-Labe2 Trac.1-

最後に殺したのは、私を憎んだ人間だった。

その前に殺したのは、私が逆らった仲間だった。

その前に殺したのは、私が愛した友達だった。

その前は育ての親、その前は婚約者、その前は親の仇。

……一番最初は、『私自身』だった。

神様を信じなかった少女がその反抗の心を持って自害した時、その少女に罪という奇跡が起こった。

***

 『Amethyst』というコードネームの実験体が生まれたのは、『のえる』という少女が死んだ後の話であった。本来であれば地獄に落ちるはずの魂は、何故かとても強い、強い、魔力を持った天使へと生まれ変わった。それは、『神』よりも、ずっと強力なものだった。彼女の誕生に地位が変わることを恐れた神が、彼女を押さえつける目的で神を超える魂を手に入れた。その強い魔力のお陰でどんな事をしても彼女の身体が保つ事に気づいた彼は、自身の魔法の実験体として、まるで石ころのように扱った。

 彼女は、神様にとっての宝石。高貴な色の石ころ。それはまさに「Amethyst」だった。

 彼女は悲しくも、その理不尽と立ち位置を受容していた。してしまっていた。これは罪で己の罰なのだと、自分自身を納得させ受け入れた。そうでもしないと生きていけなかったから。そこにしか居場所がなかったから。必然的にそれが存在意義だったから……。

「―――だから、なんでそうなるんだ、説明は受けたのか!!」

「受けたさ、もちろん。 新しい魔法の開発だと……」

「説明になってないだろ!」

 そんな始まりから数百年後のある日の事。実験体として生きながらも、彼女は事実上、神の右腕であった。悪く言えば雑用とも言えるその立場。尽きることのない力を使い倒されるのが、もはや彼女にとってのの『存在意義』だった。

 数百年という時の中で、きっと、とっくに彼女の心は擦り切れていたのだと思う。実験台としてしか必要とされておらず、名前すら持たない彼女は、疲れていた。後から思えば、朽ちないはずのその身体の内側は既に破綻していただろう。

「いい口を利くようになったな、ヘイヤ。私の弟子だという事を忘れているのではないか?」

「今は師弟の話をしている場合じゃないぞ、アメ!」

 Amethyst、通称『アメ』は、神の指示という名前の『面倒事』を押し付けられ、本来は神や地位の高い天使がするべき多くの仕事を兼任していた。それは、とても一人でやりきれるものではない程に過酷な仕事。それに加え、魔法の実験台としての仕事も増える。しかしアメはその強力な魔力で身体的なダメージを負わない。

 繰り返される高負荷の魔法を受けても崩壊しない魂を使い、新しい魔法の開発を行うと発表があったのは今朝の事。その神の隣でまるで他人事のように受け入れた師の姿を、異様に思ったのはたった一人の弟子だけだった。師弟の関係も忘れ追求するその姿に、やはりアメは冷めきった目線を送る。

「……貴方が必死になる必要が何処にある?」

「いい加減気づいてくれ、お前がされている事はおかしい! 幾ら魂が耐えられても……その苦痛が消える訳じゃない。魂一つを犠牲にしてまで魔法を開発する程、今の天界の体制も追い込まれては居ない……お前は今の神に利用されているだけなんだぞ!」

 アメはその説得を顔色一つ変えずに聞き流す。そんな事分かっている。アメが担う予定の開発は、殆ど兵器を生み出すと同意義。持たなくて良い武力を持つようなものだった。

 それだけ、今の神がアメの魂を手にした事で何かを支配しようとしていた事など、もう何千年と前から知っている。

「どうしても聞き入れてくれないのか……」

「……余計な口を出さないで。私の魂は壊れない」

 確かにアメの身体は壊れない。……ただ、精神的なダメージはどうだっただろうか?

 

 神の企みを知っている上で、自分に拒否権はないという事もわかりきっていた。疑いの目を向けたら、拒否をしてしまえば、それだけこの罪は増える。重なる。身体は壊れなくとも、痛くて苦しい時間が伸びるだけだった。既にアメには逆らう気力などない。黙って耐えている時間が一番平和で居られると信じていたのだ。

「死ねないなら死なないなりの生き方があるんだ……」

 密かに、アメが抱えていた実験資料にアメの指が食い込んだ。

 程なくしてアメを使った魔法の実験は進んでいった。その日々は簡単に、その力とそれを充てがわれる苦痛に耐える間に過ぎていく。気が遠くなるほどに長年続いたアメの実験はいつしか度を越えて、アメを使った禁忌の実験が行われているという噂へと変貌していた。

 彼女の一番弟子であるヘイヤはそれを聞きつけ、懲りずに頻繁にアメを追求しに来る。が、アメの返答は変わらない。

「……失敗したらどうなるかわかっているのか?」

「失敗なんてしない、私は神直属の実験体。失敗は許されない。……疑うことすら罪だ」

「……だが!」

 神の側にいる以上、神への不信は大きな罪だ。これ以上は何も言えない。実験体でいる事こそ彼女にとって生きることそのものなのだ。今更やめろと言われて、じゃあどうすれば? と聞けば、目の前の弟子も口を噤む。

 それでもおかしい、と訴え続けられても静かに首を振るだけのアメに、ヘイヤも引かずなんとも言えない不信感をぶつける。が、やはりアメには届かない。首を横に振られて終わりだった。

「……魂が壊れないうちはいい、でも、お前が本当に耐えきれなくなったら、神より大きな魔力はどうなるか考えてくれ。お前は魔力の爆弾と化すかもしれない。魔力を支えてるのは身体だけじゃない……言ってる意味が分かるだろ!?」

「…………」

 アメはその言葉に、初めて首を振らなかった。天使の、魔族の魔力は身体と精神の2本の柱で初めて安定する。魂はその2つで成り立っている。どんなに器が頑丈であろうと……アメの気持ちが耐えきれなくなったら……? 兵器と同意義の魔法の込められたアメはどうなるのか。

「…………その時は、頼む」

「……ふざけないでくれ」

 怒りに満ちた一番弟子の顔を直視できない。それがヘイヤには、アメ本人の思考より先に出た答えに見えた。

***

 危惧していたその日は、あまりにも早かった。日々エスカレートしていく実験。最初の何杯も強い魔法をかけられたアメが、その魔法に耐え切れず魔法を暴走させた。天界が困惑と恐怖に包まれる中、ヘイヤはやはり、という後悔とアメの安否への不安、そして事故を起こしても尚、アメを助けようともしない神のその態度へと不信感を持ってアメの元に駆けつけた。

「アメ、アメ!!!」

 すぐにあたりは魔法で生まれた火の海になる。それはただの部下一人にどうにか出来るほどの規模ではなかった。それでも頼む、と言われた以上、ヘイヤは逃げ出せなかった。出来たことはできる限りの被害を少なくする事だけ。自分の魔力で抑え込めたのはほんの一部、神をも越える師にはとても叶わなかった。

 瞬く間に、天の国はその魔法の波に呑まれ……神を越えた強い魔法は、身の回りにあるもの全てを消し去った。天の国の街、まるまる一つを。

『どうして……私を使って……こんな魔法が、必要だったんだ……私は……私は何の為に……耐え続けていたんだ……? 私は、私はモノじゃない……嫌だ、考えたくない……私は兵器じゃない…………』

「……!!」

 アメに近づくことすらままならないなか、アメの魔力が力尽きるその最後にヘイヤがその炎の中で聞いたのは、彼女の心からの不信と後悔の言葉だった。アメはヘイヤの忠告を無視していた訳ではなかった。ただ、見ないふりをする事で、アメは自分自身という脅威から周りを守っていたのだ。

「アメ……もしかして、俺が言ったことを……?」

 その言葉を聞いて、ヘイヤも息を呑む。自分がアメを救うつもりで投げかけた疑問が、アメを苦しませていた事に気づいてしまった。『天使は泣いたら死ぬ』ということわざがこの国にはある。心を強く持つことで魔法を維持することを心がけるべく生まれた言葉らしい。……アメはその言葉の通り、泣かない事で自分を自制していたのだ。

 その後、騒ぎが収まってからアメの『処分』が大々的に行われた。アメを監視していた神は先に安全地帯へ逃げ、そのままアメの行く末を観察していたらしい。聞く限りの噂に過ぎないがヘイヤにはそうとしか聞こえなかった。あの時にアメが静かに上げた悲痛な叫びは、願いを聞く耳を持つ神に届いてしまい、アメの罪はまた一つ増えた。Amethystは神の計画を潰したとして地上送りにされる決定が下される。天使にとっての地上送りは罪人への罰を意味していた。

 その大きすぎる魔力を、罰を受ける側とそれを監視する側の2つに割き、アメは二人の罪人になった。それが、Sapphireの名を宿すサナと、Rubyの名を宿すルナ。

「……すまない、アメ……俺も後から追う……」

 アメが罰されるその場を見届けたヘイヤも、罪を負う決意に眉を寄せる。……正体を明かせば、確実に罰は受ける。アメと同じ地に折り立てるという確信がヘイヤにはあった。

***

 見上げれば、ボウル状をしたその街からぽっかりと丸い空が覗いていた。壁に沿うようにすり鉢状に広がった住宅地は、段々畑のごとくどこも日当り良好のようだ。まあ、雲の上なのだから、天気が良いのは当たり前なんだが。……この一風変わった風景にも、ようやく慣れた。

 ここは亜天界と呼ばれている。天使たちが住まう天の国より高く、小さなその街は、罪人として地上での任務を終え、罪を負い終えた天使たちが平和に暮らす『穏やかな牢獄』だ。天界の罪にも色々あるが、多くは全てを統制する神へ反した者や、天使同士で争い誰かを傷つけた者……そして、天界の秘密を知ってしまった別の種族なんかで構成されている。ヘイヤもその一人だったが、ここに来てお仲間に出会ったことはない。恐らく、自分はかなり特殊な事情だっただろう。

 罪人たちの街、というと少し聞こえは悪いが、罪を償う間に規律を乱すような反抗をした天使たちは、堕天使として生まれ変わる際に記憶や態度を神に補正されるらしい。ので、この街自体はそこまで争いやいざこざを見ることは、少なからずヘイヤの立場では少なかった。よっぽど天界の方が『地獄』だった、と溜息を吐いた所で目の前に積まれた荷物を眺め、もう一度溜息を吐く。

