-Label.1 IndiesTrac- -再会の唄-
生き別れた姉と再会した。
僕には、子供の頃に生き別れた双子の姉がいる。細かい経緯はややこしくなるから語らないでおくけれど、六歳の誕生日に僕らは生き別れた。そしてそれはややこしくなる程に、僕と姉の間、そして僕らと世界の間にあるものは、は訳ありというものだった。
科学が発達するこの世界の裏には、魔法が存在する。僕の両親と、姉、そして僕自身も……その裏の世界。魔法の世界の住人だった。世の裏の世界というだけあって、世の中の一般的な理から外れた力を持
つ僕達にも、様々ないざこざがあったりする。……それは、考えようによっては表の世界とそう変わらないのだけれど、表の世界よりも元がややこしいだけあって、簡単な言葉では片付かない事が多いのだ。
そんな不遇な僕らに、降り掛かった災いはふたつ。
ひとつは、僕らの両親が僕らを守るために、己が管理する国の全てを洗脳したこと。国王であった僕らの父親は、自分の国をまるごと魔法で洗脳してしまった。それだけならむしろメリットなんだけど、これが原因で僕らは戦いの
渦中に巻き込まれてしまう。それを知った他国の魔法使いたちがそれを許さず、僕らは戦争で両親を失い、そうして離れ離れになってしまったのだ。
――両親がなぜ、そんなことをしたのか。もうひとつがその理由だ。悪魔である僕と、天使である姉。僕らがどう
して、そもそも『表の世界』に暮らすことになったのか。それは、僕らが『神様に恨まれているから』。……と、答えるべきなのだろうか。説明すればもっと複雑な話なのだけれど、僕にはまだ、明確にこうだ、と言える答えが分からない。なんせ当事者だから。どうして僕らが神様に恨まれてしまったのかを、知る手段が、まだない。
ただひとつ言える事実としては、その恨みの殆どは、姉にふりかかっているらしい。これも、僕には説明が難しい。生き別れていた相手だけあって、彼女を噂程度にしか知らないからだ。いや、言うならば、彼女が噂になったこと
で、僕は彼女が何をしているかを、今知った。と言うべきだ。彼女が悪いことをしたことは知っている。でも、その事情を僕は知らない。彼女が人々に恨まれていることも知っている。でも、どこまでが自業
自得で、どこまでが不当な扱いなのかは知らない。
だから、僕が知る事で、事実なのはひとつだけ。
僕の姉は、『人殺し』の『悪人』で、世間的には嫌われている。
***
それは昔から……生まれつきそうだった。両親の魔法による保護を受けてきた僕らは、それでもその時まで、きちんと人として扱われ、人としての生活をしてきた。王家の生まれだけあって、何なら一般的な市民より、教育に関しては贅沢な環境だっただろう。
だけれど、そんな姉を幼い頃……両親の戦死後に引き取ってくれる親族はいなかった。親族はみな、国外の人だったから、国王の魔法にかかっていない。
姉ばかりがいつも親族に気味悪がられ、いつしか姉には引き取り手が見つからなかったのだ。反対に、可愛がられる事の多かった僕は、親戚に引き取られ、王家出身という期待を貰いながら温かい家庭で過ごした。その
間、姉はひとり、居場所を求めてさまよい続ける羽目になったのだ。
……僕だけが引き取られていく時の、姉の絶望したような、諦めたような表情を僕はまだ忘れていない。きっとそれが、姉を探すことになったきっかけなのだろう。
それから十年が経ち、僕が長旅の中で姉を見つけたのは数ヶ月前。彼女はその時、地元でも有名なテロ組織の一員として、スパイとして活動していた。
……僕はその時、久々に見た彼女の表情と、湧き上がる感情を今でも鮮明に思い出す。
――僕は、生き別れの姉を、恐ろしい、と思った。
***
「じゃあ、シエル、また後でね」
「ルナ様……お気をつけて」
母国である城の玄関先で丁寧に頭を下げるのは、姉のお付きのメイド、シエルだった。この国を継承したのは姉で、僕は正式には王室の者ではない。ただ、兄弟と言うだけで、彼女は僕にも従えている。
「大丈夫、僕も一応悪魔だから飛べばすぐだし、そんなに道中、遠くないよ」
『お気をつけて』の意味がそうでない、と知りながら、僕は茶化してそう答える。勿論、その意味は『姉の存在に気をつける』であるらしい。
「ですが……」
勿論、メイドは不満そうな顔をした。それもそうだ。あの戦争が終わった後も国王の魔法は解けず、彼女たちはまだ彼女と僕を慕っている。そんな相手ですら、長年会っていない相手の悪い噂に戸惑うのだ。
「僕も怖いわけじゃないよ、『悪魔』と呼ばれてる人に関わってるんだ」
その言葉を口に零して、ふっと笑ってしまう。
翼の色こそ黒いものの、天使である彼女が『悪魔』として噂を囁かれていると、なんだか悲しさを通り越して笑えてきてしまう。僕は白い翼こそ持つものの、分類上は悪魔であるのに、悪魔と呼んでくれる相手に出会ったこともない。
「とりあえず、もう一度、ここに顔ぐらいは出させるよう説得してくるよ。今のままじゃ良くない……悪いことなら止めさせないと。」
「そうですね、お待ちしております。我らが城主でもありますから、一度ぐらいは帰ってきて頂かないといけませんので。我々も覚悟しております。」
「連れ帰った時にはビビらないようにしといてよ!」
僕はそう釘を指すと、城を後にする。
飛んで行くのは、歩いて行けば遠い、深い森の中だった。降り立った目の前は、その森の中でも一番深い、人気のない場所。その木の陰だ。
特に目を凝らして探しても居ないのに、こんな深い森から彼女を見つけ出せるのは、双子たる僕だけ……なのかもしれない。確証はないけれど、何故か『姉探し』は得意だった。
「サナちゃん、おはよう」
「……ルー」
長い黒髪を後ろ下でふたつに纏めた髪がゆっくり揺れて、青い目が僕を見つめる。スタイルは良い方だと思うけど、女の子のことは分からないし、なんせ双子。同じ顔なので下手に褒められない。
「……何の用?」
「用事が無ければ来ちゃいけない?」
相対的な赤い瞳を細め、僕は温和に努めて彼女に近づく。人に恨まれていて、更にスパイにも従事する彼女は、普段、人目につかないような場所に旅をしながら潜んで生活しているようだった。木陰に座ったままの彼女は、整った顔に似合わない傷を負っている。昨日はなかった傷だ。
「どうしたの、それ?」
「なんでもないわ」
「女の子なんだから、顔に傷なんか作っちゃダメだよ?」
冗談交じりにそう言うと、彼女はその青い目を伏せる。
「……誰もそんな事、私に思うわけ無い」
ここ数日で強い警戒は解けたように見えるが、僕に明確な敵意が無いと分かったからか、もはや相手にもされていない。僕は手応えのなさに、冷や汗をかく他になかった。
「……で、何の用事?」
彼女は冷たい目で僕を睨む。僕はその気迫に押され、思わず後ずさりしてしまうが、その衝動をなんとか数歩に留めて、結果的には一歩彼女に踏み出した形になった。彼女も、その行動に少し不信感を強めた様子だったが、まだ逃げの姿勢は取っていないだけ、これでも関係は和らいだと言える。
ただ、まだ完全に心を許してくれた様子はなかった。何となくだけど、彼女も僕から少し距離を置いているように感じる。完全に二人の間はギクシャクしていた。
仕方ない。今までチャンスがなかったとはいえ、放っておいてしまったのは僕の方なのだ。そいつがのうのうといきなり目の前に出てきて、あれをやめろ、こっちに来い、などと、簡単に言える立場じゃないのは分かっている。だから、僕は今日も、彼女を探し出してはただ、顔を出していた。
「そうだ、用事……えっと、サナちゃん。久しぶりに実家に顔出す気、無いかな……?」
僕はそう思うことにして、とりあえずメイドとの約束を果たす為、実家に帰ることを彼女に提案した。
何の用事かと聞かれたら、これが本題なのだ。早急な感じになってしまったけど、間違いではないはず。僕はドキドキしながら彼女の返事を待つ。
「…………。」
彼女は乗り気じゃない表情で黙ってしまったが、最終的には頷いてくれた。
***
彼女は空を飛べない。
僕が記憶している限りは、子供の頃にそんなことはなかったはずだ。でも、確かに確認すると、彼女の黒い天使の羽根は……五分と持たなかった。
「サナちゃん、じゃあ、移動手段はどうしていたの?」
「使い魔」
「あとは徒歩ってこと?」
そう問うと彼女は頷く。それ以上の返事はなかった。
この世界には、子供が独り立ちする時に旅をさせる習慣がある。女の子が一人で歩いていても、あまり不思議には思われない……とはいえ、こんなに遠くまで一人で歩いてきた、と言われると、僕はなんだか、形容し難い気持ちになった。それも人を避けて、悪いことにまで手を染めながら。
「そこまでしなくても……良かったんじゃないかな……?」
「……分からないわよ、貴方には」
その質問は心配でもあり、申し訳無さもあり、怒りもあり、疑問もあり。結局己でもその正体が何だかわからないまま、彼女の返答と、その時の遠い目だけを見ていたが、彼女はそれ以上を語らない。僕はもやもやした気持ちでいたが、知らない相手に勝手なことは言えずじまいで……僕と彼女は、そんなひとことふたことの会話をなんとか続け
ながら、故郷の国の入り口までたどり着いた。
が、彼女の様子がそこで激しく変わる。
「やっぱり……帰らないでおくわ。ルー、一人で行って」
「何言ってるの、サナちゃん。シエルはサナちゃんを待ってるんだよ?」
彼女が急に踵を返し、来た道を戻り始めたのだ。僕は慌てて彼女の腕を引くと、彼女は怒ったのか、唐突に強く弾かれる。
「……! 触らないで!」
僕はその行動に驚いて、その腕で自分を庇った。相手は人を殺したとまで噂される相手。温和に話しているつもりでも、頭の何処かで彼女の噂を知っている身としては、どこか警戒してしまうのだ。
怒った彼女に何をされるのか……軽く怯えた後、そっと目を開けた。が、攻撃の類は来なかった。代わりに目に入ってきたのは、意外な彼女の表情。
「……あ、っ、えっと……ごめんね、急に……?」
「…………いえ………。」
殆ど泣きそうな顔で、彼女は小さく震えていた。僕はその違和感に一瞬、あれ、と思ったが、薄々その事実に気づく。僕が、一瞬でも彼女の存在に怯えた事に、深く傷ついたようだった。もしかして、やっちゃった……のか?
