天いな -Label.1 Trac.2-

 科学と自然の発達した世界。その裏側で、魔法というものがひっそりと存在している。天使、悪魔、妖精……と言った「魔族」が人間に紛れて暮らし、その能力を宿した人間、「能力者」と総称する『魔法使い』も確認される数は増えてきた。

 とは、よく言ったもので、昔から能力者の数はほとんど変わっていない。ただ、人間が能力者の存在に気付き始めただけの世界。ただ、そんな世界でも、呪いという名前の魔法を人間に振りまく私の存在は、まだまだ化け物でしかなかった。

 悪魔と天使の間の子、「混血の天使」としてこの世界に生まれたサナは、元々は『神の実験台』という存在であった。実験に失敗した罪を背負い……簡単にいえば『人に嫌われる』魔法が、いや、呪いが掛かっている。沢山の人に追い出され、追われながら土地を転々として、良いことも悪いこともして生きてきた。しかしそのどちらにも、サナの居場所は無いまま。

 最終的に悪の組織に拾われた先で命令され、海の底で起こした爆破テロが人々にばれ、人間からその身を追われる事となったサナが最終的に追い出されたのは海上に浮かぶ、小さな孤島だった。

 人の踏み入る余地もない程に生い茂った背の高い草を踏みしめ、サナは島の中心部にある丘を登っていた。追い出されて二日。なんとか島の様子が見えてくる。緩いひょうたん型の形状をした島の中心部、大きな樹がまっすぐに空に向かって枝葉を広げている。長い野外生活で野宿には慣れているが、流石に樹一本だけの孤島で暮らす術はない。

 あとは一メートルはあろうかという高さの雑草に囲まれた、草原が続いているだけ。ほんの少し砂浜が見える場所もあるが、海との境目はほとんど切り立った岩肌だ。なるほど、これでは人は住みづらい……ここに追い出された意味を、冷静に考える。牢に入れられたと同義だろうか。追い出された時の事を思い返して、その残酷さに思わず笑いすら出てしまう。

 それでも、これが自分の罰だと思いサナは抵抗をしなかった。ある意味で、サナは居場所を手に入れたのだから。

「はぁ……」

 ようやく坂を登り終えてその樹の根本にたどり着き、あまりの何もなさに溜息をつく。すぐ背後でしたかさり、という葉の音に振り返った。春先だというのに何の花の姿も見せない木の先に、少し呆れ顔の少年の顔があった。

「……ルー……」

「探したよ。サナちゃん……また居なくなったかと思って焦ったよ……」

「それはごめんなさい。でも、貴方は本当、変わらないわね」

「君が変わりすぎるんだよ……」

 草木の影からひょい、と身軽に登場したのは、少し長めの黒髪の少年――サナの双子の弟であるルナだった。10年も前に生き別れたきり連絡もなかった彼だが、数週間前からサナの目の前に現れては、国に戻るよう説得しに来ていた。一時は一触即発で戦ったりもしたものの、今はギリギリ友好な関係にある。今日も追い出されたサナの代わりに、色々持ってきてくれたらしい、片手に持つ荷物を軽く持ち上げて見せて来た。

 彼もまたサナと同じ罪を負った「混血の悪魔」だ。しかしその性質はまるで逆。サナが背負う黒い羽根とは違い、ルナは形こそ悪魔のそれであるが、白い翼を持っていた。性格も明るく、人には好かれ、そして人の懐に入るのが上手い。口が巧いのは悪魔の習性らしいが、それを考えても人を丸め込むのは巧いらしい。多少理論的すぎるところは冷たくも感じるが、サナにはそれがある意味で心地よかった。

 サナを罰した神曰く、ルナはサナに対する一応お目つけ、そしてサナが罪を償いきるまでの見届け役として存在するらしい。しかし、サナが受ける仕打ちには、ルナも正直やり過ぎだと感じていて神にはず不信感を持っている。完全に分かり合えたとまでは言えないが、サナにとっては唯一の肉親が唯一の味方である事は、唯一の救いでもあり、そしてある意味では最悪の運命のひとつでもあった。

「……サナちゃん、一度でいいから実家に戻ろう?」

「………。」

 サナはその言葉に、俯いて目を伏せる。ここからサナが生まれた国はそう遠くない。サナが生まれた街は、森の奥にひっそりと存在する、本当に小さな港町だ。コルトード・フォルクと呼ばれるその街には、一際目立つお城がある。かつて天使の王と、悪魔の王女が守っていた、ささやかな城。……それが、今やサナが主となる、サナの城だった。

 もちろんサナはルナと生き別れた後、国を見捨てるつもりで旅に出歩いていたので、この城に帰るのは約十年ぶり。顔を出すのは旅に出る時黙って出て行って以来だ。サナはちょっとだけ足取りが重かった。

***

「サナ様……っ」

「……ただいま……シエル」

 ルナに背中を押されようやく城の門をくぐると、城から一人の女性が飛び出してきた。サナに抱きつくかのように飛び出してきた、髪を後ろでひとつに纏めた彼女をサナは優しく抱きとめてから、少し困ったような表情で微笑む。

 シエルと呼ばれた女性はその表情に良かった、と声を漏らすと、エプロンスカートを翻してサナの先を駆けた。

「……長い間、仕事を代行させて悪かったわ」

「いいえ、サナ様……貴女がこの仕事を心配する必要はありません、この国は大丈夫です」

「……本当に変わらないわ、貴女もこの国も……」

 そう呟くサナの表情は、穏やかだが明るくはなかった。サナの斜め後ろを行くルナは、サナの手が小さく震えているのを横目に見る。

 シエルはサナが生まれた頃からの、サナの側近のメイドだった。サナが不在の間、国の主であるサナがしなければいけない事は、全て彼女が代理でやっている。彼女も人ではなく、妖精の能力を持つ能力者だ。

