mery 0 -命日の話-

 風が冷たくなってくると憂鬱になる。

 近所の家の窓の内側から、壁に、塀に、イルミネーションが増えてくると憂鬱になる。

 雪がちらついて。

 ベルの音が聞こえて。

 赤色と緑色と金色のリボンが増えて。

 四角い箱が積まれていって。

 馬鹿みたいに浮かれた男女が増えてきて。

 その姿に腹を立てる独り者が増えてきて。

 ああ、憂鬱になる。

 見慣れた教会の入り口に、古びた偽物の木が立つ。やせ細った男がイルミネーションライトを巻きつけたながら、『今年のプレゼントは何が良いんだ』とかすれた声で私に聞いた。

「……私が寝ている間に、私ごとこの教会が燃える事」

「のえる!」

「嘘。要らない」

 私はあからさまに不機嫌そうな顔をしながら、その木の横にある重々しい教会のドアを引く。煩わしいステンドグラスや気持ち悪いぐらい空気の重たい懺悔室を目にするのは不愉快だったが、リビング直結のドアは近隣住民に燃やされて張り付いて機能しない。

「のえる! 教会と自分を侮辱するのは許されない事だ、反省するんだぞ!」

 訂正する。憂鬱になるし腹が立つ。

 クリスマスに誕生したから「のえる」。

 なんとまあ単純な理由で、こんなキラキラネームをつけられたものだと感心する。

 あのくたびれた男から出た言葉でないことは確かだから、行方不明になった母親のセンスだとは思う。まあ、産んだ子供とかつて愛した男を放置して姿を消すような人間だ、無責任なセンスであることに別に驚きはしない。

「ね~ぇ、『のろま』もそう思うでしょ?」

 気づいたら名前の由来を調べるとかいうクソな授業は終わっていたらしい。

 暇つぶしにページを引き抜かれて物語の欠如した本を読んでいたので気づかなかった。本から顔をあげると、窓際にたむろしている同級生数人がにやにやした笑みでこちらを見ている。

「……聞いてなかったんだけど?」

 態度でわかるだろ。と意味を含めて答えると、何がおかしいのかクスクスと数人が声を漏らした。

「あんたの父ちゃんはあんなによく喋るのに子供のあんたは耳が聞こえないのー? ああ、そっか、聞こえないからあのボロでインチキな教会に住めてるのか~」

 また数人笑う。バカバカしくて付き合ってられない。

 おもむろに席を立ち上がろうとすれば、足を引っ掛けられた。教室の冷たい床に座り込む。

「ね~、のろまちゃん、あの父親もろとも早く消えてほしいんだけど。いつ引っ越すのー?」

「……そのよく喋る人に聞いて」

 知らない。少なくとも私は引っ越す気などさらさらない。その前に死ぬんじゃないかな。あの男が『ひとりになった時』、どう判断するかなんて知ったことじゃないので、返事も放棄する。

 担任は教室の隅でテストの丸つけをしている。目線だけで「お前がそんなんだからやっかまれるんだぞ」と訴えているが、その視線も放棄した。

 無気力、無配慮、無遠慮。人は私をそう罵る。

 私だって最初のうちは抵抗した。蹴り飛ばされれば病院にも行ったし、バカと言われれば勉強もしたし、友達や彼氏が行方不明になれば教師にも校長にも警察にも相談したし、性格が悪いと言われれば、直すつもりでそういう病院にも行った。

 でも、答えは決まって同じだった。

 私が相手にちゃんと接したら起こらない事だった、とか、相手にも訳がある、とか。

 そして、父親の問題だから、私にはどうしようもない。とか。

 その言葉を聞きまくって、私はついに諦めた。

 まだまだ探せばやるべきことはいっぱいあるんだろうけど、もうそんな気力を残してはいなかった。というより、気力の無いフリをすることで、何か……願いみたいなものが届く気がしていたのだ。

