天いな -Label.1 Trac.1-
科学と自然の発達した世界。その裏側には、魔法というものがひっそりと存在すると言われている。天使、悪魔、妖精……と言った「魔族」と呼ばれる存在が、人間に紛れ暮らしているのだ。そして、彼らの能力を引き継いだ「能力者」と呼ばれる『魔法使い』の人間も多数存在する……――――
と、いう知識を得たのは、私がこの土地に辿り着く少し前。
その噂が耳に残るのには理由がある。私は『物心』がつくのがとても遅かった。と、いうとそう不思議ではないが、もう少し単純に言えば成人直前までの記憶が無い。それは実の姉も同じで、同時期までの記憶がないのだ。それだけならただの記憶喪失かも知れないが、さらには両親もいなければ住む家もない。私たちはまるである日突然、ぽっ、と現れたかのように目を覚ましたのだ。
そう、それはあまりにも不自然で、説明がつかない。『魔法でも無い限り』。
そんな不思議な事情から私は人目を避けて生活していた。とある街の隅っこで、ひっそりと古書堂を開いていた私は、その沢山の本の中から出会った『魔法の世界の本に惹かれた。しかし、なにも努力をしなくとも、なんならやる気がなくとも器用な姉とは違い、魔法どころかこれといった特技のない私には、魔法を使うなんて憧れは叶うはずもなく、そんなもの夢のまた夢だった。私は漠然と、出来ない事と思い込んで諦めたのだ。
そんなある日、私のもとに、血の繋がっていない妹が訪ねて来た。彼女もまた才能の持ち主だった。そんな二人に板挟みにされる日々。その最後には大きなどんでん返しが待っていたのだ。
姉と、妹は魔法使いだった。
そして、私にもその血が流れている。ただ、私はそれを知らない。使えない。二人が違う世界にいると分かって、私が感じたのはとてつもない距離感と嫉妬、劣等。気がつけば家を抜けだしていて……怒りに任せて放った初めての魔法は成功し、それからも私は魔法という世界の裏側を追って、家出という名前の旅を続けている。
そう、私、「鈴乃つばさ」は、絶賛家出を兼ねた自分探しの一人旅中。この地方では子供が一人旅をする風習があるんだとかで、一人ぷらぷら歩いていても家出だと勘ぐられたことはない。
……子供って言っても、私、今年で三十歳も目前になるぐらいのかなりの歳なんですけどね……。そんなに子供に見えるものなのだろうか……。確かにその……色気とか背丈とか色々足りない部分は多いですけど。
***
次の街につくまであと一歩、という距離でつばさは足止めを食らった。
夕方から続いた嵐は勢力を増し、雨風が強くなってとてもじゃないがこれ以上進むのは危険な雰囲気だ。手持ちのウェブ検索端末で軽く調べると、どうやら今晩はまだまだ大きな嵐になる予報だ。
安全のために目についた大樹の根につばさは腰を降ろし、叩きつける雨粒を吸い込みまくって重みを増したコートを適当に絞って雨水を退治した。乾きはしないだろうが、嵐に濡れた地面はかなりぬかるんで、そこらへんに放置は出来そうにない。とりあえず木の枝に一晩だけ失礼することにした。
そのまま手持ち無沙汰に周囲情報の検索を続けると、噂程度に曖昧な情報ではあるが、この先の街……は、比較的大きな港町なのだがそこの近くの海底で爆発があったらしい。テロじゃないか、という憶測があたりを騒がしているようだ。その影響かは分からないが、海は大荒れ、そのオマケで嵐とくれば、波に襲われるかもしれない港町には向かわないほうが安全なのは確証になる。そこそこに旅慣れたつばさが先へ行くことを諦めるには十分であった。
地球滅亡だとか、テロに対する神の罰だとか、妙な憶測も騒ぎに便乗しているのを眺めると、つばさはいろいろなものが混じって重たく大きなため息を吐く。御伽噺は好きな部類だが、噂話や悪意の類は少なくともこんな夜に一人で読み耽るような内容じゃない。闇夜に浮かぶホログラムディスプレイを消して大樹に寄り掛かった。