 サナには負担だから、と彼女が進んでこなしていると言えば、なんて忠実なのだろう、とこの街を知らない人は思うだろう。シエルを無理やりに使役させているのはこの城そのものだ。ミルクが飲めないシエルだが、家に取り憑くはずのブラウニーたるシエルが、城のメイドなどを務めるわけは本当はないのだから。

 ……それは、先代の国王、サナの父がサナを案じるが故に、国に掛けた大きな魔法に起因する。国を支配していた王の呪いだ。

「……ごめんなさい……」

「サナちゃん」

 小さくそう呟いたサナに、ルナはまるで注意のように声をかけた。サナは、はっ、として冷静な表情に戻る。

「どうされました?」

「い、いえ……なんでも、ないわ……」

「何か有りましたら仰ってくださいね」

 そう言ってにこり、とシエルは微笑む。サナも微笑み返し、「ありがとう」と小さく返したが、やはりその表情は冴えなかった。ルナはその様子にあまり良くないものを感じてしまい、釣られて思わず苦い顔をしてしまう。

「サナちゃん、仕方ないよ。国王は、サナちゃんの為にやったに過ぎないんだ」

「ええ、分かってるわ……」

 ルナは再度サナを咎めるように、呟く。

 先代の国王は戦争の犠牲になって亡くなった。優しかった彼は、城の後を継ぐサナの背負う罪や呪いを見越して、この国全体にとある魔法をかけた。それは『サナを拒絶しない事』。

 しかし、それがきっかけで『支配』とも取れる魔法を理由に他の国と戦争が起きた。父親と母親が目の前で殺され、親戚の手によりルナとも離れ離れになり、いてもたってもいられずこの街を出て。自分が原因で起こった全てを見てきてしまったサナには、その魔法はもはや優しさでもなんでもない、「呪い」でしかなかった。

『お前とお前の父親は国民を騙しているのが許せなかった』

 戦争で両親を直々に殺した兵士がサナに直接そう言ったこともあった。サナ自身も、国民の気持ちを踏みにじっていると思う。だからこそ、この街に長居はしたくなかった。見ているだけで苦しいから。しかし、サナが頼れるのもまた、この街以外には無い。サナにはもう逃げ場が無いのだ。神様のモノであるサナは、その魂を幾らでも生き返らせる事でが出来る。死ぬことすら許されない身なのだから。

 港町で潮風も吹くだろうに、丁寧に手入れのされた庭園を抜けるとサナ達は城の中に足を踏み入れた。他の国に比べれば規模こそ小さな城だが、その装飾も、状態も国王がいた頃と何も変わらない。それはサナに、優しくも重くのしかかる。子供の頃に次期の主として過ごした当時のまま何も変わらないのが、国王の魔法の結果だ。

「サナ様!」

「……サナでいいわ、ハルト」

 サナの到着と共にサナを迎えたのは、サナやルナと殆ど変わらない年齢の、ウェーブのかかった栗毛の少年だった。

「いえ、一国の主と従者なのですから」

「それでも、貴方の幼馴染……という事実は変わらないわ」

 サナは一度だけ申し訳無さに口を噤むが、そのまま思ったように言葉を吐いた。ハルトはそのまま笑っている。その光景がサナにはあまりにも痛々しかった。……彼が、サナのせいで命を失った春花の兄なのだから。

 ハルトは、サナとルナ、そしてサナの婚約者だった少年、ヘイヤ。子供の頃は四人でいつも一緒の幼馴染だった。城下のいち国民だったハルトだが、想いを寄せていたヘイヤにくっついている内にサナとも遊ぶようになっていたので、使用人となった今でもサナにとっては友達、幼馴染の一人だ。

「あんまりサナちゃんにプレッシャーかけちゃだめだよ」

 ルナも後ろから口を挟むと、ハルトは困ったように眉を寄せる。

「ですが、使用人として仕えているからには……」

 その言葉に、サナはまた困ったように微笑む。彼にも、国の魔法が掛かっているのだろう。元々礼儀正しい彼であったが、かつての友達が『操られている』様子は、なかなかに心苦しい。

「それでも私は親、婚約者、育ての親、旅仲間……あなたの妹……共犯者……沢山の人を殺してきた……」

 春花の死は表向き交通事故とされている。にしても、サナが恨みを買わなければその命が無駄にならなかった事は確かだ。ハルトも怒っているのではないか? 恨んでいるのではないか? それもまた、サナが城に戻るのに足を重くしていた理由だった。

「大丈夫ですよ、分かってますから」

 しかしハルトはそのことについて何も言わず、微笑んでいる。その反応にまた苦しくなり、サナは思わず目線を反らした。怒らないわけがないだろう? サナの心のなかにある問いが、サナを縛っている。

「……孤島に追い出されてしまったの、でも、身を隠していくのにはちょうどいいと思ってるから心配しないで。じゃあ、約束通り顔も出したし私は島に戻るわ……」

「サナちゃん、まだ来たばっかりじゃ……」

 サナはそう言うと、今来たばかりの道を戻っていく。その背をルナが追いかけ腕を確かに掴んだ。サナは一瞬ルナを振り返るが、構わず手を振り払ってドアの向こうに消えた。その様子が妙に焦っているように見えてルナも仕方なく彼女を追いかける。その一瞬に疲れきった表情を見せたのを、彼は見逃さなかったからだ。

 城を出た所でふと、サナはふらっ、と体制を崩した。ルナはどうにかサナの肩を抱きとめ、結果的に受け止めたルナにサナは不覚にも寄りかかってしまう。片手で表情を隠すサナの腕をどけ、ゆっくり頬に触れる。青ざめた顔の体温は高かった。気まずそうな顔でサナは目を伏せる。

