虹色記憶シリーズ episode 4 -ファースト・エレジーの島-

 ここはどこだろう……。

 沈んでいく。

 沈んでいく、沈んでいく。

 ……溺れてるのか?

 何故?

 私はもう、海は、水の中は……あの日を、あの子を……。

 あれ? あの子って、誰?

 ……目覚ましのベルが、『私』を起こした。

 ***

 目を覚ますと、『私』はベッドの上に居た。叩き止めたのは、ベルがボコボコ、文字盤にはヒビが入ったボロの目覚まし。目地の荒いゴワゴワとしたベッドカバーのせいで頬が痒い。

 目を擦りながら身体を起こすと、そこは見慣れない小さな家だった。

 木製の古い机にカウンター、ごちゃごちゃした雑貨の数々。

 お香だろうか、鼻につく匂いが焚かれている。

 その向こう側では何か、スープのような香りもするが……スパイスの香りが随分キツいな。辛そうだ。

「目が覚めた?」

「……幾分。でも、目がすごくショボショボチカチカする……なんか、緑掛かって見えるし……」

「そりゃあ、真っ白を見すぎたのよ」

 頭上から唐突に声をかけられて、寝ぼけた頭で意味も分からないままに返事をした。

 返ってきた返事が更に意味不明だったのは、私が寝ぼけていたからではないと思う。

「……というか、君は誰だい? そして、ここは何処なんだ……?」

「何処でもないわ。どこでもない海の上の小さな島、それだけの場所よ」

 ようやくはっきりしてきた視界に映し出されたのは、ベッドサイドに座る一人の女性だった。

 襟にスタッズのついた淡い色のシャツとロングスカート、黒髪はボブに近いセミショートヘアで、青い瞳を持っている……そして顔つきは、どこか見覚えがあるのだが思い出せない。

「……というか、私は……誰だ?」

 彼女の顔を見て、私には思い出せないことが幾つもあることを思い出した。

 例えば、己が何者で、どこから来たのだとか、名前だとか、そんな事全て。

 この時の私は正直混乱していたが、混乱するには情報があまりにも少なすぎた。

 だから、逆に冷静だったのかもしれない。

 違和感なく、するりと出た言葉を、素直に質問した。

「貴女に与えられた名前は『アリウム』。花の名前ね。」

「花、の名前……か……聞き慣れた気がしないし、花は好かないはずだけど。ああ、与えられたってことは、本来の名ではないんだな……君が与えたのかい?」

「いえ、与えたのは私ではないわ。私は空から降ってきた貴女を拾っただけ。そうね、私の名は『咲七』よ、よろしく」

 咲七と名乗った女性は、同じく冷静に淡々と私の質問に答えた。その答えがあまりに曖昧で回答になっていない事はともかくとして、その名前が妙に耳馴染みのいい言葉であった事に私は違和感を抱く。

「さ、な……? 何故だろう、聞き覚えがあるね。……なんとなく分かった。何も知らない事だけは。こちらこそよろしく。で、空から降ってきたらしい私は、此処で何かをすればいいのかい? それとも、帰る術や行先が設定されていたりするのかい?」

 咲七はそう言って私に手を差し出したので、私は握手で返す。その態度がどこかよそよそしいことに気づき、表向きより己が歓迎されていないことに気づいた。続いて話しぶりもどこか、真実を逸らすような言い方であることに気がつく。

 これはきっと、今問いただしても何も教えてくれない、というサインだろう、と私は判断する。

 この己の、それとも相手の、と言うべきか。『察しやすさ』は少し不思議だが、何もわからない今、感しか頼るものがない。面倒事からはさっさと撤退したいものだ。

 行くべきことややるべきことがあるなら、焦らさず教えて欲しい。そう願って早急に問い出す。

「無いわ、貴女はここでただ過ごすだけでいいの」

 が、無慈悲にも私の願いは、咲七には届かなかったようだ。

 * * *

 それから、ここでの生活は始まった。

 未だ、私の正体は『アリウム』という名を『与えられた』だけの少女、それだけだ。

 洗面所にかけてあった割れた鏡にいくら顔を映しても、ヒントは顔に書いてない。

 淡い水色の髪に、ラベンダー色のリボンを対になるように結んだ少女が難しい顔をしているだけ。

 見た目には恐らく同じ年代であろう、と推測するのだが、比べると余りにも咲七よりずっと小さい背丈。咲七の半分ほどしかないので、かなり幼い子供に見える。でも、その割にははっきりした思考こそ持っているものの、肝心かつ頼りになりそうな記憶はなく、すっかり、己の事だけが抜け落ちている。

 まるでリセットボタンを押されたRPGの主人公の気分だ。レベルアップしたら進化できるだろうか。迷子になってしまったようで、やるせない気持ちだけが静かにそこにあった。

 私が顔を洗い……いや、眺めている間に、咲七はどうやら朝食の準備をしていたらしい。

 手伝うことはなくぼんやりと窓の外を眺める。今日は快晴。ここで天気が良い日は珍しいのだと咲七は言った。

 ふわり、とカーテンが舞い上がったので、初めて窓が開いていることに気づき、私は申し訳程度に備え付けられたウッドデッキへと歩み寄る。

 目の前に広がるのは小さいけれど手入れの行き届いた庭。そして塀の向こうは浜と海と、空。それだけだった。

「……本当に島の上にあるんだな」

 この家も、本当にどこにあるのかわからない。海の向こうには他に島も大陸もない。歩いて数分で端から端まで行けるような、本当に小さな島の上にこの家はあった。

 レンガ造りの小さな家は、私の目から見ると「可愛すぎ」て、「小さすぎ」る。

 そして何より、ガラクタとも思えるいろんなものでごちゃごちゃしていて過ごしやすい場所ではない。

 っていうか、そもそもどうやって生活しているんだ? 店は愚か、通販も届かないように見える。

「アリウム、朝食はいる?」

「……ああ、貰うよ」

 レースカーテンの向こうから咲七の影が声をかけてきて、私は部屋へと戻った。その一瞬、少し外に出ただけなのに嫌に目眩がする。

 彼女が言うには目が眩んだのよ、との事だけど、一体何に? と聞き返すと、彼女は誤魔化すように笑うだけだ。

 キッチンの隣に並んだ古いテーブルにつくと、机の上にあったのはスパイスの利いた辛そうなスープと、黒パンに目玉焼き。少し質素なメニューだった。

「……頂きます」

「頂きます」

 いきなり知り合いになった人物と食卓を囲むのってなんだか変だ。言葉は通じるのに、場所も食べ物も慣れないものだから異国に来た気分にもなる。

 それでもなんとなく狼狽えてる姿は見せたくなかった。私は極めて冷静に食卓に向かう。そもそもまだ咲七がどんな人物かも知らない。味方であるとは限らないのだ。

 とりあえずスープを掬って、匂いに躊躇しながらも口に運ぶ。なんというか、独特な味だ……な、何か怪しげなものが混ざってないだろうな?