「はぁ……まいったなぁ……」
激しく揺れる木を見上げ、そう呟く。遠くの小さな木がメキメキと音を立てながら倒壊するのを目撃し、改めて丈夫そうな木があって本当に良かった、と安堵した。
ちょっとした森のように木が密集しているこの場所、この木だけがやたらに大きく育っているお陰で周りには何も倒れてきそうなものがないのだ。良い枝ぶりは雨風も防ぎ、一晩の雨宿りに支障はない。
「最初に森に入った時もかなり苦労したもんな……」
ふと思い出した、旅を始めた頃の記憶。宙に浮かべるようなひとりごとで、それが思い出すほどには遠い日の事だった事を確認する。黙って家を飛び出してからそこそこの時間が経過していた。
しかし、自分はまるであの時から変化がないような気がする。特技も魔法も全く身についてはいないしドジを踏んでばかり。自分はなんの為にここまで歩いてきたのか、その答えはまだ……もしかしたら永遠に見つからないのかもしれない。
そんな雨宿りついでの憂鬱な記憶に浸っていると、ふとつばさの耳に、雨音の隙間から不思議な旋律が聞こえた。雨音に紛れてよく聞き取れないが聴いたことのない言葉だ。少し語学をかじっていたつばさの耳から聞いても、外国の言葉ではない。
……はずなのだが、なぜだかつばさには、その歌の意味が理解できた。……まるで、故郷の言葉のように。
ちなみにつばさの故郷は、今いる国と同じ言語を使っている。聴いたことのないはずの言葉ではない。
……その歌は死者に贈る、天使の歌。
日の落ちた嵐の夜に響く、死者の歌……妙な不気味さに鼓動が早まる。その勢いに弾かれるように、つばさは反射的に上を見上げた。大樹の枝の隙間に枝はとは違う何かが見える。
「……誰、ですか……?」
ヒトだ。
そう思った瞬間、ふと溢れたつばさの声に歌声は止まった。声を掛けたのだから当たり前なのだが、その不気味にも綺麗で、嵐の夜によく似合った歌が止まってしまったのは……なんだか惜しかった。ちょっとだけ寂しくなるような、不思議な感覚が心の奥で弾けるような。妙な気持ちが時間を止める。
かさり、という葉の揺れ動く音の後、時が遅れたようにその場の音がすべて止まったようにシン、とした。荒れていた雨音が急に静かになったような感覚。つばさの耳に届くは、自分の鼓動の音だけ。
『彼女』と目が合った。少し怯えたような、深い、青い瞳。疑うような、探るような……妙な視線がつばさに刺さる。その一瞬がようやく通り過ぎると、彼女は表情を崩さず、視線を反らした。
「……ごめんなさい、お邪魔したわね」
どうやってそこに登ったのだろう。つばさが内心そう思うほど高い場所にいた少女は、スッ、と枝の上に立ち上がった。腰まで届くような黒い髪をふたつに結った、すらっとした大人っぽい人だ。とても、表現し難い、恐ろしさを感じる美しさを含んだ……なんだろう、雰囲気がある。
よく見れば、彼女の隣に、動物に詳しくないつばさには種類は分からないが……大きな、人が乗れるほどの鳥が寄り添っている。これが彼女の移動手段だろうか? そうすれば、木の上にいる手段にも説明がつく。ただ、あんな大きな鳥をつばさは知らないし、鳥に乗って飛行する事など人間の常識として無理がある。のに、彼女の様子からして、乗ってきたのだろうと当然に思ってしまった。
その彼女はどうやらその鳥と共にここを離れようとしていると気付き、つばさは思わず声を上げた。
「ま、待ってください! この天気でここを離れるのは危ない、です……か、ら……」
「……」
その声に困ったような表情を一瞬見せる彼女。しかし、一度空を仰ぎ見て、さすがに仕方ないと思ったのだろうか。小さなため息で肩が下がるのが分かった。
どうやら立ち止まってくれたようだ。
