軽く持ち上げる。パサパサの髪も何かに使えそうにはない。

「君、本当に何も持っていないんだな。」

捨て台詞を吐いて髪を手放した。内心は完全に悪者になりきって遊んでいただけなのだが、他所から見ればよっぽど悪徳業者の振る舞いにしか見えなかっただろう。

「ねえ、大丈夫っ?☆」

一通りのフルボッコが終わるとサナが部屋から顔を覗かせた。どうやらびっくりしたのも落ち着いたらしい。

「ケガは大丈夫だったか?」

「サナは大丈夫~☆ そっちの子、大丈夫かなーって」

「さ、サナだっ、本当にサナだ!」

少女はサナを目撃するなり、サナの元に駆け寄ってくる。さっきの泣き顔はどこにいったのやら、比較的生き生きしていた。なんだ、ただの愚痴少女じゃなかったのか……。

「そーだよ☆ サナはサナさんだよっ♡」

「あああああ、あのっ、ファンです! その……握手会とか、ライブとかは……人混み怖くて、行かないんだけど……DVDもまだ、使い方わからないから持ってないんだけど……あの、とにかく、ファン、です……」

少女はそう、まくし立てるように言ってサナに握手を求めた。が、サナは手を差し出さない。後ろ手のまま営業スマイルを決めた。

「そっかー☆ ケガしてなくてよかったね♪」

「う、うんっ!!」

感無量で気にしていない少女。ルナとアメはそのサナの笑顔の裏に、『金落としてないファンなんて用がねえよ』という暗黒面を見出して苦笑いした。

「今、完全にアイドルを侮辱したね」

「これでファンとか言えるの逆にすげえな……」

サナはそんな少女の興奮にそれなりに応えつつ、進んでいない話を進める。

「で、あかりってだあれ? どうしちゃったの~☆」

「あっ、あ、そうだ……」

少女は目の前に現れたスーパーアイドルの存在に見惚れて、忘れかけていた内容を語り始めた。

用件から言うとこうだ。

少女の名は珠莉。16歳。一般家庭に生まれた双子の妹で、取り柄無し、特技無し、能力無し、恋人無し。地元の普通の学校に通っている普通の人間だ。近況を一言で表せば「死にたい」の一択らしい。その原因が双子の兄である「あかり」の存在であり、しどろもどろで時間をかけて説明した言葉を要約すると……。

「あかりくんを暴力団から脱退させたいって事だねっ☆」

「そういえばいいのに」

「その、説明が、思いつかなくて……」

「あかりって男の名前かよ……」

「社長さんが言うことじゃないと思うよ♡」

珠莉はサナが要約した案件に強く頷いた。つくづく話の苦手な女の子だ。話がまとまった所で全員がその問題について、3秒程考える……が。

「まあ、無茶だな」

「無茶だね」

「無茶だねっ☆」

「そ、そんなっ!」

こちら側の回答は変わらない。他人のためにリスクを負える程優しい団体ではないし、そもそもそんな事出来るわけもないのだ。能力こそあるものの、こちらだって一般人なのである。

「先程も言ったが、人助けをするノウハウはゼロだ、こちらにメリットもない。出来るわけないだろう。」

「警察行ったらいいよ☆ でもここのお話はしないでね~♪ まあ、君じゃ上手くお話できないと思うけど☆」

「で、でも警察じゃ全員捕まっちゃうから……」

珠莉の考えでは、あかりが脱退できればいいのであって、暴力団を逮捕したいわけじゃないそうだ。そこまで悪者を成敗する度胸がないことが一点、そして逮捕となるとあかりも捕まってしまう可能性がある、ということがもう一点らしい。

「つってもなあ……暴力団とかうちにとっちゃ敵対勢力みたいなもんだし」

「絶対敵だと思われてるよね」

「サナ、男の子助けるとか~どうでもいい☆ かわいい女の子なら考えてもいい☆ かわいい子なら☆」

言いたい放題の3人。珠莉はどんどん沈み込んでいく。ついにはやけくそ気味に声を張り上げた。

「いいって言ってくれるまでここをどきませむ、にょっ……!?」

「噛んだね☆」

「噛んだね~」

「……別に好きなだけ居ても全く構わないが、別の誰かを探したほうがいいって理解するだけだと思うぞ」

「あ、あれ?」

というわけで、エンジェライトに謎の居候が誕生したのであった。

「結局ご飯どうするの?」

「なんか出前取るか? 出かけるのもめんどくさくなってきたな。いやー疲れた疲れた」

「サナお腹すいたよ~♡」

「お腹すいてるサナさんも可愛い~~~♡ けど、可哀想なのですぐお寿司注文しましょう! サナさんの分だけなら奢りますから」

「やったあ♡ つばさだーいすき♡」

「私、汁物だけ作るね」

「あ、あれ……? あれ?」

***

そんなこんなで珠莉が居候し、一週間が経過した。一日に何度かはあかりを助けるよう求めたが、発展はない。

それどころか社員達に動きは全くなく、サナがアイドル業の為に出勤する以外は、誰も意味のある用事で外に出る気配すらなかった。

「これ無理かも」と珠莉は内心思い始めていたが、今更警察に行けるわけもなく、行っても話せそうにないのでここは突き通すしかない……というより、もうどうしていいか解らないので、問題を珠莉自身も放置している状態だった。

「ふぁ……」

「サナさん、眠いんですか?」

「んー……眠くないよ~」

「でもなんかふわふわしてますよ、お薬残ってる感じですか?」

というわけで、暇を持て余した珠莉は同じく暇を持て余したつばさと、仕事がドタキャンになって暇を持て余したサナが遊んでいるのをぼんやり眺めていた。初対面こそ元気そうなサナだったが、ここ3日ぐらいはずっとあくびをしている。あんなに語尾に放っていた「☆」や「♪」も心なしか控えめになりつつあった。

それにしても、薬ってなんだろうか……聞く気はないが、珠莉はなんとなくそう思った。

「………」

「サナさん?」

サナはその質問には答えなかった。つばさはサナの額に手を当ててみる。どうやら熱を測っているらしい。フィクションだとよくある仕草だけれど、家族でもない他人の体温がそれで分かるものなのだろうか。

「熱ではなさそうですねぇ……お仕事が落ち着いてきてますし、気が緩んだら疲れが出ちゃったのかもしれませんね」

「うん」

そういってサナはつばさに、甘える犬のように擦り寄った。つばさはその頭をそっと撫でる。

「あー可愛い、ちょっと疲れてるサナさんもマジ天使………っ! でもやっぱり可哀想……っ!!」

ちょっと残念なセリフが口から漏れているのは、無視するべきか。

「つばさ、モノローグが盛大に漏れてるぞ」

「わざとですよ」

と、思ったら後ろで同じく暇を持て余したアメが突っ込んだ。つばさは急な真顔でさらりと返事をする。

「あの、サナとつばさって……異様に、仲良いよね」

珠莉もそれに便乗し、オブラートに包みまくった言葉でそう突っ込んだ。サナ推しという意味では、つばさと珠莉はライバルだ。つばさは内心待ってました、と言わんばかりに微笑むと、サナを抱きしめながらドヤ顔を披露する。

「抱きましたからね、そうゆう意味で」

「だっ……!?」

つばさのサムズアップが決まる。

「そう、サナさん抱かれた~☆」

「抱かれっ!?」

そして天下のスーパーアイドルからも、アイドルの禁句が飛び出す。

「あーそっちなのか、逆だと思ってたわ」

「逆っ!?」

さらにアメがさらり、と衝撃発言。

「だって……サナさんドMですよ」

「そーだよ、サナさんドM~♡」

「ど、ど、ドM!?」

次々に飛び出すアイドル禁句に、珠莉はオウム返しもまともに出来ない状況だった。サナがその様子に小首を傾げる。

「なんで繰り返すの~?」

「いや……」

「サナ、アイドルとして言っちゃいけないことは把握しておこうな」

アメの叱りには、アイドルらしく『てへぺろ』で返すサナ。しかし、すぐにつばさに抱きついて、ちゅっ、と触れるだけではあるがキスを落とした。このサナの甘えようからしてもサナの信頼度が高いのはもう、察しの悪い珠莉にですら、目に見えて分かるわけで。