「ねえ、な、なんで帰るの……その、やめるの、かな?」
僕はそう思い、慌てて聞き返した。彼女はまた来た道を戻ろうと足を進めて、数歩で立ち止まる。故郷へと続く深い森の中、サクサクと彼女の足音だけが、暗く不気味な森の中を反響していた。その姿が『悪魔』に見えるのは……果たして噂のせいなのか、それとも彼女が持つ気配なのか……――
「……怖い……」
「……え?」
また予想外の言葉が彼女の口から溢れる。僕は思わず目を見開いて、マヌケな声を漏らした。慌てて聞き返すが、彼女はそれ以上何も言わず……使い魔である大きな巨鳥に乗って、その場を離れてしまったのだった。
***
翌日、彼女に会ったのは、大きなビルが立ち並ぶ都会の路地裏だった。何となく、昨日より疲れた顔をしているように見えたが、軽率に突っ込んでまた警戒されても困る。まずは何も気づかないフリをしておくのが懸命だろう。
「おはよ、サナちゃん」
「…………。」
僕は努めて明るく声をかけた。
しかし、今日は返事も無い。やはり、昨日の態度はまずかったのかもしれない。彼女は僕を無視するかのように立ち上がり、街を抜けるように歩き出す。身を隠すように、人の通らない道を選んで歩き進む姿も、やっぱ
りどことなく元気がなかった。
「……ねぇ、どこか行くの?」
「ついてこないで」
なんとなく心配になって、慌ててその後を追いかける。話しかけると、彼女は逃げるように駆け出した。
「あ、待って!話だけでも聞いてよ!」
「話すことなんて何も無い」
ここで逃しては、また振り出しに戻ってしまう、と慌てた僕も、意地になって彼女を追いかけ回す。気づけば殆どレースのように、追って逃げてのいたちごっこと化していた。
「っ、いい加減にしてよっ、私の事は放っといて!!」
「そうも行かないよ、こっちにだって事情があるんだ!!」
続く戦いに痺れを切らしたのか、彼女が叫ぶ。
僕も喧嘩を買うように、思わず本音を零してしまった。彼女は足を緩めると、眉を寄せて息を呑む。軽いショックを受けたような表情だった。
「っ……、そう、そうだったの、昨日からヤケにしつこいと思ってたけど……何か企みがあるのね」
「ち、違うよ、ただ、僕は、帰ってきて欲しいだけで……!」
彼女は眉を寄せ、今までに見せないような険しい目つきで僕を睨んだ。しまった、と思ったが、言ってしまった手前、後には引けない。
「……その、シエルも、待ってるし……ねぇ……?」
必死で弁解しようとするが、すればするほど胡散臭くしか言えなかった。どうしてこんな言い回ししか出来ないのか、と今は自分の言い訳ばかりが得意な口を恨む。
「絶対に行かない、あんな所、行くものですか……! あんな国っ、嘘でしかないもの!」
「っ……!?」
一瞬、ゾクリとした。
怒りに沸いた彼女から感じる殺気が尋常じゃなかったからだ。不気味な翼の色と、感情に関係なく感じる不気味さ。悪寒のような、嫌な予感が僕の身体を走った。彼女は怒りに身を任せ、手元に炎の渦を巻いている。確実に僕を攻撃する体制だった。僕もとっさに、本能的に彼女と戦ってしまう。そんなつもりは一切なかったが、頭のどこか片隅で、戦わなければ危険、という感情が、勝手に湧き出たような……そんな感覚がした。
触発の瞬間、僕は彼女が放った攻撃をかわし、彼女の目の前に爆発を起こす。
「っ、……!」
彼女の息を呑む音で、僕は思い出した。僕は攻撃の魔法のコントロールが苦手なことに。防ぎきれなかった炎に彼女は焼かれ、路地裏から街に吹き飛ばされる。危ないと思ったときにはもう遅かった。彼女が吹き飛ばされ、大通りの方に転がっていく。受け身で叩きつけられることは避けたようだが、体制を整えると、フラフラな足取りですぐに
その場から逃げ出した。
そんな彼女の姿が町の人々の目に写ると、その後に聞こえるのは罵声だ。
『また来たのか人殺し!』
『この国から出て行け!』
『死ね、悪魔め!』
その瞬間、彼女の顔が苦痛と怒りに歪んだのを、僕は見逃さなかった。僕は彼女と、その姿を見た人たちの反応の両方に驚き、慌てて彼女の元に駆け込む。しかし、彼女は僕の足元を衝撃波で崩し、僕の行く手を遮って
人混みの向こうへ消えていった。
「サナちゃん……君、は……」
残ったのは、ボロボロになった道と、僕の胸の底に残る、妙な違和感だけだった。
***
翌日は、酷い雨降りの中。彼女が何処かで暴れた日は決まって大雨になる、と町の人が噂にしているのを聞いた。彼女と僕が戦ったことで、街は一日経った今でも騒ぎが落ち着いていなかった。
「この雨は、君のせい?」
町外れの洞窟で雨宿りをしていた彼女を見つけ、僕は優しく聞いた。彼女は俯いたまま、ゆっくりと首を振る。
「もう来ないでって言ったわよね、ルー……」
弱々しく彼女はそう呟く。膝を抱いて顔を伏せる姿には、昨日の怒り狂った姿はなかった。
「突然、攻撃したことは謝るよ。怖がらせちゃったなら、ごめん。ねえ、疲れてるみたいだけど……大丈夫?」
「私の何が、分かるの」
「……分かるよ、きょうだいじゃないか」
僕はそう言って、そっと彼女の隣に腰を降ろす。隣、と言っても、僕と彼女の座る間には、丁度、もうひとり分座れそうな隙間がある。また攻撃されたら困る、という点で、僕が開けた間。彼女は小さな声で返事をするので、間を詰めたかったが、僕も、彼女もそうしなかった。
それだけ、僕らの間には溝がある、という証にも見える。それが、なぜか心に痛い。昨日は一瞬でもあんなに、怖くて、不気味に思った相手が、とても心配になっていた。
「きょうだい? よく言うわ、今まで、今の今まで私のことなんか忘れて
いたくせに」
「違うよ、僕はいつだって君を心配してた。今更にはなっちゃったけど、旅に出られるようになるまで耐えて……」
それは僕の本音だった。生き別れた十年間、ふとした瞬間に、サナちゃんはどうしているかな、と思うこともあった。まるで本当の声を聞いたかのように、サナちゃんの苦しむ声が聞こえたような夜さえあった気がした。
そうでもしなきゃ、僕は危険を冒してまで彼女に近づこうとはしていない。でも、それって、何故だろう?そこが自分でもはっきりしていない限り、僕の言葉に説得力はなかった。
「……もういい、聞きたくない!! お願いだから出ていって!」
流石に彼女も痺れを切らしたのか、髪を振り乱しながら耳を塞いだ。突如として怒りに満ちた目で睨みながら、彼女が立ち上がる。まただ、ぞわりと背に満ちるような嫌悪感に支配される。今日こそ温和に話したかったのに、彼女と戦うしかなかった。
彼女から放たれる爆風をスレスレで避け、飛んでくる蹴りをかわす。その足を払い、殴ろうとした腕を掴まれ、目の前で起こる爆発。洞窟は崩れていき、ガラリと重たい岩の音が、耳の側でした。が、逃げ出すスキもな
く、彼女が放つ火の塊に取り込まれる。水の魔法で身を守り、彼女の動きを封じようと、石を持ち上げ――
――そして、閉じ込められてしまった。
「はぁっ、はあ、はあっ……サナちゃんっ!」
我に返ると、大惨事だった。瓦礫の中で叫ぶと、偶然にも出来た壁の穴にしゃがみこんでいて、彼女
は無事だった。ただ、足が岩の下敷きになっていて、身動きが取れる状態ではない。
「っ、ぃ……は、はっ……」
「ご、ごめんつ、つい!」
僕は慌てて彼女に駆け寄る。彼女はそれでも顔を歪めながら、僕を迷惑そうに睨みつける。
「へい、き、だから、もう、かまわな、で」
「平気に見えないよ、いいからじっとしていて」
「いや、だ、触らない、で……っ!」
僕は急いで彼女の足元にある岩を退かす。ここからが僕の得意技……回復の魔法の使い所だと思った。
彼女が振り払おうとした手を掴み、強引に押さえ込む。彼女が拒否するのも構わずに怪我に手を宛てがって、魔法を放つ。最初は弱く、魔力を照射した。ふわり、と暗い洞窟の中に、魔法の光が反射する。が。
「……え?」
「………っ、」
全く手応えがない。改めて魔法を強くかけてみるが、一つも回復しない。傷も塞がらなけれ
ば、破れた彼女のズボンすらびくともしない。彼女の傷は、じわじわと染みて、広がっていくばかりだった。彼女は一旦苦痛から唇を噛むが、すぐに表情を消して目線をそらす。平気なふりをしているのが、嫌でもわかった。
「も、もういい、わ、このぐらいなら、我慢できるから……治らなくても、痛みなら消せるもの」
「でも、歩ける状態じゃないよ。……なんで……?」
「……恐らく、きょうだいだから効かないのよ。私、自分で回復魔法かけても効かないから……治すことは諦めるしか無いの」
そう言うと、彼女はぐったりと壁にもたれかかって目を閉じた。塞がれた洞窟の遠くから、さっきよりも強い雨音が聞こえてくる。