静かな沈黙が続く。相変わらず地面を叩く雨は強く、この大樹の枝葉だけが風を凌ぐ唯一の頼みの綱。それも強風に煽られ、丈夫そうに見えてはいたが……徐々にその葉も散り減っているような気がしてつばさは落ち着かなかった。
いや、落ち着かない理由はそれだけではない。つばさが声をかけてしまったせいで、むすっと、枝の上で大人しくしている少女の事が気になってしょうがない。
この風の中、あんな高いところにいるなんて、どう考えても危ない。というかさっきの鳥はどこにいったんだろうか。気がついたら見当たらなかった。この嵐の中飛んでいったのだろうか? それにしては飛んでくところも、羽ばたいていく音も感じなかった……それはまるで、どこかにしまったかのようだ。
不思議に思いながらも、どうしても彼女の事が気になったつばさは、勇気を出して声をかけた。
「あ、あの!」
「………」
返事はない。視線も今度は合わなかった。
「そこ、危なくないですか? 降りてきたほうが……」
「……平気よ」
つばさの努力虚しく、彼女はつばさの事をまるで見ず、静かに目を瞑ったまま即答した。その間にも彼女が座っている枝も、風で密かに揺れる。彼女の肩の位置もふらふらと揺れているのがわかる。つばさがその様子に内心あわあわしていると、彼女は深い溜息を付いた。困ったやつだ、と思われているのだとしたら大分申し訳ない。
と、思ったのもつかの間、そのため息は仕方ないな、という意味合いだったのか、彼女は目を開けてつばさを見下ろし、腰を上げた。
「……朝までよ」
彼女は数メートルはあるだろうと思われる枝から、勢いをつけてひらり、と人並み外れた身軽さで飛び降りた。つばさよりちょっと離れた場所……樹の根元につばさに背を向けて座る。
どうやら警戒されているみたいだ。どうしてかはわからないけど……もしかしていきなり話しかけたのは怪しかっただろうか。
「私、鈴乃つばさって言います……その、隣国から来て、しきたりの一人旅をしてます」
「……そう」
うっ、興味なさそうな返事だ。つばさは彼女の態度に若干怯む。しかし、ここで黙ってしまっては、彼女を引き止めてしまった以上、一晩この沈黙の重圧に耐えなければいけない。ここで引き下がるわけにはいかず、つばさは言葉を続ける。
「貴女は……」
「………」
その言葉に、彼女の目線がちょっぴり泳いだ。彼女は躊躇ったような表情をして、一度開きかけた口をそっと閉じる。その沈黙の後に、またどこか遠くを見るような無表情に戻り静かに口を開いた。
「……私は『サファ』。貴女と同じ一人旅、「しきたり」のね……」
「今後はどちらへ?」
「別に、隣の港町に用があっただけ」
『サファさん』はそう言いながら、静かに俯いた。旅人と言うに割には荷物もなかったが、そう、とか、へぇ、みたいな返事ではなく、聞いた以上の言葉が返ってきたのが嬉しくつばさは思わず彼女の手を取る。
「私もですよ! じゃあ、一緒に港町まで行きませんか!?」
「……っ!」
が、即座にサッ、と払われてしまった。眉を寄せた彼女の表情を見せた彼女を見て、もしかしてどこか痛むのかと思いつばさは思わず謝る。
「あ、すみません……お怪我でも……?」
「………ごめんなさい、驚いただけ」
サファさんは焦ってしまった事に焦ったように、すぐに、そして素直に頭を下げた。どうやら悪い人ではなさそうなんだけれど……。
翌朝、荷物として持っていた防寒の寝袋をフラットにして身体に巻き、雨風を凌ぎながらなんとか眠ったつばさに対し、いつ眠ったのかはわからないが先に起きていた……もしかしたらずっと起きていたのか……? とにかく、つばさが起きる前にこっそり出ようとしていた彼女を捕まえ、つばさと彼女は二人で港町を目指していた。