この時のつばさのドヤ顔レベルは最高である。

「ハニーだもん♡」

「ハニーですもん♡」

「おいおい……」

アメがお熱いねえ…と呟いて、肩をすくめている。珠莉は推しアイドルが目の前で直で振りまくスキャンダルに、もはや嘔吐寸前だった。

「まあ、そうゆうことだ、珠莉」

「な、何が……」

「サナのおっかけ目的なら傷を増やすだけって事だよ」

「わ、私、別に、おっかけで来たわけじゃなくて……!」

アメに諭される。確かにサナを追っかけて来た訳ではない。アイドルのプライベートに勝手に踏み込んでいるのも珠莉の方だ。そもそもサナが、CDも買わない、ライブも観に行かないファンに愛嬌を振りまき続けられるわけもない。勿論、自分でも嫌いな人間である自分を、まさか好きになってくれと頼める訳もない。

しかし……しかし……。もやもやする。珠莉は頭を抱えた。

「……何度も言うけど私達は人助けなんかしないからな?」

「……っ、それは……分かって、は、いるんだけど……」

「そもそも、アンタの兄貴は、わざわざ己の意志で参加した暴力団から助けるべき価値のある男なのか?」

「へ?」

アメは急に珠莉に念を押す。流石に長く珠莉が居座っている事に、多少ではあるが痺れを切らしていた。いいチャンスだ、サナの事も、あかりの事もここで諦めさせてやった方が……ほぼほぼニート生活の社員の姿をこれ以上見られなくて済むし。

「言ったろ、私達は己の利益にならん仕事はしない。アンタに対価が払えないのなら、あかりとやらに価値が無ければ意味が無いだろ?」

「あ、あかりは……うーん……。能力は、無いと思う……。お金も無いし、特技も……無い、と思う……」

「全部『思う』だな、身内なんだろ? わからないのか?」

初対面の時のふざけた答弁とは違う。本気の追い出しだった。しかし珠莉も、もう引くに引けない状態。ここだけは譲れず、かと言って噛みつける程強くもない。ただ、必死に出来る限りの答えを素直に吐き出す。

「私、あかりのことはあんまり興味ないから……」

「じゃあ助けなくてもいいんだろ、この話はお終いだ、出ていってくれ」

「えっ!? そ、そうじゃなくて……!」

「自分が興味ない人間をリスク犯して助けろって他人に頼むのか?」

アメの厳しい言葉が珠莉を刺していく。確実にアメは、先日とは違う方向にヒートアップしていた。その姿にサナを未だに撫でていたつばさも、立ち上がってアメを止める。

「社長、やめましょうよ」

「いや、もうこれ以上他人をここに置いておけん。結論を出したい」

「サナさんにも良くないですから」

アメが振り返ると、サナは指先を忙しなく弄り、明らかに目の前の出来事から目線を反らしている。表情こそ変わっていないが、明らかにいつものテンションは失われていた。

長いことサナと共に暮らしてきたアメには、これが泣き出しそうなのを我慢している仕草と見て取れた。

サナは昔から、仲間内の喧嘩や仲間割れなど……不穏な空気に苦手意識を持っているようだった。本人の口から明確にされたことは無いが、他人に疎まれ、その結果記憶を失った過去を持つとするならば……怖がるのは当然だ。アメは息を呑み、やがてため息を吐く。

「っ……はぁ……分かった」

「え?」

「ルナを呼び戻せ。大根買いに行かせたけどキャンセルだ。部屋にいるきぃちゃんも呼んできて」

「は、はいっ!」

つばさを指差す。つばさはすぐに部屋を出ていった。珠莉は何が起こったのか解らぬままキョロキョロしている。

サナは未だに落ち着かない様子だったので、アメはそっと肩を抱きソファに座らせた。出来る限り優しく話かけると、上目遣いにおずおずと目を見てくれる。

「サナはちょっと部屋に下がっているか?」

「サナ、だいじょうぶ……」

「……本当か?」

「うんっ☆」

サナはまだぎこちないものの、いつも通りに笑った。

***

そうして社員たちはリビングに招集され、社内会議が行われた。会議と言っても、何故かテーブルの上に上がっているのは書類やパソコンではなくピザだ。

「サナ、チーズのがいいなー☆」

「はいはい、チーズのですよ~♡ あー、ピザ見てはしゃぐサナさんも天使。」

「な、なんでピザ……?」

珠莉はその謎光景にぽかーんとしながら、目の前を通り過ぎるピザを見つめる。

ルナはピザソースが付かないように、カーディガンの下に着ているYシャツのポケットにネクタイをねじこみながら神妙な面持ちで話を切り出した。

「珠莉ちゃんから聞いた暴力団アジトを数時間張ってみたけど、彼、あかりくんらしき人物が入っていくのを確認したよ。団員かどうかはわからないけど、出入りしてるのは確実っぽいね。明日また張り込みしてみる。珠莉ちゃんも同行して確認してくれる?」

そういってルナが携帯の画面をかなり拡大してから、皆に見せた。かなりぼやけてはいるが、珠莉と同じぐらいの背格好の少年の後ろ姿が映し出されている。白いシャツに白いズボン、全体的に色素が薄そうな雰囲気が中性的な印象を受ける。

「……うん、あかりっぽい……わかった、明日はついていく」

珠莉はその事実を確認し、頷く。自分で言った手前、本当に暴力団に出入りしているあかりを見て動揺するわけには行かず、皆の真似をして冷静に頷いた。が、手にしているピザの具は滑り落ち、珠莉の黒いシャツにトマトソースが散らばった。

その場に居た全員が「ああ、やっぱりやらかした」と、白々しい目線を送ってきてやはり珠莉は動揺した。

「近辺状況も撮ってきてくれ、潜入ルートを練る」

アメが小さなデジカメを珠莉に渡した。珠莉はピザの油分が付かないように丁寧にカメラを受け取る。珠莉はその指示に頷きかけ、考え直す。

「え、でもこんな堂々とカメラで……」

「そこはルナに任せろ、珠莉がどんなに鈍くさくても……『撒ける』だろ、ルナ」

「了解」

ルナはにこり、と笑うと、ピザに齧りつく。流石にルナは器用で、具を零すことはないようだ。

「……???」

珠莉にはアメの言う意味がわからなかったが、とりあえず皆の真似をしてピザを齧った。会社の近くの個人経営のピザ屋のピザだ、チェーンでは食べたことがないような手作り感があって美味しい……けど、予想外に耳が厚い。少食の珠莉には、一枚でお腹いっぱいになりそうな感じだ。

サナはチーズの伸びに苦戦していて、つばさはサナが一口食べるごとに溢したのを拭いてあげている。きぃはこまめに手を拭きながらも、この中では器用じゃない方らしく最終的にはベタベタになっていた。しかし、珠莉ほど豪快に具を落とす人はおらず、珠莉は不満そうに唸る。

アメは一足先にピザを一切れ食べ終わると、手についたソースを舐めながら言った。

「我々エンジェライトは、これまで己のためだけに沢山の危機を犯してきた。それは守るためだったり、得るためだったり、逃げるためだったり、満たすためだったり……目的こそ違えど力をあわせてきた。今こそ、各々に宿った能力……『人助け』の為に使ってみようじゃないか」

「おー!」

「おーっ☆」

「おー……!」

「おお……!」

「お、おー?」

社員たちがアメの腕に合わせて拳を突き上げる。珠莉も慌てて真似をしたが、勿論ワンテンポ遅れていた。

***

翌日。ルナと共に珠莉はあかりが出入りする暴力団アジトの側まで向かった。

「ここだね、正面と裏口、屋根の方も」

「こ、こんな感じ? っていうか、いい、いい、いいの、かな?」

ルナの指示で周辺写真を撮る。普通に写真を撮るにしたって、こんなじっくり撮影してるなんて怪しすぎるんじゃないだろうか? 珠莉は明らかな動揺を隠せず、どもりながら震える手でカメラを操作する。

「大丈夫、『少しなら絶対に怪しまれない』から」

珠莉はそのルナの自信を不思議に思いながらも、ハラハラしたまま合計10枚程度の写真を撮った。

一度暴力団と思われる男に「何をしているんだ」と声をかけられ珠莉は最高にキョドったが、ルナが「僕ら、写真部なんですよ、お兄さん」と告げると、男はそうか、とあまりにもあっさり納得して立ち去る。それは、不思議な体験だった。