 ……でも、それもやがて、本物の諦めに変わっていった。

 願っても願っても、願いを受け止めてくれるような神様なんていないし、私はきっと助からない。

 ……諦めと言うには割り切りが足りないけれど、確かにこれは諦めだった。

 もしくは、立ち止まって考える事をやめただけの怠慢かもしれないけれど……。

 私はそれを「諦めた」という名前で呼んでいた。

 そんなわけで『神様を信じない教会の子』『怠慢な不良』として、見られるようになった私は誰からも手を差し伸べられない、手も差し出さない存在になっていた。

 ただ、学校に通って教会に帰って、同級生や親のくだらない話に腹を立ててそれで終わり。

 死んでるのと何も変わらない。心の何処かでそう感じていたが、あと一歩だけ……実際に死ぬには足りなかった。私は、日々を淡々と消化するフリをして常にそのきっかけだけを密かに探していた。

 いつか勝手に死ぬ、大人になる前に死んでやる、と漠然と考えて、死ぬチャンスだけを探して過ごしていた。

「のえる、本当に今年も何も要らないんだな?」

 朝食の前で父親がそう呟いた。私は一度だけ聞こえないふりをしたが、もう一度同じトーンで聞かれたので乱暴に頷く。父親はその仕草にあからさまに嫌な顔を見せた。

「折角クリスマスと誕生日が重なっているんだ、たまには盛大に誕生を祝うべきだと思……」

「別に生まれてきたくて生まれたわけじゃないし」

「またそういう事を……よくないぞ、折角神がくれた命を粗末にするな」

「なんで? どう思おうと私の命じゃん、私の勝手でしょ!!」

「のえる!」

 その思想は、いつも私の口をついて出た。

 父親は一度でもそう言えば良くないことだと、私を叱る。

 誰が私をそうさせたと思っているの?

 私はいつもそう言って父親を責めた。しかし父親にはまるで刺さらない。

 どうせ反抗期だから、とでも思っているのだろうか。私の悩みにまるで、まるで気付かない……鈍感な親。

 朝食は口にせず玄関に飛び出すと、また背後からヒステリックな叫び声がした。

 お前がそんな感情的になるせいで、周りの人が引いているのが解らないのだろうか?

 愚かだ、本当に愚かな父親だと思う。

 ざくざくと足を早めて教会から外に出れば、その叫び声を聞いた近所の人がそそくさと教会の前から去っていく。遠くから同級生が指を指して笑っている声も確かに耳に届いた。

 こんなに遠くから噂される声が聞こえても、父の言う神様とやらに私の願いは届かない……。

 ああ馬鹿らしい、馬鹿らしい!!

 心の底ではこんなにも沸騰しそうな怒りを覚えているのに、学校に向かううちに足取りは酷く重くなっていく。よろよろと歩き始める私の姿を、またのろま、と誰かが口にする。

 もう顔を上げる気力も残っていなくて、確認すらできない。誰が言ったのかすらもわからなかった。確認したらまた何かを言われる気がして、気付かないふり、無視するふりをして目を逸らすことが……癖になっていたのかもしれない。

「っ、!」

 誰かに蹴飛ばされたのか、急に激しい痛みと共に地面に叩きつけられる。

 くすくすとまた笑い声。

 気づけば膝を擦りむいているようだった。

 制服のスカートも強く擦って、繊維が飛び出ている。

 めんどくさくなって手入れをしなくなった制服は、元から綺麗じゃなかったけれど……。明確に使い物にならなくなった途端、急にみすぼらしくなる。

 なんだか酷く惨めになって、私の中の何かがぷつん、と、音を立てて切れた感覚がした。

 そして、何かが崩れ落ちるような気持ち。

「うあああああ゛!!!」

 気がつけば、背後に立っていた同級生の胸ぐらを掴んで殴っていた。

 そいつが私を蹴ったかがどうかなんて関係なかった。

「うわっ!? なんだ!?」

「っ、何するんだよこの汚物っ!」

「せんせーい!! 『のろま』が人殴ってるー!!」

 数人がその騒ぎに加勢して私を蹴り、殴り。その騒ぎに便乗して先生を呼びに行くもの、私を最低と罵るもの、黙って見ないふりをするもの……その全てが腹立たしく、愚かに見えた。

「何よ、何よ、何よっ!!! 皆、みんな……何も知らないくせに、バカのくせに偉そうに!! 何も知らないくせに!!! バカにしやがって!!」

 私は駆けつけてきた先生と、学校の警備員に取り押さえられるまで、自分でもよくわからないことを叫びながら、来るもの全てを攻撃した。とはいえ、しばらくまともに食べていない、部活も何もしていない子供で女の私が勝てる訳はなく、もちろん自分はボロボロだったし、相手に歯型のひとつもつけられる訳はなかったけれど、気持ちだけは何もかもを壊したかったし、壊しているつもりだった。