「……いま出ても、外は嵐で危ないだけよ。……休戦よ、もう構わないで」
「僕はいいけど、君はそのままじゃ……とりあえず止血だけでもしていい
かな?」
「だから構わなっ…い、っ……っ! ……もう、勝手にして……私に触って、何が起きても知らないから」
彼女は叫び出すが、やはり痛いのだろう。苦痛にまた顔を歪め、すぐに取り繕ってそっぽを向いてしまった。
僕は慌てて彼女の足に止血と消毒を施す。これぐらいしか出来ないのがもどかしいが、逆にこれでも出来るだけよかった。
僕は、学生時代に医学をかじっていたので、とりあえずの応急処置としては、まともな方だ……と思う。彼女はそれに身を任せて、というか、痛みで動けないのだろう。黙ってぐったりしていた。
「……もしかして、具合悪い?」
怪我が痛いのは尚更だが、触れた感じが熱っぽいことや、顔色からも、大分体力を消耗しているように見える。はー、はー、という呼吸音と共に、大きく胸元が上下しているのを見ると、呼吸がかなり浅い。
問い出すと、彼女は小さく頷いた。
「……急に暴れさせたのはどっちよ」
「もしかして、翼だけじゃなくて、魔法そのものも使い続けられないんじゃない?」
彼女はそれに答えなかった。服の裾を代わりに握りしめ、本当に小さな、蚊の鳴くような声で呟く。洞窟が塞がっていなかったら、恐らく聞こえなかっただろう。
「……暗いところが……苦手なの……」
僕は荷物からライターを取り出し、洞窟内に吹き溜まった枯れ葉に火を付けた。密空間で安易に火を付けるのもよろしくない、とは思ったけれど、これから夜になって気温も下がる。体調の悪い怪我人に、無理をさせるわけにもいかなかった。
まあ、最も、怪我をさせたのは僕なんだけど……。
洞窟内が明るくなると、彼女の顔色の悪さは余計に目立った。この状態じゃ、怖いだけでは絶対にない。やはり、まだ僕に話していないいくつかの理由がある。もしくは、魔法を長く使えない、という理由は図星だったのかもしれない。
呼吸がぜえぜえ、と落ち着かなく、時折短く、僕の話に返事をしてくれる声も震えていたのだ。
僕は怪我をさせた申し訳無さと、気まずさから彼女を懸命に介抱した。彼女も、よほど具合が悪いのか、それとも観念したのか、素直に応じてくれる。そのままいつの間にか眠り、朝になった頃には火は消えていて、彼女の姿はなかった。
翌日から、僕は彼女に接触するのを一旦やめた。その代わり、遠巻きに彼女を監視する。事の発端は、メイドがその日に言った、『サナ様は、もしかしたら、もう、故郷の事など忘れておられるのかもしれません。彼女はもう、私達の知る方ではないかもしれないのですから、接触には十分注意した方がいいかと思われます』という言葉だった。
僕は何となくその言葉に反論したくなった。確かに、このまま彼女と戦うのは、お互いにとって危険だ。でも、僕は噂よりも、彼女が悪い人には思えない。彼女がもう僕の知らない人になっている、という事実を認めたくなかったのかもしれない。
頭ごなしに戦おうとはせず、触らないで、放っておいて、と言う姿。僕を『ルー』と呼ぶ声。きょうだいだって事を、忘れていたじゃない、という言葉。その態度から、まだ歩み寄れる。そんな気がしていたのだ。少なくとも忘れたり、心から嫌ったりしているようには思えなかった。
何なら、優しさすら感じる気もする。……本当は、彼女も取り戻したいんじゃないのだろうか。会ってみれば確かに怖くて、戦ってしまうこともある相手だけれど……きっと、噂が全ての人じゃない。
だからこそ、僕はこうして尾行をする事に決めたのだった。その目的は沢山あるのだけれど、一番は、単純に彼女がどんな人物か知りたかったからだ。僕らは生き別れになった後、まるで真逆の人生を歩んできた。と、思う。その中には、恐らく僕が想像もできないような生き方だってあったはずだ。
時折彼女が見せる辛そうな表情の意味を、少しでも知れたら、きっと良好な関係を築けるかもしれない。
あとは、本当に彼女が悪人なのか、という点とか、時折感じる、制御できないあの『気持ち悪さ』の正体も……彼女と距離を置くことで客観視できそうな気がする。
「いっそ好きなものでも知れたら、喜ばせてあげられるかもしれないんだけどなぁ……」
海に面した港町の物陰で、僕はそう呟きながらため息をついた。彼女はここ数日、どうやらこの街の浅瀬に隠された、とあるアジトに出入りしているようだ。噂を聞けば、テロ組織だと聞く。まさかとは思うが、彼女も工作員として活動しているのだろうか?
スパイ活動をしてることもあるし、ありえない話ではなかった。流石に中までは乗り込めず、僕は歯がゆい気持ちになりながら、彼女が出てくるのを待っていた。
そこから数十分経っただろうか、うっかり彼女を見失った僕が彼女を見つけたのは、港町の外れでのことだった。彼女は年下っぽい女の子と話をしている。彼女が誰かと会話をしている姿を、僕はこの数日で初めて見た。
彼女を怖がらず、話をする人間が居たことに何となく安堵する。会話を聞ける距離まで近づくと、女の子の顔には見覚えがあった。
(あの子は……幼馴染のハルトくんの妹さんだ……サナちゃんと面識があったのか……? ……なんだ、サナちゃんはやっぱり変わってないんじゃないか……)
故郷の人間と関わっている姿を見ると、僕は何となく安心する。しかし、そのほっとしたのもつかの間。違和感のある言葉に、僕はまた身体をこわばらせた。
「……春花、順調そうで何よりだわ。この先に行くには、船に乗る必要が
あるのだけれど……どうやら交通規制がかかっているようなの。数日は待
ったほうが懸命かもしれないわね」
「そっか……残念だけど、この街広いから観光していくよ。ありがとう、
『サファ』」
どうやら、彼女は妹さんに旅のアドバイスをしているようだ。素ではないにしろ、僕と話すよりは穏やかで、時折柔く笑顔を零す姿も見られると、少しはリラックスしているのだろうか。
しかし、『サファ』と呼ばせる意味は? もしかして、偽名だろうか? どうやら名前を明かせない関係にあるらしいことだけは判断する。まさか、何かを企んでいるのか?数日足止めさせる理由も、なんだか怪しく感
じてしまう。
彼女が妹さんと別れ、一人になった所をまた追跡したが、流石に近づきすぎたのだろうか。感づかれたらしく、気がつけばまた彼女を見失っていた。
それから彼女を見つけたのは、夜中になってからだった。港町の海岸で、潜水スーツに小型のガスボンベを身に着けた彼女を見かけたのは。僕は勇気を出して歩み寄った。
「……サナちゃん、何をするつもりなの」
「何もしないわ、今日は、ね。貴方も危険よ、この街に近づかない方がいい」
彼女は勝ち気に微笑む。何かを企んでいるのは明確な態度だった。
「やっぱり、また誰かを傷つけるつもりなんだね、なら、僕は君を止める!」
「……また、か……それなら、誤解よ」
「どうだか!」
僕は先程見た彼女の態度も含め、彼女への疑いを深く見て、彼女ににじり寄った。少しでも信頼しかけていた所で怪しい動きをされて、少し怒っていたのもある。初めて見せる僕の強気な態度に、彼女は少し呆れた顔をしていたが、僕が話を聞かない事を悟ったのか、仕方なく僕に向き直る。
「邪魔をすると言うのね。ならば、私も容赦はしないわ!」
僕らは、同時に歩み寄ったと思う。先手を打ってきたのは彼女だった。僕の足元を崩しにかかる炎の塊。しかし、僕はもうその手段を読んでいた。翼で真上に飛び出すと、彼女の後ろを取るように炎を返してやる。
彼女はそれを避け、浅瀬で水しぶきをあげながら、僕と距離を取ろうとした。その足も、僕は攻撃で封じていく。崩れる海岸の岩がつぶてとなって、彼女の行く先を阻んだ。
「っ、まともに当てたらどうなの!」
「僕は君の企みを止めるだけだ!」
僕はあくまで、彼女の企みを阻止する目的の攻撃だった。彼女を傷つけないようやっているつもりだが、コントロールの悪い僕に、そこまで丁寧な魔法は扱えない。案の定、怪我ぐらいはさせてしまっている。長引かせると彼女が危ないが、彼女は今まで沢山の修羅場をくぐり抜けてきた、『悪魔』だ。そんなことではへこたれない。
僕が打ち上げた瓦礫のつぶてを、いつの間にか手にしていた大きな剣で払い落とす。魔力を込めて使う武器だ。どこに隠し持っていたのか、魔法を纏わせて一振りすれば、彼女が素で出す魔法より、何倍も強い炎が僕の頭を掠める。
「君こそまともに当てたら?」
「貴方が真面目に戦うのならそうするわ!逃げ回るなんて卑怯よ!!」
僕は彼女との間合いを詰めようと、攻撃の合間を縫って彼女に近づいていく。しかし、彼女はそれに逃げるように……海から、海岸沿いの林へと移動していった。それが罠と気づいたのは、彼女が放った木の葉の刃が、僕の身を切り裂いた時だった。