勿論、ルナはいつものスラックスにシャツ、カーディガンにネクタイ……と、学生なんだか社会人なんだか微妙に解らないスタイル。珠莉はメンズTにハーフ丈ルームパンツにメンズスニーカー……と、学生ながらに全く学生には見えない姿だ。

「流石に怪しまれてるきてるね、写真はもう十分だし、一旦引こうか」

「えっ、あっ、うん……?」

ルナの言動の一つ一つが意味不明すぎてぽかんとしていると、ルナは手を引いて、珠莉と共に道路の向こうの市民公園へと歩き出した。

「さ、さっきの?」

「僕が目前にいて尚且つ数分しか保たないんだ。そろそろ解けるから引くよ。」

「……もたない?」

二人は公園のベンチに腰掛ける。ここから遠目ではあるが、アジトの出入り口が見える。張り込むには最適な場所だった。ルナはこっそり道路の向こう側に目をやる。どうやら二人が目の前から消えた事で、警戒状態は解けたようだ、とルナは説明した。

「あ、あの、ごめん、意味が一つも……」

珠莉は理解力に限界が来て、素直にルナにそう聞いた。ルナは一瞬眉を寄せたが、すぐにいつもの胡散臭い笑顔に戻り、ようやく珠莉にもわかりやすく説明してくれた。

「……端的に言えば僕も能力持ちだよ。『相手が目の前にいる状態で話しかけた相手に、話しかけてから数分間だけ、どんな内容でも本当のことだと思わせてしまう』」

「えっ……でも、ルナは能力持ちじゃないって」

「そうだよね、『信じちゃうん』だから」

「え、ええ……?」

珠莉の頭は混乱する。ルナの言うことを信じる、という能力が本当なら、ルナの言っていることは嘘で……でも「信じてしまう」から……あれれ?

「理解できないならただの雑談だと思って聞いてよ。僕自身も実はそんなに理解していないんだ……僕自身の能力……。これは生まれつき持ってたものじゃない」

張り込みをしているとはいえ、穏やかな昼下がりの公園は、外に出ることが嫌いな珠莉でも、それなりに心地の良い空間だった。そこに、高くてよく通るルナの静かな声がすると、不思議と黙って聞いていたい気持ちになる。これが能力だと言うのなら、よっぽどよく出来たものだろう。簡単になんでも悪用出来てしまいそうだ。そう考えると少しゾッとする。珠莉がもしも似たような力を持っていたとしたら、自制できる自信がないからだった。

「サナちゃんがエンジェライトに来る前の記憶がない事は誰か君に説明してる?」

「ああ、つばさが……」

珠莉はつばさに、端的ではあるがサナの過去を聞いていた。さすがに、未だ後遺症で薬を飲んでいることまでは聞いていないが、記憶喪失で今の性格になった、ぐらいは珠莉も知っている。

「サナちゃんと僕は、故郷からサナちゃんの能力が原因で逃げてきた。それまでの僕は、不必要な注目を浴びせられるサナちゃんを上手く理解できずにいたんだよ。君が目立つから駄目なんじゃないの、余計な摩擦を産んでるんじゃないの……って。その結果、サナちゃんは孤立した。周りの人に傷つけられるだけじゃなくて、家族である僕にも、深く深く傷つけられた……」

ルナの目線が鋭くなるのが鈍い珠莉にもわかった。ルナにしか知らない、サナとルナの過去があるのはさすがに珠莉にも分かる。そして、それが良くないことだと、少なくともルナが思っていることもだ。

「そうしてサナちゃんは壊れた。それまでのサナちゃんは、沈着冷静で頭が良くて、あまり感情的ではない、大人びた性格の女の子だった。その日を堺に、サナちゃんは今のような性格になって、そして精神年齢も低下した。僕はそんなサナちゃんを見て、すごく後悔したんだ」

ルナは辛い過去の話をすることに落ち着かないのか、手元で携帯の電源ボタンを押したり消したりしている。ホーム画面にはサナの写真。珠莉にも見慣れた笑顔の写真だ。ステージ裏だろうか、衣装を着て、マイクを持って、アイドルのほんの、ほんの一瞬の笑顔だ。

「全てを嘘にしたいと思った。あの日を嘘にしてしまって、サナちゃんは苦しい思いをしていないって思おうと思った」

「……その方が、サナにもいいかも」

珠莉はその願いに同意する。もしも苦しめられたサナが本物なら、今アイドルとして、仲間といるサナは幸せなんじゃないか、と珠莉は思ったに過ぎなかった。

「……いや、本当はダメだったと僕は思う。サナちゃんは元から素直じゃない、無理をする子だった……それは今でも変わらなくて何を考えているか解らない。本当は本人は戻りたい一心で頑張っちゃってるのかもしれない……。でも、僕が願ってしまったせいで……サナちゃんはアイドルを目指し始めた。同時に、誰かに認められることを願い始めた。そして、能力を活かした潜入員を始めた」

「………」

珠莉はルナの否定と、葛藤を感じた。自分の一方的な願いを、サナは自分を殺して受け入れてしまったのかも知れない、と思う罪の意識にルナは縛られているのだ。その結果、危険にだって足を踏み入れるサナになってしまったとしたら。

「僕はダメかも、ダメかもって思いながら……サナちゃんを応援して、守ることしか出来ない。そんな僕の心とサナちゃんの過去に……嘘をついているうちに僕にはこの能力が宿っていた。『嘘を本当にする』なんて……」

ルナは顔を伏せる。急に、しんとした午後の公園。泣いている? 珠莉はルナの顔を慌てて覗き込んだ。

「る、ルナ、」

「……っは、ははは……なんてね!」

「!? ………嘘!?」

ルナは吹き出しながら顔を上げる。その笑顔は完全に珠莉をバカにしていた。

「騙されやすすぎだよ、珠莉ちゃん」

「………。」

珠莉は流石にバカにされているのに気づいてむくれる。人の心配を仇に……と、自分がよく言われている事を、ルナに思った。珠莉自身はそれに気づいていないようだったが。

「でもね、珠莉ちゃん。僕ら何度も言ってるけど、見抜く力も必要だよ?」

「言われてない……けど……」

「いや、暗に何度も言ってるのに気付かない君が悪いってこと」

ルナは公園のベンチを立ち上がる。ズボンのホコリを払い珠莉の目の前に立った。

「え?」

「今回の件もそうだよ。君のお兄さんが本当に暴力団員か、という件も含めて、ね?」

ルナはそのままウインクして、珠莉の手を引いた。その言葉の意味を珠莉はやはり理解出来ず、首をかしげる。

「……どうやら君のお兄さん、出てくる気配ないね、顔も見られてるし今日は引き返そう。」

写真を持ち帰り、つばさが作った地図と共に潜入経路と脱出口を打ち合わせた。

アメが立てた作戦は、こっそり侵入して本人を見つけ出し、上手くあかりだけをおびき寄せて話をつけるのが第一案、あかりが納得しなければ物的証拠をタレこんで、あかりだけを無罪にする形で暴力団を捕まえるというのが第二案だった。

それも、まずはあかりが本当に団員であるかどうかから、見つけなければならないのだが。

「とりあえず、二人づつ潜入しようと思う。全員囲まれたら意味がないから、慎重に行こう。まずは手堅く、サナとつばさからだ」

「えーっ、サナもう追っかけられるのやだぁ~♡」

アメの指示に、サナは唐突にしくしく泣き出す。が、それは嘘泣きである事が珠莉以外に明確であった。アメは眉を寄せ、サナのふざけたわがままに対策を考え……急にニヤリと微笑んだ。

「じゃあサナ、DVDミリオン払いで……『コレ』でどうだ? なんとかしてやるぞ?」

「ひぃええ……」

アメが指を『3』本立ててサナに擦り寄る。口では『じゅうおくな』と言っているので、『30億円払え』という意味らしい。あ、アイドルってそんな儲かってるの? 珠莉は内心でうわぁ……と思った。自分ならそこまでの大金を抱え込んでいたら、もはや落ち着かないレベルだ。

「溜め込んでるんだろ? ん?」

「さ、サナ用事思い出したっ☆ おうちかえるっ☆」

「お前の家はここだろうが」

もはや借金取りかとも思えるアメの態度。気まずい展開に逃げ出しかけるサナの頭をわし掴み、アメはサナを止めた。

「払えるぐらいはあるんだ……」

「サナ、アイドルのお仕事大好きだもん♡」

「儲かれば、だろ……」

払えないわけではなさそうだったので、珠莉は聞いてみる。本当にアイドルで稼いだものっぽい。サナの人気は知っていたが実力も本物なんだなあ、と改めて推す気持ちになった。