「……っぅ」

 疑いつつも、食べないわけには行かない。思い切ってスプーンを口に押し込むと、まあ、予想通りの味がした。

「……アリウム、美味しい?」

「あぁ」

「そう、ならいいけど」

 どうやら私という人物は、嫌に見栄っ張りのようだ。ここで素直な感想を述べたほうが、後々の生活が楽なはずなのに取り繕ってしまう。それでも完璧な取り繕いができてしまった私は、咲七に怪しまれることもなく事を終えてしまった。

 ***

 食事を済ませると、咲七は慌てて洗濯を始めた。晴れが珍しいこの島では、今日のような天気は洗濯のチャンスなのだと言いながら、バスタブの中に服からリネン類からなんでもかんでもぶち込んでは踏みつけている。

「……まあ、洗濯機なんか手に入るはずもないだろうけど……」

 この孤島で、文明に満ちた生活をするのは到底ムリだろう。私はそう思ってため息を吐きながら咲七を見ていた。

「……でも、服やシーツ、調理器具なんかは手に入っているんだね」

「仕方ないわ、ここにあるものは全て私の意志では手に入れられないの……ああ、アリウム、そこの洗剤取って、あとその長靴」

「長靴?」

「この洗剤、裸足だと肌が荒れるのよ。泡立ちも悪いし、匂いも好きじゃないし。服が傷むと困るから、洗剤を入れる時だけ長靴で踏むの」

 そう言って洗濯に躍起になる咲七を見て、思わず私は肩をすくめた。ものすごい不便そうだ。ここで自分が過ごすことに、もはや不安しかなくなってきた。

「なんで、選べないんだい……というか、そもそもモノはどこから来ているんだい? 漂着物とか?」

「漂着物か、似たようなものね。貴女と同じよ」

「私と?」

「多分、これを干してる間に分かると思うわ」

 そう言って目の前にドスンと置かれたのは、十分に絞られていなくてびっしゃびしゃの洗濯物で満ちたランドリーバスケットだった。

「……お、重い」

 金属製のランドリーバスケットは、洗濯物が入っていなくともそれなりに使いづらい品だった。これが私と似たようなものだとしたら、私はかなり不便な生き物としてカテゴライズされていることになる。まあこの背丈で重くてでかいバスケットを運べない私は、既に不便なんだろうが。

「勘弁してくれよ……」

「お疲れ様」

 咲七はボロボロのピンチとハンガーを持ってきながら、色んな意味での不満を零す私を追って部屋から出てくる。

 小さなウッドデッキは、二人が立つだけでもそれなりに狭かった。しかし、十分に絞れていない洗濯物を絞りながら干す作業を、晴れているうちにしたい。二人がかりでなんとか、これまた微妙に扱いづらいロープを渡して干していく。

「これも、私と似たような入手ルートで手に入れたロープなのかい?」

「そうよ」

「この狭い、短い距離なのにすぐ捻れてイライラするんだけど?」

「ものは考えようよ、アリウム。これがなければ、物を干す場所は服数枚分しかない。貴女が居なければ、このびちゃびちゃの洗濯物を二人がかりで干せない。」

「……咲七も、イライラすることはしてるんだな」

 遠回しに同カテゴリ説を否定されず、私は呆れと無念で深い溜め息を吐いた。項垂れついでに次の洗濯物に手を伸ばしたその時。私の頭に結ばれた長いリボンを掠めて、何か鋭利なモノが私の顔のすぐ横にまっすぐ降ってきた。

「……ひぇっ!?」

「あら! 新柄!」

 思わす引きつった悲鳴を上げてしまった私の横で、喜々として咲七はその勢いで地面に刺さった鋭利なモノを引っこ抜く。まだビィィン……と刺さった衝撃で振動していたので、まるで魚でも捕まえたかのようなビジュアルだった。

「……傘? しかも骨が折れてるじゃないか……」

「晴れた日にはよく降ってくるのよ。集めてるの。今日のは珍しくセンスがいいわ」

 咲七はご機嫌でその傘を開いてくるくる回した。降ってきた傘は骨が折れていて、開く勢いもありすぎる。ボツン! と乱暴な悲鳴を上げて傘が開いた。確かに柄は可愛いが、可愛いだけで使い勝手は良くなさそうだ。

「そんなの集めてどうするんだい、出かける場所もないのに……」

 咲七は傘を畳むと、デッキを降りて家の反対側へと歩いていった。小さく手招きされたのでついていくと、そこには何本もの傘が立てかけてある。全て骨が折れていたり、変なデザインだったり、小さすぎたり大きすぎたり。

「趣味、かな。一番良く『落ちてくる』のよ、傘。雨は嫌いだけど、使わなくても……観賞用?」

「なるほど、収集の趣味か。考えたこともなかったよ。それにしても傘が落ちてくるなんて物騒な島だな……」

 私は冷静にそう言ったものの、まだ、あと一歩で傘に刺されかけたことに内心動揺していた。

「大丈夫よ、意外とぶつからないから」

「何を根拠に……」

「ここにあるモノはね、大体降ってくるの。私はそれを集めてこの家で暮らしてる。さっきの洗剤も、長靴も、食べ物も……」

 なるほど。

 そしてその大体のものは、きっと使い勝手が悪い。

 しかし、咲七には選びようがない。

「そして貴女も落ちてきたのを、私が拾ったのよ」

 私と暮らすことですらも、多分。

 ***

 洗濯物を干し終わると、咲七は部屋の掃除を始めた。

 咲七の家は、降ってくるものをなんでも拾ってはそこらじゅうに保管しているので、なかなかにごちゃごちゃしている。広くないこの家にそれらが有るということは、私の言葉で言えば「汚い」の一言だった。

 しかし、咲七はそれを「ここらへんは私のお気に入りなの、動かされたら困るし洗濯も手伝ってもらったからいいわ。貴女はゆっくりしていて」という言葉で、私の『片付けたい』という遠回しな主張はあっさり却下されてしまった。

「……なんてことだ……」

 自分の部屋として与えられた屋根裏で、布団を積み上げただけの簡易的なベッドに倒れ込み、私はぼそりとそう呟いた。

 具体的な言葉で言わなかったのは、そう言ってしまうと負けを認めてしまいそうになるから。

 どんだけ意地っ張りなんだ、と己で己に呆れてしまうが、確かに私は負けていた。

 この島での生活に待ち受ける、退屈という敵に。

 今の私に、今までの記憶は確かにない。

 しかし、身体が覚えている。私が生きていたかつての時間は、こんな退屈で、何もない世界ではなかったのだと。

 そして、何も無い私には、この何もない世界で過ごすことが、何よりの苦痛。

 何も無い、という事を実感してしまうからだ。忙しい方がまだ、良くも悪くも満たされる。

「咲七のように趣味でも見つけてみたらいいのだろうか……?」

 趣味。多分、私にはなかったものだ。馴染まない言葉を数回繰り返してみる。趣味……趣味……。

 私は簡易ベッドという名の布団の山から起き上がると、部屋の隅に転がっているガラクタの中から、本を取り出してみた。

 どうやらここの言語と、私の脳みそにインプットされている言語は同じらしい。

 パラパラと流し読みしながら、何かヒントになるものはないかと探す。

 どこの国のかもわからない妙なオチの童話、気味の悪い怪物の逸話、毒きのこの図鑑……。

「……ろくなものがないな。誰の趣味なんだこれ……? 咲七もこんなのなんで拾ってくるんだ? このきのこも気味が悪いぞ……私なら目の前の海に投げ捨てるな……」

 もしかして咲七はもう退屈にやられてしまった人なのか?