「いっ……!!」
腕に切り裂く痛みが走り、僕の手元が狂う。足元で爆発を起こし、自爆を被る形で体制を崩す。吹き飛ばされた身体を起こす前に、頭に彼女の剣先が触れた。
「貴方の負けよ、降参なさい」
「どうだか、決着はついてないよ。それに、僕の目的は達成した」
僕は海の向こうを指差す。登るのは朝日。夜に紛れての隠密行動は、もう叶わない。彼女は悔しそうな顔をして、その陽を見つめていた。
「……いいわ、どうせ今日は様子見だもの。ぶっつけ本番になるだけよ」
「止めるよ。君に危険なことはもうさせたくない。まあ、その怪我じゃ、明日明後日には実行出来ないだろうね。いいの? 大事な妹さんの足止めは失敗しちゃうね?」
彼女は舌打ちをすると、剣の先を降ろす。仕方ない、といった風に肩をすくめ、魔法で潜水スーツから、いつもの服に戻った。
「もう気は済んだでしょう、いちいち構わないでって何度言えば気が済むの!」
そう言い捨てると、彼女はまだ暗い木々の間に溶けるように消えていき……かけて、悲鳴を上げた。僕は戦いで傷ついた身体に鞭を打って立ち上がると、声のする方に駆け出す。
「サナちゃんっ!?」
そこには、倒れ込んで気を失った彼女……と、それを狙う……ロボット、とでも言うべきだろうか。傘の骨が蜘蛛のように自走している……機械のようなものがそこに居た。機械は、彼女の手足を引きずり、今戦ったばかりでぐったりした彼女を、今まさに連れて行こうとしている様子だった。
「う、うぅ……っ……ルー、逃げ……」
「出来ないよ、そんな事! 僕は君を国に連れ帰らなきゃならないからね!」
僕の叫び声で目を覚ました彼女は、掠れた声で僕に逃げるように言う。しかし、そんな事出来るはずもなく、僕はその機械蜘蛛に風の塊を叩き込む。機械は僕の攻撃に驚いた……と言ったら変だろうか。危険を察知したのかすぐ撤退した。
「サナちゃん、大丈夫?」
「……一応礼は言うわ、ありがとう。私は大丈夫だから触らないで。そもそも、貴方と戦って無ければもう少し大丈夫だったのだけれど……ゴホッ、ごほ、っ……」
僕は彼女を抱え、起こそうとするが、彼女は僕の腕を振り払い、それよりも先に自力で立ち上がった。何度か咳き込む彼女を介抱しようとするも、彼女はそれさえ拒否する。
「さっきの蜘蛛のようなものは何?」
「……ごほっ、う、ゲホッ……は、ぁ……別に、なんでもないわ。私の魔法が欲しいだけのくだらない集団よ」
「それって、命を狙われてるってことだよね?どうしてそんな事隠してたの!?」
僕は心配のあまり、強く彼女に言ってしまった。彼女は一瞬肩をビクつかせると、静かに首を横に振る。
「貴方がスパイかもしれないからよ、タイミングがよすぎるわ」
「きょうだいにそんなことしないよ!」
「悪いけど信じられない。何度も聞いてるけど、きょうだいだから何? 今度私の前に出てきたら本当に命の保証はしないわ、いいから消えて、もう来ないで」
ギリリ、と強い視線で睨まれると、また恐怖に支配される。戦いたくはなかったので、僕は撤退するしか無い。お互いにもう戦えるほどの力も残っていないし、ここは引き下がるのが懸命だろう。
「……ねえ、君はどうしたら警戒を解いてくれる?」
「貴方に配る礼儀も無いから質問で返すわ。解く必要があるの?」
去り際、巨鳥に乗って宙を舞う彼女にそう聞いてみたが……答えは得られなかった。
その後、二日の間、僕は彼女を追わなかった。城の自室に戻ってただ、頭を抱えていただけだ。怪我をさせてしまった事もあるし、何度もも戦うことになっては……近づく勇気がなくなっていた。僕はベッドに顔を埋めて、ただただ今までの事を思い返す。
ここ数日の彼女の姿が、脳裏にちらついて離れない。それも、怒りの顔や、冷静ないつもの表情ではない。時折見せる辛そうな顔ばかりが頭を巡っている。彼女はどこへ行ったのだろう。また海へ行ったのだろうか。あの状態じゃ、すぐ動けそうにはない。それでも平気なフリをしようとしていた所を見れば、無理矢理にでも彼女は立ち上がるのだろう。
気まぐれにテレビを付けても、ネットを漁っても、出てくるのは彼女に対する人々の悪口や悪い噂ばかり。それを眺めていると、こちらも胸が痛くなってくる。
「……行かなきゃ、やっぱり、連れ戻さないと!」
僕は慌てて立ち上がり、部屋を飛び出す。気になることが、幾つもありすぎたから。その日も、強い雨が降り始めていた。玄関まで行くと、心配そうにネット端末を握りしめていたのは、メイドだった。
「ルナ様、お待ち下さい。今日出られるのは危険です」
「でも、やっぱり行かないと。怪我も心配だし……」
メイドは深く首を横に振ると、とあるネット記事を表示したページを僕に差し出す。
「っ……!」
その記事を見て、僕は驚いた。遠目に写るのは、遠い海の向こうの離れ島だ。その島から登る黒い煙。その隣に、彼女の写真が掲載されている。記事タイトルには『悪魔、ついにテロ主犯離れ島を海中から爆破か?島民半数に被害!』の文字。
「……ルナ様、このままでは貴方が危険です」
雨足が強く、メイドの言葉をかき消すように降っていた。
***
夜中、僕はこっそり城を抜け出して彼女を探した。見つけたのは、広い、背の高い草が生い茂る草原の片隅だった。流石に、指名手配ともなれば、身を隠すのにも苦労するのであろう。怪我は殆ど治まっていたが、新たに身体痣だらけ、荷物も殆どボロボロだった。
理由は分かっている。テロの時に爆風に巻き込まれ、海中でもみくちゃにされたのだろう。僕に予行を邪魔をされて、あのスーツもボンベも持っていたところで使いこなせなかったに違いない。その身一つで、潜ったのだろう。服も濡れたまま、草の塊に身を寄せるようにして雨風を凌いでいた。
「サナちゃん」
声をかけると、ゆっくりと彼女の目だけが、僕を捉える。僕が手にしている明かりが反射し、ギラギラとした眼光がこちらを向いた。まだ、気が立っているのか、もう来るなと忠告した僕が近づいた事に怒っているのか……返事はなく、緊迫した空気だけが周囲を占める。
今に限った話ではないが、彼女が怒った時の気迫は本当に恐ろしいものだった。僕は思わず後ずさりそうになるのを、堪えて一歩近づく。もう一歩。目の前で立ち止まった。
「……ニュースになっているのを見た?」
「見てない……でも、騒ぎになるのは当然でしょうね」
冷たい声が、雨音の間から僕の耳を突き刺す。暗く、表情は見えないが、声色から彼女が何を思っているのかは判断できなかった。僕は怯まず、また一歩近づく。
「自分が何をしたか、分かっているよね?」
「分かってるつもりよ……恐らく、貴方が知らない所までも……」
あっさり、返事は返ってきた。その簡潔で、でも意味深な回答に、僕は思わず叫んでしまう。
「――君は……なんてことをしたんだ!」
カタン、と僕の手から明かりが滑り落ち、彼女の姿が闇に溶ける。瞬間、僕の身体は何かに押されて地面に張り付いた。それが風の塊と知るのは、数秒後に頭上の木の枝が散り散りになるのを目撃してからだった。慌てて明かりを拾い上げて目の前に翳すと、魔法を発した直後の姿勢のまま、肩で息をする彼女の姿がそこにあった。
「はっ、はぁっ……はぁ……っ!」
今の一発で疲弊するとは思えない。僕はその姿を、妙に冷静に見ていた。不思議に思いながらも、これはチャンスと反撃に出る。風の魔法を彼女の背後に食らわせ、体制を崩す。彼女もやはり、一筋縄ではいかない。とっさにそれをかわすと、森の中へと消えていく。
「待って!」
僕は自分の翼が使えるのを良いことに、木々の間を飛び回って彼女を追った。飛べない彼女が、あの巨鳥でこの狭い森の中を自由に動き回ることは出来ない。しかし、彼女も長い間、人から身を隠して生きてきた身だ。何度か見失いかけ、それでも森の奥まで追い詰める。
「っ……」
「もう逃げ場はないよ、サナちゃん……お願い、話だけでも聞かせて。なんで、あんなことをしたの? どうして君はこんな……人を陥れるような生活をしてるの? 悪いようにはしないから……」
彼女は確実に慌てている様子で、どうにか逃げ場を探す。しかし、もう身を隠せそうな場所もない、開けた場所。その先は崖だった。
「……これ以上暴れるなら、僕にも考えがあるよ」
僕は彼女に詰め寄る。魔法で拘束する他ない、と思いながら、ジリジリと彼女に足を進めた。
「っ、いや、だ、こない、で………っ」
次の瞬間、へたん、としゃがみ込んだ彼女の口から溢れたのは、また弱く、そして幼い言葉だった。
「……え?」
