あめさんき
神に罪を背負わされ、いつか『悪魔』と謳われた天使、「サナ」の真実が暴かれた後。天使たちは『アメジスト』を取り戻した。
そうして次の神に選ばれたアメは、神様になるまでの間にひとつの夢を造る。
これは、アメが神様になる前、そしてサナがお伽話になる前のもう一つの罪のお話。
***
「………きぃちゃん?」
ふと、浮上した意識の中で、きぃは懐かしい声を聞いて身を起こした。
もちろん眠っていた、そもそも眠りについたという記憶すらなかったが、何故か身体は横たわっていて、きぃはゆっくりと身体を持ち上げる。ゆったりと頭に付いて来る髪は、綺麗なブロンド。最後の記憶に残る黒のひとつも見当たらなかった。
眩しさに怯えながら目を開けると、そこには見覚えのある少女の姿があった。
「アメ……?」
それは間違いなく、きぃの知っている「アメ」だった。
アメは、サナとルナという二人の存在に分割される前の「天使」の姿、そしてサナとルナが亡くなり、「堕天使」として生まれ変わった2つの人格があった。
きぃが初めに出会ったのは堕天使のアメだ。その、堕天使のアメが、目の前で……ただ驚いた顔で、ぺたんと座り込んでいる。
「……ここは?」
きぃはうろたえて、言うつもりのなかった質問を一番に零す。彼女はもう神となり他と切り離された存在のはずだ、彼女がいる『此処』は『どこ』だろうか。
アメは困った顔でゆっくりと首を横に振る。知らない、分からないという意思表示だろう。本当に『なにもない』場所に、二人は存在していた。
まるで星のない宇宙空間。上も下もないような、ただ、浮かんでいるだけのような、とにかく、無だ。
きぃは、混乱する暇さえない程に状況が読めず、ただアメと向い合って座っていた。
ずっと心に秘めたままで自分さえ気づきもしなかったぐらいだが、彼女には前から好意を抱いていたのだから、どんな形でも再会が嬉しくないはずはない。ただ、あまりに突然すぎて、なにもかもが飲み込めなかった。思考がフリーズでもしてしまったのかと自分を疑う。
アメもどうやら同じ状況のようで、普段はお気楽ハイテンションな彼女にも今だけはその色がない。ふたりでぽかんとしていると、ぱちりぱちり、と催眠術から目を覚ますような手拍子が2、3度頭上で鳴り響いた。
「『アメ?』」
きぃは斜め上を振り返り、もう一度きぃは同じ名前を口にした。しかし、それは目の前の『アメ』に向けてではない。
二人の背後に、もう一人のアメが現れたのだ。それは、天使時代……神様に罪を被せられる前の天使のアメの姿。神様を信じない少女、『のえる』が死んで天使になった姿。
そして、きぃが取り戻した最後のアメ、神様に鳴るはずのアメの姿だった。
「ふむ、同じ名前が”3人”じゃ、やっぱややこしいな」
天使のアメは、そう意味ありげに呟いてから、わざとらしく思いついたようにぱちり、と指を鳴らす。
「私は、『神越え』」
「……は?」
何一つ把握できない頭できぃは現状を理解しようとする。しかし全く何も飲み込めずマヌケな疑問符が溢れるだけだった。
「……私の名前は『コエ』。神越えでコエ。アメは一番『アメ』が長かった、彼女の名前にしよう」
そう言ってコエはアメを指さした。アメは私? といったふうに自分を指差し、きぃと顔を呆然顔を向かい合わせる。
「そうしてもう一人……」
すっ、とコエが指さした先、アメが座っているさらに後ろにもう一つ同じ顔があった。アメと同じ背格好の同じ顔の少女。髪は少し薄い灰銀色っぽい色。黒のインナーに、オリーブ色のシャツ、黒のスパッツ、ホットパンツ。アメと同じ長さの髪は、後ろで一本にまとめてある。薄いパープルのバルーンワンピ一枚のアメとは、印象が真逆な……ボーイッシュなレイヤードの服装。ただその体つきや髪型からは、ほんの少しだけアメよりも女性的な印象も受け、きぃは不思議な感覚に陥った。