 ……本当はわかっている。何より、壊れているのは私の方だ。

「のえるさん、いくら誂われたからと言って、手を出してはいけないんですよ」

 校長がおどおどとしながらも、義務だからと勇気を振り絞って私を叱っている姿に笑えてくる。本当に笑える気力はなかったけれど、内心笑い狂いたい気持ちでいっぱいになった。

 とはいえ、実際の私は糸が切れた人形のように校長室のソファに手足を投げ出している。

 真後ろには警備員が立ったまま、まるで犯罪者の姿を見ているような表情で立っていた。

「先に手、っていうか足を出したっぽいのは皆ですけど」

「他の生徒は誰もやっていないと言っています」

「……見てたくせに」

 やってないもなにも、喧嘩しているところを見ただろう。

 あんたも見たんじゃないの、と警備員を睨んでみても、彼は一言も言葉を発しなかった。

「……もう、いいです」

「ちょっ………」

 私は深い溜め息を吐いて立ち上がった。まだ歩くには身体が痛かったけど、むしろそれがなんだか嬉しかった。授業中だとか、踏み潰された荷物が戻ってきてないだとか、もう知らない。学校を抜け出す私を止めようとした校長の肩を、警備員が首を振って止めていた。

 私はなにもかもに投げやりになって、そのまま見せつけるように自宅に帰った。靴すら履いていない、血だらけ土だらけ、ボロボロの学生が昼間からふらふら歩いている姿は、自分が想像しているよりかなり滑稽だろう、なんだかおかしくなってくる。

 そうして人生最大のお荷物でしかないボロ教会に帰ると、そのドアはきっちり閉じられ、鍵もかかっていた。

 普段は日中、信者なんか来なくなってもがっぱり開いてる防犯意識はクソほども無い教会なのに……おまけにカーテンまできっちり閉じられ、中の様子は全くわからない。

「……?」

 微かに中から話し声がすることに気がついた。ドアに耳をつけてみると、父親らしき声ともうひとり、男の声がした。聞いたことのない声だ。なんだか心臓がざわっ、とする。思わずドアから身を引いた。

「なんだ、ろ、この……嫌な予感……?」

 今更なんだけれど、私は霊感とか第六感とかが生まれつき強いタイプだった。第六感なんて非科学的なもの、信じたくはなかったのだが……あまりによくある経験すぎて、自分の中に勝手に出来上がっていた確信だった。昔、まだ何も知らなかった頃の私はよく父親にそんな類の話を聞いては喜んでいたのが確信のきっかけだったと思う。

 この世の裏側の奥底には、悪魔や天使がいて、死者の魂を管理しているのだと。天使は魂をあの世に連れていき、悪魔はその魂を裁く。良いことをした魂は天国で天使に、悪いことをした魂は地獄で裁かれ、枷を背負う。

 今考えるとバカバカしいのに、何故かとても信憑性のある話をして貰っていた。幼い私は、時折感じるこの違和感を『天使の気配』と思い込んでいた時期もある。そしてこの話を思い出す度に、私は誰か……遠くにある大きな気配を感じていた。古風に言うなら「お天道様が見ている」ような、罪悪感みたいな、常に何かが見守っうているような、掴みどころのない感覚。

 まるで、世界の上から神様に監視されているような威圧感…。

「……まさかね」

 今日でなにもかも壊れて崩れ落ちた私に、罪悪感など存在しないようにも思えている今、私はその感覚を信じることはなかった。やけくそが過ぎて恐怖感も何も無い。この勢いで今日にもこの街を飛び出てしまいたい私は、教会の裏に回って焼き付いたドアを蹴っ飛ばす。

