公式のない問題

勉強は好きな方だ。努力すれば形になり、知識は血肉になる。

知的好奇心を満たすのはこの世ではいとも簡単で、目的も答えもはっきりしているから迷わずに済む。……一端の使用人でしかない僕が学習を得るために苦労したあの世界、あの時間のことを思えばとても恵まれているとも思う。

特に数学とか科学のような明確な答えが出るものは安心する。美術や音楽のような技量を計ったりするようなものは少し苦手だけれど……まあ、人並みより少し劣るぐらいを保持する『努力』はしてきたつもりだ。

だけれど学生の身分ともなればある程度の勉強の努力というのは当然で、例えばそれば学年で3位ぐらいのキープしてたとしてまあ多少は人に頼られるぐらいで、後はコレと言って損をするでもないが得をするでもない。

そんなに卑屈にならなくても、なんて人は笑うんだろうけど……僕は僕を許せない理由がある。それも直ぐ側に。

「凄いじゃないか、サナ」

「初手でこの伸び方はちょっと後が怖いけどね」

学校から帰って自宅の玄関を通り過ぎたところで、そんな声が耳に届いてうっかり立ち止まった。つい数日前にサナちゃんが、ネットで歌手活動を始めた。元々歌ったり踊ったり、絵を描いたり料理をしたり……何かを表現したり作ったりする事にサナちゃんは秀でていた。それに付随して負けず嫌いで勝てない勝負はしない完璧主義ともなれば、たった1曲でも再生数を稼ぐには十分だったらしい。

その横でまるで自分の事のように嬉しそうなコメントをしているのはコエ。

この世界を作り、そして僕たちを作った『神様』。元は僕らと同じ魂を持った『アメ』の未来の姿だ。

どういう理由か自分の魂を人間の姿に変えて、数年前から僕たちに接触してきている。

サナちゃんとコエはどうやら仲がいいらしいけれど、僕はこの人……いや、『神』が苦手だ。

「お、ルナおかえり。どうだ、最近学校は」

「……別に、普通」

どうやら盗み聞きしていた僕の様子に気づいたらしいコエがリビングのドアを先に開ける。

無粋に返事をして彼女の隣を素通りして荷物をソファに投げ出した。

その反対側で自分の投稿を見ていたであろうタブレット端末を抱えたサナちゃんも顔を上げる。

「おかえり、ルナ」

「サナちゃん、今日の現国の課題で分からないところあるんだけど……」

「あぁ……ここね、ルナが苦手そうな問題だと思ったわ」

敢えてサナちゃんに後でもいい事をそう問い掛けたのは、コエとサナちゃんの会話を切る為だ。自分でもみっともない嫉妬だなと思っている。思ってはいるけど、やっぱりコエとサナちゃんの関わりを見ているのは嫌だった。

「……今日のところは御暇するとするか、宿題頑張ってくれ」

「ええ、じゃあね」

「…………」

コエが手を振る姿もスルーする。サナちゃんはそれで気にしていないようで、僕を咎めたりはしなかったけれど……コエは困ったような顔でため息を吐いた。

***

日に一度、二度は少なくても『お前の姉ちゃんってさ~』という枕詞で同級生に話しかけられる。

同じ敷地内に男子校と女子校が並ぶ、エスカレーター式で少し格式の高い中学校だ。

そんな気品を重んじる校風ですら……いや、気品あるからこそなのか、サナちゃんは目立つ。

そのおしとやかさが演技なのを知るのはどうやら僕だけらしく、向こうの校舎でも、こっちの校舎でも彼女は優等生のお姉様だ。異性のことは彼女自身が興味ないので知らないが、女の子達からもラブレターを幾つか貰ってる事は耳にした。

「さあ、実姉だからなあ……僕にはよくわかんないかな」

美人だよな。頭いいよな。好きな人居るのかな。

そんな言葉で僕伝にサナちゃんを探ってくる人は沢山居るけれど、そのどれもにサナちゃんという人を明かしたくなくて言葉を濁す。

帰りがてらにそう聞かれた日には心なし憂鬱で、でもその理由もよく分からない。

ただその日は明確にその苛立ちが強かった。

学園では体育館とかグラウンドとか、校舎間で共有している施設が幾つかある。偶然、サナちゃんのクラスがバスケットをしている隣で、僕らのクラスも体育の授業をしていた。

サナちゃんのクラスの試合は何故か異様に白熱して、そのぎりぎりの攻防の中にサナちゃんは居た。

勝つか負けるかでハラハラする空気感の中、僕はサナちゃんの動きそれ自身にひとりだけハラハラしていた。サナちゃんは勿論運動もそつなくこなせるけれど、身体はそこまで強くない。未就学児の年齢から何度か入退院を繰り返してて数ヶ月前もちょっとだけ病室に居た。