「…………くそっ」

 段々苛立ちが隠せなくなってきた。

 私はいつまで何も知らないまま、この不便なものに囲まれていなければならないんだ?

 ***

「あら、アリウム、どうしたの?」

「……どうせお世話になるなら、食事ぐらいは作ろうと思ってさ……ええと、包丁はどこだい?」

「あらまあ、じゃあお願いしちゃおうかしら。……その棚の下よ」

 そうして考えた挙句、私はキッチンに立っていた。咲七が指した先にしゃがみ込むと、釘で包丁が吊るしてある。なんて物騒な。

「……歪んでるな」

「降ってきたものだからかしらね」

 刃物も降ってくるのかこの島。槍でもなんでも……って言うけど、包丁は流石に怖すぎるな。

 誰のゴミ箱なんだよここ。あ、もしかして『夢の島』っていう、神様のギャグだろうか。

 流石に寒すぎるか。

 そんなくだらないことを考えつつ、手元にある野菜を歪んだ包丁で切っていく。

 唐突に料理を始めた訳は、お世話になっているという理由が3割、キッチン用品が他より充実してたという理由が2割、あとの5割が暇潰し。

 それに、なんとなくだけど、人の為に料理をするという行為にしっくり来ていて、何かを思い出せるかもしれない、と思ったのも理由だ。

「何を作るの?」

「シチューかな」

「素がないじゃない、あと牛乳もないわ……それに、芋じゃなくて大根よ、それ」

 勿論、この島では食べ物も降ってくるか流れてくるからしい。

 例のスープも、咲七が手元にあるものをなんとかして料理した結果があの味だったのだろう。

 ……流石にもう、あの料理は食べたくない、というのも、キッチンに立った理由だろうか。あのスープ、こっそり捨てさせて貰いました。ごめんよ咲七。

「スキムミルクとコンソメと小麦粉。これでそれっぽいのが出来るよ。野菜も、芋には劣るけど大根でも代用は利くさ」

「へぇ……」

 どうやら咲七には、少なくともアレンジ料理の知識はないらしい。

 私はただ、どこからか湧いてくる記憶に従って、野菜を切っていく。

 干からびた大根、頭しかない人参、玉ねぎはないので長ネギ。肉もなかったので、浜に打ち上がっていた得体の知れない魚をすり潰してまとめたやつ。ちゃんと本で食えることは確認済みだ。

「手際が良いわね」

「どうやらね」

 不思議と動く手を、私自身も他人事のように眺めている。私の手は鍋にバター代わりのマーガリンを落とすと、ポンコツ野菜達を炒め始める。途中で魚の団子も投下。炒めたら水を足して、スキムミルクとコンソメ。一度蓋をして煮込んで、小麦粉で粘度を調整した。

 ……大根と魚のダシのせいでシチューというより海鮮クリーム鍋だな。マーガリンの植物油も微妙。

 でもまあ、あの辛苦いスープよりマシ……な、はず。

「じゃあ、頂くわね」

「……うん」

 そうして謎ミルク鍋シチューと、かなり固くなったバケットを皿に盛り付けて、私と咲七は食卓についた。

 咲七は躊躇わずシチューを口に運ぶ。

「……あら、よく出来てるわ。バケットもふやけて食べられるレベルに戻ってる」

「そうかな……ありがとう」

「まあ、流石に素を使ったのには勝てないけど、凄いわね……ここまで近づけれるなんて、アリウムは料理慣れしているわね」

 微妙な出来のシチューを褒められ、嬉しさと恥ずかしさから私はスプーンを泳がせてしまう。咲七は料理の経験値があると言ってくれたが、それが記憶にない今……素直に喜べない気持ちもあった。作ったのは自分だが、まるで他人が作ったような気持ちにもなる。

 しかし、ここで卑屈になる権利は私にはないので、素直に礼を述べるに留めた。

「私は食べれればいいと思ってたから、どうしても口に合わない味になっちゃって……今度教えて?」

「もう少し、思い出したら、な」

 なるほど、それであの謎スープ。というか、君も口に合わないと思っていたのか……。私は呆れながらも、咲七と小さな約束をした。

 ***

 ようやく島に夜がやってきた。日の沈む海はそれなりに綺麗だったが、残念なことにこの島にカメラはない。

 私は部屋の隅に転がるガラクタをひっくり返して、何も書かれていない真っ白な本と、黒鉛を挟んだだけの古い鉛筆を見つけていた。

 屋根裏の通気口を開けて、僅かな隙間から見える景色を描き写していく。思いつきで始めた事だが、私はどうやら器用らしい。それなりに見えるぐらいのスケッチは完成した。

「なるほど、ものは考えよう、だな」

 趣味、というものを知ると、咲七のガラクタは割りと役に立つものばかりだった。趣味が悪い本も読んでみればそこそこに面白かったし、集められた傘は雨ばかりのこの島では必需品っぽかったので、一本譲ってもらった。

 淡い紫の小花柄のそれは骨が折れてはいたものの、それ以外はかなり綺麗で、骨も軽い。ワンタッチで開く逸品だ。咲七が拾っていたダクトテープで骨折に応急処置を施して、今は簡易ベッドの隣に立てかけてある。

「ふむ、飾るっていうのも悪くないね。逆さに下げたら物置にもなりそうな……」

 あるものだけでなんとかしていく。その達成感は、なんでもある、とはまた違った趣があることに気づく。確かに不便に変わりはないのだが、不便を楽しむ余裕が生まれていた。

「……1日で変わるもんだな、部屋も、考え方も。何も覚えてない癖に……」

 漂着した木材を積み上げて本棚を作り、適当な布でカーテンを作り、今日が一体何曜日なのかも知らないが、殆ど日曜大工じみた片付けを終えて、私は満足した。

「ふう、今日はこれぐらいにしておいてやろう。まだ汚いけど、そろそろ寝るか……」

 あんなに散らかって不便だった空間をカスタマイズ出来た、という満足感に私はため息を吐き、その日はそのまま布団に潜り込んだ。

 ***

「……っ、はぁ……やめ、やめろ、いや、だ……」

 屋根裏の明かりが消えたので、アリウムが床についたことを察する。私もそろそろ寝ようかな、と思った所で、聞こえたのは魘される声。

「……やはりね、貴女も、『私』だわ」

 屋根裏へ続く梯子を登り、彼女の様子を覗こうと顔を出した。

「あら、カーテンまで……器用ねえ、これも経験の差なの?」

 しかし、目の前を阻んだのは、古布を縫い合わせて作られたカーテン。綺麗に組み合わせられたそれは、漂流物で作られたとは到底思えない。

 私はちょっとだけ嫉妬しながら、カーテンの隙間を覗く。布団を丸めただけのベッドの上で、アリウムは何かから逃げるように寝返りを繰り返していた。

「やめ、やめて、返して……あ、あの、こ、あの子、だけ、でも……」

「……アリウム」

 そっと額に触れると、明らかに体温が高い。アリウムのような小さな身体にはどのぐらい負担になるのか、私には想像がつかなかった。薬も氷もここにはない。簡易的なハーブの調合なら少しは出来るけど、気休め程度にしかならないだろう。