「まあいい、脱線したな。とりあえず話を進めるぞ、二人がダメなら私ときぃ、最後がルナと珠莉だ。最低でも各班、一時間は時間を置いて行動する。まとめて行くと目立つからな。潜入までは私が姿を消す、その後は普段通り、各々で行動して欲しい。つばさが無線機を支給するから、やりとりはそれで行う」

「バッジ型の無線機です。そこそこ小声でも集音します。骨伝導で聞こえるので音のやりとりで気配に気づかれなくしてます。生体波を読み取ったり、位置記録したりするので、もしもの事があればちゃんとお互いに分かるようにアラームされますよ」

そう言いながらつばさは、自分の左の鎖骨あたりを親指で小突いた。ここにバッジを付けろという指示だ。服の襟に針を通す。通した針が少しだけ肌に触れれば、それで機能するそうだ。

「作戦については以上だ。最後に社長命令、『危険を感じたら身を引くのも仕事のうち』だ」

『はい!!』

全員、揃えて返事をする。返事が揃ったのは恐らく、この会社で初めてのことだろう。アメは得意げになだらかな胸を張ると、珠莉に向き直って言い切った。

「珠莉もこれで文句はないな? この作戦で成功しなければ、もううちは手を貸さんぞ」

「……わかった……皆、ごめんなさい……」

珠莉は深く頭を下げた。頼み込んだのは自分だが、無関係な人々を危険に晒しているのは、とても申し訳ない。真面目な珠莉にはつらいことだった。

「んむー、アイドル舐めるなっ☆」

そんな珠莉のほっぺを引っ張りながら、サナが急にぷんぷん怒り出す。珠莉は急に顔を強制的に上げられて、予想外の言葉をかけられてしまった。

「へっ?」

舐める? なんで? 珠莉には、その言葉が社員を信じていない、という意味で有ることを理解していなかった。素っ頓狂な声を上げると、他の社員たちも口々に言い始める。

「ゲーオタハッカーも舐めないでほしいですね~」

「『ただの平社員』もね?」

「秘密結社の社長も、な?」

「じゃっ、じゃあその秘書も!!」

珠莉は慌てる。そんな訳……と思ったが、いい反論が浮かばなかった。やがて、アメが珠莉の肩をぽんと叩く。

「……珠莉、こういう時はなんて言うか、流石に分かってるよな?」

「え……?」

「ありがとう、だろ?」

「……あ……うん、みんな、ありがとう」

ありがとう。珠莉には言い慣れていない言葉だった。そうか、ごめんなさい、では違うのか。

「やられたらやりかえす~☆」

「まだ何もされてませんけどね」

サナがはしゃぎ始めると、つばさがサナの手を握って止める。それでもサナは興奮しているようで、ぴょんぴょん飛び跳ねながら自室へ戻っていった。各自、明日に備えるようだ。ぞろぞろと部屋に戻っていくので、珠莉もそうすることにした。

「つばさ、お前は残れ、話がある」

「はいはーい」

***

夜中。アメとつばさは地下のアジトで向かい合って座っていた。アメは呼び出したつばさに、早速と気になっていた事を聞き出す。

「気になることがある、どうしてこいつに生体波を読み取らせる? またサナの心拍数が可愛いとか言うなら悪いがこの機能を外して……」

指先に弄ぶのは、さっきのバッジだ。今回は全員任務なので、つばさの好き勝手な機能を採用するわけにはいかない。アメはその気持ちでつばさに聞き出したにすぎなかった。

「まあ、似たようなものですけど……サナさん、ここ数日確実に無理してします」

「! やはりか……泣きそうなのを隠せなかったり、作戦を嫌がったり、らしく無い感じがする」

返ってきたのは予想外の回答。しかし、言われてみれば納得できる。バッジは、サナが言わない変化を探るためでもあった。

つばさは試しに、さっきバッジを試着した時のサナの様子を表示する。その後に、つばさがこっそり計上していた普段の様子も表示された。とある日付から、サナの様子が変わっていることが明らかになる。

「恐らく珠莉さんが来たことによってアイドルとしてのサナさんと、いつものサナさんの振る舞い方が混雑してるんだと思います。記憶は失ってますけど、サナさんはまだ怖いんですよ……自分を傷つける相手が……」

「珠莉がか? あり得ないと思うが」

つばさの分析を聞くと、またもや予想外だった。確かに日付は珠莉が来た日の日付だが、珠莉に対して恐れるものは無いはずだ。あんな気弱で、そして不器用な少女、警戒するにも値しない……だからこそ、アメは珠莉を会社に置いたままなのだ。口ではまだ言って解らないみたいで、多少頑固なところはあるもののいざとなればどんな手段を使ってでも追い出せるだろう。

「サナさんを攻撃するのではなく、珠莉さんは珠莉さん自身を攻撃しています。サナさんはその悪意にも、無意識のうちに恐怖してるんだと思います……でも、ファンである珠莉さんに弱みを見せられない……その葛藤で気持ちが揺らいでるだと思います。ちょっと体調悪そうです。血圧的に微熱があるかもしれませんが、測らせてくれなくて……」

なるほど。アメは頷いた。確かに珠莉の言動は、こちらもたまにムッとしてしまう。本人は気づいていないが、自分への評価で周りを傷つけるときも多々見られた。例を上げれば、サナのファンと言いながら、ファンとしての礼儀や対価に欠けていること。無理を言ったことを受け止めた途端、急に萎縮する事。

身内にも弱みを見せられないサナが、赤の他人と接する事……それを恐れてしまっているとすれば……考えたこともなかったが、確かにかわいそうな事だ。そういえば、ここのところ夜のサナの様子を見ていない。

「サナは最近部屋に来たか?」

「来てません。珠莉さんが来てからです。恐らく怖くても我慢してるんだと思います。サナさんは余裕がある時は私のところ、ダメだったら社長のところ、我慢できない時はルナさんのところに行くことが多いです……ルナさんにも確認取りましたけど……」

つばさは首を横に振った。

「なるほど……しかし、その順番、明確に信頼してる順って感じだな」

「……他人に言われると若干凹みますけど、そうなんですよね。少し眠そうにもしてましたから多分我慢して来ないのだと思います」

アメもつばさも鈍く胸を痛める。今ももしかしたら、眠れないのを我慢してサナは震えているのかもしれない。泣いてしまったらと思っているのかもしれない。珠莉に……いや、外の世界の人間に心を許さないように我慢してしまっているのかもしれない。アメは珠莉をすぐにも摘み出せなかった事を悔やむ。

「分かった、サナの行動はもう少し注意してみる必要があるかもしれない。いざという時は頼む。何かあればまた報告してくれ」

「了解です……寝る前にサナさんに声かけてみますね、おやすみなさい」

「おやすみ」

アメはいつか、サナに語りかけた言葉を思い出す。『いつか、潰れてしまうのではないか』。その疑問が…………近く来ないことを願ってアメはシャツの裾を握りしめた。

***

翌日、作戦は夕方から実行された。予定通りつばさとサナがアメの能力で姿を消して建物内に侵入する。やりとりはつばさの発明品から中継され、やりとりに不自由はない。

「予定通り裏口と正面から攻めていきます。内部は一般的なオフィスの間取り、調度品も一般家庭にありそうなものばかり……雰囲気的に本部ではなさそうです。ターゲット目視確認出来てません」

「了解。サナはもう内部に侵入したか?」

「ハニーの合図でいきまーす☆」

先につばさが侵入し中の様子を探る。見た目に一般家屋のそれはそこまで広くない。ざっと見はただのオフィスに見える。武器類も特に見当たらない。つばさがタイミングを見計らい、サナも建物内に侵入する……つもりだった。

「……あ、あのぅ」

「ん、どうしたサナ」

様子見の静寂の中、サナの弱気な声が静けさを破る。

「サナ、ギター忘れました……」

まるで宿題を忘れたようなトーンで、サナが告げた。

『ええええええええええええっ!?』

一同叫びながら周囲を見渡すと、あった。ソファの横にサナの愛機たる水色のギターが鎮座している。アメがなんてこった……と頭を抱えた。サナは確実にしょんぼりとしてしまう。