 この町で一番の大きな屋敷にようやく借り手が付いたのだと職場の上司から聞いて、ヘイヤは朝から嫌な予感がしていた。空を飛ぶのが速いという特技を活かし、この街に来てから宅配員をしているが、経験上、大抵大きな家に住む奴ほどろくでもない奴が多い。道楽の金持ち、変な趣味のやつ、賃貸を溜まり場にして追い出される奴……今回の得体の知れない嫌な予感は、その家に届ける箱の多くが笑っていたからだ。よく見る通販の箱だけど、こうも並ぶとなんだか気味が悪い。

「なんだ、この無駄に多いロゴが笑ったダンボールは……?」

 これをあの屋敷に全て運ぶのか、と思うと本当に気が重い。職種を間違えたかもしれない。何処に言っても苦労が絶えないものだな、と呆れつつ思いながらも、それだけでは拭えそうにない「なんだか落ち着かない気分」が、理由もわからないままに彼を支配していた。

***

「おいしょっと……はぁ、この姿、荷物運ぶのに向いてないな……」

「な、何なのよこの箱……! 無駄に重、いじゃない……わっ」

 その大きな屋敷の前。背丈の小さなセミロングの黒髪の少女と、長い金髪に黒いドレスといった人形じみた風貌の少女が、笑顔を浮かべたロゴの箱を抱えてやってきた。やたらに大荷物の二人組は段々になった街の中を、汗だくになりながら登ってきたらしい。玄関先に積まれた荷物の数は恐ろしいが、やはりそれの大半が笑っている。

「おっと、ごめんきぃちゃん!」

「なっ……! な、……何入ってるのよ、これ……」

 きぃと呼ばれた少女がよろけたのを見て、黒髪の少女は桃色の羽根を広げてふわりと受け止める。きぃはその体制で一瞬固まった後、気恥ずかしくなったらしい。照れ隠しに彼女を突き飛ばすと、慌てて話を反らした。

「アニメのDVD」

「はっ……?」

「アニメのDVD、全五十話のと、全……」

「す、ストップ! アメ、いい、解説はいいわ!」

 アメと呼ばれた黒髪の少女は、『そう……』としょげながら、その桃色の羽根をしまう。同時に頭の天辺に跳ねた髪の毛も、残念そうに下を向いた。赤紫のワンピースに身を包んだ彼女は、その低めの背で無理やり押すように家のドアを開ける。

「さて、荷解きしちゃいますか!」

 玄関先のうず高く積まれた笑顔の箱を目の前に、アメは腕まくり、仁王立ち。その後ろできぃががっくりうなだれる。今から荷解きを初めて、さて何日後に住めることになるのやら……という荷物の量はもう、怯えすら感じてしまうレベルだった。

「……アメ、これって中身は?」

「そっちが漫画でそっちがDVDでそっちがCDでそっちがフィギュアでそっ」

「もういい、もういいわ……一体、どっちの趣味でこうなったのよ……」

その返答に尚更頭を抱える。目の前に居るアメという堕天使は、きぃにとってはよく知る人物でもあり、初めて関わる人物でもあった。……彼女こそが、かつて神を超えると言われた天使。Amethystこと『アメ』。サナとルナの元の姿、サナとルナが一緒になった姿だ。

「え?」

「……なんでもないから手動かして。寝る所ぐらいは今日中に欲しいから……」

早速DVDを散らかしまくるアメはきぃの指摘というか疑問を聞いていなかったらしい。記憶か性格の操作もあったのだろう、彼女たちとは別人なのだと言い聞かせてアメの手を急かした。

***

 きぃはサナとルナが居なくなった後、二人を探して短い旅をした。サナが戦いの末に亡くなり、ルナも天界に帰ると知ったのはその数日後の事。二人の危機をなんとなく察していたのに気付くのが遅かった事をきぃは悔やんでいた。

 その内にきぃは人の手によって生まれた天使であることを、アメの復活によって神に知られたらしい。元はサナと同じ身体の天使であるきぃはサナとともに罰せられる事となって、この街に来た。最初はサナを追ったつもりで来たものの、勿論もう他人の姿のアメを見つけられるわけもない。

 こんなことサナに知られたらサナを悲しませてしまうかもしれない、と思って一瞬は諦めた頃、それが不覚にも功を奏し……たのかはともかく、生活費を稼ぐためにメイドカフェでバイトしていた所を、偶然客として来ていたアメに見つかって奇跡の再会……できれば別の出会い方で再会したかった。

 ちなみにアメ本人によればサナ自身が死んでしまった為に、今のアメは若干ルナ寄りの性格に神から補正されたらしい。しかし現在のアメを見ていると、サナとかルナとか関係ないただのアニメ好きオタク少女だった。サブカルに触れたのはこの街に来てかららしいけど、のめり込み方を見ても二人の面影とはまた違う。……もしも、アメが神様に魂を握られずに生まれてきたらこうだったのだろう。元々真面目というか、盲目というか、真剣になりやすいところはあったようだし、この人の元々の性格だと思うことにした。

(いや、別に、いいんだけどね……お別れぐらい言いたかったよ、サナ……)

 止めたにも関わらずアニメの解説を始めるアメを見て、サナが居なくなるのとは別の危機感を感じ、きぃは若干足を引く。しかし彼女が一緒に住もうと言ってくれた事、それだけは嬉しかったので結局ついて来てしまった。なんだかんだで、素直になれない自分が自分で憎い。

「……アメ、後で聞くからとりあえず片付けて」

「はーい」

 アメが亜天界に来たその日に街中を這いずり回って(アメ談、多分駆けずり回るの間違い)発見したらしいその物件は、街の一番高台にあった。だからこそ引っ越しが本当に大変だったことは、道中で大分文句を吐いたのでもういい。段々になった住宅街の上からの景色をこれでもかと映すガラス張りの壁とバルコニー。ホールのように吹き抜けのリビング・ダイニングとカウンターキッチン。玄関側には二階に続く階段があり、二階には五部屋ぐらいあるだろうか……?

「や、家賃高そうね」

「えー、そう? お手頃だなーと思って選んだんだけど」

 あまりの立派な家に思わず固くなるきぃ。オンボロ研究路出身の人工天使には考えられない広さだった。アメはさらりと笑顔で返すと、乱暴に抱えていた荷物を置く。物は大切に扱いなさいよ。きぃは内心そう叫びたくて仕方なかった。

「管理人のおっさんは小汚かったけど割と綺麗だし、引越し屋とか家具屋脅したら二日で家具入れてくれたし、やーよかったよかった!!」

 爽やかな笑顔で鬼のような発言をさらりと零す彼女。よくない。それはよくないわ。運ぼうとしたダンボールに挟まれて動けず言えなかったが、きぃは再度心の中でそう叫んだ。

「でも……ここに本当に私住んでいいの? 迷惑にならない?」

「うん? いいよ、どう考えても部屋余るし。 きぃちゃん一人で暮らせるとも思ってないし……なんか家事とか苦手そうだし……」

「うっ……うるさいな……べ、別に生活に困ってなんか……なかったんだから……」

「図星? ねえ図星?」

 まずい、メイド喫茶でバイトしてたのを完全に蒸し返されている。ニヤニヤと迫ってくるアメの顔を押しのけようとしたその時、ふいに玄関のチャイムが鳴った。

「はいはーい、今行きま~す!!」

 ノリノリで飛び出ていくアメ。もう引越しの荷物はこれだけと言ったはずなのに、まだ何か届くのだろうか。

「お、今季最大の名作! たたかう! マジカル☆ツンデレメイド♯♪ ブルーレイ・ディスク・コレクション限定版! キタコレ!」

「馬鹿じゃないの!!?」

「ぐはぁっ!!?」

 きぃは明らかに煽られたみたいなタイトルのディスクが届いたことをはしゃぐアメを見てイラッとした。ついには我慢できず回し蹴りをお見舞いする。背丈の小さなアメは軽々と吹き飛ばされた。そうしてきぃはついに、彼女が大きな家に引っ越してきた意味を知る。部屋の半数は絶対これ部屋の大半がグッズ漫画ビデオ収納部屋になるわ……!

 回し蹴りを食らいながらも「萌えは必要不可欠な栄養素~~……」と呟き、まさしく這いずりながらも玄関に飛び出るアメ。彼女に必要な栄養素は身長と胸に回る栄養だと思う。ときぃは脳内でばっさり切り捨てる。あとまともな判断の出来る脳への栄養も必要だと思った。いつキッチン使えるようになるのかしらね。

「い、今……出ます……」

 きぃからの攻撃のダメージを引きずりつつ、なんとか玄関を開けたアメの前にいたのは、そのナントカ☆カントカのディスクの入った笑みを浮かべる荷物を持った男性。けれど、その表情は這って玄関を出た不審人物を見るよりも、驚きの度合いが高い。その微妙な空気感にきぃはついていけず首を傾げたところで、配達員らしかった男性が思わずに近い色の声を漏らした。

「……な、なんで、お前が……?」

「あっ見覚えある! ……けど、誰だっけ?」

 なんでお前がここに、という彼の声の前に、アメの真顔ですっぱり、一刀両断の発言に彼は思わず滑りこける。DVDセットは非情なまでに床に転がっていったが、即座にアメが滑り込んで大ダメージは防げたらしい。

「一番弟子の顔ぐらい覚えておけ!」

「ああ、ヒラノ?」

「勝手に漢字にするな、ヘイヤだヘイヤ!!」

「冗談なのに……」

 ヘイヤ。かつて、彼はアメの一番弟子だった人物。アメの弟子の中で唯一、忠誠心があるのは彼だった。そんな彼を忘れたつもりはなかったが、アメにとっては自分の事件に巻き込んだ一人でもある。そして、アメを追って地上に堕ちた際にはサナの運命にも巻き込んだ。ある意味アメを一番よく知る人物だが、アメにとってはあまり自分をこれ以上関わらせたくない人物でもあった。通じるとは思わないが、知らないフリもしたくなる。

「……無事、という言い方もおかしいが……生きていたんだな」

「……死ねないからね」

 ヘイヤがふと、複雑そうながらも安心した顔をすると流石にその警戒も解けてしまう。気を許したところで、そのやり取りを見ていたきぃが背後から、恐る恐る割り込んできた。

「あ、アメ?」

「ええと、そちらは……?」

 先に聞いたのはヘイヤの方だった。そういえば面識がないか。アメはなんとかダンボールの隙間からきぃを引っ張り出すと、ヘイヤの前に突き出す。

「きぃちゃん。……『ライト』が造った『サナのクローン』……だった、って言ったほうが良いのかな」

「そうか……」

 ライトはサナの能力を狙った科学者集団だ。サナを殺したのも、結果としてはライトの仕業だ。その後の事はよく分からないが、サナと相打ちで亡くなったトップが居なくなった今……彼らはどうするつもりだったのか今では分からない。そんな団体から生まれた天使が居ることに、複雑な思いを抱えつつもヘイヤは頷いた。