コエときぃの誘導に釣られアメが彼女に視線を合わせると、まるでその視線に気づいたかのように、彼女は顔を上げた。彼女と、アメの目線がばっちりと合う。ふたりはそのままフリーズ。きっと、先ほどのきぃと同じ心境なのだろう。
静かな、コエの説明が届く。
「彼女は……そうだな、オリーブ。橄欖。……『カン』。アメの……クローンだった存在」
『アメ』はあのとき亜展開で天使たちと戦うために、神や堕天使を襲う天使に抗っていた。その中で天使たちが人間と手を組みアメをモデルに作った、敵対用クローンがいた事をきぃは思い出す。あの日、実験施設に廃棄されていたアメのクローン。アメときぃがそれを見つけた時、クローンはすでに動くことなく捨てられていた。
彼女はそれを『モデル』とした新しいアメだとコエは告げる。不意にカンと呼ばれたクローンのアメは、不機嫌そうに眉を寄せて口を開いた。
「……橄欖ってオリーブじゃないだろ?」
少しやんちゃそうな口調と、アメより少し低い声色。少しだけ大人っぽい、と思ったきぃの印象は打ち砕かれる。少年のような印象にその一言だけで塗り替えられてしまった。
「そうだな、まあ……でも、偽のアメという意味合いで、似合う名前だと思って」
コエはどうやらこのネーミングに関して、文句を言わせないつもりでいるらしい。カンは代わりに何故かアメを睨み、拗ねたように言葉をを続けた。
「コイツにもそれっぽい名前を付けてやりゃあよかったのに、アホとかバカとか」
「なっ……なにおう!!」
「おう、やるか!?」
アメはその言葉に弾かれるように、カンに食って掛かる。カンはその喧嘩を買い、その姿はまるで子供のよう。なんとなく、先程までの大人しいアメに違和感を感じていたきぃは、その姿に場違いと思いながらも、賑やかさに気が緩んで微笑んだ。
次にきぃが目を覚ました時、それはマンションのとある一室だった。
ここはコエが創りあげた世界。人はそれを『現代』を呼んでいた。一般的な至って普通のマンションと郊外の住宅地。ご丁寧に、きぃ、コエ、アメ、カンの4人は、ここで気ままな共同生活を送っている、という設定までいつの間にか脳裏に焼き付いていた。
「……コエ、一体何をするつもりなの?」
「何、難しく考えなくていい。ちょっとした神様のお遊びだ」
あまりに唐突な始まりに、神様であるコエのしたい事が分からない。きぃは探りを何度か入れたが、コエは意味不明な言葉ではぐらかすばかり。ただの家族ごっこかとも思い始めたが、それはそれで悪くない。きぃは自然と、いつの間にかこの生活と受け入れて暮らしに慣れていった。
コエ……きぃの知る『アメ』にだって、何かを願う権利はある。あんなに酷い目に遭ってきたのだから、自分が神様になったのなら……何かしたい事、見たいものがあったのだろう。なによりアメとまた会えた事、そして共に過ごせる事はきぃもどこか胸の内で願っていたことだからだ。
そのうちに4人で遊びに行く事にも慣れ、いつの間にか素直じゃなかった自分も薄れていき、それは本当に幸せな日常そのものだった。
***
「あー、もう! いいからそれやめろってば!!」
「やーだ! 私が先に使ってたんだよ!!」
アメとカンは出会った瞬間から相変わらずで、今日はTVの争奪戦をしている。アメは恋愛ゲームを、カンは夕方から始まる少年漫画のアニメをかけ、取っ組み合いの喧嘩が始まっていた。お互いに同じ天使なのに、魔法やらなにやらという”ガチバトル”をしないのは、それでこの二人は決着がつかないからだ。
もちろんスペックが全く同じ二人は、普通の喧嘩でも決着がつかない。その隙を見てコエがTVのコンセントを引っこ抜いた。
「「あ゛ーーー!!!」」
「私のセーブーーーーーーー!!!!」
「僕のビデオ予約うううううう!!!!」
「うるさい! いいからアメはネギと人参買ってきて、カンは風呂掃除!!」