そんな人が人混みの中心になるぐらい運動で活躍している姿を見るのは不安だ。

……いや、違う。

サナちゃんが大勢に注目されるこの構図。それを見てるしかない僕。

思わず身体がすくむ思いをするぐらい……それは僕にとってトラウマだった。

もしかしたらサナちゃんにとってもそうかもしれなかったけれど、そう考えるにはあまりにもサナちゃんは活躍して、サナちゃんが叩き込んだボールがネットを大きく揺らして、ホイッスルが鳴って……嬉しそうにクラスメイトに囲まれているサナちゃんからはその時は想像も出来なかった。

「おかえり、ルナ。サナは帰ってるか?」

「…………」

そのまま、言葉にできない思いに胸を燻らせながら僕は家へと逃げ帰った。

途端、サナちゃんを待っていたらしいコエと玄関で鉢合わせて、その何気ない表情に僕の劣等感は余計に膨れ上がる。

「……サナちゃんに何の用?」

「いや、何と言う程はないが」

「……じゃあ今日じゃなくてもよくない?」

「……いや、近くを通ったついでに寄ったまでだ」

変な突っかかりにコエの顔が苦く渋っていく。けど、僕の苛立ちは止まらない。

「サナちゃんばっかり構ってる場合なの? 次期の神様なんでしょ?」

「おい、どうしたんだルナ……何を怒ってるんだ? 落ち着け……」

「僕が何に怒ろうが僕の勝手でしょ!!」

「っ……!? おい、ルナ!?」

勿論、何の謂れもなく突然八つ当たりされたコエは狼狽える他ない。そんなコエの心配の腕も振りほどいて、僕はコエを突き飛ばして自宅の前から逃げ出した。

入れ替わりでサナちゃんが帰ってきたのか、「なにあれ、どうしたの?」という声も背に、僕の脚は止まらない。ただ、ただ逃げるように街の方へと駆け出していた。

***

そこから、日が落ちるまではすぐだった。学校帰り、大した荷物も持っていない。帰宅せず寄り道をするのは校則違反で、持っているお金も最低限だった。缶コーヒーぐらいしか身を温めるものも持たないまま、雨が降りそうな夜空の下をとぼとぼ歩く。気づけば学区を離れて隣町まで来てしまっていた。

校則を破ったのは初めてかもしれないな。と思うとなんだか笑えてさえ来る。それだけ、僕は模範的な生き方しか出来ない性格だった。それが規律を守り、破った者を裁く立場にある悪魔の習性なのか、それとも人間に生まれ変わった以上はただの性格なのかももう分からない。

ただ、一つだけ言えるのは……この世界を作ったコエがそれを決めていて、その決まり事に従ってしまう自分と、周りと、とにかくこの世界まるごとに嫌悪感を抱いていた。

「なーに、湿気た顔してんの?」

「……っ!!!」

それは何故だろう、なんて思って立ち止まった瞬間。薄暗い歩道橋の下。少し街から外れた人通りの少ない横道。一瞬コエが追ってきたのかと思った。けれど、その瞳の色、態度、雰囲気……全て、記憶にあるが見覚えはない……。