「でも、無いよりマシよね……」

 一度梯子を降り、ハーブを保管してある棚から乾燥したハーブを取り出す。幾つかすり潰して紙に包み、浄水した冷水をボトルに入れてまた戻った。幸い、この島はハーブ……というか、草花には困らない。いつも珍しい花ばかりが咲く。……彼女もそうだ。

「っ、はぁ、はぁ……はぁ……さ、咲七……?」

「大丈夫? 魘され方が酷かったから……」

 戻ると、アリウムは冷や汗をかきながら飛び起き、肩で息をしていた。自分でも魘されていたことに驚いているみたい。……そうよね、何も覚えていないのに、突然魘されるんだから、驚かないはずがない。

「……起こしてしまったならすまない、騒がしくして、しまって……」

「…………アリウム、遠慮しないで……大丈夫よ、私はまだ起きてた」

 それでもアリウムは、まだ顔色も悪いのに私を気遣った。

 そして、なんでもないフリをした。

 私はその態度に、少しだけムッとしてしまう。

 それは、彼女が私とまだ一線を置くことへの不安なのか、それとも彼女の経験への嫉妬なのか、彼女が大人ぶることへの怒りなのか……はたまた、その全てが混ざったものなのかよく解らなかった。

 誰かと触れ合うという事は、こういったよくない感情とも付き合っていく事だと知らされて、私もまた内心驚いてしまう。

「……咲七?」

「ああ、ごめんなさい。少し熱があるようだから、これ……熱冷ましの効果がある花のパウダーなの。薬代わりに」

「……は、花っ……? ああ、うん、ありがとう……」

 アリウムは一瞬躊躇ったが、ボトルとパウダーを受け取る。

 やはり、花が苦手だとは言ってくれない。

 アリウムは飲む前から苦い顔をして、水を含み、粉を含み、また水を含んでそれを飲み干した。

 そして、飲み込んでからも苦い顔をする。

「…………。」

「……口直しにスキムミルク溶かしたのを持ってくる?」

「いや、いい、いらない」

 それも強がりだと知っているけど、私は黙っておいた。

 ***

 ――あれはなんだったんだ?

 朝が来て、私はそう思った。夢にしてはやたらに生々しい感覚が、私の脳裏を過ぎっている。が、飛び起きた途端、それは現実に塗りつぶされてひとつも思い出せない。

 とても後味が悪い何かだったことだけは、記憶している。そう、記憶している。

 多分、あれは私の記憶なのだ。

「……もう、朝だな」

 通気口を開け放つと、朝日が水平線の向こうから私の腫れた目に突き刺さってくる。あれから、殆ど眠ることが出来なかった。眠ったら、目を閉じたら、またあの溺れるように息苦しい夢が襲ってきそうで。

「……なんだか、腹がもやもやするし……」

 ベッドから降りると、胃の辺りをさすった。昨日の花の粉とかなんとかを飲んでから、ちょっと気持ち悪い。いや、花のせいではないんだろうけど。多分、熱があったせいだ。そうしよう。

 でなきゃ、枯れた花の成れの果てで内臓がやられてるなんて、気分悪すぎるだろ。

 屋根裏から降りていくと、咲七はまだ寝ているらしい。昨日一日の記憶しかないはずなのに、一人で部屋にいる違和感は、なんだか昨晩からのナーバスな胸を焼いた。

「なんか作っておくか……」

 また謎スープを出されたら、胃痛が増してしまいそうだからな。

 ***

「ふぁあ……おはよう、アリウム」

「咲七、おはよう」

「あら、また何か作ったのね」

 数分後、私の料理の音か匂いか……咲七はすぐに起きてきた。

「芋とハムの塩スープコショウ抜きとフレンチトースト……の、牛乳卵抜きスキムミルクマーガリン入り」

「ややこしいわぁ……どうせなんちゃって料理になるんだから、略しちゃえばいいのに……」

 咲七はそう言って苦笑しながら席に着く。

 私も、眠れないので昨日の晩にこっそり作った、自分用の椅子を引き寄せた。咲七の大きさに合わせられた家具の数々は、子供サイズの私には使いづらい。キッチンには踏み台代わりのワイン箱があったのでなんとかなったが、椅子に登るのは多少無理があったので、何ならと自分のものを作ってしまったのだ。

「……アリウム、それ……」

「ん、不便だったから……問題あったかい?」

「………いえ、貴女は仕事が早いわね」

 咲七はぼやくように、私の成果を一瞥する。昨日は眩しかった窓の外は今日は雨。ここでは雨が当たり前だと言うが、私はその景色に少しだけうんざりした。

 雨の音、薄暗い部屋、湿度と気温……その雰囲気の全てが、私の中の嫌なものを奮い立たせる。まるで、大事な物を失ってしまったような……空虚なイメージが湧くのだ。しかし、私には最初から失うものなどない。何も持っていないまま、ここに居るのだから。記憶も、人も。何もかも。

 だから、この不安は……きっと、『余計な心配』なんだ……。

 咲七もなんとなく、というか、どことなく、というか、少し機嫌が悪そうなのは雨のせいなのだろうか?

「でも夜は寝るものよ」

「……すまない、うるさかったろう、今度からは気をつける」

 雨風は昼になるにつれて激しくなっていく。今日は洗濯もなく、咲七はなんとなく床に散らばるモノを出したり引っ込めたり、掃除とも言えないぼんやりとした行為で暇を持て余していた。

 私もどことなく、昨日まで満ちていたやる気を、部屋の湿度に溶かされてしまったようだ。昨日スケッチした絵をパラパラと眺めてみるが、なんとも思わない。昨日はあんなにいいアイディアだと思っていたのに。

 昼には何を作ろうか、と考えても考えがまとまらない。

 咲七から貰った傘をなんとなく広げてみた。

 外に出る気は起きなかった。

 というか、雨に濡れるのが悍ましい程嫌、という気持ちが湧いて仕方ない。

「なんなんだ、これ……」

 頭が変に痛むのは、雨のせいだよな?