「ご、ごめんなさぃぃ……」

「あーっ、もう……いいから歌ってしまえ、サナ! アカペラで行けっ!」

「了解☆」

「サナさん、今なら入れます!」

つばさの合図でサナは一瞬で切り替えて敵陣に乗り込む。一同なんとかため息を吐くが、予想外の展開にまだどぎまぎしていた。

「ま、まさかのサナちゃんのミス……」

「やはりサナ、大分キてるな……つばさ、危ないと思ったらサナを無理やりにでも止めろ!」

「了解です!」

嫌な予感が的中してしまい、アメは冷や汗を拭う。耳にはサナが侵入したことにより、騒がしくなる現場の声が届いていた。一同、すぐに耳を澄ます。

侵入の騒ぎにより早速姿を目撃されたサナは一呼吸置くと、アカペラで歌いながら駆け出した。不審者に慌てゆく男たちが、サナの歌声で足を止める。

……しかし。

「……効きが弱いな……かなりリーチが狭いぞ」

「ああ見えてギター忘れたのがかなり響いてるんだろうね……」

見守る一同には分かる。明らかにサナの歌がブレていて、普段より効きが弱い事に。サナも内心は焦っているのだろう、社員いち軽快で巧みなはずの身のこなしが普段よりぎこちない。

そのとき、騒ぎを聞きつけた一人の男が駆け寄って来た。サナの姿を見ても立ち止まることも見惚れることもない。その耳にはイヤホン、その手には拳銃を握りしめている。

「何故サナの歌が効かない、つばさ!」

アメは一瞬でその状況に気づくと、つばさの応答を待った。サナが侵入した場所と、つばさが潜んでいた場所はちょうど真逆。サナが引きつけている間にあかりをつばさが探し出すつもりだったのだ。

「今向かってます!! イヤホンでサナさんの声が届かないんですよ!!」

つばさはすぐにサナの方に向かうが、見た目より広い建物に苦戦している。騒ぎの方へと駆け出してはいるのだが、すぐサナを見つけ出すことができない。

当たり前といえば当たり前だが、男は勝手に入ってきて何かを視聴しているところを妨害され怒っているようだ。全員の耳に、サナが怒られている怒涛が突き刺さる。さすがに、今まで相手にしてきた警備員やスタッフのような男たちとは、勢いが違う。

「オラぁ、誰が入ってきていいって言ったぁ!? 有名人でも不法侵入だぞ!?」

「……ひっ!」

サナの歌が止む。代わりにサナの口から漏れるのは、引きつった怯えの声だ。

「つばさっ、早く!!」

「分かってます!!」

思わずアメは叫んだ。つばさはサナと合流する為に、サナを見て呆然とする男たちの間を駆け抜ける。サナのお陰で、そこまで機敏じゃないつばさでもなんとか抜けてこれたが……歌が止んではどうなるのか。その答えまで数秒もないだろう。つばさは勢いを弱めず、サナに飛び込む覚悟だ。

「サナさんっ!!」

「ひ、ごめんなさい、ごめんなさいっ、うあ、や、やだ、ごめ、なさっ、ああ、ああ……うあああぁ……」

サナを目前に捉える。サナは迫る男を目前に、床にへたり込んで泣いてしまっていた。しきりにごめんなさい、と強く呟いているが……恐らく、男のことは目に見えていないだろう。彼女の怯えた目に、過去の影が映る。

つばさにはその仕草、そしてモニタリングしているサナの鼓動からもう察しがついていた。

「サナさん……!」

夜中、涙を堪えて、本当に心から信頼できる相手にしか見せない、サナのトラウマ。いつもなら意地でだって我慢し切る。敵にだって一度も怯んだことがない。

それは、エンジェライトの皆が、皆だけがサナの支えになっていたからで。

そのバランスが珠莉によって崩された今……サナは、スパイでもアイドルでもない……傷つけられた一人の女の子でしかなかった。記憶にはなくても……心の奥深くに痛む恐怖に、耐えきれなくなってしまったただの女の子だった。

「あぁ……うぁぁあぁ……」

男は正面突破してきた有名アイドルが泣き出してしまった、という、逆に予想外の展開に目を丸くする。イヤホンは耳から外れていたので、その泣き声である意味の注目能力が発動しているようだ。周りの男共も、ようやく動き出したと思った矢先、もう一度固まった。

そんな異様な空気と目線の中に飛び込んだつばさは、しゃがみこんで泣き出すサナの視界を覆うようにサナを抱きしめる。

「サナさん」

サナの肩を抱くように、優しく名前を呼んでサナに寄り添う。かわいそうに、ガタガタ震えていて呼吸も落ち着かない。いつもなら意地でも泣き止もうと頑張るけれど、安心したのか嗚咽は酷くなるばかりだ。このままだと呼吸にも良くないだろう。これ以上苦しませたくはなかった。

「よく頑張りました、もう帰ろうね」

「っ、ひっ、つばしゃぁ……やだ、さな、もっと……っ、がんばらなきゃっ……」

「いいんです、もう、いいんです……サナさんは頑張りましたよ」

つばさはサナを抱きしめると、そっと頭を撫でてやる。こんなにも震えて大泣きしているにも関わらず、サナの口から出るのは、まだ限界じゃない、やらなきゃ、という言葉ばかりだった。もう動けもしないのは、一目瞭然なのに。つばさはそっとサナの背を撫でながら、混乱するサナを落ち着かせられるように、自分が慌てないように努めた。

「やだよう、やだ」

「社長命令ですから、従いましょう」

サナはいつもよりも子供っぽくイヤイヤと首を振った。そんなサナの責任感を刺激するように、社長命令を思い出させる。

「つばさぁ……っ」

サナの様子に、アメとルナ、そしてサナの取り乱す姿を初めて見たきぃと珠莉も……社員たちは息を呑んだ。前者はサナの様子に心を痛め、後者は何が起こったのか分からない様子で。

でも、一番心を痛めているのは、サナ自身のはずだ。この、頑張り屋で、優しくて、責任感が強くて、負けず嫌いで……そして臆病な人がここまで頑張ったのに、『出来なかった』ことがどんなに苦しい事なのか……つばさはその状況をなんとか自分に言い聞かせて、優しく、優しく言って聞かす。

「ごめんなさいね、サナさん、熱があったのも、具合が悪いのも知ってたのに、止めてあげられなかった……」

「ひっく、うああ……みんなごめんなさい……」

サナの涙に濡れる頬をそっと撫でて、つばさはサナを強く抱きしめる。敵陣という事も忘れて、きつく、包み込むように、両手で抱きついた。サナもつばさの背に手を回す。

「っ、ひっく、ふぁぁあぁ………」

サナの泣き声は、普段の発作よりもずっと苦しそうで切なく、つばさはその声だけで胸が千切れそうなぐらい胸を痛めた。サナが敵陣で、任務を遂行出来なかったという気持ちは……どれだけ重たいものか……なにも知らないつばさですらなんとなく分かってしまうのだ。

でも、わかるからこそ、サナにはここで手を引いて欲しい。これ以上、サナの気持ちを、他人の誰かに壊させたくない。

つばさはゆっくりと敵陣の中で手を上げた。

「……すみませんでした……私達はもう抵抗しません……これ以上、サナさんを苦しめたくないんです……手を引きますから……どうか……許してください……」

しん、と静かになった音声が、ようやく返ってきたのはそれから10分ぐらい経過した頃だった。どうやらつばさとサナは問題なく解放されたらしい。どうやったのかは解らないが、つばさが申し訳なさそうに告げる声が届く。

「すみません、社長。撤退します」

「ああ、よくやった。こちらは30分繰り上げて向かう。……サナ……? わかるか?」

アメもその声に、精一杯答える。サナにも聞こえているみたいだが、小さな嗚咽以外はサナらしき応答はなかった。

サナはショックと疲労で口が聞けなくなっているようだ。その言葉に首だけ動かし、あとはつばさに肩を貸してもらって立っているのが精一杯だった。

「…………」

「……サナさん、もう大丈夫ですよ……すみません、ちょっとお話出来そうにないみたいで……」

「わかった、よくやったな、サナ」

アメはそれだけ言うと、サナ達の事は一旦忘れることにした。席を立ち上がり、それ以外の一同に向って叫ぶ。

「総員、30分繰り上げて一斉に乗り込みを開始する。つばさが隙を突いて監視カメラをハックした調査結果としては、武器に弾は充填されていないようだ。さっきの銃は警戒用のフェイクと判定。ただし油断はするな、目的はあかりとの接触だ。くれぐれも誰かに攻撃しないように!」