「ええっと……?」

「私の昔の弟子。そして『サナ』の元婚約者」

 いきなりに紹介されてきぃも困惑混じりの顔で状況説明を促す。アメはきぃを指していた指をヘイヤの前へと滑らせると、淡々と、そして簡潔に紹介する。ヘイヤはその冷たさに少し不満そうな表情を浮かべた。

「こ、婚約者……!?」

「……形だけのな。事実上はただの幼馴染だ。サナが城を出てすぐにサナを探しに出たが……先にライトに殺された。元々アメを追って地上に来たんだ」

 サナに婚約者が居る話は、きぃがサナと関わるうちにサナから聞いたことはなかった。ので、一瞬驚いてしまう。が、形だけのものだった、と聞いてすぐ納得した。サナも恐らく形だけの婚約をあまり真面目に取ったことはなかったのだろう。それよりも、生みの親かその仲間が殺したであろう相手に会ってしまった気まずさの方が勝つ。

「そ、それは……なんていうか、ごめん……?」

「いや、別にライトそのものを恨んだりはしていない。アメを……サナとルナと過ごすうちからなんとなく覚悟していたことだ。気にしないでくれていい」

 そう言うとヘイヤは運送会社のマークが入ったキャップを被り直しつつ、首を横に振った。照れ隠しなんだろうか、聡明で真面目そうな雰囲気と少し照れの入ったその仕草に、きぃも緊張を解く。ヘイヤもクールそうな表情から、少し顔が緩んだ。

「あーはいはい、イイハナシダナー」

「……聞いてないな、人の話」

 ……という、のもつかの間。人が必死で自身を守ってくれた話を耳を掻きながら聞き流すアメに、すぐヘイヤの表情が歪む。

「そんなことよりアニメ見たい! はよ、伝票はよ!」

「その前に印鑑。でなきゃ荷物は渡せない。しかも代引きだ、代金!!」

「あー、貴重品ー!! どこ仕舞った!?」

 片手を差し出すヘイヤを見て、慌てて駈け出し、さっき放り投げたダンボールを漁りにいくアメ。その背中を見て、ヘイヤは頭を搔いた。

「すごいな、性格。……天使の頃とは全然違うな」

「サナが死んだの、こんなに影響するものなのかな……?」

「……どうだろう……。意外とわざとやってるのかもわからないな」

 ほどほどにお互いを紹介して貰ったきぃとヘイヤは顔を見合わせ、あまりにも自由奔放なアメの姿に、正直なところ引いていた。元々サナの能力はもうアメの中に半分も残っていないのだが、今のアメの中にあるサナの意識はどうなのか。もしくは、ルナがサナを心配するあまりの気持ちでも働いているのか。それともアメ本人の意識がわざとそうさせているのかどうかも分からない。

 わかるならば、それは本人しか知り得ないだろう。アメの底の知り得なさだけは変わらないな、とヘイヤは溜息を吐いた。

 ようやく荷物の山から財布を見つけたアメはDVDを受け取ると、早速素早い動きでそれを開封し始めた。その姿はもう堕天使の身体に慣れきったようで、アメの適応力なのか、それともアメの求める萌えの力なのか。とりあえず何かすごい力が働いていることをきぃは実感する。

「さて、あの部屋にDVDを置いて……フィギュアは……まんがは……」

 来たばかりの家の間取りもバッチリのようだ。よくこんな広い家をひと目で覚えられるものだときぃは呆れ8割の関心をする。

 いや、それ以前にそもそも彼女はどこから収入を得てこのような家に住み、そのような無茶な買い物ができるの。呆れ返りながらに疑問を抱いた。

「あっ、はやくテレビ繋がなきゃ!! 『放任戦隊イヤナンジャー』が始まる!」

 ……っていうか今度は特撮ものか、範囲広いな。

***

 その夜、きぃが眠ったであろう頃を見計らって、アメは篭っていた寝室から忍び出た。家の内周をぐるりと囲むように設置されたロフト状の二階廊下から、吹き抜けになっているにリビングに羽根を使って静かに降り立つ。そこからバルコニーに出れば、高い位置から一望できるのはこの街の景色だ。標高の高いところに家を買った理由は、広さもそうだがこの景色を気に入ったからだった。バルコニーに吹き付ける夜明け前の風は冷たく、鼻に抜けるような痛みを感じる。

「よっ……と」

 バルコニーの柵に足をかけてから、堕天使の証である色付きの翼で街の中へと飛び立つと、アメは魔法で小さな猫に姿を変えた。

 ヘイヤ以上に飛ぶ速さに自身のある彼女は、いつも空を飛び回ったり、こうして動物のふりをしてこの町を見回る。神様になり得なかった彼女の、せめてもの『神様ごっこ』の一貫だった。天使だった頃に神の命令で多くの弟子を持ったものの、ヘイヤ以外、誰にも相手にされなかった自分。サナとルナが経験した記憶を生かして、神様に見放されたこの街をひっそり守りたい。それがせめてもの、アメなりの『償い』だった。

 勿論、それは完全な善意ではない。そうして得た情報をマスコミや警察に、もちろんいい方向に動くように提供し、その報酬を受ける、所謂『情報屋』でもあった。アメはそうして得た報酬であの大きな屋敷に住んでいる。傍から見れば偽善者のそれだろう。猫の姿のまま街を行く彼女は、内心でそうふっと自分を嘲笑した。

 ……それでも、アメにとってはとても充実した時間なのは間違いなかった。それが自身のエゴでしか無いと自覚していてもだ。

 そんなパトロールを続けてしばらく経ったここ最近、不穏な噂話を耳にした。引っ越し当日もパトロールの手が抜けないのはそれが少し気がかりだったからだ。猫の姿で牙をちらつかせつつ、あくびを噛み殺す。

「大丈夫、もうそろそろ『出来上がる』から……」

 もちろん、この先策を考えていない訳ではない。

***

 ここ数日、ニュースに疎いきぃの耳にも、街の方で些細ながら不思議な事件が多発しているという情報が、頻繁に耳に届く。連日報道される程のニュースになる事件など史上初といっていいほどに、平和なこの街ではありえない事だ。悪さをしないよう性格を補正された天使たちの為の操られた『正しさの街』……この町の住民には本来『出来ない』事のはずだからだ。

 しかも、その事件の詳細と言えば、一番栄えていた店の看板がグロテスクな色に染まっている、車が謎の生物になっている、街の中心にあるシンボルツリーがセンスの悪いトーテムポールになっている……など、街の人が誇るべきものがヘンテコなものに次々と変えられている、微妙な規模の微妙な被害。まるで子供のいたずらか、嫌がらせのようだ。

「変なニュース最近多いわよね……」

 今日もまた報道されるニュースをぼんやりと聞きながら、きぃはテレビ画面に呟いた。

「そうだな……客の何人かもいたずら被害に遭っているみたいだ」

 何故かアメに呼ばれたとかで家に来ていたヘイヤも頷いた。彼の配達先のお客さんも、何人かそのイタズラをされたらしい。

「そ、こ、で、お客さん! いい商品ありますよ!!」

「きゃああああぁぁっ! どっから現れてんのよ、ばかっ!」

 そこにすかさず、テーブルの下からアメが現れた。いつの間に忍び込んでいたのか、きぃのスカートの裾を掠めながら床を滑ってくる姿はまるでカーリングの石のようだ。

「アンタが騒ぎの犯人じゃないんでしょうね!!」

「まさか、人聞きの悪い!! 私は白だよ、きぃちゃんのスカートの中ぐらいのしろ……ぐぶっ!!」

 きぃの膝蹴りを食らいつつ、アメはテーブルの下から仕方なくといった感じで這い出てくる。完全に抜けだした頃にはもうボコボコだったが、それでも何故かアメは得意げな顔をしていた。

「この状況さぁ、改善したくない?」

「この状況って?」

「悪戯。気にならない? 勇者になりたくない?? 伝説の剣、欲しくない?」

 そう言いながらきぃの周りをねっとり周回するアメの前で、雰囲気的にノーは言えない状況にきぃは冷や汗をかく。突然始まった販売の勧誘みたいな状況にあたふたしてしまった。

「……今度は徹夜で何のゲームをしたんだ?」

 その状況を見かねたヘイヤが呆れ顔でアメの腕を引いて止める。その瞬間に席から立ち上がってきぃはその場を逃れた。

「最近噂の悪人退治の為に、こちらをご用意しました! テレレッテレーン」

 某ひみつ道具のBGMを口ずさみながら、彼女は手のひらを開いた。指に引っかかっているのは、チェーンの先についた、薄いピンク色をした三センチ程の棒のようなもの。見た目にはプラスチックか、良くても石みたいな謎の素材感。

「……なにそれ、どっかのお土産? 珊瑚で出来たネックレスみたいな感じ……」

「……その発想はなかった」

 見栄えに悪人退治が出来る代物には思えず、きぃはストレートな感想を吐く。そう言われるとは予想していなかったらしいアメは、しょぼくれながらもその謎の物体に触れる。瞬間、シュンッという音とともに、瞬時に一メートル弱の棒状のものに変化した。

「なんだ、如意棒でも作ったのか? くだらない発明ばっかりして……これ以上休みを潰すなら帰らせてもらうぞ」

「うるさいなぁ、まだ終わってないから!!」

 ヘイヤが肩をすくめ、きぃは何かの手品だと思いながら呑気に用意していたコーヒーを口にする。途端、アメの手の中にあった棒が、弓矢に変化した。矢先がきぃ目の前に現れる。

「げふっ!? げほっげほっ!! きゃああああついいいいい!!」

 突然のことに驚いたきぃは、コーヒーをひっくり返し慌てて駆け回った。コーヒカップは無情にテーブルの上を転がっていき、広めの部屋の大半が散々なことになっていく。アメはやりすぎたか、と頭を掻きながらきぃをなだめた。

「冗談冗談、撃ち抜きゃしないから。とりあえず落ち着いて」

「なにそれ!?」

 きぃは慌ててテーブルを拭きながら悲鳴に近い声を上げた。その疑問に、アメはにこりと笑うだけだ。そうしてそのさっきまで弓矢だった棒を上下に圧迫するように押さえると、元の姿に縮まってさっきのネックレスの形に戻った。