この家の家事はほとんどがコエが行っていて、小規模な世界改変もお手の物。なのに、神様としてどうかと思うほどには律儀におたまを握っていた。
アメは『私のミズホちゃんが……』といいつつも、やはり律儀に財布を握りしめ、歩いて近くのスーパーに。
カンも『今日が悪役との決着の日なのに……』といいつつ、やはり律儀に新しいスポンジを取り出した。
よくわからないが、独自の正義感を大事にするアメの事だ、何か彼女たちの中にルールがあるのだろう。
何の指示も出されなかったきぃは、ちまちまと申し訳程度にリビングテーブルの上を片付け、外されたコンセントを元に戻し、ビデオ予約はよくわからなかったので放置、ソファにちまっと座り、律儀なコエの夕飯を待っていた。
ちなみに今日はシチューで、ネギは使う所がなかった。勿論おいしかった。人参煮えてなかったけど。
それから数日の事。今日もアメとカンが喧嘩をしていた。それだけならいつものことだし、正直きぃにとってはもう慣れた事になりつつあった。しかし、今日は喧嘩のふとした瞬間、カンが飛び出していったきり戻ってこない。
アメは既にそんな事も忘れ、すでに遊びを再開してネットゲームに文句を言っている。
いつもなら自分もあまり気には止めないはずだが、普段部屋を飛び出すなんてことまでカンがするのは珍しい。そのせいかなんとなくカンのことが気になり、きぃは軽く探すつもりで外に出た。が、探すまでもなく家の向かいにある小さなビルの屋上でぼんやりと立ち尽くすカンの姿がすぐ見えて、ちょっとおかしくなる。きぃは思わずくすり、と笑うと、追いかけて行ってカンの隣に静かに座った。
カンはこちらに気づいたようだが、気まずいのかこっちは向かない。静かに近づくとカンが眺めていた景色がわかる。遠くから見える自分たちの部屋。……何の変哲もない一部屋だ。しばらく、無言の時間が続く。
「ねえ、オリジナルといがみ合うってどんな感じ……? 嫌、じゃない?」
きぃはふとカンへの疑問をぶつけてみる。ふと思い立ったそのままを話した。屋上の手すりに寄りかかりながら、カンと肩を並べた。きぃは元々サナのクローンだ。サナは滅多なことでは事を荒立てない、なんでも一人でなんとかする主義で、自己犠牲の強い人だった。思えばアメとカンのように喧嘩などしたことがない。サナは、サナが我慢して済むことなら何にでも耐えて育った人だったからだ。仮にまた再会出来たとして、滅多なことでは言い争いになんてならないだろう。
「……なんとなくそう思っただけなんだけど、考えてみたら嫌じゃないのかな……って」
もしも自分がサナとずうっと険悪だったら、きっと耐えられない。きぃはそう思った。聞くのも失礼な疑問なのかもしれない、と思わなくもなかったがそこは元クローン同士。ある意味2人にしか話せない内容だ。カンも嫌な顔をしている風ではない。しばらく考え込んでから口を開く。
「あんたがそう思うなら、きっとオリジナルも嫌だったんじゃないか?」
「……そうかな」
きぃは記憶の中にあるサナの姿を振り返る。サナは、彼女は喧嘩どころか、きぃと関わるのをの怖がっているようだった。無視とまではいかないけれど触発を避けていたのは……嫌だったのか、必要がなかっただけなのか。そもそも私は完璧にクローンじゃなくて、オリジナルを殺すために生まれたのも事実だ。余計な戦いを避けてくれただけだったのか。
まあ、言ってしまえばアメと戦う為に生まれたカンも同じ立場なんだけど……。
「アメはどっちかっていうと、ボクとの喧嘩は娯楽みたいなもんなんじゃないか? もう怒ってないだろ」
「あ……うん、ゲームしてた」
きぃは苦笑しながら、さっきまでのアメの姿を思い出す。カンは部屋を飛び出してしまうほど怒っていても、アメの怒りは大体その場限りだ。なんならアメとカンの利害が一致する場面では、2人は当人同士であるのが当たり前だという程協調性を見せることだってある。決して常に仲が悪い訳では無い。