「はっ!」

「はい!」

「……は、はいっ!」

一同、準備に追われ、ドタドタと足音が鳴り響く。

アメも、椅子にかけてあった上着を羽織るとすぐに部屋を出ていった。

***

つばさはサナを背負い、サナを落ち着かせながらゆっくりと帰路についた。体格的にはサナの方が大きいのだが、多忙で疲れきったアイドルの女の子は一般女性にも背負えるほど軽く、そして心配なぐらい細かった。多分、珠莉の件で少しやつれたのかもしれない。

サナはしばらく泣きじゃくっていたが、会社に帰る頃には落ち着きを取り戻したようだ。リビングのソファにサナを座らせると、とりあえず水の入ったコップを渡す。サナはそれを飲みながら、泣き腫らした目を少ししょぼつかせた。

「少し寝ますか?」

「ううん……いい、大丈夫……」

つばさは薬を渡そうとするが、サナは首を横に振った。代わりに、つばさの手に擦り寄る。つばさはその頭をそっと撫でた。

「……ごめんね」

サナはぼそり、とつばさに縋り付いて謝る。

「いえ、これは私達の過失です。サナさんは関係ありません」

「違うの……サナが、言わなかったの、ちゃんと……」

腕を絡ませて、つばさに身体を預ける。ぎゅうっ、とつばさのジャケットを掴んだ。

「サナね……記憶無くしてるけど、嫌われて怖かったのは覚えてるの……時々怖くなって、我慢できなくなって……普段は我慢して、頑張ってるサナも嫌いじゃないけど、時々……怖いの……。そうしたら、見たこと無いものが頭の中に溢れてきて……苦しくなって……!」

「サナさん、分かってますから」

ぼそぼそと喋る声が、ヒートアップしていく。悔しさと恐怖で揺れるサナを、つばさは止めようとしたが、サナは大きく首を横に振った。

「ちがうの、聞いて……社長やルナに居てもらうと、嫌われるんじゃないかって気持ちと、助けてくれるんじゃないかって気持ちと一緒になって……怖いけど……ううん、怖いから居て欲しくなって……でもね、時々ルナは嫌がるの。サナが泣いてるの嫌になって、そんなんじゃ嫌われちゃうからって……サナもそう思ってて……、大好きなつばさに嫌われるのが怖くて、ちょっとだけ避けてたの……」

つばさはサナの気持ちと、ルナの態度に、胸が痛くなった。ルナがサナを怒ってしまった気持ちには怒り、そして、サナに笑っていて欲しいと思ってしまう優しさを感じ、サナの縋りたいけれど遠慮してしまった気持ちには、頼って欲しかった寂しさと、誰かを自分のせいで傷つけたくない優しさを感じる。

それでもサナの誠意に答えるため、サナをそっと撫でながら耳を傾ける。

「でも、珠莉が来たら……違う気がしてきた……。あの子が自分の事を一人で、『私は駄目だから』って言うの……すごく嫌だな、醜いなって思った……。大好きな人が大好きって言ってくれてるのに、それを台無しにしてる、そっちの方が怖いよ」

サナはつばさの手を取って、ぎゅっと握る。つばさも手を握り返した。

「でも、思ったけど、上手く出来なかった……。サナの記憶は、いつかまたなくなっちゃうかもしれない。そのきっかけがやっぱり、エンジェライトの皆に嫌われること、ファンの皆に嫌われることだと思ったら……本当の事は言えなかったの……。だから熱も具合悪いのも……ちゃんと言えなくて、ごめんなさい……」

そう言ってサナは深く、深く頭を下げた。さっきまで恐怖で身動きも取れない、いつも自分の思っていることばかりはぐらかす、子供っぽく振る舞うそんなサナが初めて素直に自分の胸の内を明かして、ちゃんと話して、謝ったのだ。

つばさは居ても立ってもいられなくなり、サナを強く抱きしめる。髪を梳くように撫でながら、腕の中にいる愛おしい人の存在を確かめるように腕を回した。

「私は、サナさんがいずれ元の性格に戻っても、また記憶を失っても、今とも昔ともまた違うサナさんになってしまっても……仮にサナさんが私のことを嫌いになっても、アイドルでなくなってしまっても、サナさんの恋人だし友達だし大ファンで、大好きです。ずっと大好きです。世界のどんな情報を手に入れることより、私はサナさんと、この気持ちが大事です」

つばさもサナの誠意に答え、自分の気持ちをサナに告げた。サナはまた、ポロポロと泣き出していた。サナの葛藤も苦しみも、こんなに、こんなに愛おしい。

「……つばさは、サナのこと、置いていったり……しないでくれる?」

そんな風に思ってたのか……。そう思うとつばさの胸は痛みと愛おしさに締め付けられる。いつもより頼りなさげなサナの姿は、今まで見たどんなサナよりも可愛らしく見えた。堪らず、つばさはサナをソファに押し倒す。

「ん」

「んぅ……っ?」

ちゅ、とサナに口づけを落とす。サナは唐突なキスに驚きながらも、抵抗することなく受け入れる。大好きな人からの愛情を、今度こそ無下にしない為にだった。

「笑って元気にしてるサナさんが、一番かわいいし大好きですから……早く元気になるおまじないです」

「……つばさ……うんっ! ありがと♡」

***

「社長、ここは僕達だけでやれます。社長はサナちゃんのところに行ってもらってもいいですか?」

「ん? ならルナ、お前のほうが適任じゃないか?」

敵陣に向かう途中、急にルナが言い出したのはそれだった。アメは首を傾げる。サナが心配なら、信頼されているルナの方が恐らくサナも安心するだろうに。

しかしルナは首を横に振る。

「……すみません、僕多分、今冷静じゃないと思うんです……。サナちゃんがあんなに取り乱すと思わなくて……それに、泣いてるサナちゃんは、僕苦手で……」

珠莉がびくりと肩を揺らす。いつか言っていた、苦しんだサナをなかった事にしたいルナの願い。それは……今のサナとの関係にも関わっていたようだ。

「『お願いします』、社長」

「……はぁ、能力と分かってはいても……わかったよ」

「あ、ルナのそれって自覚があっても効くんだ……」

社長はしぶしぶルナに『従って』、歩く方向を変えていく。ルナの能力は、仕組みを知っているアメにですら有効なのだ。そうなるとアメはもう、来た道を戻るしか無い。

「あいつらの武器をきぃにだけは持たせるなよー」

「なっ! べっ、別に武器を持っただけで暴れたりしないわよ!!」

アメは思い出したように警告してから、サナが帰ってきているであろう会社の方に戻っていく。唐突に銃の大会優勝者である、というギャップをいじられたきぃは、慌てて気恥ずかしさからアメに噛み付いた。

「どうだか……まあそこが好きだからそばに置いてるんだけどな」

「っ……アメのバカ……」

ついでに惚気も飛び出せば、きぃは顔を真赤にして口を尖らせた。ルナはその様子を「出たよツンデレー」と面白がっている。珠莉はその気の抜けた光景に困った顔をするしかなかった。

「まあまあきぃちゃん、痴話喧嘩はそこまでにしといて」

「痴話ッ……!?」

ルナがきぃの機嫌を取る。が、明らかに逆効果な声の掛け方で、きぃはさらに声を上げた。それもまるっと無視して、ルナは強引に作戦の話に戻す。ルナときぃが先に行き、あかりを探してくる作戦だ。