「なんだ、それは? おもちゃじゃないのか?」

「自分の思い通りに形を変えられる武器。名づけて『サウディ』」

 アメは少し得意げにその武器を掲げながらヘイヤの質問に答える。ヘイヤは肩をすくめて、明らかなため息をついた。

「なんだその名前は……人の名前みたいで締まらないな……」

「そ、それ欲しい!!! ……あ」

 が、その一部始終を見たきぃはいつしか撒き散らしたコーヒーの事も忘れ、目を輝かせる。勢いでガタッと立ち上がり、便利グッズのテレビ通販でも見たかのような食い付きで叫んだ。しかし『面白そうだ』と不覚にも思ってしまったのが、なんとなくアメと同レベルっぽく思えて一瞬で我に返る。

「お、言ったね? じゃあ、これからきぃちゃんは、私とこれで悪人退治してもらいまーす」

「はっ、はぁ!?」

 しかし、次の瞬間発せられた言葉はそれよりも衝撃的で、再度きぃは声が裏返るまで叫んだ。せっかく拭いたテーブルの上に勢いで布巾を叩きつけ、驚きに目を白黒させる。

「な、なにそれ!?」

「大丈夫大丈夫、魔力と連動してるからすぐ使えるようになるよ。そんなにコツ要らないから」

「そうじゃないわよ、どうしてそんな話になってるの?」

 アメはもう一度有無を言わさなそうな笑顔でにこりと笑った。何も言わないまま。結局、それに対する返答はない。答えられないのか、答える気がないのか……。どちらにせよこちらに拒否権はないらしい。住まわせてもらっている、という弱みがここに来て出たかもしれない。きぃは結局、苦い顔を返すことしか出来なかった。

 そのやり取りの間にも、へイヤがそのサウディを手に取り、しげしげと眺めながら関心した声を上げる。

「よくこんなモノを作れたな……一人で武器開発した奴なんて初めて見た……」

「発明と魔力と情報力だけは自信があるよ」

 ふふん、とアメは威張る。その態度にヘイヤからの突っ込みも反論もないところを見れば、弟子としてそこは素直に認めているのだろう。

「名前とデザインのセンスは人一倍悪かったようだな……」

「うるさいなあああ!?」

しかし、その威張りもヘイヤの容赦ない一蹴で消え失せる。アメは反論出来ず歯を食いしばって地団駄を踏んでいた。

「ま、まあいいや、きぃちゃん頭下げて。はい、贈与~!」

「こ、この工程居る……? 恥ずかしいんだけど……」

 気を取り直し、アメは贈呈式ごっこを行うと、軽く武器の使い方の説明をした。

「一旦握れば棒状に……あとは好きな武器想像するだけで、魔力を感知してなんとかなるよ」

「へ、へえ……」

 曖昧すぎる説明に、いまいちピンとこないきぃ。好きな武器と言われても……未だに誰とどう戦うかもピンときていないのに出来るだろうか。一抹の不安が脳裏をよぎる。それでも、今回の事件で誰かが困っているのなら。

 いつしかにサナとルナがしてくれた親切を思い出す。……この眼の前の人の力になれたら、あの日の恩を返せるだろうか。きぃは手のひらの上にある、ちょっとセンスの無いアクセサリーを握りしめた。

***

 天界に済む天使には、現在、主にふたつの派閥がある。ひとつは、神に従い、お膝元で暮らし、それを誇る為に清くなければならない『名誉派』。彼らは罪を犯した経験のある堕天使を天使の恥と考え、混血や堕天使、他種族と恋に落ちた天使などを、次々に地上に追いやっていた。過激ではあるが支持も多く逆らうのは難しく、罪を償い終えた後も傷つけられる堕天使は珍しくない。

 対するのが、元々は大部分を占めていた派閥である『正義派』。慈悲派、平和派とも呼ばれるが、根本的な違いはない。彼らは調和、共存を大事にし、誰でも受け入れ来るものは拒まない。

 ただ、その一方で受け入れ続けた沢山の存在を管理しきれなくなっている部分が強くなりつつあるせいで、秩序の不安定さが目立つようになっていた。名誉派はそれを指摘し、己の明確な居場所が欲しければ戦うべきという意見で派閥を広げていった部分が大きい。

 堕天使の住む亜天界において、そして混血であり罪人であったサナにとっても、名誉派は大きな敵だった。元々、神の使いとして魂や幽霊、それが暴走した魔物を狩る戦闘員の役割を持つ天使たちは、争い事を好む面がある。それを悪い方に操作されて起きているのが、昨今の事件なのだろう。今回の事件も、アメ調べでは名誉派の天使が、堕天使をこの街から追い出すためにやっているイタズラらしい。

 既にアメは毎晩のパトロールで、この騒ぎの中心にいる名誉派の天使達に接触していた。どうやら、元『神様の玩具』であるアメを名誉派側に取り込められれば、他の堕天使達もこの先利用しやすいと判断して狙っているらしい。

 そこからアメが調べた情報をまとめると、主犯は三人の天使。セナと名乗る僕っ娘少女、クアと名乗る嫌味ったらしいデジタルジャンキー少女、メナと名乗る妙な服装の女性。その後ろには『ボス』と呼ばれている指示をしている男がいるらしい。

「『名誉派』か……噂には聞いてるが、ここまで過激になるとはな……」

 あれから数日後、またもやアメ宅に呼び出されてやってきたヘイヤが、腕組みをしながら唸る。ヘイヤの耳にも噂はあれから止まない程に届いていた。

「くっそ、あの小娘ほんと! ほんっとむかつく!」

 アメはどうやら彼女らに出くわした瞬間を思い出したようで、何故か地団駄を踏んでいた。気持ち悪いぐらい高速の地団駄に、流石にヘイヤもスルーできない。困惑の顔で聞き出す。

「あいつらとなにがあったんだ……?」

「クアだっけか、あれが親玉の実娘らしくてさぁ……僕っ娘幼女と実娘とセンス最悪女部下にしてるとか怪しくない? どうみても趣味悪くない? お前の父ちゃん(自主規制)って叫んだら、あいつなんて言ったと思う?」

 珍しく怒っていると思えば、内容がおかしい。呆れ返るヘイヤの反応を無視し、アメが物真似混じりに放った言葉はこれだった。

「『黙れ、胸無し。』だって!! くそー!! 絶対〆る!!」

 まるで子供の喧嘩レベルの内容に、一周周って腹が立つ。ヘイヤはそのちょうど手元にあるアメの頭に、勢いで手刀を振り下ろした。

「痛ぁ!!」

「とにかく、もっと慎重に行動しろ。……どうやらサナを狙ってた科学者集団『ライト』も、名誉派が絡んでいるのだろうな。襲われた時に名誉派の主張と似たような事を言っていたのを聞いた……あれは今思えば人間を巻き込んでまで、地上送りの天使たちを追い込むつもりだったのだろう」

 すぐ近くで話を聞いていたきぃが思わず身をこわばらせる。自分が生まれた場所の記憶と、サナが襲われてしまった時の事を思い出したのだろう。アメもそれを見逃さなかったが、敢えて話は流さない。

「……でもこれは、きっとこの先戦いを避けては通れないと思う……。私達、正直追い込まれてる。この先、もっと酷いことになりそうかも、いたずらでは済まない、ね」

 その姿に表情を変え、珍しく慎重な面持ちで呟くアメ。その雰囲気が、冗談では済まないことを言葉以上に語っていた。きぃはネックレスとして服の下に忍ばせたサウディを、鼓動ごと抑え込む。

「戦争は、すぐそこだよ」

****

 その日、いつもの様にアニメDVDを取り寄せたアメの家のチャイムが『ピンポン』と珍しく、軽快に鳴った。普段なら引き続き聞こえてくるいつもの呆れたようなため息は聞こえない。違和感を感じながらも、アメはいつもの通り玄関へと向かう。

「はいはーい」

「お届け物です、印鑑を……」

 ドアを開けて笑顔の箱を携えているのは、見慣れない配達員だ。いつもなら嫌な顔をして、またかと言うヘイヤの姿があるはずなのだが……。

「お疲れ様です。あれ、ヘイヤは?」

「今日はお休みみたいで……連絡もなくて詳細はわからないんですが……」

 そこにヘイヤの姿はなく、聞けば今日は顔を出さなかったのだと代わりの配達員が首を横に振る。弟子として長くヘイヤを見てきたアメは、ヘイヤの勤勉さを知っている。無断欠勤するような相手ではない。それに、きぃの次に生活が楽じゃなさそうなヘイヤが、些細なことで休むはずもない。嫌な予感がした。

「……護身用に失敗作のサウディ渡したからなぁ……」

 色んな意味で、嫌な予感がした。

「……くそ、役立たずを渡したな、あの馬鹿……」

「おーいおい、お兄さん? そっちは行き止まりだぜ、覚悟するんだなぁ!」

 亜天界より下にある天界。その街の路地裏、ヘイヤは追い詰められながらに、どう操っても動作しないサウディを放り投げた。行き止まりの壁に背を向けつつ、じりじりと追い詰めてくる天使の少女を睨む。アイツが、アメが言っていた『クア』と名乗る名誉派の天使らしい。大きなヘッドフォンを身につけた少女に突如攻撃され、今の今まで街から街へ、上空で攻防戦を繰り広げていた。

 そこそこに飛行能力の速さに自信があったのも、元々はアメに従えていた頃にアメに追いつくために鍛えたものだった。それも通用せず追い詰められてしまった理由は、彼女が片手に持つパソコンからの遠隔操作と思われる、刃先の鋭いディスクのようなもの。あれが回転しながら飛び回るせいでヘイヤの逃げ道を塞いだからだった。あれに直で触れれば、あっという間に肉体はみじん切りにされてしまうだろう。せめてサウディが、武器化一歩手前の棒状になれば、叩き落として応戦できるのに、と思ったが、ポンコツなのか肝心な時に役に立たない。

 もうこれまでか。覚悟を決めたヘイヤと、彼女の発明品らしい刃の距離は迫る。

「待ちなさい!!」

 その瞬間、目にも留まらぬ速さだった。慌てて飛び立ってきたのはアメだった。いくら彼女の飛行能力を持ってしても亜天界から天界まで、それもこちらの異常を感知してから飛んでくるには相当の力がいるはずだ。