「まぁ、殺してやる! とかじゃないからさ」
「そ、そういう事言いたいんじゃなくて……」
きぃは慌てて手をぶんぶんと振る。それは2人を見れば明らかで、恐らく一種のじゃれ合いもそこにあるのだろう。ただ、その喧嘩がアメにとっては娯楽でも、カンにとっては少し違う……現状を見る限り、きぃはどうしてもそう思ってしまう。思わず眉をひそめてしまった。カンはその姿に目もくれず、鬱々とした表情で体育座りした膝の上に顎をのせて、ため息を吐いた。
「ボクらは偽物本物ってこんな関係なんだろうな、みたいな事思ってる。信念みたいな。なんだろ、多分ゲームかなんかの影響? 漫画とかでよくあるじゃん、どっちが自分だ! みたいな……」
「は、はぁ……」
きぃはどちらかというと少女漫画を好む。少なくともきぃが見てきた漫画にはそんな展開はなかったので、いまいちイメージは沸かない。アイデンティティの話なのだろうか、少しサナと自分の間で思考を巡らせてみたが、やはりそれを競う気は見当たらなかった。そういう意味では、きぃとカンは同じ立場にあっても思う所は違うらしい。
「たださ……こーゆー事いつまでやってんのかな、と思ったらちょっと虚しくなってさ……アメはどう思ってるのかな、僕のこと…」
「……いつまで、って?」
完全に顔を伏せてしまったカンの背に、きぃはそっと手のひらを載せた。アメの小柄な身体をそのまま受け継いだ彼女だが、背負っているものが重い分少しだけ広く感じる。静かな呼吸で上下した背を撫でた。
「この間コエに見せられた夢あるだろ、あれ、仲間割れみたいな終わり方したじゃん」
「あ、うん……そうだね……」
コエの夢というのは、コエが暇つぶしにアメ達に見せた幻影魔法。人間で言う妄想の具現化だった。アメとカンが漫画の制服談義をしていたのを聞いたコエが、学生生活を夢見て創りだした話だったのだが……順調だった学生生活が仲違いのまま終わってしまう、という……後味の悪い話。
「アメとマジ喧嘩したら、どうなっちゃうんだろ、って思っただけだよ……この話アメには言うなよ!!」
そう叫ぶと、カンは顔をあげて照れ隠しのように仕方なく笑った。その顔に涙があったかどうかは、その一瞬できぃは判断できなかった。そのままカンは身軽に屋上のひょいと手すりを軽く飛び越える。咄嗟なその行動にうっかりきぃは慌てて飛び越えた方向へと乗り出して追う。カンの背はすい、とまっすぐ、正面の家に帰る様子が見えた。
夕日に照らされる街に、当然ながらアメと同じ桃色の天使の羽が透ける。
「カアアアアアアアン! お願いしといたお使いほっぽってどこいってたぁあぁああぁ、ああん???!!」
「わぁああぁああぁ!?」
同時に家から聞こえるコエの叫び。それに驚くカンの叫び。
「平和だなぁ……」
きぃは思わずその光景に苦笑してしまう。
遠くに見える夕日が紫色に空を染めて。
***
その日、リビングから聞こえた大声にきぃは慌てて自室を飛び出した。見てみれば、なんだ、いつものアメとカンの喧嘩だ。しかし、よく見れば今日はその様子が違う。カンと2人で話したあの日以降、2人は少しずつ喧嘩の頻度を下げていたように見えた。が、今日のそれは、前までの取っ組み合いのような喧嘩ではない。ふたりとも翼を広げ、いつにない本気と魔法が飛び交い、部屋は滅茶苦茶。アメもいつものようなじゃれ合いではなく、本気で怒っているようだ。カンに限っては普段の無邪気さなど何処にもなく、狂うように泣き叫んでいる。
「ちょっと、止めなさいよ、ふたりとも!!」
きぃは慌てて二人を止めにかかろうとするが、コエがその腕をがっしりと掴んで止めた。抱きつくように止められたきぃは、少し抵抗したが、コエの顔をみてすぐ抵抗をやめる。
「コエ、」
「やめろ、きぃ。……ふたりとも周りが見えていない。……今は落ち着くの待とう」