「僕ときぃちゃんは裏に回って中の動向を伝える。あかりくんらしき人物も同時に探して、上手く誘導してくる……話をつけるのは珠莉ちゃん、君本人に」

「私、直接正面から行く」

急に珠莉は手を挙げると、侵入なしであかりを呼び出す事を提案した。勿論ルナときぃは目を丸くする。

「え?」

「……別にヤクザの何かを狙って中に入るわけじゃないから。私はあかりと話がしたいだけだよ」

「ど、どうゆう心境の変化? それに、脱退させるんなら……」

いきなりすぎる心変わりに、ルナは慌てて止めた。これほどまでにないぐらい不器用で、何の能力も持たない珠莉に単独行動など、させられる訳がない。

「私順序を間違ってた。なんであかりが団に入ったかをまず聞きたい。それで私が納得する理由なら、私それでいい。」

「またそんな……」

いつもの後ろ向き発言か、と二人は肩を落とす。きぃが呆れるように言いかけたが、珠莉はその言葉を遮った。

「違う。私、『あかり離れ』しなきゃ……皆がそれぞれ……自分のための願い事を持ってるの、羨ましいから……真似してみただけ、だけど……」

珠莉も完全に自信があるわけではない。しかし、皆を見ているうちに思ったのだ。自分の利益だけを求めることが、必ずしも悪いことではない、という事に。

「わかった、その作戦で。でも危険そうなら容赦なく邪魔するよ」

「あの……珠莉、変わったね……私はそうゆうの、逆に羨ましいと思うよ」

ルナは頷いた。きぃは少しだけ、珠莉を尊敬の目で見る。きぃもどちらかと言えばあまり積極的な方ではない。流されるタイプだ。だからこそ変われた珠莉を羨ましく思ったようだ。

「えっと、サナを……泣かせたのは私も許せない……っていうか」

「きぃちゃんだって今こそ秘書だけど、社長と出会った時は腕利きのスパイだったんだから、変わったならおあいこでしょ?」

ルナは笑う。きぃは恥ずかしそうに俯いた。

恐らく、穏やかな方に変化をするのだって、それは変わった、というヤツだと思う。本当に変わることが羨ましいのは……今ここで、変化を求めても尚、変わらない現実と向き合わなければいけないルナだったのかもしれない。

そうして珠莉はふたりと別れ、意を決してアジトの扉を叩く。サナが見つかってしばらく警戒状態だったがようやく落ち着いた頃を見計らってルナがゴーサインを出した。嫌に重たい扉が防弾向けなのかどうかすら珠莉には解らない。

「……あ? なんだお嬢ちゃん」

「あの……っ………」

ドアを開けた先にいたのは、小柄だがガラの悪そうな男だ。先程のドタバタで機嫌が悪いのか、まだ何も言わずモゴモゴしている珠莉に不機嫌そうな目線を送ってくる。

「なんだ、用件を言えよ」

「……っ、こ、ここにあかりは、来てますか……?」

珠莉は萎縮しながらも、必死で言いたいことを吐き出した。男は眉をひそめる。イエスともノーとも言わなかった。

「用件は?」

「あかりは居ますか?」

「だーかーら、用件はなんだって言うんだよ、分かんねえ奴だなっ!」

珠莉は肩を小突かれる。ふらりと体勢を崩した。いきなりに危うい状況に、きぃは慌てる。

「ルナ……!」

「いや、まだだよきぃちゃん……完全に殴ってからが僕らの出番だ」

サナの件もある、無駄に刺激してはこちらが訴えられる可能性もなくはない。今は様子見。完全に手を出した証拠が出来るまでは、手が出せなかった。

「あっ、あ……話、話がしたくて……」

「……はぁ? っていうかお嬢ちゃん誰? 何者?」

さすがに警戒は簡単に解けない。珠莉にも疑いの目が掛けられる。それでも珠莉は怯まないように努めた。正直言えばそれも出来てはいないが、珠莉にしてはよく出来た方だ。

「わ、私は……あかりのきょうだい、です」

「家に帰って話せばいいだろ、じゃあな、オッサン達忙しいんで」

「あっ、ああ、待って!」

小柄な男はさっさとドアを閉めようとする。珠莉はそれに必死にしがみついて足を止めた。

「うるっせえないちいちどもりやがって……ったく、今日は意味不明な客が多すぎ……ん? お前もまさかあのアイドルのグルなのか? 目的はなんだ?」

「っ……サナは関係ありません!」

「ったー……」

「やっちゃった……」

ルナときぃは頭を抱える。珠莉がここまで嘘下手とは思わなかった。明らかにサナが侵入したことを知ってる事実を証明してしまう。

「おい、こいつをひっ捕まえろっ!! さっきのアイドルとグルだ!!」

「ひいっ!!」

珠莉は思わず室内に逃げ込む。あかりを見つけて話をするぐらいなら、もう強行突破に出るしか無い……と、工作員でもなんでもない珠莉が思うには少々無謀だった。

「あかりっ、あかり!」

珠莉は手がかりの何一つ拾うこともできず、ただ強引に突破して強引に探し始める。

「珠莉ちゃん、キッチンの方が怪しい」

「ひぃぃ、キッチンってどこ!!??」

「口に出さない!!」

つばさが調べ上げたデータから指示をするルナ。その指示を簡単に喋ってしまう珠莉。明らかに怪しい。

一日に何度も怪しい少女が乗り込んできては、大人たちも怒り心頭だった。珠莉はすぐに、さっきのサナと同じく取り囲まれてしまう。

「何が目的なんだ?」

「わ、私っ、は、あかりと話がしたいだけで……」

「さっきからそればっかだな! もっと言い訳するにも上手な言い方があるだろ!!」

「じ、事実なのに……」

確かに事実なのだが、珠莉の頭からは基本的な文法すら抜け落ち、何のために、どうして、なぜ、という理由付けすら出来ていなかった。これではひとつ覚えの状態で余計に怪しまれるだけだ。

口下手な珠莉は何を言っても信じてもらえない。

もうさすがにルナ達も出てくる……いやだ。それは嫌だ。サナを泣かせて、皆を悲しませて、それで自分も駄目でした、なんて、何も出来ないくせに余計なプライドが珠莉を突き動かす。

「何が目的なんだ、さっさと吐けぇ!!」

「わ、私は無関係ですっ!」

そのプライドとは、エンジェライトとは無関係を貫くことだった。珠莉は嘘が嫌いだ。最初はルナの事ですらよく思っていなかった。でも今は違う。自分のために嘘をつける。他人から見たら小さな変化で、ちゃちで下手くそだけど……。

「サナとすれ違ったからそう思っただけで、私は何も知りません!」

「……っ」

ようやく言い訳がひとつ思い浮かんだ。男たちもこれには裏付けできず、一瞬怯む。

そこに、とある少年が割って入ってきた。男たちの間から、表情一つ変えず登場した小柄な少年。

「どいて」

「あかり!」

「……なにしてんの、珠莉」

一番奥の部屋に潜んでいたのだろう。珠莉が探していたあかりという少年は、予想外の身内の登場に、少し呆れた様子だった。

「あの、あかりと、話したくて……」

「なにそれ、それだけでこんなところに乗り込んできたの? 誰と?」

「ひ、ひとりで……」

流石に双子の兄である。珠莉のノミの心臓がどれだけ小さいかを知っている。一人でこんな場所に乗り込んでくるような女でないことぐらい知っていた。

「……ここがどこだか分かってるの? 珠莉ひとりで来られるような場所じゃないのに。なにしに来たのさ」

「……わかってるよ。私だっ…だって、ひ、ひとりで来られるし…あかりが、心配だったから」

ふぅんとあかりは唸って、数秒考える。きっとバレているだろうと思ったが、それでも珠莉はその嘘を貫いた。

数秒睨み合う。だめか、だめなのか。なんか機嫌悪そうだし。もしかしたら怒らせてたのに勝手に来ちゃったのだろうか。不安を珠莉が取り巻くが、今更もう引けない。ダメ押しでもう一度叫んだ。

「あかり、帰……」

「僕帰るから、かくまってくれてありがとう。 ほら珠莉、帰ろう!」

その叫びを遮って、あかりは先程の不機嫌そうな顔とは違い、にこりと表情を変えて珠莉の手を引く。珠莉はいつも通りのあかりの表情に、不思議ながらもほっとした。

のもつかの間、また表情を変えて、冷静に真後ろに声をかける。

「もう珠莉のことはわかったから、隠れて無くてもいいよ」

「……はぁ、こっちまでお見通しなんだね」

ルナが物陰から出てくる。きぃが能力で時間を止めているようだ。きぃの目の前にいた男たちは動かない。あかりはそれに気づいていたようで、ルナ達が潜んでいた場所も知っていたようだ。