「あ、アメ……!!」

 力を振り絞って叩き落としたそれががらんがらんと地面に虚しく響くまでに、アメの浅く、荒い呼吸が聞こえる。ここまで必死な表情の彼女は、久々に見た。

「はっ、はぁ、はぁ……ヘイヤ、大丈夫?」

「お前のせいだろ、お前の!」

 アメはごめん、と軽く苦笑いをすると、失敗していない方のサウディを手渡す。すぐにヘイヤもそれを棒状へと変化させ、敵勢に備えた。

「まさかあなたが拉致されると思わなかった、きぃちゃんのほうがセクハラしがいがあるから……」

「誰もが皆お前みたいに下心だけで生きてると思うな!」

「……冗談。でも攫われるのは修行が足りないな、それでも私の弟子?」

そう笑うアメに、普段の茶化すような雰囲気はなくなっていた。久々の師弟扱いに、一瞬で空気は張り詰める。それを言われると、もうヘイヤは言い返せない。

 「……『上』は本気。」

 そう短く言うアメの声も本気だった。天使の頃と同じ雰囲気をまとったアメに息を呑みながら、ヘイヤは頷く。

「変態電脳娘クア! うちの弟子に手を出すのはこの私を倒してからよ!!」

「黙れこの貧乳!!」

 アメは失敗作のサウディを拾い上げると、まるでヒーロー物の口上のようにクアを指さした。まだ変態の娘&貧相論争は続いているらしい。どんな戦いだ、と一瞬ヘイヤは呆れるものの、さすが発明者本人だ。ヘイヤではびくともしなかったサウディをいとも簡単に操り、クアの発明品を叩き落していく。

 対等な関係になってしまっても尚、弟子であるヘイヤはアメに敵うことはないな、とその一瞬で技に見とれる。

 そんなアメに対し、クアも負けじと発明品のディスク操縦と魔力攻撃を繰り返してきた。すぐにそんな場合じゃなかったなと思い直して、ヘイヤはアメに加担するようにディスクを叩き落としていった。クアの操るディスクは威力こそあるものの、所詮物理攻撃だ。魔力攻撃は得意では無いのか、時折魔法は打ってくるものの、純血の天使にしてはあまり威力がない。

「くっ……!」

「おっと、逃すかっ!」

 こちらが優勢になった事で彼女の攻撃手段ももう尽きたのか、隙を見て逃げようとするクアをアメはロープ状にしたサウディで押さえつける。流石にスピードはアメの方が上回る。先手を切れたすぐに彼女は御用スタイルとなった。

「……捕まえた、これまでね、クア?」

 ようやく動きを封じて、アメは少し勝ち気に床に転がされたクアを見下ろす。が、クアはそれも想定内だったのだろうか。悔しそうな顔は見せながらも、未だ反抗的にアメに対してそっぽを向いた。内情を話す気はないのか口を噤んで座り込む。

「ふん、どうせすぐ他の奴らが来る……私はぜーったいに口を割らないからなぁ?」

「……そう……なら次はセナとメナ、か……」

 ……やはり、一人捕まえたぐらいで事は収まりそうにはないか。天界に勢いで乗り込んでしまった事で、この先の場が荒れることは安易に想像できる。3人でどこまでやれるだろう……。

 アメは亜天界に比べ、広すぎる空を見上げた。

***

 一方、きぃはヘイヤの危機を察したアメと共に天界に辿り着ついた後、アメとは分かれてセナとメナを追っていた。アメが危機を察した時、ヘイヤを攫ったクアとは別で何人かの堕天使を連れ去ろうとしていたのを見つけたのだ。元はそちらをアメが追う予定だったのを、サウディを貰って以来『アメの為にできる事をしたい』と考えたきぃが二人を追うことを勇気を出して買って出た。

 戦うことは二人に比べたら得意ではない。それが多分、自分自身が棄てられた理由なのだろう。きぃはなんとなくその事実に気づいていた。それでも、本来戦うべきだったサナが自分と戦うどころか拾って、手を差し伸べてくれたこと。アメが気にかけてくれたこと。アメが償いだと思っていても、自分たちの立場を守りたいと影で努力していたこと。そして、何よりその優しさも知らないで出来損ないだと天使たちに言われてしまうことへの怒り。

 その為にきぃは戦う事を生まれて初めて自分で選び取ったのだった。

「待ちなさいよ!」

 特に飛ぶことに対して特別な特技をもたないきぃと、天使たちの攻防は一進一退だった。追いつきそうで追いつけないレースに悲鳴を上げるきぃ。二人を一人で追いかけるのは一苦労だ。思わず上げた声にからかいを返す天使二人はまだまだ余裕の色が見える。

「やーだよ!」

「来れるものなら来なさいよ!」

 小さな子供で小回りの利くセナと、恐らくメンバーの中では司令塔のメナ。二人を一度に捕まえられる手段はきぃには無い。しばらくのレースは続いた後、きぃはふと良案を思いついた。力で敵わないならトラップを仕掛けるしか無い。二人を追い回してわざと狭い通路に誘導するように飛び回ると、サウディを網状に変化させながら進路方向に思い切り投げ飛ばす。

「いっけええ!」

 飛ぶ力は人並みだが、腕力には少しだけ自信があった。きぃの投げたサウディは遠く二人の先へとまっすぐ飛んでいき、空中で変形したそれは、まるで魚を捕る漁猟網のように空中で花開く。

「ぬわああ!?」

 咄嗟にセナはその小柄な身体で網をすり抜けて先へ行く。絡まったのは、逃走ルートの選択が悪いメナだった。ヒッピー調の髪飾りにボヘミアンスタイルの服装、というなんとも天使らしくない風貌をした彼女は、亜天界の至る所の看板をおどろおどろしい色に塗り替えたり、街のシンボルツリーをトーテムポールに変えてしまった犯人だ。そのセンスから「派手趣味の天使」「センスが悪そうな奴」など目撃情報すら散々で、その姿を目撃した事のあるアメも「見た目だけならキャラが濃ゆそう」と表現していたことをきぃは思い出した。

「貴女、センスが悪いのは噂通りなのね、それも行動にまで出るなんて……」

「なっ、ゴスロリもどきのお前に言われたくはないぞ!!!」

 嫌味のつもりで呟きながら、網に引っ掛かったメナの元へときぃは降り立つ。ジタバタしながら抵抗するも余計に絡まっていくその姿で虚勢を貼る姿はちょっとシュールだ。西洋人形のような見た目に黒いドレスを纏ったきぃと並ぶと……確かに見た目にちぐはぐだが……今ここで格好に文句をつけられる謂れはない。きぃは思わずメナを睨みつけた。

「……! お前、その顔……そうか、お前が『伝説の悪魔』のクローンだな……?」

「だったら、何?」

 きぃは元々名誉派の命令の元、人間に造られたがその使命を果たせなかった存在だ。大罪を犯したサナの名も今や天界では有名なのだろう。一発で正体が割れた事にきぃは少し、腹立たしさと悲しさを覚えてしまった。その怒りをに滲ませつつ、威嚇のつもりでサナのような振る舞いをわざと見せると、メナの眼の色が恐怖色に変わった事に気づいく。

 サナは天界では重罪人だ。その血でできているきぃもまた罪は無くとも、恐れられている事に気付いた。まるで人間たちから嫌われ続けたサナの人生を追体験しているような感覚がそこにはあった。これがサナが体感してきた世界なんだ……。そう気づいた瞬間、きぃの中の怒りと悲しみは増幅する。

「な……!! ぼく、ぼくは、その……っ……」

 目線をメナの先にやれば、仲間が掴まったものの、幼さ故かどう行動していいか分からずに動けずにいるセナ。少女らしい小さな身体が震えている。

「…………」

 サナの事を思い出し、敢えてサウディを剣へと変化させると、きぃは羽根を広げた。堕天使は色付きの翼を持つが、きぃは偶然にも白い羽を持っていた。天使は皆、半透明の白い羽を持っている。それと比べると明確に『白い色の』きぃの羽根。ああ、どうせなら……反対なら、黒い羽根なら。

「命乞いはそこまでよ」

 サナの振りをすれば、きっと、もっとサナの気持ちがわかるだろう。そして、今のアメが望むような役に立てるだろう。心の何処かで、戦いたくないという臆病な気持ちを抑え込み、きぃは誰かの役に立つためにそう振る舞いながらいつかの残酷な悪魔のように、剣を振るった。

***

 ヘイヤが何故、神ではなく自分の元に最初に来たのかをアメは知らなかった。もちろん根本的な理由は、ヘイヤが正義派で、名誉派だった今の神に反感を持っていたからだろうと勝手に思っていた。幾ら弟子とはいえ、あれだけ実験台として摩耗していく自分に忠告を下したのは多くの弟子の中でもヘイヤだけで、自分が魔力を暴走させて天界を焼き尽くしてしまった時も、駆けつけたのはヘイヤだけだったからだ。

 ……今思えばそれで説明がつくことではない。あの頃の自分は、『アメジスト』は、神様が所有するただの雑用係、兼、人工兵器なのだから。近づき難くて当然だっただろう。

「そんな事も知らずに、他人を巻き込んでいたとは……くくくっ、愉快な『実験台様』だ」

 アメに拘束されたまま、状況も構わず愉快そうなクアの笑い声が、アメの耳に届く。しかし、その言葉の意味が理解できず、意味深な含んだ表情にアメは立ちすくんでしまった。

「ど、どうゆう意味……」

 そう言われてみれば、ヘイヤがここに攫われた意味はもちろん、何故ヘイヤがアメと同じように罰を受けて地上に飛ばされたのか、それは何の罰だったのか、サナよりも先に『ライト』に追われていたのかもアメは知らなかった。何故ならヘイヤは普通の天使だったからだ。神への不信があるとはいえ、アメのように追放される理由も、サナのように狙われる理由も、無いと思っていた。

「そいつは元々、神の元に紛れ込んだスパイだ、地獄からのな!! お前という兵器を創る時、正体を暴く為に……そしてゆくゆくはその寝首を掻く為に弟子になった悪魔だぞ!!」

「やめろっ!!」

 無理やりにでも事実を突きつけるようなクアの叫び。その声を阻止するように、ヘイヤは叫ぶ。しかし遅かった。アメの耳に届く衝撃的な言葉。

「へ、ヘイヤが、地獄のスパイ? ……悪魔? スパイ? は、はは、何いってんの……え?」

 アメはその言葉を信じられなかった。彼は、スパイが出来るような、人を欺くような人ではなかったからだ。弟子であった頃もとにかく真っすぐで、一番弟子を取ったばかりで面倒と思った頃、時には突き放す目的で無理難題を押し付けても食らいついてくる程に真面目な弟子だった。他の弟子は自分を恐れたり、面倒がったりする事も多かったが、ヘイヤだけは対等にアメと話をしようと懸命になってくれた。地に堕とされて、サナとの婚約を無理矢理に決められても尚、それを受け入れたような人が……悪魔で、スパイで、自分を…………?