静かに首を振るコエも少しだけ泣きそうな表情をしていて、その異様さできぃの胸の内は余計にざわつく。この世界を操る神様のコエですら、まるで予想外の顔をしていれば無理もない。怒りに狂うアメの表情も、カンの叫びも……初めての事だった。
きぃはその光景に、『アメ』の事は、自分が一番知っているはずだと思っていたのが裏返される音がした。それもそのはずだろう。神様が作った自分自身と、その自分を真似た影。勝てる訳がない。どんなにアメを想ってもその声は届きすらしない現状を、目の当たりにする他出来ることはなかった。
アメが無我夢中で振り下ろした腕がカンの頬にぶつかる。それをやり返すようにカンが繰り出した拳が、アメの頬にもぶつかった。普段なら同一人物とあって互角な二人の力差。
……それが、今日は違って。
「アメ!!」
思わずきぃは叫びを上げてしまう。アメの身体が床に強く叩きつけられた。一瞬遅れて、その頬に血が滲む。その場の空気が、凍りつくような静けさがその後にはあった。狼狽えるのは、そのつもりがなくともアメを傷つけてしまったカン本人の戸惑い。
「うあっ……あ、あっ……」
カンの言葉にならない言葉だけが、時間を震わせる。思わず駈け出して逃げていってしまうカンを、誰も追えないままでいた。
「……アメ、大丈夫?」
「………。」
アメもまさかカンに倒されるとは思っておらず、滲む血を押さえながら、呆然を身体を起こした。その表情にはさっきまでの怒りは感じない。戸惑いだけがこの部屋に満ちていた。
「……きぃ、ごめん。カンを……探してきてくれ……」
「うっ、うん、わかった」
コエがアメの頬を素早くガーゼで止血しながら、きぃはカンを追うために家を飛び出す。すでに駈け出したカンの姿は殆ど捉えられなかったが、辛うじてその影を見失う前に姿を確認できた。道を曲がっていく小柄な背。その方角に思い当たるもの。
「あっちは……公園、かな?」
きぃも即座にその背を追う。近所の小さな公園。ブランコが二対、ベンチと砂場だけの本当に名も無いような公園。すっかりコエが創り上げたこの世界の街並みも馴染んできていることに気づいた。
***
どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう!
勢いとショックに任せて思わず家を飛び出してしまった。こんな事は前にもあったな、あの時アメはすぐ気にしていないふりをしていた。今日もそうなってくれるだろうか。いや、でも怪我をさせてしまった。その瞬間の表情も脳裏に焼き付いて離れない。残してしまった。今までたくさんしてきた喧嘩のなかで、一度もない……喧嘩の跡。
どうしよう………。
カンの頭の中には、罪悪感と混乱しかなかった。何も考えず駈け出し、気づけば辿り着いたのは近所の公園。いつだか、サナと会った近所の、なんの変哲もないただの公園だった。
息が切れたのと同時に、夕方の誰もいない公園の地面に崩れ落ちる。遅れて、涙が溢れてきてしょうがなかった。アメに怪我をさせた。アメとの喧嘩に『勝ってしまった』。2人で守っていたはずの均衡を、崩したくなかったはずの自分が自ら崩してしまった。涙を拭いながら後悔に唇を噛む。
アメと出会い、目が合ったあの瞬間、アメから流れ込んできた『ずっと対等で、隣にいれるライバルでいる』信念の崩落。と、同時に叩きつけられる現実。アメのクローンだったはずのカンがアメを越えてしまった瞬間。
気づきたくなかった。
自分だけ、『育っている』事に。
変わったのは、アメの方だと思い込むように思い込んでいた。
アメが、誰にも向き合わず自分をクローン以上の何か、ひとつの個だと思ってくれない事、適当にあしらって相手にしてくれていなかった事……それの全てが寂しかった。結局自分は棄てられた偽物でしかなかった事。彼女の中の自分が偽物のままである事。嫌いだと口ではいいながら、誰よりもアメの隣にいたかった自分……敵対が好意になっていた事。
気づきたくなかった!