「くそっ!!」

 蹴り殴られて痛めた足の痛みで力が入らなかった。それでも勢いに任せて何度か蹴り飛ばすと、誰かがまたひそひそと笑っているのが聞こえて振り返る。

「ちっ」

 あからさまな舌打ちを響かせると、家の影から見ていた近所のおばさん二人が去っていくのが見えた。

「ドアを焼いたのはどっちだ、よ……っ!」

 ばたん、意外と情けない音でドアが開いた。蝶番の一つが飛んできたが、それを蹴飛ばして道に転がして家に入る。誰か躓け、くそっ。

 自室から『いつか家出してやる』と思ってまとめていた荷物を引っ張り出した。簡単に詰めていた身の回りのものを引っ掻き回して確認する。

「……いいや、もう何もいらない」

 逃走中に足がつかないように、と思って用意した変装用の着替えや、身だしなみの品を放り投げて、お金の入った財布だけ掴んで鞄を放り投げた。この中には、何の仕事だったのか解らないけれど、母親が昔仕事で使っていた名刺が入っている。果たしてまだこの名前で、この近くに住んでいるかどうかすらわからないけれど、行く先を突き止めて復讐のひとつも出来たら……この世に未練はない気がしたのだった。

 そうして教会の方に足を運んだ。まだぼそぼそと、男二人が喋っている声がする。

「……て、用意は……か?」

 よく聞き取れないが、何かをする予定を立てているようだ。

 父親はばっちりですよ、とかしこまった声で喋っている。

 そのトーンは、いつものくたびれた感じはない。

「……っ、なんなの……これ……」

 その気配を感じると何故か強い寒気のようなものを感じて、急に身体が震え上がった。

「っ、は……っ……」

 急な吐き気に襲われて、思わず口を抑える。それでも静かに、感づかれないように息を押し殺して近づいていく。近づけば近づくほど、嫌な予感は濃くなっていった。

 まるで、この世のものじゃない異物に触れているような、気持ち悪さ。まるで現実に起きている会話とは思えない、異質な言葉が耳にさわる。

「そうだな、生贄には……動物よりも人が……」

 一歩進むと、耳を疑うような言葉が飛び込んできた。『生贄』? ついにあの父親に、『頭がおかしい友達』が出来たのだろうか? とても常識的な会話をしているようには思えない。

「地下にあの女の生贄が保存してありますよ……」

 はい? 地下??

 この教会に地下なんてあったっけ……?

 この会話の何も知らないのに、なぜだか不穏なのが分かってしまう。なんだろう、この感じ。認めたくない第六感が働く。嫌だ、嫌だ……心はそう言っているのに、足は止まらない。

「人が入らないようにドアまで貼り付けて……数年守り抜いた……妻の身体がね……」

 私は手の中にある財布を握りしめた。その中の名刺が潰れる音が静かに聞こえる。

 母親が居なくなったのも、ドアを焼かれたのも……父親のせい……ってこと?

 なにも間違ってない……私がずっと影で言われていたこと……近所の人に、クラスメイトに、狂った親の子と言われ続けたのは事実……?

「そうだな、教会に結界まで貼って……守り抜いた生贄ということか……」

 その言葉に、私の心臓は大きく跳ねる。怒りから、まるで弾き飛ばされるような気持ちになった。

 何が守り抜いただ!? こんなに何もかもを失ったのに!!

 怒りに任せて私は教会へのドアを、やっぱり蹴り飛ばした。

「お父さん!!! 誰と話しているの!?」

 ばたん、激しい音が教会に響く。真っ暗な教会にはキャンドルが幾つか灯されているだけ。

 ドアを開けた衝撃でゆらゆらと揺れる光の中に照らされて、長い影を作った父親が立っていた。

「……のえる? 学校はどうしたんだ? そのケガは?」

「とぼけないで、その男は誰?」

 久々に『お父さん』と呼ばれたのを驚きつつ、父親は何もなかったかのように振る舞いながら私の側に駆け寄ってきた。私はそんな父親の腕を跳ね除けて父親の後方にいる男を指差す。男は少し目を見開いた。

「だ、誰の事だ?」

 父親は未だとぼけるつもりでいるようだ。しかし声が震えている。ごまかしていることは明白だった。

 男は私の前に立ちはだかり、一瞬目を閉じた。そして……

「!!」

 私は思わず身を引いた。男の背から突如として、翼が生えた。紺色の鳥の羽のようだけど、鳥の羽よりは外側に大きく少し広がっている。色とシルエットだけなら悪魔の姿をしているようにも見えた。けど……その羽根は確かに天使のようで。