「朝まで、って言ったはずよ」と彼女は不満そうに反論したが、どうせ同じ道を行くのだから……と、つばさはなんとか説得した。旅は道連れじゃないか、とつばさがしつこく言うと、諦めたように彼女はつばさの数歩後ろを歩いてついてきてくれる。
勿論、昨日と同じくほとんど聞いた以上の言葉は返ってこないし、表情も崩さない。しかし、逃げようと思えばなんとでもなる状況で、話をしてくれる彼女はやはり良い人だな、とつばさは思った。
「あ、アレが次の街ですね!」
「そうね、どうやら海の荒れも引いたようね……いつもどおり、だわ」
そうして数時間後。ようやく二人は港町に辿り着いた。海の荒れも天気も回復し、雨上がりの光でキラキラしたレンガ道が美しい穏やかな雰囲気の街だ。浅瀬が広く続いている海辺は、昨日の嵐も、先日のテロの事も思わせない程に平和な雰囲気だ。
彼女が用事があるから、と言ったので、つばさは街の入り口すぐで彼女と別れると、とりあえず道中の買い出しに向かった。市場の方に町並みを眺めつつゆっくりと歩き出す。するとすぐに、地元の住民だろうか。人だかりから耳に飛び込んでくるのはやはり昨晩のテロの話らしい。見慣れない奴を見たら警戒した方がいい、なんて言葉が断片的に聞こえてくる。落ち着いて見えるだけで、やはり人々はまだその事件に警戒しているようだ。あまりよそ者が長居するのはよくないな、とつばさは内心思う。綺麗で大きい街をもっと探索したい好奇心もあるけれど、ここはさっさと用事を済ませて先に行ったほうが安全かも、と内心に過らせた。
そう思ったのも束の間、続いて耳に飛び込んでくる話は犯人像の事。話を要約すれば、『髪の長い、少女の姿をした『悪魔』が、海の底を爆発させ、海の神を怒らせた』と言うのだ。その言葉を聞いてつばさの脳裏に浮かんだのは、先ほど別行動したばかりの『サファ』の事だった。
「……サファさん大丈夫かな?」
先程サファと別れた街の入り口を振り返る。一晩過ごしただけなのに、何故か心に何かが引っかかってしょうがないのは、テロの犯人像と彼女の面影が被っているだけではなさそうだった。
***
「……大分、散らかっているわね」
浅瀬のはずれ、岩礁の狭間に彼女たちの隠れ家はあった。それも騒ぎに揉まれ、ほとんどもぬけの殻に近い。元仲間達は追手が来る前に慌てて出て行ったらしく、不要な荷物がごちゃごちゃと転がっていた。
海の中に入るのに不便だからと置いていった自分の荷物を、『サファ』は拾い上げる。ついでに転がっているもので使えそうなものも拾い上げて、リュックに強引に押し込んでそれを背負った。もうこうなってしまえば、この組織にはいられない。ここも、自分の居場所にはなり得なかった。悪の組織でさえ、敵にしてしまう……足のつく地は、彼女にはない。
「――……これだけ私達をめちゃくちゃにしておいて、その上泥棒までするの? とんだスパイね、あんた」
サファはリュックを背負い終わると、静かにそのアジトを後にしようとした。と、同時に背後から聞き慣れた声と気配。この間まで野望を共にした声は、今になり明らかな敵意に変化している。
「……スパイじゃないわ」
「そう、なら、あんたはとんだ疫病神だ! あんたにテロを任せたのが間違いだった! お陰で私らは追われる羽目になった! それなのによくもお前はのこのこと帰ってこれたもんだな!!」
元仲間の罵声にサファは俯き、声に耐える。冷静に、これ以上事を荒立てず立ち去るつもりでいたからだ。それが、この組織のボスに拾われた……行く先のなかった少女の最後の恩返しのつもりだった。
居場所のなかった彼女が、この悪の組織に拾われたのが一年前。世の裏側でボスからの命令をただ、ひたすらに聞いて生きてきた。勿論、それが悪いこととは分かっていてもそうしなければ生きる術が自分にはなかったからだ。