…………『変わった』のは自分のほうだと。
「うっ……うわっ、あぁぁああああぁぁ………」
もう、どうしていいか、分からない。カンには泣き叫ぶ事しか出来なかった。喧嘩の理由は、カンの髪の長さの話から始まる。カンはアメと同じ髪の長さを持っているはずだった。しかし、ふと通りすがりに、カンの髪が『伸びた』というアメ。そこから胸の大きさ、背、手……全てを比べ、全てにおいて若干だけカンが勝っていた。
なんだかそれが苦しくなって、やめて欲しい。と言ったのにアメはやめず、いつの間にか力比べが喧嘩に発展していった。それがやがて喧嘩になり、戦いになり、アメに引き裂かれていくようで、怖くて、カンは泣き叫んだ。でも、アメはやめてくれなかった。
いつだかに、サナに言われた事を思い出す。
『”貴女は貴女、彼女は彼女という認識をしなきゃいけないかもしれない”』
その言葉が、カンの心を強く貫いて、引きちぎり、すり潰されるような、激しい痛みになる。重みに耐えきれず蹲る。
「……カン? 大丈夫?」
苦しさに溺れてしまいそうになる中、ふと呼ばれて顔を上げれば、その言葉を発した張本人……サナがそこにいた。
「……そう、ごめんなさいね、重荷になる言葉を言ってしまったわ……」
カンはサナに、言葉が続く限りの説明をした。後はもう嗚咽になって、言葉が続かなかった。
混乱を続けるカンの肩を抱くように、サナはカンを抱きしめる。
「……人間は非力ね、ごめんなさい……」
そのまま、サナの悲痛な言葉が続いた。今のサナは唯の18歳の少女。今ここでカンを抱きしめてあげる事以外、できることはなかった。
***
一方、きぃは必死でカンの事を追いかけ、ようやく公園に辿り着いた。カンの姿を探して公園を見渡す。すると、誰もいないがらんとした夕刻の公園のベンチに2つの人影があった。一瞬、先客? とその影を不思議がったきぃだが、カンを放っておけない気持ちで数歩近づいて……思わずその足はぴたりと止まった。
その視線の先、明らかな落胆の表情で落ち込むカンに寄り添うのは、あれだけ尽くそうと努力を重ね、それでも最終的に届かないまま死に別れ、ついこの間カンと共にその存在に想いを馳せたばかりの『オリジナル』なのだから。
「……サナ? どうして……ここに……?」
「…………」
その声に、カンに寄り添っていたサナもきぃに気づき、驚きに目を見開く。ただ、その表情はなぜここに? という疑問ではなく、しまった、という苦痛混じりの失態の表情だった。次の瞬間にはふい、と目を逸らし、サナはカンの顔を覗き込む。
「少しは落ち着いた? カンちゃん」
サナの隣で涙を拭い拭いのカンは、小さく頷いてみせた。サナが渡したのであろうハンカチを痛々しく握りしめている。その距離感、名の呼び方、気の使い方からして彼女らが初対面でないことは一目瞭然で。いつからだったのか、何故カンは黙っていたのか、サナも何故無視をするような真似をするのか……きぃは複雑な感情で二人を見ていることしか出来ない。
「……サナっ、」
「……今は、カンの事が最優先よ」
どうやら探られたくなかったらしいサナは、他人ごとのようにその言葉を遮る。この人は、いつもそうだ。他人が自分に踏み込むのを嫌う。例えそれが自分……いや、自分の鏡だからこそ。ひとつもこちらを取り合ってなんかくれない。オリジナルの為に必死になることすら叶わない。今だけは言い争いになったアメとカンを羨ましく想ってしまった。
そうやって睨み合っていると、さらにきぃの後をアメとコエが追ってきた。サナはすっと立ち上がり、その姿を不安そうに目線で追ったカンの頭をぽん、と叩く。
「……お揃いのようね」
サナは挑むような声を上げる。どうやらカンを守るつもりでいるらしい。何の戦力もないただの少女のはずのサナは、まるで騎士のように立ちはだかっていた。
「……サナ、お前が一番部外者だと思うが? 悪いがお前に聞かせるような話はない。席を外してくれ」
コエもまた厳しい声色だった。サナはそれを睨むように吐き捨てる。
「あら、私は彼女の友達よ。勿論、納得が行けば席を外すわ。さぁ、何が起きたのか説明して頂戴。……あいにく神様に歯向かうのだけは得意分野だけど?」