 ***

 今日も眠る気はなかった。またあの夢に魘されたら、正気に戻れないような気がしたのだ。

 加えて、何故か今日は一日、ずっと咲七の態度がおかしかった。昨日の穏やかさが一変して、どこかピリピリとした空気の中、私は料理をする以外……屋根裏でじっとするしかなかった。ただ薄暗い部屋で、雨音を聞くだけがこんなにも虚しく、悲しいものだろうか。

「……アリウム、ごちそうさま」

「ああ、食器は下げておくよ」

「ええ、ありがとう。洗うのはやるからいいわ」

「そうかい、じゃあ、おやすみなさい」

 どこか元気のない咲七にとりあえず合わせて、私はまた部屋へ戻る。

「……はぁ、気を回し疲れた、な……」

 ちょっとため息をつくつもりで、目を閉じる。しかし、私の身体は限界だったらしい。そのまますとん、と床に座ったまま眠ってしまった。

「……っ!」

 飛び起きたのは真夜中。階下の明かりは消えているので、咲七も眠ったのだろう。昨日とは違う違和感を感じて目を覚ましたが、咲七を起こしては悪いと、慌てて口を押さえる。

「な、なんだっ……?」

 目に見えているのは、薄暗い屋根裏部屋。昨日目を覚ましてから、何も変わっていない。私に唯一ある、今の記憶。

 そのはずなのに、まるで、まだ夢でも見ているかのようだ。脳裏に浮かぶのは……私によく似た水色の淡い髪色を肩まで下ろした、大人しそうな少女の姿。寂しそうな表情で、知らない町を行く彼女は……誰かに出会う。

 まるで早送りされていく世界で、彼女はその誰かを……信じていく。でも、それは……――――!

「……騙されてる!!」

 気がつくと叫んでいた。

「そいつは、あんたの事なんか愛していない、気づけ、気づいてくれ……き、づ、」

 頭の中の誰かになんて、私の声が届くはずはない。それでも、私は祈る。騙されていく彼女へ向かって、急速に乾く口を止められずに。

「暴力を振るわれて、縛り付けられて、仲間を人質に取られることを……愛情、とは、言わないんだ……」

「アリウム? どうしたの、アリウム?」

 床に転げ回って、真夜中に一人叫ぶ私は余程に滑稽だったろう。咲七が慌てて屋根裏へと昇ってきた。もう隠せなくて、私は駆け寄ってきた咲七にしがみつく。

「わからない、わからない、知らない人が……でも、知ってる、私」

「落ち着いて、アリウム」

「脳裏に、誰かが視える……私に似た、ひ、と、だまされ、て、る、はぁ、こわい、わから、い」

 必死で状況を伝えようとするのだが、完全に私は混乱していた。自分でも説明がつかないこの状況を、どうやって言葉にすればいいかわからない。まるで溺れているかのような、ゆらゆらとした現実に恐怖していた。

 しかし、咲七はその端的な言葉で何かを察したのか、一瞬ものすごく辛そうな、悲しそうな目をして私を抱きしめた。そしてすぐ、明かりをつけて、私の背を撫でてくれた。

 さっきまでお互いどことなくピリピリして、気を張っていた影響もあったのだろう。その行為だけで酷く落ち着いて、私は眠る、というより、気を失うかのように再度目を閉じた。

「アリウム? 起きた?」

「……う、う、ん……?」

 翌日、私が目を覚ましたのは、家の一階に布団を丸めて作られたソファだった。不十分な厚みのせいか、背中が痛かったが、構わず起き上がる。咲七は慌てて私の額に手を添えたが、どうやら熱は出さなかったらしい。

「す、すまない、昨日は」

「……いいの、驚いたでしょう」

「………正直、何があったか覚えてない。すごく、怖かったことと、君を起こしてしまった事は覚えてるんだが……何が、あったんだっけ……?」

 頭を抱えて記憶を巡らせてみるが、ぼんやりとしか思い出せない。物覚えは良い方だと思っていたが、一度深く眠ったからだろうか? また、誰かが私のリセットボタンを押したのかもしれない。

 そう思ってしまうほど、すっかり昨日の記憶は消え去っていた。

「きっと、魘されてたのよ。でも、具合が悪くないなら良かったわ」

「……そうだな、診ててくれたんだろう、ありがとう。さて、お詫びに何か作るよ」

 思考停止しなかった、と言えば嘘になる。でも、咲七の本当に安心したような笑顔を見ていたら、昨日のことも本当に夢だと思った。思えたのだ。

 確かに、私は何も知らない。宙ぶらりんなまま、空虚なままは嫌だ。咲七は何かを知っているようだ。でも、教えてくれる気はないらしい。

 だから、私はあえて聞かなかった。

 それを知るのは、きっと今じゃなくても良い。

 今じゃなくても。

 ……この、穏やかな日も、もしかしたら嘘なのか? だ、なんて、あんな夢の後じゃ恐くて聞けないじゃないか。

 ***

 それから2日。此処に来て5日が経過した。

 次の日も、その次の日も、『夢見』は最悪だった。

 最初は混乱したが、こう毎晩様子を『視る』ようになると、慣れてきたのだろう。今ではすっかり、取り乱すこともなく、毎晩、彼女の幻影を、私は何も出来ないまま眺めていた。

 夢の中に出てくる『彼女』は、とても孤独な少女だ。

 そしてとても私に似ている。

 どうしてそう思うのかはよく解らなかった。

 私は未だ、自分のことをよく知らないままだ。

 今では、きっと彼女のことの方をよく知っているほどに。

「ん……ああ、またか……」

 今日も彼女を視る。

 一緒に住む、身寄りのない子供を家の前で遊ばせているようだ。

 彼女は丘の上にある小さな共同住宅に住んでいる。丘の向こうには駅のある小さな街が望めるが、嫌われ者の彼女は、すすんでその場所には行きたがらなかった。どうしても生活で必要な時だけ出向い、彼女を遠ざけたがる住民に傷つけられながら、必死で物を入手してくる。

 空から降ってくるなんて、甘えた世界はここには無い。

「……何が君をそこまで突き動かすんだろうな」

 集団生活しているのだから、誰かに頼んだっていいはずなのに、彼女はそれをしない。嫌われ者だという以前に、彼女はおかしい程我慢強かった。子供が彼女に向かって手を振ると、彼女は笑って振り返す。その手にあるのは血の滲んだ包帯。

 初めて視た、私がパニックを起こしたあの日の彼女は……一人の男と出会った所から始まる。知らない世界で一人目を覚ました彼女を助けた恩人。しかし、その正体は……何も知らない彼女に暴力を振るい、コントロールするDV男。