拾われただけマシだと思いながら、なんとか今まで与えられた任務を遂行する日々。そして数日前、いつもの通りその命令の元に彼女は海に潜り、海底を爆破した。この街に、この国に対するボスの宣戦布告。一応恩のあるボスへの命令に背くつもりはなかった。
しかし、その手元はひとつの懸念……いや、雑念で大きく狂った。
彼女には、春花という旅人仲間がいた。友達の妹である彼女。その日、この街に辿り着いたばかりの彼女を裏切りたくないという気持ちが、彼女の手を狂わせたのだ。春花の事を考えながら、海底で爆発に呑まれ溺れながら、護るものと壊すものの両端に彼女はいた。
居場所が欲しかった。それだけを考えながら、彼女は追われ続けながら旅をしていた。しかし今回も、結末は「追放」。予定が狂い逃げ遅れ、顔も見られてしまってはもう表を普通には歩けない。主犯であることもどうやらバラされたらしい。街の警戒はすっかり、自分自身だけに標的を絞られていた。誰が漏らしたのだろうか、すっかりアジトの場所も割れ、拾ってくれたはずのボスに利用されていたという事実を知るだけの結末だった。
「あんたが来てから、めちゃくちゃになったんだ。皆も、ボスも!」
元仲間が、彼女を壁に追い詰める。元仲間は勢い任せに彼女の前髪を掴むと、頭を潰すように壁に叩きつけた。
「ぐっ……」
彼女は痛みの声さえも押し殺す。口を開いては、何かを言ってしまいそうだったからだ。とにかく、ここは耐えて、これ以上何事も無く逃げ出すしか無い。これ以上の犠牲は生みたくない。怒りをぶつけられてもしょうがない……。そう努力する彼女の耳に、信じられない言葉が響く。
「あんたのお仲間とやら、私達が轢き殺してやったよ。一片も形なんか残ってない程にね。……ざまあみろ」
「っ……!!」
その言葉に思わず悲鳴を上げそうになってしまう。嵐の前、その守りたかった唯一の友達を失った瞬間を目の当たりにした瞬間を思い出すと、頭が割れるように痛む。思い出したくもない怒りを必死でかみ殺す。
「……仕返しさ、あんたと一緒にいた女にあんたが今までしてきた事を教えてやった。生みの親の国を捨て、隣国の王に手をかけ、育ての親を殺したあんたの事をな!」
「っ、黙れ!! それ以上喋るな……!!」
彼女は耐えきれない怒りに駆られて元仲間の首元を掴んだ。そうして顔面に叩き込んだ拳は強い光を纏う。親友の命と信頼を失った怒りが力になってしまった。
「っ!!」
「……やっぱりな」
その光に焼かれながらも、元仲間は皮肉を最期まで止めなかった。覚悟をしていたのだろうか、その眼には憎しみしか感じない。恐らく彼女が戻ってくることを見越して待ち構えていたのだとしたら、彼女以外にも……『魔法での攻撃』を目撃されてしまうだろう。思わず彼女は、今当に魔法を放ってしまった腕と、目の前でその光に焼かれ溶けていく元仲間を交互に見比べてしまう。
「……ははは、やっぱりあんたが『悪魔』だという噂は、本当だったんだな! この化け物……!! 早くこの国から出て行け、人殺し!!」
「っ……ごめん、なさい……!!」
がらんどうのアジトに小さく彼女の声だけが響く。他に誰が隠れているかなどもう気にも出来ず、勢い任せにアジトを抜け出した。
「恨んでやるからな、無事に逃げられると思うなよ!! お前は一生犯罪者としてこの国を追われる身になること、覚えてろよ……怪物、化け物、悪魔の『サナ』!!」
そうだ。今までもそうだった。崩れ落ちる元仲間の声を背後に、彼女……『サナ』は此処に辿り着くまでの光景を断片的に振り返る。自分が持つ魔法の力が、誰も救わないこと。誰かを失うこと。誰かを傷つけることしか出来ないこと……。結局、どんなに誰かの言いなりになっても、表に出られないのならと裏社会に潜んでも……何一つ変わらないことを再確認してしまった。
