風邪ひきライさん

ライさんの家は、署から歩いて15分ぐらいの所にある賃貸だ。

何故私がこんな事を知っているかと言えば、今朝のパトロール後に時は遡る。

今朝もライさんが出勤してこなかった。

前回と違うのは、ちゃんと電話で欠勤の連絡があったことだ。

「え、風邪ですか……なるほど、声、大分ヤバいですよ」

『すみません、『僕ら』の風邪と人間の風邪はウイルスが違うので、伝染らないなら僕はいいかなって思ったんですけど……流石にドクターストップでした』

「あ、当たり前です!」

電話口の向こうでそう言うライさんの声は、かなり掠れている。

昨日の時点でちょっと咳っぽかったんだよなぁ……。

『そして、すみません……お願いがあるのですが、週末なので制服は洗いたいんですよ……パトロールついででも帰宅ついででも構わないので、もしご都合が合えば……僕の家に寄って玄関先に置いて貰えませんか……ロッカーにかかってるんで……』

「ああ、はい。大丈夫ですよ、夕方に持っていきますから……ちゃんと寝ててくださいよ!? ライさん、絶対養生とか苦手なタイプでしょ!?」

「…………善処します」

その返事はダメなやつだ……。私は頭を抱えながら電話を切り、ひとりきりでできるだけの仕事を片付けた後に、理由を話して少し早く退勤した。

ライさんに頼まれた制服と、多少のお見舞いを手に、伝え聞いた道を行く。

なんの変哲もないアパートの一番奥に、油性ペンできっちりした文字で『ライ』とだけ表記された表札が掲げられていた。

「……ライさん達ってラストネームがなくて、不便じゃないのかな」

同じ名前のヒトがいたらどうするんだろ? という、妙な疑問はさておき、私は呼び鈴を押した。ライさんは玄関先に置いておけ、とは言ったが、やはり支給品を玄関先とはいえ、そこらにボン! はまずいと思ったので……それに、ライさんが無茶してる気しかしないから、顔は見ておきたい。

「……あ、音胡さん、すみません……。早いですね」

すぐに玄関のドアが開き、ライさんが顔を出す。やはり声は酷い。顔が顔なのでよくわからないが、熱も酷いようで、明らかに表情は元気がない。しかし、カーディガンは羽織っているとはいえ、服はパジャマじゃなくてシャツにスウェットという部屋着スタイルだった。寝づらくないですかね。

「理由を話したら早く行ってやれ、と署員が口を揃えて言いましたよ。はい、これ制服です。あと、お見舞いも。ベタにゼリーとかプリンとかですけど、甘い物の方が食べやすいですよね。」

「あ、ありがとうございます。…………。」

ライさんの無茶癖は署員皆が知っていることだ。私はライさんに制服の入った紙袋と、コンビニの袋を手渡した。ライさんはそれを受け取って軽く中身を確認すると、私の顔をぼんやり見つめる。

「あの、音胡さん……僕、やりかけの書類も頼み……」

「持ってくるわけないでしょう、このご時世に誰が休日前に仕事持ち帰りを手伝うもんですか! 寝てろって言ったでしょ!!」

「…………う、うう……」

ライさんは私のお小言に耳をしょんぼりさせる。朝の電話の時点では、書きかけの書類もでかしたいから持ってきて欲しい、と頼まれたけれど、部下として持ち帰り仕事を上司に渡すなど、許すはずもなかった。っていうか、普通逆。