「もしかして、咲七もそうなのかな……」

 あの彼女と、今の私にはとても似ている。

 自分のことを、覚えていないことも。

 ***

 此処に来て10日が過ぎた。

 私は今日も、料理して、少し片付けて、倒れるように眠って、また彼女を視る。

「アリウム、今日のメニューは?」

「カレーとポタージュスープとデザートにドーナツ」

「もどき?」

「ポタージュ以外はもどきだね」

 私が『視る』ようになってから、咲七の不思議な不機嫌は薄れていった。と、いうより、やたらに心配されているのか、少し優しくすらなった気がする。

 が、今でも雨の激しい日はやっぱり、どことなくお互いピリピリするのは変わらない。

 まあ、天気が悪くて機嫌が悪いのは解らなくない。私は極力、気にしないように務めるしかなかった。

「これは?」

「空き瓶が溜まってたからランタンを作ってみたよ、この家の明かりは殆どが切れかけた電球だからね、転んだら危ないだろう」

「はぁ、本当に器用なのねアリウム」

「君が片付けないからだろ」

 テーブルに皿を並べながら、小さなお小言を咲七にぶつける。咲七は困ったように笑った。

 いつの間にか、小さな嫌味を交わすぐらいには、私は咲七を信頼していたし、打ち解けていた。

 流石に、胸の内の全てをぶつけるにはまだまだ他人だったが、なんとなく懐かしい雰囲気に、私は安心するところも、今ではあると言える。

「アリウムが来てくれたおかげで躓かなくなったわね」

「危なっかしいな、咲七は」

 暇と趣味が手伝って、咲七の家は隅々まで整頓し尽くしてしまった。

 私の頭は今や、リノベーションの記憶で埋まっている。集めていたガラクタ類を組み合わせて壁の隅々まで埋めた棚には、あの花の粉の数々や、保存の効きそうな食料、あと意味は無いけど咲七がコレクションしているなんやかんや……そんなものでみっしり埋まっていた。

 まだ生活感は拭いきれないが、割と見るに耐える見た目になったと思う。

「まあ、私には少し落ち着かない片付けっぷりだけど」

「おいおい、人の苦労を……」

「冗談よ、いただきます」

「うん、いただきます」

 私の記憶のあと半分は、もどき料理と『彼女』の記憶、そして、咲七との記憶。

 やっぱり自分のことは殆どわからないけれど、これはこれで幸せだと思っていた。

 何も知らない私は、何も知らないままそう思っていた。

 何も知らない、教えてもらえないままの日々は、続くのだ、と。

 ***

「スミレ?」

「そう、食べられるのよね、これ」

 ついにまともな食料が尽きた、土砂降り12日目。つまり私が来て13日目。

 時折流れ着いたり、降ってきたりした謎のデリバリーシステムは、ついに仕事をしなくなったらしい。

 ここ2~3日見ていない食料の代わりに、と咲七が差し出してきたのは、可愛らしい花弁をつけた、忌々しい花そのものであった。

「……これを私に料理しろと?」

「アリウムならなんとかできそうだと思って」

 咲七は簡単に言うが、花嫌いの私に調理法など浮かぶわけもない。あの粉を飲んだ時のもやもやした気持ちが、胸奥に滲んだ。

「………やって、みる………」

「…………そう、よろしくね」

 それでも花が嫌いだ、なんて言えなかった私は、それを渋々受け取る。咲七は自分で言い出しておいて妙な顔をしながら、私にスミレを渡した。

 それから、咲七と喧嘩になるまでは数分とかからなかったと思う。

「だから嫌だったんだっ、私は花が嫌いなんだ!! それなのに人に勝手に花の名前まで付けて、こんな訳わからん散らかった家に閉じ込めて、理解できないし我慢できない!!」

「じゃあそう言えばいいじゃない、アリウムはいっつもいっつもいっつも、平気です大丈夫ですって涼しい顔してはいはいって返事して、後から一人で苦い顔してるんだもの!! 嫌ならその場で嫌だって言えば!!?」

 茹でた花は既にキッチンの床でヘドロ状にこびりついている。きっかけは些細なことだったと思うが、怒りに浮かされた頭ではもう振り返ることができなかった。

 ただ、窓の向こうが激しい嵐になっている事だけが、嫌に冷静に感じ取れる。

 なんだ? 何が起こっている?

 頭の片隅で自問自答するが、もう怒りに満ちた口は止まってくれない。

 自分から居場所を壊していく感覚に、蝕まれていく。止めなきゃという気持ちと、そう思えば思うほどに、何故か火がつく闘争心の間で、もやもやゆらゆら燻っている感覚。

 咲七がボトルのランタンを私に向かって振り回してきた。私は反撃に、手元にあった取っ手のないマグカップを投げる。

「……やはり分かってたんだな、じゃあそっちこそ何故言わない? 何も知らないふりをした!? 私が何者で、何を知っていて何を知らないのか、夢のあの子が誰なのか……何故教えてくれなかった!?」

 マグカップは咲七の後ろの壁に当って、粉々に割れる。その音を皮切りに、部屋には沢山の物が飛び交った。保存できると思って作った砂糖抜きのジャム。花の種で作ったろうそく。スケッチした白い本。レシピをメモした知らない国のチラシ。

 頑張って整えた部屋がめちゃくちゃになっていくのは悲しかった。どうにかモメまいと努力した末に、咲七と言い争っていることも。やはり咲七も私に手を上げる、ということも。

「言っても貴女は傷つくだけだってことを知ってたからよ!! でも貴女はそうしなくても、勝手に一人で傷つく!! 私の努力なんか知らないふりをして、自分だけが持ってるものを、私には出来ないことを簡単にやってのけて自慢して、でも幸せなんかじゃないですみたいな顔してくよくよくよくよ、見てて辛気臭いし虚しい!! いい加減にして、人の持ってるものを勝手に乗り越えて、優しさは捨てるのはいい加減にして!!!」

 そう言うと、咲七は私の胸ぐらを掴んだ。私は咄嗟に頭を腕で庇う。感覚的に知っているかのように、当然のように……私は頭か顔を狙われると判断して。

「っ……」

 きっと、私は誰かに殴られたことがあるんだと思う。

 あの夢の子と同じように。私もあんな、誰かに疎まれるような終わり方をしたんだと思う。

「……っ!」

 その仕草に、咲七は一瞬躊躇った。その態度が何より、私の過去を正解にする。

「二人共、そこでやめ!!」

「……っ!?」

「……むぎ……」

 私がついに殴られる覚悟をした瞬間、居るはずのない第三者の声が耳に届いた。

 と、同時に咲七の腕の力も緩まり、私は顔を上げる。

「……え?」

 驚きに声を漏らす。目の前にいたのは、自分にそっくりの……でも灰色の髪に赤いキャップを被った少女だった。

 ***

「……いや、そっくりさん何人居るんだよ、私は……」

 思わず、率直な意見を漏らす。私と咲七の喧嘩を止めた私の2Pカラー風灰色そっくりさんは、そのツッコミを聞いて冷ややかな目を『むぎ』と呼ばれた少女に向けた。

「咲七ちゃん、もしかして記憶返してあげてない?」

「思い出させたくなかったのよ……絶対、苦しむでしょ」

「何も知らないままの方が可哀想だよ、その上嫉妬までして喧嘩したら意味ないでしょ?」

 そう言ってむぎは私と咲七に歩み寄ると、未だ私の胸ぐらを掴んだままの咲七の腕を振り下ろした。

「う……」

「大丈夫、『姉さん』?」

 私は気が抜けてしまい、ふらりとその場に倒れ込みかけた。ギリギリでなんとかしゃがみ込むが、腰が抜けて立ち上がれない。そんな私の上体を支えながら、むぎは私の目の上に手のひらを翳す。