「サナちゃん……言ってくれればよかったのに」

「…………。」

 ルナが親戚に引き取られ一般的な家庭で育ったのとは逆に、サナは一人自分の力だけで生きてきた。そんな状況を十年以上続け、長く厳しい野外生活もしてきた。城を出てから長く生活環境が悪かったサナはその体力を魔法で補っている。サナ達、魔族の魔力は多くを精神を根源としているので、サナはトラウマに囚われると体調を崩すことが多いらしい。

 それでも無理をしてしまうサナ。弱みはどうしても見せられない。見せる方法が分からなかった。今までの生活で弱みを見せれば、たちまちに足元を掬われるような生活を送ってきたのだと思うと、ルナは本当に自分の恵まれた環境を思って心臓が痛い。

「……ごめん」

「いいから、一回戻ろう? その状態で帰れないでしょ」

 サナは嫌だ、とよろよろルナを押しのけようとするが、ルナは行かせまいと腕を掴み、城の中に戻る。双子としての第六感なのだろうか、感覚の繋がりは多少はあるものの、ルナには『サナがどれだけ辛かった』のか、正直なところ、理解できていない。

 過去の記憶に苦しめられるサナに、何度か酷い事を言ってしまった事もあった。サナをどうにかしてあげたいという気持ちと、どうしてこんなに無理をするのだろうという疑問。それがサナの抱く、ルナに対しての不信感になっているのだ、と分かってはいるのに……。

***

 それからしばらく経った頃。ルナはぽつんと佇む小さな家のチャイムを小突いた。ピンポン、とそっけないチャイムの後、静かな足音が聞こえ、サナがゆっくりと、警戒した表情でドアを開けた。

「やぁ、サナちゃん」

 いつもの調子でルナは片手を上げ、小脇に抱えていた本を持ち替えてサナが手放したドアを支える。サナが入れともようこそとも言う前に、ルナは当たり前のような表情でその家に足を踏み入れた。サナは呆れたようにため息をつく。

「本当に来たのね」

「ホントに一緒に住むからね?」

「わかってるわ、急に荷物が送られてくるんだもの、部屋は開けてあるわよ……まったく」

 城からの助けもあり、サナは島に小さな家を建てた。どうしても国にはいたくないというサナは、この島でささやかな新しい生活を始めたのだ。それに寄り添う覚悟を決めたルナも、魔法で強制的にサナの元に荷物を送り、断られる前にサナの家に乗り込んだ。

「……まったく…何人住めばいいのよ」

 そう嘆くサナの後ろに、サナと背格好がそっくりの少女が佇んでいるのに気がつく。身長、顔立ちともにサナと見分けが付かないぐらい似通った風貌は、ルナよりも正直双子らしい存在。しかしその瞳はサナよりも強気に見える吊り目に、西洋人形のように整った表情をしている。金髪で反りの目立つ髪と、さらりとした深い黒色のゴシックドレスがまた、人形っぽさを引き立たせていた。

「やぁ、きぃちゃん、君もここに住むの?」

「べっ、別に住まないわよ、私は……住むとこぐらいあるもん……」

 きぃと呼ばれた少女は、少しだけ威張ったような態度で、口を尖らせて返事を返した。どうも彼女はサナとは違う意味で強がる性格をしている。そのほとんどに余裕が見られないのが、サナと違って微笑ましくも危うい雰囲気だ。

「住むとこって……あの半壊した研究所でしょ? 大丈夫に見えないけど……?」

「……そんな事、ないわよ……! た、多分……」

「こら、ルナ。からかわないの。 きぃ、後で一緒に行きましょう、修繕をしないと危ない箇所もあるだろうし」

 サナは、ルナにツッコミを入れられ、うっすら涙目のきぃの頭をぽんと叩いた。きぃはその子どもじみた扱いにむくれながらも、サナの言うことを聞いて大人しくなる。

 突っぱねているのになんてわかりやすい好意だろう。恋愛体質ではないルナですらそう思うのだから、恐らく見る人が見たらかなりに露骨なのだろう。

 彼女はサナとルナが城に帰る途中、国の外に放置された小さな研究所で出会った。サナの元クローン体らしい。放棄されていて詳細は掴めなかったものの、サナが魔族と知って命を狙う集団が居ると、ルナはサナから聞かされた。その研究のひとつで生まれた彼女は、オリジナルかつ敵になりうるはずのサナに助けてもらって、そのまま好意を抱いてしまったようだった。見栄かなんなのか、隠しているつもりで隠しきれていない態度も、サナは応える気がないのかそのままスルーしている。

「いいからとりあえず上がって……何、その本?」

 ルナはサナに言われるままに、家に足を踏み入れた。と、同時にサナに携えていた本を放り投げ渡す。

「ん」

「?」

 サナはそれをうまくキャッチして、促されるままに本を手に取った。

「……!!!!」

 赤い表紙に包まれたその本を開くと、サナは思わずその本を手放した。バサバサと捲れるページには、2つの角と黒い羽根を広げた、想像上の悪魔の姿が描かれている。

『むかし、むかしの物語

この世界には悪魔が居き

闇を背負ひし悪魔

罪のなき人間を祟りては喰ひ殺す

狙うは女子供 弱き者のみ

地を沈めて 仲間をも裏切る非道なる存在

人類はその魔物を海に沈めき

海が荒るる日は奴に気をつけろ』

「……酷いよね」

「……なんてもの持ってきてくれたのよ」

 内容は、サナが今までしてきたことを脚色し、まるで恐ろしいもののように描いたおとぎ話の絵本だった。ルナは終始いつもの穏やかな表情から一変、無表情で床に転がった悪魔の本を見下す。青い顔をしたサナは、こみ上げてくる気持ち悪さに耐えながら、それを拾い上げて無理矢理に閉じた。