 未だ聞いた言葉を消化しきれず呆然とするアメ。クアはその様子にニヤニヤとした笑みを浮かべて続ける。

「スパイとして抹消されるべき悪魔が神のお慈悲で天使になり、神へ使える為に命拾いしたというのに、懲りずにお前を追って地上に向かった……そして『サナ』に肩入れをした罪……裁かれてもまだお前に接触する……!! お前らまとめて天使の恥なんだよ!」

 アメは衝撃に押しつぶされるように、音もなく地面に崩れ落ちた。慌ててヘイヤがその肩を抱くが、その感覚も遠く感じない。ヘイヤもアメに対して何を言っていいのかわからないらしい。唇を噛んでから言い返した言葉は、クアへの言葉だった。

「黙れ! どちらが恥だ!! 俺は……っ……確かに悪魔だった」

「っ…………」

 ヘイヤの口から答えが飛び出し、反射的にアメは息を呑む。ただの弟子だと散々言い聞かせて突っぱねてきた相手とはいえ、こうもはっきり裏切りを宣言されるとショックが勝ってしまった。

「天界の均衡が……名誉派と正義派のパワーバランスが崩れ始めた頃、その理由を突き止めて均衡を戻す目的で結成された部隊に入った。俺達、悪魔は均衡や秩序を保つために人を裁く。俺たちに陥れられるにはそれなりの理由がある。勿論、アメがその理由に当てはまるなら……俺はアメを殺していただろうな……」

 一際、重い言葉が低く、アメの耳に響いた。くすくすと笑うだけのクアは、未だ抵抗も見せない。が、確かにその場の空気を有利に運んでいた。その状況に、完全に戦意喪失しかけたアメの肩を、ヘイヤは静かに、でも力強く抱き直す。

「だが、地獄はどっちだ。天界の方が遥かに地獄じゃないか……! 追い詰めて追い詰めて、アメを壊したのはお前達だ! あんな狭苦しい場所に堕天使を閉じ込めてもまだ、要らない、消えろ、目障りだと言う、お前らのほうが遥かに悪魔だ!!」

「……『地獄』……?」

 ヘイヤの反論が耳に突き刺さる。ずっと神の所有物でしかなかったアメには気づかなかった。確かに、異様だ。従い、従えて、罰を受け、与え……。それで魂が巡るだけの天界のやり方。善い行いと悪い行いのバランスを図る地獄のやり方。ずっとヘイヤが訴えてきた「おかしさ」の意味に気づいて、アメは顔を上げる。ヘイヤの表情は、その強い声色に反して苦痛に歪んでいた。

「アメ、黙っていてすまなかった。俺は確かにスパイだ。その罪を償い天使として神に使える事で、命だけは許してやると……そう言われて天使にされた。それでもまだ俺は諦めきれず、アメの元に弟子入りしたんだ。でも、すぐにお前を見て考えが変わった。『神より力が強い』ってだけで、どうしてここまで酷い目に遭う必要がどこにあるのか。見てられなかった、腹が立った。……だから、俺は師と故郷のどちらを裏切ってでもその理由が知りたかった。それの結果がこれか、結局は自分が一番目立ちたいだけじゃないか! 何が神だ、こんな仕打ち……!!」

「ヘイヤ……」

 長年、彼を見てきても知らなかった程に、彼は優しかった。同時にクアの言う通り、自分のせいでヘイヤが、何千年と自分の運命に突き合されてしまった事が腹立たしかった。神はそれを狙って、もしかしたらヘイヤを一番弟子にしたのかもしれない、と思うことも。

 アメは静かに立ち上がると、一歩一歩、踏みしめるようにクアに向かう。何も言わぬまま、サウディの弓を引く。終わらせなければいけない。この戦いは、続いてはいけない。私で終わらせなければ。全てを私で最後にしなければ!!

「……ここで殺したら、神からの余計な罪が増えるだけだぜ、いいのかい?」

「…………いいよ」

 クアはもう覚悟をしていたのだろう。クアの静かな最後の言葉に、アメは強い視線で睨む。アメはその弓矢を放った。

***

「あ、アメ……っ」

 クアを倒した後、アメとヘイヤはきぃと合流した。きぃはどうやらあとの二人を倒したようだが、その表情はいまいち浮かばない。不安そうな声でアメに駆け寄ると、何も言わず目を伏せただけで何も語らなかった。

「きぃちゃん」

 彼女もまた、優しい人だ。例え敵でも、倒すのは辛かったのだろう。そう思うとアメの心は痛かった。平然と敵を殺せるのはやはり私だけだ。結局私は、人殺しでしかない。そう思う心は重たくて苦しいのに、何故か静かだった。

 アメは謝罪と労りを込めてなるべく優しく、きぃの頭を背伸びしながら撫でた。きぃは不思議そうな表情で首をかしげる。

「うん、ごめん……行こうか」

 何も言わぬままも二人を連れ、アメはその天界の地を改めて踏み直す。ここが勝負どころだ。今までの全てを無駄にはしない。

「なるほど、ここが噂の敵の陣地ってわけね」

「大分物騒な見た目だな、お前も含め……」

 長く伸ばしたサウディを肩にかけたままアメはきっ、とそのアジトを睨んだ。その姿勢はほぼ、鉄パイプを持った殴りこみのヤンキーだ。機械やパイプでガッチリと繋げられたそのアジトは、黒い煙を吐き出し雲間に紛れている。いかにもな趣味の悪い実験施設を前に、何故かきぃは俯いていた。

「きぃちゃん? だいじょぶ?」

 下からアメが顔を覗きこむ。きぃは驚いて跳ね上がった。

「あっ、あっ、う、うん、なんでも、ないの……。」

 ……そういう彼女の挙動は、明らかに様子がおかしい。優しいこの子に無理をさせすぎているのではないかと、アメは内心思ったが、そこを探ってもきっときぃは本音を言わないだろう。違う個体といえど、所詮彼女は「サナ」だ。どんなに具合が悪くても、笑えなくても、無理やり笑うのは本能に近いのかもしれない。

 アメはそんな彼女の代わりににこりと笑うと、きぃの肩に軽く触れた。

「具合、悪かったら無理しないで」

「う、うん」

 その姿は何かを見透かしたようできぃはどきり、とする。が、それ以上の詮索はなかったのでほっとため息を吐く。なんとか平然を装えた事に胸を撫で下ろした。

 再度アジトを向き合い、ヤンキー風味にサウディを構え直したアメはそのアジトのドアを勢いよく蹴り破った。寂れたドアは軋んだ音を立てながら、ばたんと、勢いをつけて開く。中もパイプや機械がぎっしりと詰まった、雰囲気の暗い研究施設だ。銀色の無機質な壁が怪しげに光る。

「中も趣味わる~い、誰が作ったんだか!」

 機械を蹴ってみる。反応はない。そもそも、人の姿は見つからず、もぬけの殻。音だけが遠く、虚しく響いてゆく。

「おかしいな……」

 自分たちがここに来ることは、こちらの様子を伺っていた天使三人を倒したばかりでまだ知られていないはずだ。逃げる時間はなかっただろう。むしろ、知られてても、知られてなくとも、待ち構えている敵ぐらい居ても良い状況だ。なんなら、敵じゃなくても、待ち構えていなくても誰かしらいてもいいはずなのに。……しかし、何度確認しても完全なもぬけの殻。それが今は逆に怪しい。既に自分たちが乗り込んでくることがバレているのか? アメは内心に首を傾げる。

「少し奥も見ようか……きぃちゃん、いこ」

 アメは先に行こうとして、背後でぼんやりとしていたきぃを呼ぶ。はっ、と肩を揺らしたきぃは、慌てて数歩手前で待ち構えるアメとヘイヤ、二人の後をぱたぱたと足早に追った。その姿がやはりなんだか上の空に見える。アメは内心、きぃの様子を不審に思った。……しかし、あえてそこには触れずに歩き出す。彼女も、まだその違和感の正体に気づいていないような表情をしていたからだ。

「メインルームはここかな」

 とりあえず入れる部屋は全て、くまなくひとつひとつを見て回った。どの部屋も何かしらの実験や開発をしていた部屋に見えたが、一人で魔法武器を開発出来るアメの知識でも分からない程には、手がかりが残されていなかった。最終的にアメは部屋の真ん中にある、重厚な扉の部屋を目の前に呟く。

 嫌に目立つ部屋だ。絶対何かある。ドアにはパスワードキーが仕掛けてあったが、そのキーはずっと変えられていないようで入力キーに傷がついており、一目で分かった。その不用心さすら怪しい。罠かもしれない可能性を脳裏に備えながら、慎重に入力する。

 そんな不安とは裏腹に無事コードは通り、プシュ、と音を立て自動でドアが開いた瞬間。

「危ないっ、伏せて!」

 アメはきぃの頭を押し付けて体制を低くとり、瞬時に地面に伏せた。ヘイヤもその声に反応してしゃがむ。そのすぐ後に、三人の頭の上をビームが掠め飛んで行った。反対側の壁が悲鳴を上げる。

「歓迎されてるようだね、悪い意味で!!」

 ドアの向こうでは、真正面にずらりと並んだロボットが全員、こちらにご丁寧に揃って銃口を向けていた。アメはビームのかすめ飛んだ頭のてっぺんを撫でながら、ぼそりとふたりに作戦を耳打ちをする。

「いい? さん、に、いち……よし!!」

 アメの小さな合図で、全員、それぞれ別の方向へと勢いよく飛び上がった。狙いを定められなくなったロボット達が、慌ただしく三人を追おうとする。

 アメはそのまま壁を蹴って、空中で身体を捻ると、ぐるりと体制を変えた。動きがばらばらになっていたロボット達が、突然に同じ箇所に着地したアメときぃを追い、一箇所に集まる。