「え……?」

 途端、あの夢のような映像が、まるで彼女の手から……? 鮮明に流れ込んできた。しかし、その景色は私の知らないものではない。

 そう、それは……。

「私の、記憶……?」

「咲七ちゃんが嫌がってるみたいだから、とりあえず一部だけね。ちゃんと追々、全部返すから安心して。今、一気にやっちゃうと、君も具合悪いでしょ?」

「…………さすが、よく分かってる……片割れなだけ、あるな」

 彼女の正体を思い出し、私はようやく彼女の腕に身体を預けた。懐かしい体温を感じると、ようやく心から一息つけた気分になる。

「それにしても、どうしたんだい、その姿は……私の弟はいつから妹になったんだ?」

「君の精神世界に介入するには、男性の身体のままじゃダメだったんだよ……」

「……精神世界? 私はいくらなんでもそこまで男嫌いか? でもなるほど、己の姿も性格も『自分じゃない』のは、ここが精神世界だから、で説明がつくんだな」

 そう、彼女……いや、本来ならば彼は……私の『双子の弟』として生きてきた、半身のはず。それがどうしてこうなったのか。

 そして自分自身も、思い出してみれば『己ではない』。それが精神世界……元々の身体があった世界と違う世界ならば説明はつく。言葉にしてみるとなかなかに痛々しい単語になるので、あんまり理解したくはないけど。

「まあ、そこも追々説明していくからまずは、そうだね、片付けよう? 姉さん『達』、もう立てる?」

「……そう、ね」

「……そう、だな」

 改めて部屋を見渡すと、なかなかに大惨事な部屋の中なのだった。

 ***

 スミレはむぎの入れ知恵でジャムとなり、私たちは今スミレジャムのトーストと、ジャム入り紅茶を囲んでいる。

 むぎも私と同じぐらいの背丈なので、洗面所にあったワイン箱の上に乗ってなんとかテーブルについている状態なのだが……これはなかなかにシュールな光景だった。

「とりあえず、何も話さなかった事は謝るわ……ごめんなさい、貴女を余計に不安にさせてしまった。貴女は……どこから話せばいいのかしら、これ」

 そう言って咲七は頭を抱えた。むぎはトーストをひとかじりすると、そのパンで私を指差す。やめろ、物で人を指すな。

「今の記憶だけで説明できるとこまで言ってみなよ、姉さん」

 私はお茶を啜ってから小さく頷くと、恐る恐る口を開く。

「えー……私はオリジナルである『サナ』という名の天使の記憶を一部抜き出した、オリジナルの精神世界に住む住人で、その記憶を花言葉に擬えて『アリウム』という名前を付けられている。……合ってるか? 説明がまだよく理解できていない……」

「合ってるよ。アリウムと名付けたのは咲七ちゃんじゃなくて僕、というか僕のオリジナルだから、怒らないで」

「やたら洒落た真似をしてくれたが、いつから花に興味を持ったんだ、お前は」

「君の時間より未来で、かな」

 私はその発言にお茶を誤飲しかける。こいつが未来で花に興味を持つ瞬間があるのか。

 というか……

「お前未来人なのか、いよいよきな臭くなってきた……。なんだこのラノベ感。中二病め。」

「そういうこと言うのやめて、説明するのめんどくさくなってくるから……っていうか、僕にだけ変に当たり強くない?」

 呆れた顔で笑うむぎ。なんか咲七との生活で感じたのとは別のベクトルでムカつく。

「僕はオリジナル……つまり『サナ』から、『アリウム』の記憶と世界を抜き取って一つの存在として、『サナ』の精神世界の奥深くに閉じ込めた。そこは何もない真っ白な世界」

「私はそこから一人だった『アリウム』を拾って、貴女をこの世界に『咲かせ』た。つまり連れ出した。この島はオリジナル……『サナ』のいらないもので成り立っている。貴女も、『サナの要らないもの』なのよ」

 むぎと咲七は順番にそう説明した。私はぼんやり、今までを思い返す。

「いらないもの……」

「例えば壊れた傘、使い物にならなくなったカップ、嫌いな食べ物、苦手な花、そして雨」

 私が最初に嫌だ、イライラしたもののすべてだ。サナと私が同一存在ならば、嫌になるに決まっている。きっとそうして感じた感情も、サナが要らない、抑えつけてきた感情なのだろう。

「私は、『試作品のサナ』なのよ。だから名前が同じ『さな』なの」

「一番最初に、要らなくなったもの、ということか」

 そう言うと咲七は悲しそうに笑う。

「だから羨ましかった。貴女は私の知らない経験を沢山して、でもその分沢山傷ついた……それを助けたいと願った時、とある女神が力を貸してくれた……」

「女神? ……私は神を信じない」

「女神は願いを叶える為の存在よ、貴女の知る神ではないわ」

 そう言って咲七は優雅にお茶を啜る。

 それもまた、未来にいる知ってる者の成れの果てなのだろうか。

 私の知り合いに女神になりそうな者は居ないのだが。

「……女神は貴女が……オリジナルが捨てた記憶の一部だって、悲しむことを望んでいなかった。だから貴女に考える時間を与えた。それがこの島の生活よ。そして貴女は、少し無理をしてでも、あるもので満足しようとして、私と良好な関係を築こうとしてくれた。私と女神はそれを知ることが出来た……貴女の決意を知ったわ」