僕はまた、触らないで、とか構わないで、といったような強い言葉が出てくるものだと思っていたので、驚きに声を漏らす。彼女はその言葉にも返事をせず、自分を抱きしめるようにうずくまってしまった。そう言えば暗い所が苦手だと言っていたのを、今更思い出し、慌てて彼女の目の前に明かりを差し出す。と、彼女はくすん、くすんと小さく泣き出していた。
「えっ、あ、あの……?」
「ぅ……うぅ……ひっく、うぅ……」
僕は慌てる。いくら悪人とはいえ、女の子を、しかも実の姉を泣かせてしまったことにうろたえてしまった。慌てて近寄っても、攻撃どころでは無さそうで、よく見れば目はとっくに真っ赤に腫れていて。
……つまり、僕が来る前から泣いていたことが憶測できた。
「えっと、ごめん、突然驚かせちゃったよね……?」
「ぅ、ぅう、っ、はっ……おねが、もう、放っておい、て……」
そう言うと、彼女は震える足で立ち上がり、僕を押しのけて歩きだす。その足取りは覚束なくて、やはり怪我がまだ治っていないのでは……と、僕は心配になった。
おかしい。さっきまで憎んでいたつもりだったのに、泣き出した途端に、なんだか心配になる。そりゃあ家族なんだから当たり前なのかもしれないんだけど、元から僕はあんまり人に執着しないタイプだから、尚更驚いた。
さっきまで本当に、彼女のした事に怒っていたはずなのに。その謎を今考えた所で分かるわけもない。とりあえず感じるままに行動し、彼女に肩を貸そうとすると、また跳ね除けられた。
「……触らないで」
「でも、そのフラフラな身体でどこに行くつもり?」
「…………放っておいて、どこだって……いい、貴方ときょうだいである必要なんて、あの時から、もう無い……」
また、彼女は苦痛そうな表情で、でも平気ぶって見せる。明らかに腕は震えていて、顔色は真っ青で、目は泣き腫らしていて、痣だらけ、びしょ濡れ。
「……関係、ないよ……と、言う権利は、きっと僕には無いんだろうね……でも、放ってはおけないよ」
『あの時』というワードに、彼女を残して、親戚に引き取られた日を思い出す。あの時に見た彼女の表情と、今、まるで湧き上がる感情を全て殺したような、冷静の過ぎた目は……まるで同じだった。
***
その後、結局は彼女を見失い、見つけたのは一時間ぐらい後。必死に追いかけっこした森を抜け、海辺に出た辺りで彼女は力尽き、倒れ込んでいた。
「サナちゃんっ!!」
浜に足を取られながらも、僕は彼女に全力で駆け寄った。慌てて抱き起こし、身体を揺さぶる。ガクンガクンと揺られる首や腕は、力が入っていないのか鉛のように重い。
のに、人にしては嫌に軽い。手荷物からタオルを取り出して顔を拭ってやると、少し熱い気がした。その様子から、僕はなんとなく、彼女の身体に起きている事を理解する。彼女の身体はもうとっくに、彼女の過激な人生についていけてないのだ。それなのに、彼女は無理をして、誰かに頼まれた悪事をこなすために、己の身体にムチを打っている。
「う、うぅ、平気、だから……さわら、ない、で……」
「何言ってるの、こんな状況で……!」
「いいから、離し、て……あ、あれ、なん、立てな……っ……」
すぐ目を覚ました彼女は、また僕を突き放しながら立ち上がろうとする。が、今度は立つことすらままならない。僕は彼女の肩を抱き、そっと上から立たないように押し付けた。
「歩くのは無理だよ、座ってて。……触らないから、お願い。安静にしてて」
「……。」
返事はなかった。どうやらまだ、警戒されているらしい。とりあえずそっと離れると、サナちゃんは少し僕から離れて、そのままじっとしていた。
「……サナちゃん、」
名を呼んでは見たけど、どう声を掛けていいか分からない。彼女はその呼びかけに僕を一瞥したが、何も言わず目を逸らされる。僕は勇気を出し、彼女のぴったり隣に座ってみた。これで、また戦いになるのなら今度こそ本気で戦う。その覚悟で隣に座る。
しかし、彼女は怒ることもせず、ただがっくり肩を落としたまま座り込んでいた。じっと何かに耐えているような姿だが、時折雨粒が肩に当たると、びくりと肩を震わせる。とても、痩せた肩だ。いくら人間じゃないにしても、心配になるぐらい弱った身体だった。雨はまだ止まず、彼女は雨を凌げそうな大岩の麓に身を寄せる。そのまま、一歩も動かない。逃げている時はともかくとして、彼女はどうやら雨に濡れる事を極端に嫌っているように見えた。もしかしたら、雨に濡れるのは怖いのかもしれない。
そんな人が、海の中で……自分が起こした爆発の中で、溺れかけた? もしそうなら、かなりの恐怖だったはずだ。しかも、暗い所がダメなのに、真夜中の海で。そんな恐怖を押し殺してまで、彼女は沢山の人をリスクを負って傷つける理由がどこかにある。……それはきっと、簡単な理由ではない。僕は直感的にそう思った。
「……大丈夫?」
「…………。」
僕は取り敢えず、当たり障りのない言葉で彼女の返事を待った。やはり、彼女が口を開くことはない。
「……ねえ、食べない?」
僕は気を紛らわせる為に、荷物から小ぶりの果物を取り出して彼女に見せた。彼女はそれを一瞥するが、小さく頭を横に降る。いらない、という意思表示だった。
「逃げ回ってて食べてない……よね? 持ち合わせがなくてこんなものしかないけど……それとも、甘いものは苦手かな?」
「…………。」
彼女は何も言わず、目も合わせてくれなかった。ただ、自分の腕を握りしめる手が少しだけ強くなる。爪先が白くなったのを見て、そう感じた。
「魔法があるぶん、確かに食べなくてもすぐには死なないとは思うけど、お腹すかない? ね、身体に悪いよ、その身体じゃ立って歩けないのも当然だよ……」
「……食欲ない」
彼女はそう言ってまた首を横に振る。僕はそっか、とだけ言って、彼女の足元にそれを置いた。彼女は俯いていた顔を上げて、それを見つめる。
「……なんで果物?」
初めて、彼女が質問らしい質問を投げかけてきた。まあ、確かに疑問だろうけど。僕は気の利いた理由も思いつかないので、素直な理由を話す。
「君が何を好きなのか、よく解らなくて……僕は甘いもの苦手だからさ。果物なら甘くて食べやすくて、でも、万が一苦手でもそこまで甘くないかな、と……だ、だめかな……」
「そう……毒は盛られて無さそうだけど……」
「そんな事しないよ。ね、今じゃなくていいから、気が向いたら食べて」
僕はそう断言して、彼女の手に半分強引に果物を渡した。彼女は受け取ってくれる。何度か果物を、不思議そうな顔をしながら手の中で回した。毒入りと怪しがっているのだろうか。
「……何故、優しくするの? ……同情されているのかしら」
「まさか、心配……してるんだよ」
「……心配、か……されたことないから、よくわからないわね……」
彼女がそう言うと、次は僕が黙ってしまう番だった。こんなにボロボロな彼女を、今まで誰も心配しなかった。その事実に、言葉が詰まってしまう。それだけ彼女は嫌われて、味方の居ない人生を送ってきたのだ。彼女は僕のその態度を、無視された、とでも取ったのか、仕方無そうに口角を上げてため息を吐く。そして次の瞬間には、彼女はその果物に齧りついた。
「あ」
僕はあまりにそれが突然だったので、自分で勧めておきながら、驚いてしまう。彼女は何度か味わうように咀嚼し、何も言わず次にかぶりつく。そしてまた次に。探るような感じから、段々とがっつくような食べ方に変わっていく。
「……食べられるみたいでよかった」
暫く見ていると、その驚きは安心に変わる。生気の無い、心を殺したような表情が心配だったけれど、少なくとも、食事を放棄する程、彼女は人生を諦めているわけじゃなかったからだ。彼女は少し泣きそうな顔をしながら、素直に僕に謝った。
「暫く、何も口にしてなかったから……。ごめんなさい、無礼だったわ」
「ううん、こちらこそ早く気を回すべきだったね。この状況じゃ、食べ物を買うのは難しかったでしょ…?」
彼女は一度だけ、小さく頷いた。表情は変わらなかったが、瞳が悲しそうに俯くのがわかる。僕はその態度に、段々とだけれど、彼女の謎が解けていくのを感じていた。食べ物すら買うことが出来ないほど、彼女は『人扱いされない』存在になってしまった。
そんな自分を守るために、生きるために、彼女は人を避け、ひとりで隠れて過ごしている。多分、自分の恐怖すらも押し殺してまで……。それに気づいた途端、僕の胸は強く痛んだ。
そして、すぐに『もしかしたら』が、もうひとつ浮かぶ。
しかし、僕はそれをすぐに言わなかった。多分、いきなり踏み込んだら、また戦いになってしまう。しかし、ここで切り出さなければ、聞くチャンスはもう無い気がした。彼女はもう、とっくに、己の行動に後悔している。このまま問題をうやむやにしてしまえば、彼女は変わらない……孤独なままなのでは……?