 三人が降り立った場所、その足元は、ロボたちを動かしているのであろうメインコンピュータと思しき大きな機械。

 その本体にアメが弓矢で衝撃を与え、きぃが剣でそれを一刀両断にする。

 それを伺っていたヘイヤが二人の手を取ると、部屋を飛び出した。

 三人は勢い余ってドアの前の廊下にぶつかり、そのすぐ後にメインルームは、ロボたちの誤作動から生まれた爆音に包まれた。

「ひゅー! あっぶない危ない。跡形も無いねさすがきぃちゃん。データを先に抜き取っておいてよかったぁ」

 いつの間に入手していたのか、アメは破壊されたメインルームのコンピュータにあった記録をコピーしていた。すぐに手持ちの端末に落としこんで分析する。幸い記憶装置や一部の入力装置は焼けずに残っていたのもあり、分析はすぐ終わった。

 しかし。

「やっぱり肝心な部分だけデータが無い……もう抜かれてデリートされてる。やっぱりバレてたか。向こうに他の施設があるみたいだし、そっちに行ってみようか?」

「やはり一筋縄では行かないようだな……」

 お目当てのモノはなかったようだ。アメは抜き取ったディスクをパキリ、軽快に踏み潰すと、隣にある研究施設の棟へと向かった。

***

「あれ、研究施設にしてはあまり設備が無い……?」

 古ぼけたプレートに第二棟と書かれた隣の施設に足を踏み入れた三人は、大きく広くスペースを取られた研究ルームを歩いていた。実験器具やパソコンが転がるように投げ出されたままで、無駄にがらんとした部屋だった。あちらこちらに転がっている試験管には何が入っていたのかも、もうわからない。ここもう逃げ出した後なのか、と一行が考えながらに歩みを進めていくうちに、薄暗い部屋の中央に辿り着く。

「…………!!」

 部屋の真ん中に、大きな透明のポッドが置かれているのが徐々に確認でき、アメときぃは思わず目を見開いた。空のポッドの中に、小さなケースやコードがたくさん接続されている。

 アメは神妙な面持ちで静かに近づくと、その設備をしばらく見つめて安全と判断したのだろうか、そっと接続されていた横のパソコンの電源を入れてみた。まだ電源が入る。しばらくしてだーっと、流れ出る文字。

「これは……」

知っている。アメはこの光景を知っている。指先で静かに文字列をなぞった。 きぃも、その光景は……痛いほどに見てきたものだった。

「この施設は……私が生まれた場所と同じ……だわ……」

 そう。きぃがサナの魔力から造られたのとまるで同じ。これはクローンのための施設だ。きぃはこの施設に足を踏み入れた時から、そのデジャヴを感じていた。施設にあるもの全てが、自分が造られた時の環境とよく似ている。違和感が確信に変わると同時に、やはり『ライト』と名誉派天使に繋がりがあった事に、改めてショックを受けてしまう。やっぱり、自分はサナを倒すために生まれたんだ……。自分の手に、いつしか差し出されたサナの手を重ねてしまった。

「……この子……」

 部屋の奥に置かれた投棄場に、アメに顔立ちのよく似た『複製』が転がっている。アメより明るい灰色の髪に、緑色のシャツだけを纏った彼女を、アメは静かに眺めていた。その表情は、きぃにもヘイヤにも、いつにもなく読み取れない。アメらしくない反応を見守ることしか、二人には出来なかった。

 どうやらアメの複製は上手く行かなかったのだろう。彼女が動く気配はない。アメは一応ねと言いながらパソコンをしばらく解析すると、そこから読み取った情報は口にせず、『先へ進もっか』とだけ言い放った。

****

「ここがメインの開発ルームか、やけに厳重だね」

 しばらく進んで見えてきた白いドアを、その小さな身体を押し付けるようにアメが力尽くでこじ開ける。それは、クリーンルームを通じて、奥の実験室へと繋がっていた。しかしそのクリーンルームも、もう機能はしていないようだ。動かぬエアシャワーの廊下を通り抜けると、清潔そうなガラス張りのフロアが見える。

 そのフロアへと一行が辿り着いた瞬間、目に飛び込んできた光景に一行は息を呑んだ。今まで殆どの部屋に残されていなかった実験材料がずらりと並んでいたのだ。

「あ、アメ……あれって!!」

「っ……これ、地上送りの天使たちが回収した魂……」

「う、嘘だろ……こんな事に……!」

 そこには沢山の実験台にされたのであろう魂、魔物、霊……挙句の果てにはまさかの天使の姿までがあった。魔法で魔力を封じた状態で、それぞれがケースに閉じ込められている。実験でボロボロのそれらはまるで、趣味の悪い動物の標本のコレクションのようで、囲まれるにはあまりに不気味な光景だ。

「う、酷いなこれは……」

「実験の為にこんなに集めたって事か……」

 やれやれとため息をつくアメ。ヘイヤときぃは息を呑んだ。アメは慎重に、ぐるりと部屋を見渡す。隣接した部屋のそれぞれに、酷い実験の形跡が残っているのがわかる。壁には焼かれた後、床はひび割れ、天井は引っ掻いたような傷……。何かが苦しんだ形跡に見えて、思わず静かに奥歯を噛む。

「分かれて部屋を調査しよっか、ふたりとも、危険だと思ったら戦わずにすぐ部屋を出てきて」

「うん……!」

「ああ、分かった」

 アメはそう告げると、隣の部屋へ入っていく。ヘイヤはその逆方向へ行った。遅れて、きぃも反対側の部屋へ恐る恐る足を踏み入れた。きぃは、正直、この部屋に入ってから嫌な予感がずっとしていた。しかし、行動しなきゃ、アメを救わなくちゃ……と、いう気持ちだけでその心と身体を動かしている。恐い。この先を見たくない。けれど、許せない……。気持ちはもう、ぐちゃぐちゃだった。

「お、おじゃまします……」

 きぃは正面に見据えた怪しげな部屋に静かに歩み寄り、場違いな挨拶と共に薄暗い部屋の扉を開けた。その暗さに目が慣れる前に、きぃはふたつの光を見つける。

 試験官にフタをしたような、細長い瓶の中に揺れている光だ。赤と青の、小さな小さな光だった。鼓動のように、緩く点滅している。その瓶は何かと繋がっていて、その先にあったのは箱だった。

「何故……?」

 その箱を開けて、きぃは思わず声を漏らした。こんな技術があるのだろうか? あっていいのだろうか? あまりの残酷さに息を呑む。さっきのアメの複製が頭をちらついた。

 箱の中に入っていたのは桃色の羽根。きぃは桃色の羽根を持つ天使を一人だけ知っている。これはアメの羽根だ。アメの魔力と同じ波動を感じる。眼の前の赤と青の光が、きぃの視線に反応するように揺れた。まるで、引き合うような小さな間隔……。これって……?

「……きぃちゃん」

 その声に振り向くと、アメが部屋の入口に背を預けて立っていた。声が震えた。いや、『揺れた』。

「……貴女は……いいえ、『あなた達』は……?」

「まだ『僕達』は完璧な『アメ』になってない。『サナ』が死んでバランスが違ってしまったからね……。だから『僕達』の羽根から魔力を抽出して魂を再現するのは安易な事……神はもう一度復活させようとしてるんだよ……完璧な『アメジスト』という兵器を」

 その口調は、ほぼルナの声だった。今のアメはルナの魔力を主体に動いている仮の姿。まだ、アメという一人の天使として完全に同調していないのだ。サナが死んだから。サナの力が無いから。サナは殺されたから。

「じゃあ、これは……」

 きぃは眼の前で光る2つの瓶を握りしめながら震えた声を上げる。アメがゆっくり指さした先に、そのふたつの光はあった。

「サナとルナの魂、そのものだよ」

 その言葉は、まるで呪文のようだった。その言葉がきぃの胸を締め付け、呼吸が止まりそうなほどに辺りは重く、しんとした空気に包まれる。

「どうして! 誰が……誰がこんな事を……!」

 きぃは衝動的にアメにすがって髪を振り乱して叫ぶ。まるで恐怖しているような声しか出せなかった。アメは未だ、普段の姿からは想像できないほどに冷たく、静かな視線と声をきぃに向ける。

「私は……予測してたよ。私はまだ許されていない。私の魂は、完全に神様のモノになるまで続くんだ。神が完全にこの世を掌握するまで……」

「……そ、んな」

 色々な何故? と言う気持ちに押しつぶされ、きぃはアメに縋ったまま地に膝をついた。アメは未だ表情を変えることなく、静かにきぃが抱いたままの2つの光を眺めている。どうして、アメ。貴女は自分が言っている意味が分かっているの? どうして、サナ、ルナ。あなた達は個としての意思どころか、永遠に眠ることも、休むことも許されないの。どうして。言葉にし難い感情で震えることしか、きぃには出来なかった。

「!?」

 しかし、そんな感傷に浸る時間もつかの間。次の瞬間、建物内に爆発音が響いた。地震でもあったかのように、衝撃で地面が揺れる。きぃはアメに縋っていた手を離しながらも、サナとルナの瓶をその身に庇う。

「まずい、ヘイヤ!」

 先にヘイヤの危機を察知したアメが、その瞬発力で慌てて飛び出すと、ヘイヤが捜索していたはずの部屋が跡形もなく壊されていた。ヘイヤの姿は、そこにはない。

「またやられた……!!」

 アメは怒りで壁を殴りながら、駈け出して建物を飛び出す。未だ唖然とするきぃの腕を引いて、逃げるように促した。

「きぃちゃん、多分居場所がバレた! その瓶を奴らに渡さないで!! とりあえず逃げて!」

「うっ、うんっ!!」

 きぃはその声に、慌てて瓶に付いていたケーブルを乱暴に引き外し、アメと共に施設を飛び出す。ヘイヤを捕らえたらしい天使が遥か向こうへ飛び去っていくのが見え、アメが自慢の羽根で急加速して追っていった。一瞬だけ捕らえたその表情は、またさっきと一変、必死の形相そのものだ。

「……あぁ……」

 その目を見たきぃは不覚にも、アメの勇姿と共に、やはり一番に心配するはヘイヤなのか、という淋しげな気持ちに襲われた。出会ったときから優しいなりに、どこか一線を引くアメの態度が心の何処かで引っ掛かっていた。アメだけじゃない、サナもそうだ。サナは手は差し伸べてくれても、その顔が、視線がこちらを向いた覚えは数えるほどしかない。その寂しさの正体に。こんな場面で気づいてしまう自分に嫌気を覚える。

「やっぱり、私は偽物でしかないのかな」

 逃げる途中、ちらりと振り返った背後に、棄てられたアメの複製の影を見る。私はあの子と同じだ。偶然生かされただけで、サナが居なかったらあの子と同じく、一人寂しく転がされてるだけの偽物。あの子を冷たく見ていた目は、アメが今さっき私に向けるものと似ていたように思う。

「……じゃあ、アメにとって、私は……?」

 ……彼女を追ってここまできた自分は? アメの為に頑張らないと、と奮い立たせた私の気持ちは……? 思わず立ち止まってしまった。しばらく自問自答して、ふと思い出す。それでも、あの子との違いは、やっぱりサナとルナが差し出してくれた手を取った事。アメが隣にいてくれた事だ。……それが一番弟子に敵う訳がないとしても。

 腕の中にある瓶の光が、ふいにふるりと震えた。まるで2人が、アメがきぃをいつもみたいに気遣うように。

「……ごめん、必ず……逃げ切るから!」

 きぃは白色の羽根を羽ばたかせると地面を蹴り上げる。黒かったら、なんて願いはもう要らない。私は、私のままこの戦いを終わらせる……!!