「……私を、この先の目的のために試した、と解釈してもいいのかい?」

「そうなるわね」

 咲七はそう言うと、意地悪そうに笑って頷いた。

 私は少しムッとしたが、不思議と悪い気持ちではなかったので文句は言わない。

「最後の試練だよ、『アリウム』、花言葉を教えてあげる」

 むぎの手に握られた丸い、小さな花。それはアリウムの花だった。

 ネギにも似た、決して派手な花ではない。

 私はそれを受け取ると、静かに胸に寄せた。

『花嫌い』は……サナの感情だ。そして、私の感情でもある。

『いつか、枯れてしまうのが……いつか来る別れが怖い』

 この感覚が、私の記憶のヒントになっている。『花の名』が私の名ならば尚更だ。

「花言葉は『正しい主張』。君は、どんなに間違いと言われても、己を諦めなかった。だから傷ついた。その事実を知りたい?」

「私は……知りたいよ。どんなに傷つこうと、私が……そして、咲七が守ろうとしたものを……。」

 ***

 また、あの夢に似た景色が目の前で繰り返される。

 私は、あの少女と同じように、傷ついた誰かと共に、ひとつ屋根の下で過ごしていた。

 お互い、居場所がなくて流れ着いたもの同士で結成されたシェアハウスだった。

 しかし、その平穏な時間はやはり短くて。

 色んな場所からいろんな人々が集まると、やはり争いごとは耐えなかった。

 まだ子供だった私は、そこにたどり着くまでの間に、旅の中でとある仲間を連れていた。

 はぐれた魔物を魔法で能力者にした、小さな子ども。

 身体も弱く、気も弱い、でも優しい子だった。

 面倒を見ていて、正直、私は忙しくも楽しかった。あの子を愛していた。

 励まし、励まされて二人で生きていけると本気で思っていた。

 自分が厄介者だってことも忘れて、このまま楽しく家族でいられると思っていた。

 けれど、そんなのごっこ遊びでしかない。

 まだ小さいあの子。よそ者の私。

 勝手にあの子を連れた罪から、私は多くの仕事を課せられていた。

 忙しい日々は続いて、会える時間も、距離も遠くなっていって。

 そんな間にも仲間たちの仲違いは続いていき、私もついに巻き込まれた。

 種族間の争いにまで発展したそれは、やがて怒りの矛先が……別の世界からやってきた私達に向く。

 あの子は人質に取られ、私の魔法と薬が無ければ生きていけない。でも私は既に近づけなくなっていて。

 結局あの子は死んでしまった。

 私は自分を強く、強く責めた。

 悔しさに何度も拳を握りしめ、涙を流した。

 なんで、私じゃなかったんだ。なんで、何もしていないあの子が殺されなければなかったんだ。

 返してくれ、返して、返して。

 ***

「ごめんね」

 気がつけば、むぎが強く私を抱きしめていた。

「あの時、僕は君を信じきれてなかった……君に仕事を……勝手な行動を罰として課せたのは僕だ……。君は悪くない、って言った僕が、一番君を悪者にして……僕が君を悪者だと思って止めよう、止めさせようと思わなければ、あの子は死ななかった」

「……違う、私は……」

 そう、あの時。むぎは、いいや、『ルナ』は、『サナ』を止めようとして、強制的に仕事を与え、あの子から離れさせようとした。最終的には、彼らのいる施設のライフラインを全て止め、争いを止めさせようとまでした。それが結果として、あの子の生命にトドメを刺した。

 でも、それはルナが悪いんじゃない。私が、『サナ』が……悪魔と呼ばれていたから、彼は己の正義に従っただけだった。

『あの時の私は本当の悪魔だった、貴方がそう思うのも仕方のない事だし、私がした事は事実……でも貴方はこうして、どこにでも、あの島にも、あの町にも、この世界にも来てくれた……私はそれだけで十分救われたし、希望も持てたわ』

 私は、彼に向かってあの時の考えを、あの時の言葉で吐き出した。

 今のむぎが、果たして彼と全く同じ存在かといえば、そうじゃないのだろうけれど、私は今……どうしても彼に謝りたかったから、そうした。

「勿論、これは私の考えだ、この記憶がないオリジナルがどう思っているかは知らないけどね」

 すぐに、アリウムの言葉でそう付け加える。むぎはただ、笑って頷いた。

 そうして全てを思い出した私は、自分でこしらえた椅子から立ち上がる。

 もう、時間が足りないことに気がついてしまったからだ。

「……さて、二人共ありがとう。全て思い出せた所で、私は己の使命を果たそうと思う」

「行くんだね」

 むぎは静かにそう私に問う。私は頷いた。

 そう、私はこの世界、この島の住人ではない。ここに居て良いのは、咲七だけだ。

「ああ、咲七にも感謝しているよ。何もなくて何でもある、あの真っ白な世界に私は帰らなくちゃ。その為のノウハウは、君とこの島が教えてくれた。きっと彼女の為に、あるものを楽しみながら黙っていれそうだよ……咲七のようにね」

 私は元いた世界へ。そして、また別の記憶の花が生まれる場所へ行く。

 あの夢の先にいた、もう一人の記憶……もう一人の私、未来の私の為に。

 そうして微笑んだ咲七は、見たことのないような顔をしている。

 元は同じ人物なのに、こんなにも同じ時に食い違った表情ができるだろうか。

 私は笑いながら、彼女は泣きそうな顔で……目を合わせた。

「……アリウム、短い間だけど私も感謝してる。もう少しだけ私、片付け頑張るから……全てが終わる頃にはまたこの島で会いましょう。新しい花達も連れてね」

「この狭い島に入りきるかな? なんせ捨てたい記憶が山ほどあってね……」

「言うわね……」

 私は得意げに肩をすくめて見せた。咲七はカチンときたのか、眉を寄せる。

 その光景を見て、むぎが慌てて間に割って入った。

「ストップストップ、また喧嘩始めないで。もう行こう、『アリウム』」

「……そうだな。咲七、さよならは言わないさ。……また後で」

「ええ、また後で」

 私はあえてそっけなく手を振ると、むぎと私の身体は光の粒に包まれる。

 むぎの使った時空移動の魔力が目に見えたものだった。

 これで私は、白い世界へ……夢のあの子を迎える為に、サナの記憶の世界に戻ることになる。

 また、咲七に会えるのは……あと、どのぐらい先の話になるだろう?

 最後ぐらいまた、あの変なスープを飲んでもいいかな、と思うと、少しだけ苦しくなって、私は思わずむぎの手を握った。

「……君も来るのか?」

「少し時間がかかるね。『彼女』の時間に合わせた姿になるのには時間がかかる」

 むぎはそう言うと、少しも困った様子を見せずに笑った。

「我ながら面倒くさいな。……手数をかけるよ」

「それまでの案内は頼んだよ? 君はそうだな、白い世界の案内役さ」

 その表情に、逆に申し訳無さを感じて、私は素直に謝る。

『彼』は気にしていないようで、逆に励ますように私の肩を叩いた。

 私は、わかっているさ、と呟いて、強く頷く。

 徐々に、世界が白に近づいてきた。

「彼女の名は?」

 きっと彼は私と同じく、彼女にも花の名を付けているのだろう。

 呼ぶに困るので、先に聞いておくことにした。

「『シュウメ』。秋明菊の名を持つ記憶。花言葉は『薄れゆく愛』だね」

「的確だ。分かった、じゃあ……次に来る時のあんたは『ムギメ』でどうだい?」

「『ムギメ』? 『麦芽』ではなく?」

 きっと彼が……いや、彼女が来るのは遅くなる。

 そしてそのときは、私の為ではない。シュウメの為にやってくるだろうから。

 双子らしい名を私が名付けようとして、自然と出てきた名だった。

「読み間違い、所詮偽物、ってことさ」

 まあ、そんな素直な理由は……いつかまた、いらないもので出来たスープを囲むときまで、教えてやらないけど。