「……見えるのか、のえる。彼が見えるのか」

 父親は少し驚愕したような声色で、でも冷静に聞いた。

「なに、なに……やだ」

 私は訳が分からなくて、とりあえず目の前にあるものを否定した。翼の生えた男は私に詰め寄る。ステンドグラスの窓に追いやられて、背中に冷たい感覚が触れた。

「神に背く罪深き子よ……我は……人の名で言う『天使』なり」

「天使……? 馬鹿言わないでよ。そ、そんなの存在するわけない」

 するり、と男の手が私の首に周り、私は恐怖に身を固くする。殴られることはあっても、こんなセクハラまがいに触れられたことはなかった。気持ち悪い。男は何かを確かめたのか、確信じみた表情で私に冷たい視線を向ける。

「本当に何も信じないのだな、魔法に惑わされず見えるほどの魔力を持つというのに」

「……見えるものだけが本当じゃない、私にはお前が天使には見えないのは確かだけど?」

 気持ち悪さを吐き捨てるように、私はセリフを吐いてやった。男は私から二歩ほど遠ざかると、ふふふ、はははと笑いを漏らした。

「成る程、そこまで見えるなんて大したものだ。我は確かに、純粋な『天使』ではない……そこまで見破れる人間、生贄に相応しい……神の好い糧になりそうだ……」

 男は何故か一人で納得の様子を見せながらケラケラと笑う。何が面白いんだと睨んでやった。

「のえる、天使様になんという無礼を……!」

「それはこっちのセリフ、こんな失礼なヤツが天使? 詐欺にも程がある!! 目を覚ましてよ、お父さん……!」

 父親が私に掴みかかろうとするが、私はそれを払って反論する。男はまだ笑みを残したままの表情で父親を引き止めると、腕を広げて偉そうに言い放った。

「そうだな、私は正式には『天使』ではない。いや、『天使』でもあり、『堕天使』でもあり、『魔女』でもある」

「『魔女』……?」

 私は新たな概念の登場に首を傾げた。私が知っているのは天使と悪魔だけだからだ。

「天使と悪魔は魔法を持つ者。他にも妖精や身体は人間である、単純な『魔法使い』も存在する……。しかし『魔女』は違う……。己の魔法を商売とする者の『蔑称』だ。我らには人間のように、明確な性別は存在しないが……ははは、『魔女』呼ばわりとは、人間の文化には参ってしまうな……私はただ、神を信じない者を許せないだけ……神直々のご意向に沿っているだけだ、よってこれは罪ではない。救いだ」

 男はまるで私の思考を読んだかのように回答する。また悪どく笑った。神様が本当に居たとして、神様は神を信じない人間に……ここまで危害を加えるというのか。ならば私は、絶対に神など信じてやるものか。

「それが、どんな魔法でこんなチンケな教会をどうするつもりでいたの?」

「さぁ? 契約内容は当事者だけのもの。ばらしては契約違反。魔女の基本だ」

 私はもう一度、愚かな父親を睨みつける。

「……地下って何」

「……。」

「目的は何?」

「………ただ、私は、信者を」

 父親はしどろもどろで目的を呟く、教会のためだ、皆のためだ、と。

 そして最後には「神の為なんだ」と。

「皆の為!? どこがよ、無駄な話、無駄な説教、無駄な活動……結局白い目で見られて終わりじゃない! こんなんで神様を信じられる訳がないのに! 教会にされた事が住民のせいじゃなかったとはいえ、嫌がらせは続いてる、こうして生活するのにも精一杯……私は殴られるわ蹴られるわ、私物は隠される壊される、陰口を言われる……友達は黙って転校するし、彼氏には気持ち悪がられて音信不通になるし、母親も行方不明……散々じゃない……! これが皆の為に必要な犠牲だとするなら、皆の幸せなんて願ってもらわなくて結構!!」

「……のえる……そんなつもりは……」

「あろうがなかろうが変わらないでしょ、神様なんて居ないんだから!!!!」

 私の叫びは教会に響き渡った。

 男はその声と声が響いたことを、まるで好都合のようにニヤリと微笑む。やってしまったな、とでも言いたげな、満足そうな顔をしていた。男は神の意向とやらを聞いて父親に接触したとも言っていたことを思い出す。……この言葉を神様とやらが聞いていたら、私は次にどうなるのだろう。