 表紙には、『呪いの悪魔』と表記されている。一応天使にカテゴライズされるサナが、まさか人間に悪魔扱いだなんて、お笑いもいいところだ。

「……人間は身勝手だね」

「……少なくとも、貴方が言うセリフじゃないわ」

 サナはその本の背表紙をゆっくりと撫でながら、ルナのひとりごとに静かに返した。ルナはその声色を和らげるようにくすり、と笑うと、「そだね、ごめん」と言いまたやんわりと笑う。

「あ、後からハルトも来るってさ。引っ越し祝いに張り切ってたから追い返さないであげてね」

「まだ増えるの!?」

 サナが驚きに声を裏返して問うと、ルナはその反応に小さく吹き出した。

「使用人見習いとしてサナちゃんに付きたいんだってさ、別に住み込む訳じゃないしいーでしょ?」

「よくないわよ……わざわざ実家出てきた意味がないじゃないの」

「ほんとにダメなら強硬手段で追い返せば?」

 ルナは他人事だからと気軽にそう言い返す。サナはがっくりと肩を落とし、早速穏やかな生活から遠ざかってゆく自宅を哀れむ。さすがに追い出すのはサナには出来なさそうだった。

 ハルトの実の妹を死に追いやった事はもちろん、同じ幼馴染でサナの婚約者だったヘイヤも、サナが旅に出たばかりの時にサナを追って行方不明になってしまった。その後死が確認された頃には、その死はすっかり今や『サナのせい』になっている。

 その事がどうしても引っかかり、サナはハルトと上手くやれる自信が正直なかった。ヘイヤは、ハルトととても仲が良く、今思えば想い合っていた関係だった。自分の上辺だけの婚約で仲を引き裂くにはあまりにも残酷だった事……それは、まだ何も知らなかった子供の頃のサナにも痛く知り得ていた事だったからだ。

 ハルトは『呪い』と元々温厚な性格なのも手伝い、あえてサナにその事は言わないが……今のサナにはそれが痛い。そんな相手が直々に仕えてこようとするともなると、どう扱っていいものかサナにはわからなかった。

***

翌日、やってきたハルトに早速留守を頼むと、サナとルナ、そしてきぃは、きぃが生まれた研究所に足を運んだ。

 サナの国と、ひっそりとした田舎である隣町、ウィキルゥの間にある、深い森、ベアドティースの森のちょうど真ん中にある小さな小屋。その中に、もう動きはしない機械類と、申し訳程度の生活スペースが、危うい強度の壁に囲まれて存在している。きぃは稀にここからサナの家に通っているのだと思うと、若干邪魔者扱いにしてしまっている事をサナは申し訳なく思った。 残念すぎるこの光景を目の当たりにした後では優しくせざるを得ない。

「相当傷んでるわね、出会ってからそんなに経過してないのに」

「どうやら機械類から劣化させる周波が出てるみたいだね。元は成長を促す何かだったのかな」

 サナは崩れそうな柱を撫でながら、屋根を見上げる。ルナがその隣の機械類を調べてすぐに原因を見ぬいた。ルナは学生時代、機械や医療などの科学分野を好んでいたらしい。憶測ではあるがおおよその仕組みは理解しているらしかった。

「……サナ、ルナ……その、いいわよ……私、別に今のままでも大丈夫だから」

 手際良くきぃの家を修繕することへの話を進める二人に、きぃはおずおずと小さく手を上げて声をかける。しかしその弱々しい声に、きぃを指さしながらサナは言葉を返した。

「だめよ、いくら貴女が天使で造られた存在でも、これじゃあんまりだわ」

 その言葉にルナは呆れたような、それでいて囃し立てるような声を上げる。

「出たよ、サナちゃんのおせっかい」

「うるさい」

「痛!!」

 そんなルナのからかいに、サナは容赦なく拳を振り下ろした。ルナは頭を擦りながらむくれるが、その光景をスルーして、サナは少しだけ考えるように眼を細める。

「……ありがと……」

 きぃはその言葉を音に出来ず、唇だけで返事をする。なんだかんだで面倒見の良いサナに対し、そっぽを向いてしまったので二人には伝わらないであろう感謝の言葉を呟いた。やはり似たもの同士、本音を見せないサナはきぃのその言葉に気づいているのか、気づいていないのか……何も言わず、魔法で修復を始めた。

 本来なら、きぃだってサナと同じ天使である分、なんならサナのように弱かった身体の体力を補っていない分、それ以上の魔法で修繕できるだろう。それは明確に、きぃ自身でも分かっていた。しかし、事実上の『親』のものであることと、なんとなくサナがしてくれる事への意味を求めてしまい、きぃには手が出せなくなっていた事を申し訳なく思う。

 ルナも得意の科学分野とあって、放置されっぱなしの機械類を見て回っている。しかしこちらは、機械に囲まれて文字通り生まれ育ったきぃだが、なかなかに機械には疎い。よく分からなかった。

その様子を見ると感謝してもし尽くせない。サナの力を奪うために生まれたきぃが、人間たちにサナがどう言われているのかは言わないだけで知っていた。元は自分だってサナの敵になるはずだったのに、こうして甘えるだけになってしまって申し訳なかった。サナの一生懸命な様子とは裏腹に、きぃがそんな静かな葛藤を抱いていると、きぃの耳に密かな物音が届いた。

「……?」

「どしたの、きぃ」

 修繕に夢中だったサナは、急に振り返ったきぃに気づき、ようやくその手を止めた。きぃはその声に肩をすくめると、仕方なく微笑んでサナを振り返る。

「なんでもない」

「……? そう?」

 そういうとサナは一番傷んでいた柱を指でなぞり、一度握った手を柱に向かって開いた。一瞬にして柱が入れ替わったかのようにきれいな姿を取り戻す。危うそうかつ重要そうな柱をそうして修復して回るうちに、どうやら建物自体の強度問題は解決したらしい。