そう考えると、僕はなんだかゾッとした。僕ならそんなの、耐えられない。その耐えられないことを、彼女はもう十年も我慢してきたのだ。その後も、沈黙の時間が数十分続き、僕はようやく耐えられなくなって口を開いた。
「……君は、本当は悪いことなんて……したくなかったんだよね?」
殆ど、独り言のトーンで呟いたそれに、息を呑む音が、この嵐の中でもはっきりと聞き取れた。
「うん、したくなかった……」
そして続く回答。素直で、今までの冷静な物言いからは想像出来ないような、幼い言葉だった。僕は驚きに彼女を振り返る。彼女の表情は、いつになく切ない……全てを諦めたような苦笑だった。
「したくなかった……」
再度、反芻するように言葉を漏らす。そこに、冷静で平然を装う彼女の姿はない。彼女はまるで今まで黙ってた事に耐えられなくなったかのように、口を動かす。
「でも、そうしなきゃ、居場所がなかった……逆らう勇気が、なかった……私を利用した人間たちにも、私を不幸にした神様にも……その為に……関係ない人たちを傷つけた……」
恐らく、もう我慢の限界だったのだろう。突然、彼女はボロボロと涙を零し始め、声は涙で濡れていく。
「……殺されて、しまうかもって、またあの神様の元になんて戻りたくないって……思ったら、怖くて……うっ、うあぁ……っ、あぁぁぁ……!」
くしゃくしゃと髪を握りながら頭を抱え、うずくまって泣き出す姿を見ていると、どれだけ苦しんでいたのかを、僕は間接的に知る。殺されてしまうかも、という言葉から……彼女が生きるためにどれだけ葛藤して来たのかも。
それは、痛いほど息苦しくなることだった。あまりに苦しそうなその姿に、僕は思わず、触れるか触れないか、彼女に向かって僕は手を伸ばす。が、約束した。触れないという約束を守るには、僕は彼女を抱きしめることすらできない。無力さを感じる。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう……わ、私、わたっ……仲間も、罪の無い人も、友達もっ……こ、殺し、ちゃっ……ぁ、ぁあぁ、あぁ……」
続く言葉も、殆ど言葉として意味をなさない程泣きじゃくる。ひどく混乱しているようだった。僕はその言葉に、彼女の噂が、完全な悪意で無いことを確信する。彼女も、生きるために仕方のないことを、傷つきながら、命じられるままに……自分の運命を受け止めてやってきただけなのだ。
「サナちゃん、それは、君だけが悪いわけじゃない、君は従っただけだ」
「違う、違う、違う……私は !私は殺した!! 自分が、はっ、いき、る、ため、に……」
彼女は頭を抱えながら、猛毒に苦しむかのようにのたうち回った。確かに、己の記憶という、猛毒に侵されていた。僕は耐えきれず、彼女を介抱しようと、彼女の背に触れようとする。触れない、という約束は、もう既に忘れ去っていた。
「いやだっ、ころしたくない!!!! も、う、もう来ないでっ!!!」
「サナちゃんっ!!?」
しかし、まるで電気が走ったかのように、彼女の身体は跳ね起きる。僕の手が触れるか、触れまいかの瞬間、彼女はそのやせ細ってボロボロの身体で力を振り絞り……雨の中を走り去って行った。
「……サナ、ちゃん?」
僕は、唖然とその背中を眺めることしかできなかった。数分後、正気を取り戻した僕は、彼女の発言がひっかかった。『嫌だ、殺したくない、触らないで』という言葉だ。彼女の噂を調べてみると、『彼女に触れられた者は死ぬ』という噂にたどり着いた。
彼女も、自分自身の噂に振り回されているのだ。自分がそうであると、信じてしまった。だから、彼女は自分の内なる気持ちと、外の噂の間に板挟みになって、苦しんでいる。それを知ると、やはり僕は彼女を追うしかなくなった。彼女を追う旅の目的が、初めてはっきりした。
僕は彼女に伝えたいんだ。『君は、悪くない』と。
本当に長い夜だ、と思った。見失っては追い、見失っては追い……。唖然としていた僕の目の前に、次は彼女から現れてくれた。
「……まさか来てくれるとは思わなかったよ」
「どうせ追ってくると、思ってたから……ごめん、取り乱して……」
彼女の目は更に涙で腫れていた。泣いている所を見られたくなかったのか、必死で拭ったのかもしれない。僕はタオルを渡しながら、彼女にからかい気味に言う。
「目元、冷やしたほうがいいよ」
彼女は恥ずかしそうに顔をそむけると、少しむくれて言い返した。
「……ほっといて」
「君はいつも、放っといてしか言わないよね」
「……その言い方、貴方はドライだってよく言われない?」
彼女はそう言うと、肩をすくめて見せた。その仕草は自然で、いくらか僕への警戒が解かれたように見える。彼女から隣に座ってくれると、また雨を凌ぐようにしゃがみこんだ。
「……話の続き、してもいいよ……」
そうして、彼女は膝を抱きながら、弱々しい声で僕にそう言った。僕は驚いたが、ここで驚いてしまうとまた彼女を刺激してしまいそうで、ゆっくり返事をする。
「いいの…?」
「……また、取り乱すかもしれない、けど、ひとりでいると、怖くて、おかしくなりそうなの……お願い、話をするから、一緒にいて……。」
彼女は膝に顔を埋めながら、本当に小さな、小さな声でそう零した。その姿はまるで、もっと小さな子どものようだ。考えてみたら、幼い頃から厳しかった王家の跡継ぎ……ろくに甘えられる親も居ないまま、亡くしてしまったことを考えれば、彼女の心細さは相当だったろう。
僕は正直、知っていけば知っていく程、彼女の事が不安になっていった。思っていた以上に、彼女は傷ついている。ボロボロになっている。この人は今までにどれだけ傷つけられて、この先、どのぐらい正気を保っていられるのか。しかし、その不安を感づかれないよう、そっと笑って頷く。
「わかった。僕、君に確かめたいことが幾つかあるんだ、その話をしてもいいかな? 聞くのが辛くなったら、どこに行ってくれても構わないし、今日話せなくてもいい……そういうルールにしよう。僕は君に許可なく触ったりもしないから、安心して」
「……わかった、素直に話せる自信は、ないけど……」
彼女は頷いてくれる。僕は深呼吸すると、冷静に努めながら、彼女に対してもうひとつ確認したい言葉を吐き出した。
「……君の翼の色を見ると、人に恐怖や嫌悪の印象を与える……そういう魔法が、君にかかっている」
「……そう、みたいね……私の羽根を見て、怖がったり、気味悪がったりする人が多かった。それがあっという間に広まって、今みたいになって……」
彼女はそこで言葉を詰まらせる。後は唇を噛んでいた。悔しそうな表情して俯いてしまう。
「……それが広まっていくうちに……良くないことが起きて……そう、あの子、が……」
彼女はそこでまた、口をつぐんだ。
「……妹さん……?」
僕は直感で、この間彼女と話をしていた少女を思い出した。僕が知る彼女の知り合いは、事実上あの子だけだ。
「……貴方が、見てた後に……仕返しで」
「それは……っ、君のせいじゃないじゃないか! 君は悪くない!」
「……違う、私が関わると、皆そうなるの! 私に近づいた大人や、友達や、幼馴染が、皆そうして……私が触れた相手が………私っ、私……何回も……はぁ、はぁ……っ」
彼女の声がまた震えて、強く叫ぶように変わっていく。呼吸が落ち着かなくなっていくのを見ると、やっぱり心配になって、僕は彼女を止めた。
「ごめん、怖いこと思い出させちゃったね、やめようか」
「ちが、う、のっ……か、関係ない、昔のことまで、急に、思い出すっ、こ、とが、あ……っ、あ、ぐ……苦し……ひっ……怖く、なると、ダメ、で……、嫌、怖い、こわい……ぃ……!」
彼女は突然、喉を押さえながら、まるでもがくように足をバタバタさせた。僕は思わずまた約束を忘れ、慌てて彼女を抱き起こし、背中を擦る。ひどく震えていた。怖くなると、苦しい。端的な言葉で、僕はとある症状を合致させた。過呼吸だ。手足にも力が入っておらず、元から具合が悪そうだった顔色も、どんどん血の気が引いていく。
「いやだ、こ、ころさな、で、いや、ごめんなさい、ごめんなさい、こわい、いや、だ」
「……っ!」
何かを思い出すように、彼女が叫び出す。昔の記憶を思い出し、それに恐怖していると分かると、彼女を抱きしめざるを得なかった。フラッシュバックと過呼吸。彼女の気持ちが、とっくに限界な証拠だ。
ああ、僕はこの人の、何も知らない。勝手に、勝手な噂を信じて、傷つけてしまった……。僕が温かく過ごしていた裏で……どれだけ痛い目に合ったのだろう。そんな人に、僕は今、なんてことを聞いてしまったのだろう!