「あ、アメ……だよね? ど、どうして君が」

「はじめまして、『ルナ』。まー、ちょっとした内見かな。コエがどーしてもって言うからさ」

まるで顔を覗き込まれるかのように、ニヤついた顔が僕の視界の先に降りてきた。

目の前に居るのは、コエの過去の姿であり僕とサナちゃんの元の姿でもある『アメ』だった。しかも、サナちゃんが処刑された影響で能力を失った『堕天使のアメ』だ。

「……君もコエに作られた存在ってこと?」

「んー、まあロマンのない言い方をするとそうなるよね」

「ロマン、無くて悪かったね」

そのどこか含みのある言い方や、少し不真面目なその態度は周りに居るタイプじゃない。

なんだか無性に相手をするのが嫌になって、棘のある言い方で返してしまった。

「おや、ご立腹?」

「……君はコエとは別の意味で不愉快だね。分かるんなら関わらないでくれないかな」

「いいの? 君まだ中学生でしょ。こんな時間にひとりでほっつき歩いてたら補導されちゃうよ~?」

そう言ってけたけた笑うアメも見た目に16歳ぐらいだろうか。とても成人には見えない。

仮に今補導されるなら揃って補導になるだろう。僕はその言葉に答えず顔を背けた。

「何に怒ってるの?」

「……わかんない」

「わかんない?」

それでもアメはどうやら、不機嫌そうな僕がもの珍しいのかジロジロと僕を見てはニヤニヤ笑っていた。

でも、アメにそう聞かれると答えられない事に気づいて、僕の溜飲は一瞬下がる。

「……わからない。けど、凄く嫌な気持ちになるんだよ。コエがサナちゃんばっかり気にして、友達も先生もサナちゃんばっかり気にして……」

「嫉妬ってこと?」

「そうなような、違うような……」

これがただの嫉妬だったら、ここまで意味不明な怒りを覚えるだろうか。考え直して、それはないと答えが出る。けど、口にした言葉は確かに嫉妬のそれだ。

「それ、何聞いてるの?」

「え、あ、ちょ……」

言い淀んでいる間にアメの興味は僕が片耳に挿していたイヤホンに向いた。まだ答えが……と思っている合間に呆気なくイヤホンは抜き取られ、あっさり聞いていたものもバレる。

「サナちゃんの歌?」

「……こないだ、ネットに投稿してて……再生数伸びてるんだ」

「へえ、凄いじゃん。一発で伸びることってなかなかないよ?」

その返答に、やっぱりアメもサナちゃんに関心の声を上げる。

「……やっぱり、そう言う?」

「事実だし実力じゃん?」

「……そうだけど」

分かってる。サナちゃんは凄い。それは事実だし、実際こうして実力もある。皆が凄いと思うのは当たり前だ。けど、『凄い』とか『偉い』とか、安っぽく聞こえて腹立たしい。サナちゃんだって努力しなかった訳じゃない。それがなんだか悔しい。けど、僕が同じ努力をしても届かないからそれは確かに才能で、でも……。ああ、だめだ、苦しい。この怒りを言語化出来ない。

「嫉妬してんのによくもまあご丁寧にお姉ちゃんの歌なんか聞くね?」

「……うるさいな」

「あちゃあ、怒った~?」

「いいよもう、いいから勝手にさせてよ!!」

捨てる場所が見当たらなくて持ったままだったコーヒーの空き缶をアメに投げつける。瞬間、アメの姿が消えてなくなったように見えた。まさか? と思い、思わずアメが身を預けていたガードレールに身を乗り出して確認する。底にあるのは用水路と……遠くに猫の影。……猫に姿を変えて逃げ出したようだった。

「はぁ……」

取り敢えず目の前から煽る相手が居なくなって肩を落とす。

何時しか闇に紛れて、雨粒が足元を濡らしていた。

***

帰るにも帰れないまま、僕は見知らぬ町の小さな公園の東屋に腰を下ろしていた。

日付はもうすぐで変わる。サナちゃんは両親に僕が帰ってこないことをどう説明しただろうか。

そもそもコエはサナちゃんに僕が逃げたことをどう説明したのだろうか。

考えると怖くなる。

サナちゃんは呆れただろうか。コエは僕を見放しただろうか。

アメに煽られて外していたイヤホンをまた耳に挿して、サナちゃんの歌を流す。

確かにアメに言われた通り、嫉妬はしている。けど、それはサナちゃんにじゃない。

サナちゃんの歌には怒りはない。羨ましいとは確かに思う。でも凄いと思うし、これをきっかけにサナちゃんがどこか遠くに行ってしまったら? と思うと不安もある。

それに対して、コエは多分サナちゃんが望むような、有利にになるような働きかけをするだろう。

そうしたらまたサナちゃんは歌手になる為の努力を惜しまなくて、そのせいで病気をしたり怪我をしたりするかもしれなくて……もしも無茶をしてしまったら? また多くに憎まれるような目に遭ったら?

そう思うと次は不安と恐怖を感じる。

じゃあ、サナちゃんがしたいことを諦めさせるのが正解か? と言われるとそれは違う。

目的の為だけに動くのが正解じゃないというのは、サナちゃんから学んだことだ。

……けど、僕は未だそれに逆らえていない気がする。

もしも僕がサナちゃんぐらい自由に動けるようになったら、サナちゃん本人も自由にさせてあげられる? その為に僕は規律の上を歩くことをどうやったら辞められる?