「……よし、これで大体終わったわね、ルナ、どう?」

「うん、こっちもなんとかなったよ。あと五年ぐらいなら保つんじゃないかな」

 サナは満足そうな表情で一息つくと、機械をいじっていたルナに進捗を問う。ルナもそこそこの結果を得られたようで、手を振って答えた。しかしサナはその答えに手を腰に当てながら声を上げる。

「五年? 十分早いわよ、もっときっちりなんとかならないの?」

「そう思うなら自分でやってよ……」

 サナの手厳しい指摘に、ルナは涙目で音を上げた。きぃはその様子に一瞬感じた気配も忘れ、小さく微笑む。サナはやれやれと肩をすくめると、服についたほこりを払い落としながら歩き出す。

「もう、ごめんねきぃ、後でもう一回来るわ」

「えっ、え、いいよ……十分よ」

きぃはその言葉にひらひらと手のひらを振るが、サナはそのまま振り返らず、きぃの家を出て行ってしまった。

「おやすみ」

「もー、サナちゃんってば……じゃあね、きぃちゃん!」

 ルナもその背中を追い、二人はさっさと行ってしまった。外はすっかり夜になっていて、ルナの手によって、今までどうしようもなかった機械の動作が停止した、小さな生まれ故郷はシンと静まり返る。

「さっ、サナ!!」

ふと、さっきの違和感を思い出したようにきぃはサナを呼び止めようとするが、サナは既に相棒である召喚獣の巨鳥と共に空を飛び立っていた。きぃの声は届かず、夜の森に吸収されていく。

「……なんだろう、嫌な予感がする……サナ……」

 その言葉はもう届かない。届かなくなるなんて、思っても見なかったから。

****

 サナに平穏で、人らしい生活が戻ってしばらくした頃。ひっそりと暮らす事への違和感、そして平和に慣れない焦燥感、仲間と過ごすくすぐったさも大分薄れてきつつあった夕方の日の事だった。

 島の中央、丘のてっぺんの木の前でサナは違和感に気付く。花も咲かないはずの大樹の先が、枯れていたのだ。

 この島には知らない人間が入ってこれないよう、サナが魔法をかけた。これ以上、サナ自身の身と、サナが人間を傷つけないようにする互いの防衛策。

 それは、この島全体の自然のスピードも支配下に置いてしまう副作用が出る。植物が生理的な理由で枯れることはないのだ。「これじゃあ城下の皆に掛かっている魔法と同じじゃないか?」と悩んだ事もあったが、結果的にどうにもならないのだとルナに諭され、仕方なく使った魔法の一つだった。その魔法が一部分とはいえ、解けている……? これは一体……?

 もう一度魔法をかけ直すべきだろうか、とりあえず現状を確認しようと、サナは召喚獣として使役している相棒の巨鳥、ガルを召喚しようと思った。――その時。

「サナちゃんっ!」

 咄嗟に家から駆けて来たルナの叫ぶ声。と、同時にサナの頭上に「何か」が見えた。

 サナは反射的に「何か」の飛んでいった方向に片腕を向けると、その「何か」に向かって周囲の草木が舞い上がる。枝葉を高速で叩きつける。サナが得意な攻撃魔法の一つだった。

「っ……何よこれ!!」

 しかしその「何か」はそれをカン、カンと硬質な音を響かせて跳ね返す。

「ぐ、うっ……!!」

そしてすぐにサナに衝撃が走り……それが何かを確認できないまま、サナの意識は唐突に遠のいていった。

「……う、ぅっ……!! ルナ!!?」

 次に目を覚ました時、サナの目に飛び込んできたのは自分にぐるぐると巻きつけられた鎖だった。そして次に目に入ったのは、その正面にあるドアの元で倒れ込んでいるルナの姿だ。

「しまった……やられたわね……」

 その部屋の雰囲気に見覚えがある。きぃの生まれた施設の設備とそっくりだった。……恐らく、気を失っている間に何かしらのデータを取ろうとでもしたのだろう。直感的にサナが今まで幾度と無く命を狙われた科学者集団「ライト」のアジトだと悟る。恐らくきぃの家に行った時に尾行されていたようだ。

 もしかしてきぃは自分たちを陥れる罠だったのか……? サナは一瞬考えるが、その可能性は低そうだ。しかし、魔法を破られているところを見るとどちらにせよ侮れない。きぃを造った事で魔法や魔族に関する研究が進み、結果としてきぃは棄てられたと見て間違いないだろう。

 彼らが今までサナの力を確かめるような行動はあっても、直接的な作戦を実行することがなかった事から予測しても、サナを攫うという行為はかなり強気である事が見て取れた。

 ……嫌な予感がする。サナは普段から隠し持っている小さな剣を手にした。魔力を込めることで大きさを変形出来る剣が、サナの唯一の手持ちの武器だ。これと魔法を組み合わせることで戦い、魔力が足らずに自分の羽根で長い時間飛べない事を相棒である召喚獣のガルでカバーしてきた。

 あの島で暮らし始めて、もう手にする事は無いと思っていたが……まだ持っておいてよかった。ナイフ程度まで伸ばした剣と氷の魔法で鎖を砕くと、未だ意識を失ったままのルナの元に駆け寄る。

「ルー、ルナ!」

「ん……うぁ……? あっ、サナちゃん!」

 慌てて揺さぶり起こすと、ルナはすぐに目を覚ました。サナが察した通り、ライトの追手であるロボットに襲われた、という情報をサナが攫われるまでを見届けていたルナは語る。サナを取り返そうと抵抗しようとしたものの、寸前のところで弾き飛ばされたらしい。サナはこの先どうするかを相談するまでもなく、その部屋のドアを蹴り破った。ドアの先に広がるのは、行く手を遮るためか……長く続く廊下だけ。出口がどっちかは分からない。