完全にコエとサナの間にも一触触発が生まれそうな空気が漂い、きぃは意味が分からないなりに狼狽える事しか出来なかった。何故、こんなにもサナは怒っているのだろう……? その疑問はすぐに、その言葉に勢いを無くしたコエの様子で汲み取れた。
「……そう、だな……『誰も泣かせない』と言ったのは私……約束を破った事は、謝る」
コエはその姿に目を閉じ、すぐに強く頭を下げた。『誰も泣かせない』。コエが神様になる時、自分自身に課した約束だった。カンが酷く落ち込む様子を見て、サナはそれを破ったと認識したのだろう。頭を下げるコエの姿を見て、一度は矛を収めたようだ。サナは静かにベンチに座り直すと、カンの肩に腕を回した。カンは震えたまま動かない。一番後ろで立ったまま、黙ったまま気まずそうにしているアメを、静かに見据えたままだ。
「大体の話は聞いたし、把握した。……初めに聞くわ、コエ……貴女がアメとカン、きぃ、そして人間の私達にしたかった目的は、何?」
サナのその言葉に、きぃも、そしてアメとカンも思わず肩をビクつかせる。きぃも何度か聞いてみたものの、結局明確な答えを聞かされていない質問にサナが切り込んだ。コエが今、この『現代』と呼ばれる世界を創った理由。ここにアメやカン、きぃ、そして何より人間としてサナが存在する理由。その目的。……この場で、そしてサナ本人に聞かれて、コエにもう逃げ場はない。
コエはスカートを握りしめて唇を噛む。その表情は苦く、とても神よりも強い天使の顔とは思えなかった。
「……サナ達をやり直し、幸せで人並みな生活を与える事。そして、『アメ』と過ごすことで、神様になる前に私自身の意思を見直す事。単純に言えば、償い、お詫びのつもりだった……」
「それなら、こんなやり方をしなくても良かったじゃない……貴女なら過去だって未来だって再現できるはず。新しく造る必要はなかったはずよ」
サナは静かに、そう訴えた。コエは悩ましげな顔をして、ぽつぽつ答えていく。
「そうすれば、サナが抗い、きぃが変え、つばさが残した……おとぎ話にした悪魔の伝説が元に戻ってしまう。なかった事にするのは簡単かもしれないが、サナ、お前本人がそれを望んでないことも知っている」
サナはその言葉に思わず俯く。やはり、と言うべきか、コエが一番に救いたいのはサナだ。その使命は恐らく、コエにとって大きな重荷になっている事を悟ったのだろう。
「私は……これ以上誰も傷つけたくない、それが私の正義のはずだった。だけど、それが本当に正しいかどうか、自分自身の肌で感じたかった。だから、私は皆のそばで過ごすことを選んだはずだった……誰も、傷付ない方法で。でも、それは、身勝手だったのかもしれないな……」
その場にいた誰もが、泣きそうな表情で時が過ぎ去るのを待っていた。サナはカンを強く抱き寄せ、そっと口を開く。
「……なんとか、できないの? カンちゃんの時間の流れ……」
サナの言葉は空中に溶けるような頼りない音になって滲んでいく。皆が息を呑む数秒が過ぎ、急なコエの叫びが空気を震わせた。
「したよ!!!! 何度も!! ……なん、ども……っ」
「……コエ、それって!」
コエの苦痛そうな表情と、衝撃の告白に、その場の全員の表情は更に不安の色を深める。先ほどまで沈黙していたカンが、その叫びに急に顔を上げた。
「……カンの成長を止めることも、アメを成長させることも、世界をこことは違う形に造り直したこともある。だけど無理だった。勿論、敵である『アメのクローン』そのままを再現するにはいかない。今のカンは『天使』。この世界の時間と共に流れる存在。一方のアメはもう『死んだ』存在。神になり、切り離され、この時間に必要ない存在……どちらかを動かなくでもしない限り、ずれていくに決まってた……」
コエの言葉の勢いはどんどんと失速し、最後には消え入りそうな小さなものに変わっていく。それでも、少しでも長くアメとカンの存在をどうにかしたかった。その気持ちで悪戦苦闘した神様の、人知れぬ努力の事実が静かに暴かれていく。
「二人が……っ、対等な存在で居たいと思うのは……知っていたんだ……」
サナが顔を背けた。コエも俯いた。
カンはただ、驚いたように震えていた。
アメの表情は見えない。