***

「ヘイヤ!!」

 一方、研究所を飛び出して、アメは遠く逃げる天使とヘイヤを追っていた。どうやらヘイヤは気絶させられたらしく、呼びかけても反応はない。雑に抱かれて項垂れたままの身体はぴくりとも動かなかった。追手を欺く為か、互いに地面すれすれを飛び交いながら、なんとかアメを巻こうとする天使にアメは必死で追いつこうとする。

「おおっとお!?」

 地面にぶつかりそうになり、アメは慌てて棒状のサウディを地面に突き立てる。それを軸に回転を加えて地面を数歩駆けながら、勢いと反動でターンして空へと舞い戻った。

「ヘイヤを放しなさい!!」

 そうして体勢を整えたアメは、サウディをすぐさま弓矢に変形させて天使を射ろうとした。しかし狙いが定まらない。気づけばかなり上空まで来ていたらしい。風も不安定で放物線も予測できない。加えて、さすがに長く戦いすぎた。いくら無尽蔵の力を持つと言っても、アメにも限界はある。

「くそっ……」

 悔しさに顔を歪ませる。弟子の一人も守れない悔しさ。そんな弟子に、ここに来て迷惑をかけてばかりだった。こんな不甲斐ない師の為に、故郷も自由も、何もかも裏切ってまでこんな目に合わせてしまった。アメはそれがどうしても悔しかった。

「……くそう!!!」

 絶えきれず叫ぶ。攻撃は諦めて、力の限り天使を追うことに集中することにした。

 あの日。実験台にされる事に耐え切れなくて魔力を暴走させてしまったあの日。毎日実験台になる事を引き止めに来たヘイヤを、わざと突き放したのは……一番弟子に心配して欲しくなかったからだ。巻き込みたくなかった。心配される事で可哀想だと思われなくなかった。……自分を惨めに思いたくなかった。だから心を殺した。でもそれが、間違いだった。もっと、きちんと話せば良かった。歯を食いしばる。

「今だぁあ!!」

 雲を突っ切り、風の安定した場所に出る。今なら攻撃も届きそうだ。瞬間を見定めてからアメはもう一度弓矢を構え、今度こそ迷いなく放った。まるで自分への迷いまるごと撃ち抜くような気持ちで指を離す。

「ぬああっ!」

 狙いは外れたが、それがちょうど良く、ヘイヤを抱え去る天使の腕に命中する。

「よしっ! ヘイヤ!!」

 弓の当たった天使と共に、奴の手から離れたヘイヤはずるり、と零れ落ちるように降下していく。アメもそれを追って、地面にぶつかる事はあえて考えず、勢い任せに降下していった。できる限りに手を伸ばす。一秒でも早く彼を救い出すつもりでスピードを上げる。ぐんぐんと地は近づくが不思議と怖くはなかった。

 もう少し、もう少しだ。助けたら、あの日の事を謝らなければいけない。

 アメから『貴方の忠告を聞き入れて、自分を大切にしなくてごめんなさい』と

 サナから『私のせいで貴方まで酷い目に合わせてごめんなさい』と

 ルナから『僕達のそばに居てくれてありがとう』を

「!!?」

 その時だった。高速で落ちていく視界の中に、もう一人の天使を見つけた時にはもう遅かった。ヘイヤ、まずい。最後に目を覚ましたヘイヤが静かに目を開く。自分を見据え、何かを言った……気がした。耳に飛び込んでくる風の音で聞き取れなかった。

 瞬間、激しい痛みに貫かれて、世界の速度が落ちる。視界の端で天使が、ニヤリと微笑む。奴の攻撃は命中だった。

「……っ!!」

 悲しむ暇もなく、次に狙っているのは後方を逃げるきぃ。

「きぃちゃん!!!! 危ないっ!!!」

 アメは叫びながら、今までにない程の速さでその場を飛び立った。疲労など既に感じない。痛みもその一瞬だけだった。それは、風で息ができなくなるぐらい。夢中で必死だった。

 やめて……これ以上はやめて。もう、誰も死ぬ所なんて見たくない。アメの『全て』が、その思いでいっぱいだった。

 アメの叫びで危機に気づき、ようやく振り返り更に逃げ急ぐきぃ。しかし、それを上回って天使はもうすぐ目の前まで、きぃに向かって飛んできた。

「きゃああぁっ!」

 すぐに天使が放った攻撃が、それを回避しようとしたきぃの肩口を掠める。苦痛に悶えたきぃの腕の中から、瓶がぽろりと落ちた。

「……やばい!!」

 アメは一気に進路を変え、サナとルナの魂が入った瓶を追った。羽根と、ワンピースの裾がバタバタとうるさい音が、妙に大きく聞こえる。目標は、小さな軽い小瓶。……それは、どんなに手を伸ばしても、指を掠めるまでには追いつけても……掴めなかった。……とうとう、掴めなかった。

 ……地上に吸い込まれていくその2つが。

 ようやく、地上に、消え去った。

「……は、はは……」

 呆然としたようなアメの、浮いた笑い声。

 ただ、絶句するきぃ。

 その場にいた誰もが、どうにもできなかった。アメは思わず頭を抱え、視界を手のひらで遮る。

 気づけば天使たちに周りを取り囲まれ、逃げ場もない。……最悪の結末だ。

『止まりなさい、罪人達』

 もう逃げ場は何処にも残っていない。

 そう確信した頃にやってきた神様の静止の声で、この日限り、亜天界と天界の間に起きた騒動は終わりを告げた。

***

『余程罰せられたいようですね、『アメジスト』。そしてサナの『失敗作』』

「…………」

 天使に連れられて、神が住まう天界の部屋へとアメときぃは通された。その姿は魔法で羽根を出すことを封じられ、腕の自由は枷で奪われている。口の自由は一応あるが、口答えして通る相手ではない。アメはせめてもの抵抗で視線を反らしてただ黙るしかなかった。

『返事は。自分勝手に暴れまわって楽しかったですか?』

「……どっちが」

 自分勝手したのはそっちだろう。黙りきれず悪態を吐けば、大きな溜息を返される。眼の前の王座に座る神の姿は表情こそ雲に隠されて見えないものの、その指先がかなり忙しなく苛立ちを表現していた。ヒリついた空気の中、巻き込んでしまっただけのきぃが背後で怯えている事もアメの苛立ちの一因だ。

『黙りなさい!』

 返事をしろといったのはそっちだろうに。ふんと鼻息だけで不満を返してやれば、神も流石に反省の色が見えないことに腹を立てたらしい。さっきまで淡々としていた口調が鋭くなる。なんとでも言えば良い。威張ったところでもう、企みを全て知った今のアメには間抜けにしか見えなかった。こんなの神でもなんでもない、権力があるだけの子供だ。

「あなた達『3人』にもう一度、地上での任務を用意しました。今度こそ大人しく仕えないとどうなるか分かっていますね?』

「さん、にん……!!?」

 その言葉に次がきぃが声を上げる。ここにいる2人に課せられた3人への使命。その意味は……もう十分すぎるほど分かっていた。アメはその展開に驚きもせずただ黙り込む。

『分かっていますね?』

「……はい」

 その態度にまた神は苛立ちを見せたが、アメは構わない。静かな返事を返した。

「その罰を享受します」

 静かに頭を下げる。ようやく見せた従順な姿勢に、神が喉だけで笑った。

 ただその地に伏せた顔は、また、こちらも笑っていた。

***

 ……天国とは酷いところだった。部隊で乗り込んだ悪魔の一人がそう感想を残している。その目で確認して、その言葉が嘘ではなかった事をヘイヤは身をもって体験した。支配が支配を重ねる、非対等な関係。その頂点に君臨する絶対的な神の支配。罪に等しい罰を与える地獄の住人が、始めに驚いたのはそれだった。

 ただ、神様を信じなかったというだけ。ただ、偶然に力を持ってしまったというだけで、あんなにも身を拘束された人を見たのは初めてだった。それでも、初めてみたアメの雰囲気に、ヘイヤはただ圧倒された。心を意図的に殺しても、そこにある強さは隠せていなかった。それこそがきっと、神が気に入らなかった部分なのだろう。

 彼は、ほぼ計画的に、自身の羽根を見せた。

 黒い羽は、半透明の白い羽根の世界に浮いて見えた。

 それは動物や植物の、威嚇の色に似ていた。

 それから、その威嚇の色を失った。溶け込む努力をしてアメに近づいた。

 あの人の元に弟子入りした時、神によって『生かされている』者がこんなにも哀れになったのは初めてだった。ただ、憐れむだけではなかった。同時に、尊敬も感じていた。だからこそ、彼女の自由を誰より願った。この師が自由になれる日を飽きずに幾らでも願えた。

 本当はその願いが誰にも届かない事なんてとっくに気づいていた。弟子としてあまりにも非力な自分にも気づいていた。

 のに、彼女は地に衝突する危険すら投げ捨てて、自分にこんなに手を伸ばしてくれる。それだけで願いは叶った気持ちになってしまった。まだ彼女は救われてないというのに。勝手に嬉しくなってしまって。

『アメ、ごめんな。』

 もう、自分の死は覚悟していた。その瞬間、勝手に口から出た言葉は、アメに届いたのだろうか。届かなかったほうがよかったのだろう。あまりにも身勝手で、突き放す言葉だと自分でも分かっていた。次の瞬間、地面に叩きつけられる痛みも、あの頃とこの先のアメの痛みを思えば全然感じない。嬉しさと、入り交じる悔しさの方が勝っていた。

 偉大すぎて優しい、本当の天使を独りにしてしまう悔しさに比べたら、こんなのどうってこともない。