「どうやっても逃さない気ね……」

 サナはそう言うと、冷や汗をかきながらも少しだけ挑戦的に微笑んだ。もちろんピンチに間違いはないのだが、ここで焦ってもしょうがない。こんな時ばかりは、冷静を装う事しか出来ない自分の性格に感謝をする。冷静さを欠くことは命取りだ。戦い慣れしたサナにとって、このぐらいまだ平気だった。

「幸い、追手みたいなのもなさそう……」

 だし、手早く出口を見つけましょう。 と言いかけて、サナは廊下の向こうに見えたものに目を見開いた。廊下をみっちりと塞ぐ程に大きな化け物が、サナ達を見つけゆっくり振り向く。その姿はまるで怪獣映画に出てくる敵そのもの。

「……ではないみたいだね……」

「……そうねっ!!」

 サナはルナと顔を見合わせると、猛ダッシュで化け物から逃げ出す。その後ろから白い悪魔の羽根を羽ばたかせたルナが追い越し、サナの上げた手を引いて飛び立った。

 サナの黒い天使の羽根は、人を寄せ付けないだけではなく、サナにとっての「翼」として役に立たないものだった。 と、いうより、サナが羽根を維持するだけ、魔力を安定、継続していられないのだ。これも身体の維持に魔法を回してしまっているせい。

 逆にルナは持久力はあるが、攻撃魔法のような魔法は出力のコントロールが上手くできない。悪魔の血を引く魔族にはよくある事らしい。加えてルナは回復魔法が得意分野だが、これもサナの呪いのせいかサナにだけは効かなかった。こんな狭い敵地で、ルナが下手を打っては、自分自身もどうなるかわからないのだ。

 つまり、今の二人に最良の選択は「無事に逃げ切る」ことだった。

「う……っ」

「サナちゃん、大丈夫?」

 しかし、そのサナがくらり、と一瞬バランスを崩して頭を抱える。見ればあまり彼女の顔色はよくなかった。

「うん、なんとか……ここの所ちゃんと眠ってなかったから、強制的に眠らされると来るわね……」

 サナはそう言うと目眩に耐える為に目をぎゅっと瞑った。サナは過去に受けた傷からのフラッシュバックがあり、その発作に恐怖する余り、睡眠時間を削る癖がある。やはりそれも魔力で補っていて、発作を起こしても起こさなくても、サナの戦闘に影響を及ぼしていた。

「……このままちまちま逃げ回ってたんじゃキリがないわ、ルー」

「わかった、二手に別れよう。でも狙いはサナちゃんなんだから……気をつけてね」

「わかってるわよ、言われなくても」

 しばらく逃げ回ったところで状況は好転しなかった。追手の足止めをしないと逃げられる状況にない。本調子ではないがやむを得ないサナの提案に、ルナは慎重にサナの手を離す。サナは引き続き長く続く廊下を駆け出した。こんなに狭い建物の中では、ガルが飛び回る自由もないので呼び出せない。ルナはサナが逃げきれるようにと、化け物の気を引くために翼を翻した。

「は……はっ……」 

 一方、サナはただ続く廊下を全力で駆け出していた。反撃のチャンスが見えればすぐにでも攻撃出来るよう身構えてはいるものの、不意を突かれた体力は既に限界を超えていて、視界もくらくらと歪んでいる。時折転びそうになっては持ち直し、サナは必死だった。

 しかしここで立ち向かっても勝算はない。最低でも外に出るまでこの場は切り抜けなくてはいけないし、島に移り住んでから、もう誰かを傷つけるのはやめようと思っていた。それが敵だろうと同じ。だからこそ、逃げることが嫌いだったはずの今のサナは、誰も傷つけずに逃げることを選択した。

「っ……くそっ……」

……が、あの化け物を見ていると、その気持ちが揺らぐ。

 あれは霊や人の思念が実体化したものだ。人間は化け物とか妖怪とか魔物と呼んでいる、脅威の尊大。サナ達天使が本来除霊を行わなければいけない存在だった。

 とはいえ元はただの生き物の魂や気持ち。それが、恐らく意図的な改造を加えられたのだろう。そうでなければあんなに大きく、大量にコントロールするのは不可能だった。改造を施されたのは一目瞭然だ。科学で魔族に対抗しようと言う実験なのだろうか? 生き物を弄ぶ……その行動がサナは気に食わなかった。

「………お久しぶり、そして初めまして」

「随分ご丁寧な歓迎だったわね」

 そんな煮えくり返るような怒りを振りきって辿り着いた先にようやく待ち構えていたのは、一人の男性。サナはその嫌味なほど白い白衣を纏った男に見覚えがあった。

「……初めまして、私たちの作品は元気かな」

「おかげさまで。クソみたいな家に住んでるわよ、あの子。よくも棄ててくれたわね」

 サナは強くその男を睨むが、彼はへらへらと笑っているだけだった。それもそのはずだ、彼はサナをきぃ生み出した男のひとり。あの森の奥、ボロボロの小屋で、今もきっと一人でいる少女の生みの親の一員だった。サナは幾度となく彼の開発したロボットと対峙して戦ってきた。当人と顔を突き合わせるのは初めてだったが、監視している姿を遠目に見たことは幾らでもある。

 サナが追放されてからは姿を現さなくなったものだと思っていたが……これで合致がいった。きぃの研究が終わって本格的にこちらの命を狙いに来ているらしい。

「自分と同じ顔が同じ目に合うのを見るのはどんなご気分かと、アンケートにご協力ください」

「ふざけないで!!」

 その胡散臭い笑顔で差し出された手を、サナは強く叩いて声を上げた。彼がきぃを見捨てた。そう思うと腹立たしくて仕方がない。見捨てられる痛みをサナは痛いほど分かっていた。こいつは、神と同じように、国王と同じように、サナと同じ運命に一人の命を落とし込んだ張本人だ。