きぃは動けなかった。いつも傍観して、飄々としていたコエの背負うものが重く、永いものだと知らなかった。その重みを思うと、こちらまで何かずしんと重いものを抱えているような気持ちになってしまう。
「それに、もう時間切れだ……。私は神として今在る世界、在った時代とは切り離される……今の私はこのままこの世界と共にあるが……また世界を造り直すような時間はもう……」
コエが創りだした『アメ達』はコエが神様になるまでの間に造られた存在だ。そのタイムリミットはすぐそこ。何度もアメとコエの関係性を修復出来る程、もうコエには時間がなかった。
「……そっか……」
カンの虚しい言葉が溶けていく。
「……私は、正直自分を甘く見ていた。神の力を越える、それだけでは前の神の残したものを壊せない……。そのせいで、誰も傷つけないでいようとしたアメ……それに寄り添おうとしていたカンが傷ついてしまった事は謝る、ごめんなさい」
コエは再度、深く頭を下げた。
「……じゃあ、コエの隔離期間が終わったら、どうなるんだ?」
「……この世界は変わらない……。だが、『私たち』は天使である以上、本来この世界に招かれざる客だ。この世界の流れとは違う時間を生きる。が、サナたちはもう人間だ。私達の時の流れとは無関係。……カンは、どうしたい…?」
静かなカンの疑問に、コエは素直な回答を告げる。カンはその言葉に眉を寄せ、一呼吸置いて目を閉じた。そして、再度目を開くと、静かに立ち上がる。
「……僕、人間になる」
「……カン!!」
その決意の言葉に、声を上げたのはアメだった。
「……どうせ、もう戻れないなら……。折角生き返れたんだから妥協も必要だろ?」
「……あんたは本当のバカだ、ばか、あほ……それ、だって……先に」
アメはカンの胸ぐらを掴み、稚拙な罵倒を口にした。しかし、その勢いも一瞬……カンに抱きつき、その腕の中に顔を埋める。小さな嗚咽を漏らすアメの頭を、カンはそっと撫でた。
「……例えアンタより先に死んでもいい。本来は僕がアンタを殺す側だった、もしくは殺される側だった……それが覆っただけでも十分、コエは『神様』だったよ」
カンは髪をくくっていた髪飾りを解く。さっきまで喧嘩になるほどに、長くなったと言われた髪が解けた。しかし、それはやはりアメそっくりの姿。
「……それに、姉妹、ってのも悪くはないだろ?」
「……馬鹿……」
カンはそのまま自分の髪飾りをアメの髪に通して、髪をくくって見せる。泣き笑いのアメの姿もまた、やはりカンにそっくりだった。その笑顔が回答になったのだろう。カンは静かに頷く。
「コエ、お願いがあるんだ」
そのまま、2人は揃ってコエに向き合う。カンが静かに口を開いた。その目にはもう、焦りも憤りも不安も怒りも無い。この先の2人が、個と個である事への決意だった。
「神様になったら……『僕』の事は忘れてくれ」
「……それは、救おうとしなくていい、という意味か?」
「さっきも言ったろ、もう十分だ」
カンは静かな困惑を示すコエに、小さく頷いてその迷いを否定する。目の前の神に助けを求めない、ある意味で残酷な優しさがそこにはあった。きぃもその光景に思わず息を呑む。
それはある意味で、カンがクローンであるという『存在』そのものを諦めた光景でもあった。
未だ苦い顔をするコエをよそに、カンは隣りにいるアメの頬を撫でる。さっき付けてしまった傷。魔法で治癒したのだろう。カンの指が離れる頃にはその傷も消え去っていた。アメは思わずその跡を探して頬に触れる。勿論、綺麗に治った頬にもう喧嘩の跡は残っていない。
「……最後に魔法を使ったのがアンタで良かった、楽しかったよ、マジの喧嘩」
タイムリミットが迫る中、カンはコエの手も取る。そのまま、コエの手を自分の胸に押し付けて、目を閉じた。
「コエ、頼むよ」
「…………分かった、それが願いなら……神として叶える義務がある」
そうして、この世界で最後の魔法が掛けられる。
カンが人間になり、アメとは別の時間を生きるための魔法が。
* * *
天界の革命の幕開けに、一番世界を賑わせた項目がある。
「能力を持ったクローンを造らない」。
優しい神様の、たったひとつの厳しい決め事だった。
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