多分、命の危険にすら晒されて来たのだ。誰かを殺さなければ、己が死んでしまうほどの。零す言葉が、そのひとつひとつが、恐怖に染まっている。
「あ、ぁ゛あ……あ、あぁぁぁ……!!!!」
ついに言葉も成さなくなり、彼女は必死に自分の恐怖に抗っていた。僕はその背をただ、ただ撫でることしかできない。彼女が落ち着くまでは、しばらくかかった。夜も深まってきて、嵐も強くなってくる。彼女の泣き声より、雨音が強く耳を刺してくる。
「……ごめんなさい、貴方には話せると思ったけど、やっぱり駄目だった」
「いいや、僕の方こそごめん……」
彼女はゆっくり首を横に振り、疲れきったように立ち上がる。決めたルールだ。彼女が立ち去るのを、僕は追うつもりもない。
「ルー……ええと、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
そして彼女は、また巨鳥の背に乗り、どこかへと消え去って行った。
***
――しまった、と思った時はもう遅かった。やはりぶっつけ本番でやるべきことではなかったのだ。でも、やらなければ。唯一の求められた事に縋って、己の意味を探して。そうして私は、その晩。大事な友達と、唯一の信頼を失ったのだった。
世間に鼻つまみ者として、大概の扱いは受けてきたつもりだった。ここ最近になって、特に扱いはひどくなり、暴力・暴言は当たり前。物のひとつも売って貰えず、立ち入れる場所は殆どなかった。私はそれでも、どこかに存在意義が欲しかった。諦めたくなかった。潰されたくなかった。でも、私はとっくに、誰にも必要とされない事に潰されていて……その弱さが、私をよくない方向へと走らせた。
犯罪組織のボスに気に入られて、テロリストを請け負うことになったのだった。その表では、唯一と言っても良い、同郷の友達もいた。旅人友達として知り合った彼女は、幼馴染の妹だった。懐かしさから親身になり、旅のことを話す時間もあった。
私は悩んだ。友達を裏切らないようにするには、私から離れるしかない。嘘の情報を流し込んで、私がする事から遠ざけようとした。
しかし、予定は狂う。邪魔をしてくれたのは、自分を捨てたと思っていた、唯一の、本当の家族。最初は怪しい、と思った。このタイミングで、都合よく現れてくれるきょうだいを。心の何処かでは信じたくても、裏切られ続けた自分が許してくれない。
本当のことを話そうとしても、忘れてしまった、こわくて、くるしい過去が私を許してくれない。全力で嵐の中を飛び続ける。彼が、私を怖がりながらも寄り添ってくれたのは分かってたのに。分かってたのに!
「……怖い、こわい、こわい……っ!! わかってたのに……!」
嵐はまだ止む気配がない。雨粒が顔に当たるだけでゾッとするぐらい、雨が怖い。さっきまで海の中だった。海底で爆風に呑まれ、溺れた事が頭をちらつく。この冷たい雨に打たれていた、友達の無残な姿が頭を支配する。
「っ……だめだ……」
くらり、と目が回るような頭痛に苛まれ、私は、その森で一番目立つ樹の上に避難する。そのまま枝にしゃがみ込み、放心状態で嵐を眺めていると、ふと、口をついて出たのは、死者へ贈る歌。
どうか、あの子だけは、死後も私のようになりませんように。
自分が歌っていることが、まるで他人事のように思えて。祈るようにその歌に願いを込める。が、その歌も、とある声でぴたりとやんで……いや、とめてしまった。
「……誰、ですか……?」
その木の下、私を見る目は恐怖に染まっていない。その日は、私にとって忘れられない夜の始まりだったのだけれど……今はまだ、上手く話せそうにないから、内緒にしておこう。
***
翌日。強い雨は上がり、夕焼けが綺麗だった。
彼女を見つけたのは、あの港町。その町外れの海岸でぼんやりしている彼女を見つけた。しかし、なぜか彼女は柔く笑っていた。まるで、何かから解放されたように、柔らかい雰囲気で、遠くを眺めていたのだ。
「……サナちゃん?」
彼女はゆっくり振り返ると、僕の顔を見て、どこかホッとした顔をした。
「何か良いことでもあった?」
「……そう見える?」
「なんかニヤニヤしてるのは気の所為?」
「気の所為じゃないかしら」
そう言うと、彼女は普段通りの冷たい目で僕を睨んだ。僕はため息を吐きながら、彼女の隣に座る。彼女も同じ場所に座り込んだ。今までにないぐらい、自然に隣に並んだ。嵐が過ぎ去ったばかりの海はまだ少し荒れていて、こんなに綺麗な夕焼けなのに、誰も居なかった。
だからこそ、彼女は安心してここに座っていられるのだけれど、なんだか贅沢な気持ちになる。
「……ルー」
「なに?」
「聞いて欲しいことがあるの。お願い、聞いてくれるだけでいいの……」
「うん、僕で良ければ」
彼女は改めて僕にそう宣言すると、ぽつぽつと僕が不思議に思っていたことや、僕と離れ離れになった後のことを話し始めた。故郷を離れ、行き倒れてしまったこと。その国の王に仕えた先で、親の敵に会い、負けて追い出された事。初めて幼馴染を亡くした事。育ての親に騙され、暴力を受けたこと。行く先で受けた、痛々しい記憶の全てを、僕に話してくれた。
時折、覚えてない空白の時間があることも、素直に話してくれる。彼女はただ不思議がるだけだったが、恐らく、ショックすぎる出来事の数々で、記憶喪失になっているのだろう……と、僕は思った。
「そして……復讐しようとか、戦おうとか思っているうちに、私は抑えきれなくなった……。皆から嫌がられる、嫌われる……神様にとって、不幸の子であることだけが……私の生まれた理由なら、そうなってやろう、って……でも、耐えられなくなってしまったの……。悪いことに縋ることが……。」
「サナちゃん……」
そうして、サナちゃんが語ってくれたのは……今までの生き方への後悔だった。
「もう、遅すぎるかもしれないけど……私、もうやめたい……誰かと争うことを必要としないようになりたい。欲さないように、悪いことに逃げないように……神様が決めたことじゃなくて、私が決めたことで……もっと、今までと違う目線で、もっとこの世界を見たい……。」
そう言うと、彼女は、今までの怯えるような泣き方ではなく、静かにポロポロと泣き始めた。僕は彼女の肩をそっと抱くと、拒否されず、彼女はそっと肩を預けてくる。
「……誰かに触ったら、殺してしまうかもしれないと思うと、怖かった……」
「……大丈夫、僕は君に殺されたりしない、絶対にしないよ」
彼女は静かに頷くと、余程疲れていたのか、僕に寄りかかったまま静かに目を閉じた。僕は彼女の覚悟と後悔を、絶対に台無しにしないよう誓いながら、彼女の痩せ過ぎた肩をそっと撫でる。
「……優しいね、ルナは」
「ん?なんか言った?」
「ううん、なんでもないわ」
***
数日後、僕が彼女について新しい噂を聞いたのは、故郷に近い田舎町でのことだった。対岸の孤島に、『悪魔』を追い出した、というスクープで、町が湧いている。僕は嫌な予感がして、すぐに彼女を探した。まさかとは思ったが、認めたくなくて、あちこち思い当たる街を回ってみたが、彼女を見つけることができなかった。
ようやく噂の島に行ってみれば、その海岸にしゃがみ込んでいる少女の姿……僕の姉だった。
「サナちゃん……」
「……追い出されちゃった」
海に突き落とされたのだろうか、また彼女はびしょ濡れだった。顔に痣も作っている。僕が薬を渡して、どうにか治させた怪我が、また増えた……そう思うと、とても腹立たしくなった。
「……ルー、怒らないでいいわ。私、抵抗しなかっただけだから……逆にホッとしてる。今までは居場所もなかったのが、此処に居てくれれば何もしない、に変わったのよ……これで、落ち着いて過ごせると思えば……」
「………僕、今、怒ってた?」
「ええ、かなり」
僕は自分が怒ってたことに気づかず、彼女に諭されて初めて驚いた。彼女は深く頷くと、立ち上がる。
「人の為に怒ったことなんてなかった?」
「なんで理解るの?」
「貴方、あんまり他人のことは興味無さそうだから。前も言ったけど、ドライって言われない?」
僕は頭を掻く。確かにその通りなのだ。何を隠そう、僕は人よりいまいち恋愛感情に疎い。そのせいなのだろうか、他人の愛情が理由の下心をいまいち理解できない事が多かった。その為、ドライな奴だとよく言われていたからだ。代わりに、悪意や欲望が由来の下心を操るのは得意なのだけれど。
「よく分かるね、僕そうゆうの正直全然分からないや」
「人の隙を見極めないと、生き抜いて来れなかったもの」
悲しげに笑いながら、彼女はそう言って立ち上がった。よろける彼女に肩を貸す。二人でゆっくり、坂を登っていくと、心地よい風が吹いた。最も、心地よいのは僕だけで、びしょ濡れの彼女にはむしろ寒いのかもしれない。僕は彼女を軽く抱き寄せて、無理させない程度に足を速めた。
「本当に何もない場所ね、雑草が生い茂ってて歩きにくいわ」
「……本当に君は、此処で一人でいろって言われて、そうですかって頷けるの?」
「そうね、欲を言えば旅を続けたかったけど……仕方ないとも思うし、もう、疲れちゃった」
彼女はそういって、悲しそうに笑う。僕は反対に、しょんぼりしてしまった。この表情を見ると、どうしても切ない。あの日、岬で聞いた彼女の誓いは、簡単に言えば、自分のしたかった事や求めることを諦めてしまう、と言う宣言なのだ。
小さな無人島は、小高い丘になっている。その頂上に一本だけそびえる大きな広葉樹。その根本まで歩いていくと、彼女はそこに座り込んだ。
「家でも建てられたらいいんだけど、ほら、向こう側ならちょっとは平坦でしょ」
「もう、本気?」
丘の向こうを指差す彼女に、僕は呆れてしまう。彼女は多少、気まぐれなところがあるらしい。