 自分の呪いを受けるのは自分だけでいい。きぃの好意に気づいていて知らないふりをしていたのは……きぃには悪いが、自分と同じ人生を辿る人物が目の前に現れるその痛みから目を逸らしたい事実もあった。

「おやおや、もしや自分が可哀想とでも思いですか。伝説の悪魔さん? そうでもしなければ、クローンであるあいつが可哀想などという感想を持たないはずです」

「黙りなさい……!」

 サナの静かな忠告に肩をすくめた男は、それでもわざとらしく手を広げて話を続ける。

「貴女はたくさんの人を殺した、それは事実でしょう。それに自分の生み出した玩具を、まさかターゲット本人に取られて面白い人間はいないんですよ、化け物のあなたにはわからないでしょうけどね? 今だって貴女の片割れ……あの男を襲っているお化け達に感情移入している。貴女はお化けに仲間意識を持ち、自分と同じ悪魔を仲間に入れ、人を殺……」

「黙れって言ってんのよ!!!」

 ついに堪えていたものが爆発したサナは、足元に剣を突き刺すと、抑えていた羽根を見せてしまった。向かい合う彼のつま先まで走った亀裂と、逆上したサナの姿に顔を歪め、でもどこか好奇心を含んだ表情でやはり「化け物だ」とおもしろ可笑しく呟く。

「……っ……!」

 その言葉に、サナは我に返った。

 足元の亀裂、叫んだ声の低さ。今も実の弟を囮にしている状況。自分のした事を棚に上げて、命を弄ぶなと誰が言えただろうか。確かに、今の自分は……自分でも化け物じみていると思ってしまった。思わずたじろいでしまい、俯いた影に自分の羽根の影が映る。

「わ、私は……あっ……っ……」

 彼が言うことは、間違っていない。

 自分は、自分のクローン……きぃに感情移入して、自分と同じ血が流れているなんて可哀想だと思っている。直接的にも間接的にも、人を殺したのも事実だ。改造された化け物と、罪を背負った魔物としてこの世界に生まれた自分に、人間から見て化け物、という相違点は無い……。

「う……」

 心痛む言葉のショックにふらつきながら一、二歩後ずさったサナの姿に目の前の科学者はにやりと口端を持ち上げる。途端、サナの足元から聞こえる金属的な重い音。サナは反射的に身構えた。

「!?」

「この施設は貴女を捕らえるための罠です!! さあ、糧になって貰おうか、『伝説の悪魔』!!」

 男がサナに向かって銃のようなものを突如として向けた。サナは衝動的に危険を察して、男を跳ね飛ばし、廊下の先に駆け出す。

 男の向こう側に見えたのは大きなガラス窓。予想以上に高度のある外の景色から、この施設が草原に静かに建つ、高い高い塔である事を知らせた。サナはここからなら逃げられる、と召喚獣の依代である琥珀を取り出す。この琥珀に魔力を込めることで、琥珀に封印された召喚獣を呼び出すことが出来る。

「あっ……!」

 しかし疲労と焦りから足をもつれさせたサナは、その手から琥珀を滑り落とす。床に叩きつけられた琥珀の虚しいカツン、カツンという音と、サナの体が叩きつけられる衝撃が遠い廊下に響いた。

「ああぁぁああああああああああああぁぁああっ……!」

 と、同時に男が放った銃のような物体から、サナの身体に向かって響く電撃のような衝撃。なんとか伸ばしたサナの指先が、痛みに虚しく床を引っ掻いた。

「ぐっ、がっ……はっ、何をっ……」

 意識が遠のいていく。力が抜けていく。……懸命に首を振っても身体が動かない。どうなっているのか確認できない。だが、確実に魔力が吸い取られている。ほとんど、いや、全てを魔法に頼っているサナから魔法を奪えば、確かにサナに抵抗する手段は無かった。

 それでも必死の抵抗で男の表情を見上げれば、男は病的な笑みを浮かべて……自分の手に握られた自爆スイッチに手をかけたところだった。彼は自分とこの塔ごと、サナとルナを抹消する気でいたのだ。草原の真ん中に拠点があるのも、サナの力を全て奪った後に全てを始末する計画故だろう。

 サナのすぐ下、床の向こう側から聞こえる機械音は大きな爆弾のカウントダウン。

「ぐっ……ぁああああっ!!」

 サナは最後の力を振り絞ると、窓を力ずくで割り外に飛び出た。と、同時に背後に巻き起こる爆風。爆発の熱がサナのつま先を焼いた。その瞬間に少なくとも男はもう助からない、という確信が過る。また、と思うのもつかの間、崩れた塔の礫がサナを襲って爆風で視界は遮られる。

「サナちゃん!!」

 ルナが降り注ぐ瓦礫の中から叫ぶ。ルナが塔の反対側から脱出し、サナの元へ飛んできた。しかし、ルナの飛ぶ速度は速くない。サナの身体が地面に叩きつけられるのが、確実に先だ。

 サナは瓦礫に打たれながら、重力に引かれ落ちるのをただ感じていた。しかし、身体が動かない。身体を維持する力さえ吸い取られたサナに、もう羽根を出せるほどの力も残っていない。

 なのに、頭の中は、嫌にせわしなく動いていた。まるで世界の方が遅くなったように。

 ああ、もう、無理だ。

 私は、ついに……死ぬんだ。

 神様の管轄下にある、罪人のサナにとっての死の意味。それは、サナをこんな目に合わせている張本人の元に戻らなくてはいけないという事。逃げ場のない迷路のスタート地点に戻されると言う事。何度も言われた、死ねの意味は、人の死の意味より遥かに重くて、逃げられない。もう嫌だと何度も泣いた。どうにか救いを待った。探し求めた。でも、違う。あの日の夕日が脳裏に映し出される。