東屋のベンチに横になりながら、降ってくる雨に手を伸ばして考える。

雲の向こうの星を掴むような、曖昧な答えを求めている気がした。

ああ、苦手なんだ。数値や数式に表せない、明確な答えの出ない問題……。頭が痛くなる。

「ルナ!!」

「サナちゃん!?」

瞬間、その視界にサナちゃんの顔が飛び込んできて僕は慌てて身を起こした。

傘を差しても尚、その長い髪をびしょ濡れにしたサナちゃんが一瞬で肩を落として頭を抱える。

「ようやく見つけた……一体何処まで行ってんのよ……!」

「え、あ、ごめん……?」

やっぱり呆れられてただろうか……と思ってその様子に思わず謝った後で、よく見ればサナちゃんの姿は僕よりひどい。

「って、言うか、サナちゃんこそ今何時だと思ってるのさ!! 濡れるの嫌いなのにこんなに雨に濡れて……こないだ退院したばっかなんだから気をつけてよ!」

つい、サナちゃんの怒ったテンションに言い返すように小言を返してしまう。

瞬間、その言葉にサナちゃんの視線が落ちた。

「……ごめん、ルナ」

そうしてサナちゃんは静かに頭を下げた。

一瞬、何が起きたか分からない。謝るのは勝手に行方をくらませた僕の方のはずだ。

「……今の学校、私も苦しい……変に目立っちゃって、でも、今更裏切れなくてついつい頑張っちゃって……。それでルナのことも苦しめるなら、進学は別の所に……いえ、諦める。別々に暮らせばルナだってもう双子として比較されることもないし……」

「待って、待って待って!! 僕そんな事!!」

言ってない。と言おうとして声が詰まる。

確かに言ってはないけど……否定もしていない。いや、出来なかった。

「……僕こそごめん。勝手に怒って……。でも、なんて言えばいいか上手く表現出来なくて……確かにサナちゃんと比較されて、というか僕が勝手に比較しちゃう事はあるよ。やっぱり城で比較され続けた経験はまだ思い出すし、サナちゃんだけじゃない、コエのこともそう……。僕には出来ないことを、コエはサナちゃんにしてあげられるのが羨ましかった……でもそれでサナちゃんに苦しめられたなんて思ったことない……何でも出来て器用で才能があって、それはすごく羨ましい。でもその為に無理して欲しい訳じゃないし、僕の為に諦めて欲しい訳でもない。ただ、今はどれが最良の答えか、上手く答えが出せてない……」

ただ、やっぱり上手くまとめる言葉は見つからない。

それでも感じることは全て、口に出すしかなかった。サナちゃんがこういう事を言われるのが苦手なのは知ってるけど、それでも一言に出来ない以上、全部言わないと結果も結論も出ないと思ったから。

「でも、前みたいに酷く無茶したり、誰かに傷つけられたり……サナちゃんを失うような体験をするのは嫌だし怖いんだ……」

「…………っ」

それでも、最後に出た本音だけはシンプルだった。

サナちゃんを失うのが怖い。

だからサナちゃんを救いたいと思ってるのに、今の自分には上手くそうする答えが出ない。自分が出せていない答えをコエが出せるのかどうか分からなくて信用できない。上手く世渡り出来ない自分が嫌で、上手く世渡り出来るサナちゃんが羨ましい。

その言葉に、サナちゃんは言葉こそ返さなかったものの小さく息を呑んでから、僕をそっと抱きしめた。

その明確な意味は分からなかったけれど、それでも小さな安堵を感じて、それがサナちゃんからの答えに思えた。

今、あの時みたいにサナちゃんと僕の間に感情の共有があったらどんな感情が伝わってきたのだろう。

罪悪感だろうか、痛みだろうか、悲しみだろうか。……名前のない、感情だろうか。

「……帰ろ、ルナ」

「……うん」

そのまま、二人で夜通し歩いて帰った。家に着いたのは明け方で、勿論そこそこ両親にもコエにも怒られた。けど、今まで怒られるなんて事はなかったから、少し新鮮に感じてしまったのは内緒だ。

「……すまん、干渉しすぎたかもしれないな」

そう言ってコエにも頭を下げられたときにはちょっと気分も良かったし。

……もしかしたら僕は自分が思うより結構性格が悪いのかも知れない、なんて思うのは、あの時のアメからのからかいを思うと、同じ血筋を感じるからなのだった。