「神様なんて居ない、か」

「お前だって天使だなんて信じてない、人間の言葉でいうなら悪魔ね」

「そうだな、我は魔女なのだからね……」

「っ……!」

 男の翼がさらに大きく広がる。その羽根は形こそ天使のそれだが、広がり方、その禍々しさは人間が思い描く『悪魔』そのものだった。

「神よ……」

 父親は助ける素振りも見せず、あろうことかそのインチキ神に祈り始めた。こんな男に誰かの幸せを願う父親は、愚かというより酔狂のそれ。自分よりも、家族よりも……娘よりも……何もしてくれない神様を優先して、壊れた姿。

 また、裏切られた――――私の心は、崩壊寸前だった。

「『悪魔』からひとつ、答えを出してやろう……お前の転校したという友達、別れた彼氏……行方不明の母親もか……?」

 父親は話を振られて頷いた。また、嫌な予感が私の身体を走っていく。

「こいつが……お前の父親が生贄として差し出す為の人間だったんだよ……神が新たな力を得るために……人間と同じでエネルギーは必要なのだ……あとは、理解るだろう?」

「っ!!!」

「の、のえる、待ってくれ、これは必要な儀式で――!」

「私に近づくなぁ!!! このっ! 裏切り者!!!!!」

 私は手にしていた財布を投げつけて、教会を飛び出した。

「困りました、一番有益な生贄が一人……」

 という言葉が耳に残ったが、どちらのセリフか解らない。

 どちらにしろ、あの二人の話をこれ以上耳にしては、どうなってしまうのか……怖くなった。

 それから2時間ほど、私は裸足で街を歩き回った。

 真冬の凍てついた道。コートも荷物もお金も何も持っていない。

 それどころか脚からはまだ止まらない流血。くじいたところは腫れてきた。

 髪はぼさぼさだし、泥だらけ……とても16歳の少女の姿ではなかっただろう。

 道行く人達は、笑ったり罵ったり、風よりも冷たいものを私に与える。

 ……与えてくれるだけ、もしかしたらマシだったのかもしれない。今の私の姿を見てくれもしない父親とは大違いだ。

 ………だって、たったひとりの家族に放置されて無視されて、その上……見ず知らずの知らない生き物に、知らない理由で命ごと差し出される目前だったなんて……考えたくもない。

「っ……うぇっ……!!」

 ふらふらと、育った街で知らない世界に来たように徘徊し、やがて丘の上にある小さな寂れた公園に辿り着いた。

 ろくに食事も摂ってない身体では、胃液と血しか吐けない。

 ハンカチを探してポケットを弄ってみたが、出てきたのはいつだかに机に入っていた『死ね』という誰かの殴り書きだけだった。

「はは、字ぃ汚えよ……」

 紙をびりびりに破いて、街を眼下に見渡す展望台のベンチに座る。

 風が冷たい。足元に『死ね』が舞っていく。

「……はは、ははは」

 面白くなってきて、強くビリビリと破いていく。

 粉になってもやめない。手の中に紙がなくなってもやめない。

 紙も神も無い。無いよ、無い。

「なんで、何も、しなかったんだろう」

 もしも母親が出ていったあの日にすぐ母親を探していたら?

 友達の転校先を探していたら?

 彼氏と別れる事を引き止めていたら?

 父親とあの男に生贄にされることはなかった?

 もしかしたら今日、私が突き放した同級生の誰かが狙われるかもしれない……。

 そうでなかったとしたら、それは……私本人かもしれない………。

『のえる、そんな事を言うもんじゃない』

 父親の言葉を聞く度にどこかで期待していた。こんなにボロボロになって、って。

 ごめんなって。

 傷つけてごめんとか、母親の代わりに生きて欲しいとか言ってくれるって……。

 でも違った。父親が危惧していたのは、生贄の為に私の身体が手に入るチャンスを失うかどうかだけ。

「は、は……っ、ぐすっ……う、うう……」

 何もかもに、少しだけ期待していた。

 同級生がいつか『ごめんなさい』って言ってくれることとか、母親が、友達が、彼氏が、帰ってきてくれることとか。

 教会に祈ったら神様が助けに来てくれることとか、天使が願いを叶えてくれることとか。

「うあ、っ……あ……あぁあぁああ゛……っ、あぁああぁぁーーーっ……!!」

 それらを本当に、心の底から諦めて割り切って、生きていけるって思えるようになった自分とか!