「え、え……?」

珠莉はその状況にまたもや混乱するばかりだ。ルナもよく分かっていない様子で肩をすくめる。

「そもそも、エンジェライトの事を珠莉に教えたのは僕なんだし、予測はつくよ。まさか数日暴力団のアジトに身を寄せただけでやるとは思わなかったけど」

「あかりくん……だっけ? 君は一体?」

「後で話すよ。君たちだけじゃないよね、団員。あのぶりっ子アイドルとかさ」

***

「ただい……おっと」

社長がリビングに入ると、サナとつばさはソファでより寄って眠っていた。テーブルの上には薬が置かれたままなので、サナは自然に眠ったようだ。

が、身を寄せ合う二人は上着を投げ捨て、シャツも互いにはだけていた。すーすーと穏やかな寝息を立てているその手は、ガッチリ握り合っている。

「……ま、まさかな……」

この状況は気まずい。もしかして気まずいやつだ。

そう思ったが知らないふりをする事にして、嫌な予感を社長は振り切った。

「ほら、起きろ二人とも」

***

全員が集まり、次にテーブルに広げられていたのは寿司だった。

「社長、ゴチでーす♡」

「サナさん、わさび抜いて置きましたよ~♡ はぁぁ、さび抜きじゃないと食べられないサナさんも大天使」

「ぶりっ子アイドルはわさびも食べられないの? 子供じゃん」

「ああああああかり、サナにそんな事言わないで!!」

「……冗談だよ」

「本気だったな」

「あの妹にしてあの兄ありだね」

「はい、味噌汁できたよ、回してってね」

あかりと珠莉もその間に入り、きぃが作った味噌汁をリレーで回していく。反対側からは醤油皿が回っていって、さながらテーブルの上は宴会状態になった。

どうやらあかりはサナの事が嫌いらしい。珠莉は兄とサナの間で板挟みになっている。しばらく皆で寿司を食べてから、一段落してあかりはアメと珠莉に促され、事情を話し始めた。

「僕が暴力団に出入りしていたのは、別に暴力団に入った訳じゃないよ。彼らが法外チケット屋も兼ねてたから、依頼ついでにある掛けをしてたんだ。あのアジトのボスは、元々友達だったから頼み込んで泊めてもらってただけ」

「法外チケット? まずなんでそんな事を?」

「珠莉がそこのぶりっ子好きだから」

あかりは箸でサナを指差す。

「サナのことー? えー、正規値段で買ってくれないとサナ困るー☆」

「買えたら僕だって苦労してないよ。だから珠莉には「ライブ会場なんて煩いし人いっぱいだし珠莉には無理」って言って、後でプレゼントするつもりだった。でも同時に、珠莉は僕の言うことならなんでも信じる、人を疑わない。アイドルがぶりっ子かましてても簡単にファンになる。その癖自分のことは何も信じないでしょ。僕はそれが嫌だったから、珠莉にわざと僕の事で慌てさせるように仕向けて、どんな行動を取るか見てたんだよ……それがああなるとは思ってなかったけど」

「う、うう……そこまで言わなくても」

身内からも散々言われて、珠莉は小さくなるしかなかった。社員たちはうんうん頷くが、あかりは珠莉が傷ついたとなればコロっと態度を変える。

「ああ、珠莉、嫌いになった訳じゃないよ。むしろ僕の為にあんなに……」

「シスコンだ……」

「なんか言った?」

誰ともつかない感想が漏れて、あかりはまたすぐに態度を変えた。シスコンの裏表は恐ろしい……。社員たちは皆そう思った。

「いや……最終的にはあかりの為ではなかったかも」

「え?」

しかし、あかりのそんなコンプレックスは、本人の口から打ち砕かれた。あかりは一瞬で先程の笑顔を凍りつかせる。裏表だけならルナといい勝負だ。

「………多分あかりじゃなくても、私は人を信じちゃって助けようとしちゃうのは本当だし、最初は確かに他力本願だったけど……最終的には私は自分のために動けた……と、思う。それは皆みたいにはできないけど……」

「その『思う』とか『○○みたいにはできない』とかが余計なんだよ」

アメが念を押した。この事件の原因は、明らかにこの珠莉の考え方にあるのだ。アメはきぃの作った味噌汁を何度かすすってから、珠莉に促す。

「……うぅ、でも……」

「でも、じゃないだろ?」

アメに教わった言葉が、珠莉にはあるはずだ。珠莉は椅子に引っかかりながらも立ち上がって、深く頭を下げた。

「ありがとうございましあ!」

「噛んだ」

「噛んだ~☆」

ひぃぃぃ、死にたい……。と言いながら、珠莉はテーブルの下に撃沈する。

その姿を見て、再度あかりは驚いた。

「珠莉、本当に変わったね」

「私らも住所変わったほうがいいかもな」

アメは味噌汁を飲み干してそう言った。暴力団に住所が割れ、活動できなくなるのもそう遠くないだろう。その危険性を懸念していた。特にサナの事もある。芸能活動の為にもトラブルは避けたい。

「ああ、その心配はないよ、僕も能力持ちだから。今日の記憶はもう消してある」

「消しゴムー☆」

「けしっ……このぶりっ子、お前も消されたいの?」

サナはあかりの白い見た目から連想して叫んだ。あかりはその言葉に腹を立てて怒る。珠莉がすぐに止めた。

サナに『記憶を消す』なんて言葉はご法度だからだ。

「ちょっ、サナにそのワードは……」

「いいよー☆ サナ、記憶なんか無くてもだあすきな人がいるから♡」

「えっ?」

珠莉はその言葉に肩を震わせる。まさか……と期待半分、恐怖半分で恐る恐る聞き返す。

「ねー、つばさ♡」

「はい、サナさん♡」

サナとつばさは顔を合わせて笑いながら首を傾げた。

「わああ……」

「うっわ」

珠莉は、やっぱり推しアイドルが直接吐き出すスキャンダルに、あかりはそのバカップルぶりに引いて、声を漏らした。

「そうだ、これプレゼント~☆」

「え?」

思い出したように立ち上がったサナは、二枚の紙切れを珠莉の掌に押し付けた。珠莉が手を開くと、そこにあったのはサナのライブのチケットだ。

「え、これ……いいの? 今さっき、買って欲しいって言ったのに……」

サナはふん、と強く息を吐くと、二人に向かって語る。

「人がいっぱい来るのは本当だけど、サナのライブはうるさくないもんっ♪ サナはちゃんと音楽をしてるからうるさい音なんか絶対に出さないよ☆ コールやドラムの音が響くよーって人はいるかもだけど、耳栓しても聞こえるぐらいサナは全力で歌ってるから……法外なチケットで来るよりは、タダでもいいから楽しんで帰って欲しいな☆」

「サナ……」

珠莉は感動する。サナの音楽への熱意と、こんな金も出せないファンへもサービスするアイドル精神に……

「でもグッズは買ってねー☆ 売れ残っちゃうとサナ困るもん♡」

「…………」

感動しなかった。

「というわけで珠莉、お前はもう此処には来るなよ、帰れ」

ひとしきり寿司を片付けると、アメは珠莉に言い放った。きぃがテーブルを拭いていて、サナとつばさはゲームで遊んでいる。ルナはソファに寝転がってその様子を愛おしそうに眺めていた。

「えっ、も、もうす」

「認めると思うか?」

珠莉は今まで通り、なんとかゴネてみようと試みる。しかし成功するはずも無かった。何の技術も持たぬ珠莉の話は、もう見透かされている。

正直、これでエンジェライトと縁が切れるのは寂しかった。しかし、確かに約束は果たしたし、こうも睨まれてはもう居座れない。

それに、あかりはちゃんと帰ってきてくれて、そして見直してくれた。寂しいけど……寂しくはないだろう。

「思いません……あの、ごめいわ………ありがとうございました!」

珠莉は土下座し、全員に深く深く感謝した。

***

会社を出て少し歩くと、窓からサナが大きく手を降っていた。ライブには必ず行くつもりだ。手を振り返す。隣を見ると、あかりも小さく手を振っていることに気づく。これでサナの事も見直してくれればいいんだけどな。

サナが引っ込み、珠莉も歩き出す。やはり寂しくなってもう一度振り返ると、そこにはアメがいた。

アメは目が合ったのを確かめると、分かるかわからないかぐらいの距離から、サムズアップをこちらに差し出していた。

珠莉も勿論それを返す。差し出した指の先に、会社の姿はすっぽり隠れる。

アメが見てくれたかすら確認できなかったけれど……恐らく見てくれていただろう。

珠莉はもう一度だけ、誰も居ない窓に頭を深く下げた。

大事な、大事な、意味のない会社に、感謝を込めて。