「…………ライさん、ちょっと部屋見てもいいですか」

「えっ、なんでですか……」

「抜き打ち養生チェックです。……正直、寝てなかったでしょ」

「…………寝てました」

「寝てないでしょ? 風邪は寝て治すんですよ?」

「…………はい……」

ライさんは私の気迫に押され、ついに頷いた。

私はライさんの手を引いて、部屋に押し入る。

机の上には、さっき言ってたのと別の書きかけ書類、そして資料が上がっていた。

「没収!」

「あ、あぁ……」

ライさんは残念そうな声を出す。これじゃあドクターストップもかかりますよ。

ライさんの主治医は優秀なようで、その横にあった薬の説明書には、わざと眠気が出る薬をいくつか処方されていた。

「なんで、ここまでして仕事するんですか、もう……暇な部署なんだから急ぐ必要はないんですよ。それより風邪治す方が先だと思わないんですか?」

「……ど、どうしてもじっとしてると焦ってしまって……」

ライさんの真面目はもう、職業病みたいなものだ。

私はライさんを布団に押し込め、さっき渡した制服とお見舞いを取り上げる。

「寝ててください。制服は私が洗ってあげます。これも、私が冷蔵庫にしまってきますんで」

「…………。」

ライさんは返事をしなかった。

私はとりあえず、押し入った際に投げ捨てた靴を直しに一度玄関に戻る。

玄関には釣り竿が一本立てかけてあるだけで、ライさんの靴すらしっかり靴箱に仕舞われている……兄もない玄関。

いや、玄関だけじゃない。部屋も、洗面所も、台所も最低限のものしかなかった。

ライさんを押し込めた布団やカーペットも、ファブリック類は薄い灰色で統一されていて、家具はシルバー類が多い……これ、どっかで見たな。

「……無●良●のモデルルームか?」

とにかく、飾り気のなさは、量販店のモデルルーム感がすごいのだ。

私はライさんの制服に、洗濯機の側にあったカーペットクリーナーをコロコロして(毛が詰まるとライさんが余計な苦労をする)、ネットに入れて洗濯機を回した。

お見舞い品は冷蔵庫に入れようとして、その中身のなさにも驚いた。何食ってるんだあのヒト……と思い、ゴミ箱を失敬すると、捨ててあったのはオレンジ色の箱。

「かっ……カロリーブロック……」

チョコ味。私は頭を抱えた。

ライさんは少食ではないんだけど、人よりは食べないタイプで、一食ぐらいは平気で抜く。増して熱があって喉が痛い今、食欲がないんだろう。ないんだろうけど。

「食べなきゃ治らないんですよ!?」

「ひえぇ……!」

私はライさんに再度説教をした。

「だ、だって……喉が痛くて食欲は起きませんし、買いに行くにはフラフラしてて……飲むゼリーとブロックと経口補水液は常備してたので、まあ、いいかなと……」

「……よく、一人で暮らしてますね、ライさん……発作のこともありますし、危ないとは思わないんですか?」

身体が弱いライさんにとって、その手の健康食品は常備するものらしい。私はライさんのQOLの低さに呆れて、そう聞いた。

「……僕が、誰かと暮らせるとは……とても思いません。」

ライさんは寂しそうに笑いながら、そう答える。

私はその悲しそうな笑みを、布団に埋めるためにライさんに布団を押し付けた。

「わぶっ、」

「……スープぐらいなら作っていきます、今じゃなくていいんで食べてください。温かいもの食べないと、ずっと辛いまんまですよ」

「すみません……」

ズカズカと台所に入っていく私に、ライさんは謝る。謝られる理由なんてないんだけど。勝手に押しかけて勝手に仕切ってるの、私なんですけど。

「……こんなもんか」

とりあえず勝手に野菜を拝借して、コンソメスープを作った。私も一人暮らしをしたばかりな方だが、料理はそれなりに出来る(つもり)。

ライさんだって、趣味の釣りで釣った魚はバーベキューにするって言ってたし、料理下手ではないはずなんだけど……。

「……『自分の為』には、多分家事をしないんだな、あのヒトは……」

ゆっくりと、コトコト煮えていく鍋に独り言を語りかける。

言動から察すると、掃除や洗濯は仕事や迷惑を考えて、料理や食事も、仕事に影響が出なければいい、という考えらしい。栄養と体力にさえ気を配っていれば、自分はどうでもいいのかもしれない。

この部屋もそうだ。殆どなにもない部屋。

ライさんはあの海の時、一応考え直してはくれたけど……それは、『死ぬ理由』がなかっただけの話で、『生きる理由』を見つけたわけじゃない。今のライさんは、多分、生きるために何かを持つことは……できないのだ。

「ライさん……?」

「っ……うぅっ……っ、ぅ」

出来たスープを少しだけマグカップに入れ、部屋に戻ると、ライさんはベッドの上で泣いていた。

私は慌ててライさんの元に駆け寄る。

「どうしました、気分悪いですか?」

「ち、違うんです……熱出てると、どうしてもダメで……」

「ダメ……?」

涙を拭いながら、ライさんは布団を握りしめる。手は震えていた。

「……思い出しちゃうんです、子供の時の事とか、寝ようとすると夢に出ちゃって……情けない、です」

「……あぁ、それで……すみません、無理やりな事言っちゃいましたね……」

ライさんはそう言って、柔く泣き笑いをする。私は申し訳なくなって、ライさんの手を握った。

私が話しかけたからか、徐々に震えは治まる。苦しくなったりはしなかったみたいだ。

「薬の副作用もあって、眠いことは眠いんですけど……起きちゃって、眠るの怖くなるんです……。拾われてすぐはよく熱を出してたので、多分それを思い出すんでしょうね……」

もう落ち着きました、と言ってライさんはまたへらっと笑ってみせた。

私は心配でたまらなくなる。が、ライさんにどうしてあげたらいいのかは分からなかった。

今更、私がどう励ました所で、彼の受けた仕打ちは変わらないのだ。

「すみません、どう言ってあげたらいいか分からないですけど……もう、怖い思いはしないと思います。今は無理でも、いつか大丈夫な時が来ますよ。」

「……はい、音胡さんがこうして心配してくれるだけで、十分心強いです」

その後、ライさんはスープを半分ぐらい飲んだ。

喉が痛そうなのがちょっと可哀想だったが、絶対にカロリーブロックよりはマシだろう。

身体が暖まったからか、眠そうなライさんに、断続的でもいいから眠るようにもう一度釘を差した。

「はい、なんとなくですが、落ち着いて眠れそうです……」

「ならいいですけど……とりあえず、ちゃんと休んでくださいよ?」

「……あはは、音胡さん、お母さんみたいです。僕に母がいたらこんな感じなんですかね」

「だ、誰がお母さんですか……」

ライさんの口から飛び出る衝撃発言。

折角介抱してやった仕打ちがこれは、ひどすぎませんか。

「じゃあ、また来週」

「はい、色々してもらってすみません、また週明けに」

すっかり日も暮れた頃、私はライさんの家を後にする。

没収した書類は、出来る所までやっておきますよ。ライさん。