「ねえ、前にもちらっと言ったけど……実家に帰ってくれる気はないの?」
僕も隣に座りながら、ついでにそう聞いた。
「…………。」
彼女はふいに黙ってしまう。聞かなければ良かったことだろうか…と少しハラハラした。しばらくして、彼女はゆっくり口を開いた。
「怖い、の……魔法で……嘘で、私を信じさせてしまったことが」
「違うよ、あれは国王のしたことで、君がしたことじゃない。それに、神様が掛けた君の呪いの方がよっぽど悪質だ」
「……いえ、あれは呪いと同じよ、私にとっては……」
彼女はふらり、と樹にもたれかかる。ふと、そんな彼女の息が上がっていることに気づき、僕は彼女の額に手を当てた。
「……海に突き落とされたんじゃ仕方ないとはいえ……」
「ごめ、ん」
彼女は大分、僕に心を開くようになったが、未だに具合が悪いときや、都合の悪いことは言わずじまいだった。これはもう性格か、弱みを見せてよっぽど怖い目に遭ったか……どちらにしろ、無意識の行動だった。
「小さいタオルしかないけど、これ使って……熱以外に何か感じてることはある?」
「め、まい……する、くわんくわん揺れてる、かんじ、の……」
そこまで言うと、彼女は息を詰まらせるように言葉を止めて、口を抑えながら俯いた。
「う……」
「気持ち悪い?」
彼女は小さく頷く。僕は慌てて彼女の背をゆっくり撫でる。小さく震えていた。
「どうしてこんなに急に……」
「……普段は、魔法で、抑えてる……けど、さっきみたいに、嫌なこととかっ……はぁ、怖いことを思い出すと、弱くなるの、よ……」
「……あぁ……『天使は泣くと死ぬ』だっけ……」
それは僕ら、魔法使いに伝わることわざのようなものだ。魔法というのは、放つ者の精神を根源に成り立っている。つまり、それが揺らぐと、魔法も弱くなる。サナちゃんは体力を維持する為に魔法を使っているから、トラウマによって薄まってしまう……という事なのだろう。最後の謎が合致して、僕はため息混じりに頷いた。
「……それだけ、君は怖い思いをしたって事、なんだよね……」
「………そう、なるのかしらね……」
少し落ち着いたのか、彼女は背中を樹の幹に預け、深い溜め息を吐いた。
「育った環境も良くなかったから、元々弱ってるのもあるんでしょうね……」
「ねぇ、今からでも診てもらったほうがいいよ、このままじゃ危険だ」
「何処によ、追い出された身じゃ無理でしょ? それに天使の身体と人間は違うわ、診れる人間がどこに居るの?」
僕はその意見で押し黙ってしまう。確かにそうだ。でも、このまま魔法で誤魔化していたって……悔しさに唇を噛む。
「そんな顔しないで、私にとってはいつもの事だから」
「でも、君は魔法も安定して出せないじゃないか、そんな時に……」
狼狽える僕を見て、彼女はうっとおしく思ったのか、深い溜め息を吐いた。
「本当に優しいわね、同情してくれるだけありがたく受け取っておくわ」
「同情なんかじゃ……! ……ある、かも、しれない、けど……」
僕はその言葉に反論しようとしたけれど、言い訳が思いつかなかった。同情しているのは確かだからだ。傷つきまくった彼女を、かわいそうだと、そう感じたのは確かだ。
「……昔の貴方は、私の事を良く思っていなかったことを知ってた」
「えっ、そん………」
悩む僕に、突如彼女はそう呟く。僕は慌てて否定しかけたが、彼女がその口を塞ぐ。
「双子で生まれて、王位を自分だけ継承して、魔法で沢山の部下も居るのに、その使命を放り出して勝手に悪いことをして傷ついた人間に遠慮なんて要らないわ」
そう言うと、彼女は立ち上がれるぐらいまで落ち着いたのか、ゆっくり立ち上がって、丘を下り始めた。また、悲しそうに笑いながら。自分だけが、悪いと思いながら、彼女は僕から目を逸らす。
「違うよっ!!!!!」
「……!」
その背に思わず僕は叫ぶ。彼女は驚いたように目を見開いて、僕を振り向いた。すぐに、その表情は柔らかい笑顔に変わる。彼女が心の底から笑ったのを、初めて見た。
「……違う、絶対に違う、君だけが悪いわけじゃ、絶対にない。まだ、理由は……上手く言えないけど、違う……」
僕はその笑みに、後押しか、言い訳か、とりあえずまとまらないまま叫び続けた。
「……分かった、これから『も』宜しく、『ルナ』」
そうして彼女は数歩、来た道を戻る。僕の目の前でまた、にこりと笑ってみせた。
「サナちゃんっ……理由は、聞かないの……?」
「どうせ上手く言えないでしょ?」
彼女は意地悪ぶって、そう返す。僕はその質問に狼狽えるしかない。
「……そう、だけど……なんで、理解るの?」
「双子だから、かしらね」
それは、いつか僕が彼女に言った言葉、そのままの言葉だった。彼女は夕日を背に、ちょっぴり得意げに笑った。
「これから、どうするつもり?」
夜になり、彼女は大きな樹の根本に火を灯した。僕は一度、路地裏で彼女と戦ったあの街に戻り、食料ととある物を買ってきて、島に戻る。二人で買ってきたパンをかじりながら、しんとした夜風に身を任せている。
「どうもこうもないじゃない」
「ずっとここで野宿する訳にはいかないよ」
「だから家を建てたいのよ、そういう魔法か、建築知識は持ってたりしない?」
「流石に僕でも無理だよ……。いや、苦手ではないから、十数年もあれば出来るかもしれないけど」
僕は肩をすくめる。彼女は「それじゃあ干からびてしまうわ」とぼやいた。
「……本家にお願いしてみる? 家ぐらいなら援助してくれるんじゃない?」
「まさか、城に帰れと言われるでしょう?」
「そこは交渉するんだ、例えば、月一度だけ仕事しに戻る、とか条件を付けてさ……流石にノーリスクでは頼めないお願いだと思うし」
彼女はうーん、と唸った。それだけ、彼女は帰ることに抵抗感を示していることも、すっかり知っている。それでも、このまま彼女を放っとくわけにはいかないと、僕も、本家も思ってるはずだ。
「……ルー、連絡、してくれる? ……仕事を放ったのは私の責任だものね……」
「うん、僕で良ければ。あと、買い物とかも嫌じゃなければ手伝うから、遠慮なく言っていいからね」
どうやらそれで、彼女は交渉条件として帰ることについて、折れてくれるようだ。申し訳なさそうに頷く。
「じゃあ明日、話をしてくるよ」
「……ええ、お願い、するわ……」
そう言って、僕も彼女も無言になってしまう。今まで誰にも頼らずに来て、頼ること自体に苦手意識を持ってしまったのだろうか、彼女は少しだけ機嫌が悪くなったらしい。もそもそとパンを食べ進め、そのまま黙ってしまった。気まずくなって、僕は思い出す。食料の他に買ってきたものだ。
「そうだ、プレゼントがある……ん、だけど」
「……この状況で?」
彼女の白けた目が、薄暗い中でもはっきり感じ取れた。
「……ごめん、気まずかったから……話題作り、みたいな……ちょっと前から贈り物とかしたらいいかなって思ってて……。」
「分かりやすいわ、貴方、嘘は得意なのに肝心な時は素直よね」
しかし、その誤魔化しも彼女には効かない、とすぐにわかり、僕は自白する。とりあえず背に隠しておいたそれを、彼女の顔先に突きつけた。
「なんで花?」
「正直、贈り物とかわからなくて……うろうろしてたら、通りすがりの女の子がプレゼントなら花がいいよ~って言ってたから……だ、だめ?」
それは、小さなブーケだった。淡く青い花が散りばめられた、地味な花束だ。彼女はそれを受け取ると、悲しそうにその花を抱いた。
「私、花、苦手なのよね。すぐ枯れてしまうもの……お別れみたいで、苦手なの」
「あっ……!? ごっ、ごめん……僕、すごく、無神経なことを……」
その目で思い出すのは、あの日に見た幼馴染の妹さんの姿。彼女の名前は「春花」と書いて、「ハナ」と言った。彼女はその子に面影を重ねているのか、少し遠い目をして呟く。
「ううん、でも、いやじゃない……」
そう言うと、彼女はそっと樹の根元に花束を置いた。
「……これから好きになっていけるようになりたい。やっと、落ち着いて暮らせるようになったら、きっと、そうなると思うから」
「……うん、その時は、また改めて、贈らせて貰ってもいいかな」
「分かった、楽しみにしてる」
そう言うと、彼女は僕の手をおもむろに取った。彼女から僕に触れるのは、初めてで驚いてしまう。あっけに取られている間に、彼女は自分の小指を僕の小指に絡め、指切りの形にする。
「約束。あと、お礼……追ってきてくれたお礼……こんな形にしか、今は出来ないけれど……」
「………うん、うん、っ………」
絡まる指と指。それを見て、思わず、目の前が潤んだ。争いすらした彼女と、これだけ、打ち解けられた感動が、僕らの間にある十年間を埋めていくような気がした。彼女はそんな僕を見て、まだ少し、申し訳なさそうに眉を寄せたまま、それでも明確に笑ってくれる。その夜がようやく、僕らの再スタートになった。
まだまだ、彼女について知らないことはいっぱいある。好きなもの、嫌いなもの、怖いもの、本当は食いしん坊なこと、いたずら好きなこと、時々子供みたいな所、夜中うなされてしまう所、甘党な所、動物は苦手な所。
僕についても、僕が知らないことだって、多分いっぱいある。彼女と接していくことが、ただ嬉しいだけじゃなくて、ただ辛いだけじゃなくて、たまには苛ついたり、怒ったりしてしまうこともあるし、傷つけてしまうこともいっぱいある。それでも僕は、きっと、きっと……彼女と双子のきょうだいであることを、やめたりなんかしない。それが、この日、彼女とした指切りの意味だ。
――――この後も、彼女と僕の辛くて愛おしい日々は長く、永く続いていくのだけれど、それはまた別のお話。
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