「……つ、ばさ……」

 ふと、脳裏を巡った考えの全てがふいにクリアになった。そして、ある女性の顔が浮かんだ。夕日照らす港町で出会った、あの子の事を思い出した。……いや、本当は毎日、いつも彼女の事を考えていた。会いたい。つばさ、貴女に会いたい。

 そうだ、彼女が教えてくれた。

 抗うこと。

「そうよね、つばさ……」

 サナは、いつの間にか笑っていた。

***

 爆発、悲鳴、炎、瓦礫、草原を焼き尽くす野火事。全てが落ち着いた時には手遅れだった。瓦礫の崩れる音がまだ耳に残っている。それなのに、瓦礫の中、礫を受けながら地面に叩きつけられたとは思えない程、サナの表情に苦痛はなかった。

「サナちゃん……」

 ルナは最後にサナが埋もれないように彼女をガードする事しかできる事はなかった。得意の傷を癒やす魔法は、一番かけたい相手であるサナにだけ効かないのが恨めしい。すでに呼吸は止まっていた。呆然と、もう動かないサナの手を静かに取り、静かすぎる草原に立ち尽くす。

 その身体はもう動くことはないが、彼女にとってそれは終わりではない。まだまだ続く地獄の世界への始まりだった。それなのに、今、動かないはずのサナに見えるのは……まるで希望のような、覚悟の色だった。

「……どうして?」

***

「……まさか、サナさんが……――とは、言い難いのは、正直な所です」

 サナの見送りは、静かなものだった。静かな部屋の片隅で、ハルトは不思議と重くない空気と言葉を吐く。

 それもそのはずだ。サナは天使。人間の身体に宿ったその魂は肉体が無くなっても、『サナ』自身が死んだことにはならない。それは皆周知のことであり、サナが自分が死ぬことで騒いで欲しくないと願っていた以上、魔法のかかったこの街はサナの言う通り、ただサナを静かに見送ることしかできないのだ。

 良くも悪くも、サナと父親がもたらしたものは、そういうものだ。悲しみさえしてくれない現実に、ルナは唇を噛む。

 シエルとハルト、ルナだけで静かにサナを見送った後、ハルトがぽつりといったその言葉は、彼らしくない、しかし、やはりと思わせる言葉の一つだった。

 ルナはその言葉に柔く微笑むと、ふらつく身体を椅子に預けそれからハルトを射貫くような目線で睨む。

「それはそうだよ、君もなんだから」

「……ばれてましたか……僕が、サナ様を、殺そうとしていた事……」

 ハルトはルナの意味深な言葉に、困ったように微笑んで囁くようにつぶやく。

「ヘイヤくんがサナちゃんを探す前に君の魔法を解いたのは、僕は気づいてたからね。魔法のかかってない 『人間』の君が、サナちゃんを憎まないはずがない。好きな人と妹を殺されてるのに、サナちゃんの側近になりたい、だなんて、暗殺以外にないよ?」

「……さすがルナ様です。サナ様がヘイヤくんの婚約者だった時から、僕はヘイヤくんが好きだった……もしも、何か間違いがあってヘイヤくんがお城に入らなかったその時は、僕らは一緒に過ごそうって約束をしました……。でも、ダメだった。ヘイヤくんも罪を背負った天使だったって聞かされて……。サナ様が狙われている事を知った彼は、何のフィルターもかかっていない目で、サナ様を見て欲しいと魔法を解きました……でも僕は、やっぱりサナ様を恨む事しか出来なかった」

 城の中央にあるホール、真上のステンドグラスから漏れる光に、ハルトは目を細めた。人間には手の届かなすぎる場所を見つめるように。

 この部屋は、サナの意向で装飾品がほとんどないこのお城の中で、唯一お城らしい装飾のされている、式典用のホールだった。サナがどうしてこの部屋だけを残したのか、サナと双子の証であったささやかな意思疎通ができなくなった今、それはルナにも分からない。

「……だめだった。僕は彼の期待に応えられず、彼を失った原因であるサナ様を恨み、ある日、サナ様が疲れて耐え切れず、深く眠った瞬間を狙いました……」

 ハルトはサナの家に入り、サナの隙をいつも窺っていた。ついにその時が来て、眠ってしまったサナにタオルケットをかけた後、サナの首筋に手をかけた。異様な雰囲気を感じ取ったルナもその場にいて、ハルトの様子を見ていたのはバレていたらしい。

 いくら疲れていても、サナが気づかないはずはないと思うので、恐らくサナも起きてはいただろう。サナの事だ、もしかしたら最初から、殺される覚悟があったのだと思う。

「しかし、それもだめでした。サナ様にひとつも悪気が無いことを、僕は知ってしまいました。むしろ、ヘイヤくんも、そして妹の春花も……失って一番悲しんだのはサナ様自身だったんです」

「うん、ありがとう、ハルトくん」

 ルナはその言葉を聞いて、一度だけ頷いた。最期に、サナに理解者がいたという事実、それだけが嬉しかった。本当は抱きついてでも喜びたいぐらい、それは嬉しい事だった。サナの心の底を理解することは、片割れであるルナにすら難しい事だったのだ。しかし、ルナは、身体の底から沸き上がる違和感に耐え切れない。震える手を抑えた。

「ごめん、僕も、もう……そろそろ限界だ」

 ルナは椅子を立ち上がる。外は、まるでとても良い日のように、嫌に眩しい日差しが降り注いでいた。

「ひとりの天使がふたりに分かれた僕らは、どちらか片方じゃ存在が難しい……僕も身体を維持できなくなってきてる……」

「……ルナ様……さようなら……」

 ハルトは、ただ、静かにそう呟く。その声に、ルナは微笑んだ。

「ほんとうに、ありがとう」

 ルナは白い翼を広げると、お城の最上階にあるホールを飛びたった。目指すは、あの残酷な極楽だ。