「ああああああああああああああああぁああぁあああ゛!!!!」

 苛立ちに叫びを上げることしか出来ない自分なんて、本当は居ないはずだって期待していた。

 ***

 ジャケットを脱いで、靴を脱いで。ベンチの上に畳んで置いておく。

 幾度か思い描いたその光景は、実際に見てみると多少滑稽だった。

 展望台の枠に座ってみる。

 日がギリギリ沈んでいない薄暗い夕暮れの町並みは、実際より深い底に見える。

 本当はどれぐらい高さがあるのか知らない。

 夕刻のチャイムがやけにキラキラした音を鳴り響かせていた。

『もうすぐ帰る時間です。遊んでいるお友達はお家に帰りましょう。お家に帰る時間です』

 オルゴールのような音色の中に、嫌に反響する声。

 きっと、温かい家庭に帰る子どもたち。ご飯やお風呂を楽しみにして、TV欄をチェックして、宿題をして。

「んー……んんー……んー……んんー……♪」

 泣き腫らした目でその光景を見ながら、いつかに母親に習った童謡と同じメロディのチャイムを口ずさみながら、ゆっくり……コンクリートで舗装された崖の淵……展望台の枠の上に立ち上がる。足元には手入れの行き届いてない、蔦の絡まった木が生い茂る公園の裏山。

 遠くで誰かが私の姿を見ているのかもしれない。声がする気がした。しかしそれも、チャイムと風の音で確認できない。いや、もう確認する必要もなかった。

 チャイムが鳴り終わる。口ずさむメロディも終わる。

 くだらない魔法の餌にされる前に――――。

 足元、足と木材に見立てたコンクリートの柵の間から、「ざりっ」と滑る音がした。

『ハッピーホリデー』

 どんなに身体が軽くとも、重力には逆らえない。

 くらりと目眩にも似た感覚に包まれて、この季節に似合う、白い塊が頬に最後の感覚を与える。

 ……ああ、冷たい。

 ***

「……アメ、アメ!」

「……なん……っん……」

 実体の無いはずの身体が重い。無いはずの名前を呼ばれたアメは、ゆっくり身体を起こした。ずるり、と背中に、桃色の翼がついてくる。

 ぼんやりと焦点が合っていくと、目の前には心配そうに眉を寄せている、青年の顔。いつの間にか一番弟子が目の前にいた事に気づいた。

「煩い、頭に響く」

「……うなされていた。実験……本当は、辛いんじゃないのか」

「辛くない、寝ていただけだ、魘されてもいない」

 弟子……ヘイヤは納得がいかない、といった風に顔色を曇らせる。

 アメは頭を抱えた手をすぐに離して、背筋を伸ばす。

「だ、だが! 幾ら膨大な魔力を持っているからとはいえ、身体に合わない魔法や魔力を取り込んでいれば回復も間に合わないんだろう? 今からでも降りて……」

「お前は私の弟子、指図をするな」

「………っ、はっ」

 ぴしゃりと言い放つと、渋々弟子は頭を下げる。

 アメはゆるゆると立ち上がり、まるで遠い向こうを見るように顔を上げた。

 懐かしい夢だった。

「……人間だった頃の事を少し思い出しただけだ、起こしたという事は時間か」

「………神がお呼びです」

 ヘイヤは苦痛の顔でそう告げる。

 アメは毅然とした態度で澄ました顔をする。

「ご苦労、下がっていい」

「……アメ、やっぱり……」

「……やめてくれ、と言うのか。 駄目だ、神の言葉は……絶対だから……」

 アメは歩きだす。足取りは決して軽くはないけれど、重いとは言えない。

 そう、絶対。信じていても、信じていなくても……滅びるまで尽くすしか無い。

 それが……アメの『神様を信じなかった罪』なのだから。

 いや、アメは知らない。

 アメの身体が滅びて……赤と青の石に離れ離れになろうとも。

 神を信じぬ自害の罪が、ふたりの魂をすり減らしていく、長い永い人生の物語はまだ始まっていない事さえも。