そんな強い後悔の中、サナはなんとか街を逃げ出す中で何故か一人の顔を思い浮かべていた。鈴乃つばさ。人生の中で、唯一自分に物怖じしなかった人間。これから待っているであろう、また長い逃亡生活の前に何故か彼女には別れを告げたくなった。
***
どうにか生活必需品を書い揃え旅の支度が出来たつばさは、これから海を渡る事にした。この港街から少し離れた場所、テロの現場とは逆方向にある島に向かおうと思っている。少し迂回ルートにはなるが、家出がきっかけの目的の無い旅で回り道ぐらいはどうってことはない。安全に越したことはないだろう。
その前にサファに別れを告げたかったつばさは、街の奥へと消えていった彼女の事を探していた。
「もう街を出ちゃったのかな……」
まさか彼女が悪の組織で隠れ家にいるなど知らないつばさは、とにかく人気のありそうな場所に足を運ぶ。そろそろ日も落ちてきた。街の治安も今は宜しくなさそうだし、できれば明るいうちに……と焦りに身を任せて少し小走りになった所で、死角になっていた角から飛び出てきた人にぶつかってしまった。
「あっ、ごめんなさ……。 っ!!!!?」
相手を捉える前に、慌てて謝罪の言葉を口走る。しかし、目が合った瞬間、つばさは衝動的に駆け出した。嘘だ、嘘だ、嘘。
「待て、つばさ!! 翅、追いかけるぞ!」
「お姉ちゃん、待って、話を聞いて!!」
嫌だ、一番出会いたくない人に出会ってしまった。つばさの手足は言うことを聞かず、暴れ狂うような鼓動と呼吸を連れて全速力で逃げ出した。何故、何故此処に姉さんと義妹が……!!
「つばさ!」
「……はっ、はっ……さ、ふぁ、さ……っ!」
しばらく我を忘れて逃げ出していた。瞬間、自分を呼ぶ声につばさの意識は呼び戻される。荷物を放り出してまで駆け出していた事に気が付き、自分で乱れた息に驚く。『サファ』の咄嗟の判断で路地裏に手を引かれ、無表情だったサナもさすがに心配そうな顔をしているのを見ると、余程の形相をしていたのだと、自分で自分がおかしい。つばさは呆れたようにため息をついた。
「……サ、」
「いた! 待て、つばさ!!」
「わあああああああああっ!!」
どうにか取り乱した訳を彼女に話そうと口を開いたつばさに、追手の声が響き、つばさは声を上げてまた全力で逃げ出した。その姿にまた、サナも驚きながらつばさを追う。つばさを追っているらしい、セミロングヘアのボーイッシュな女性と、金髪に桃色のグラデーションメッシュを入れた髪をまとめている少女は、どうやら二人を見失ってくれたらしく、サナがつばさに追いついたのは、最初に別れた街の入り口まで逃げてきた時の事だった。
ようやくつばさはその腕をサナに摑まれ、我に返って立ち止まる。
「待って、逃げないで! ……訳を話して頂戴」
「う、ううぅ……無理、です……」
サナがそう声をかけると、表情を隠し俯いたままのつばさから漏れる声は怯えに震えていた。強気で物怖じしない人だと思っていた印象からはかけ離れた、苦しそうな声に思わずサナの眉も潜まる。
「あ、あの……さっきの二人……実姉と義理の妹、なんですけど。私、二人から逃げて、家出して、この国に来たんです。 二人に出来て、私には出来ないことがある、それが怖くて、強くなりたくて……」
「強くなりたいなら、尚更逃げちゃだめよ……。 ……!」
サナは咄嗟に自分が発した言葉に、小さく息を呑んだ。今さっき、自分も逃げてきた身で何を言っているのだろう……と脳裏をよぎって、一瞬口を噤む。
「無理……ですっ……あの二人には勝てないんです!!!」
そう言って顔を上げたつばさの目には、完全な怯えの色があった。涙を零しながら叫ぶつばさの腕……サナが掴んだ手は震えている。元いた場所に引き戻されるのが怖いのだと、サナはそう悟って、少し前までの自分と重ねてしまった。……何も成せない悲しさ、虚しさ、怒り。じわじわと感情が蘇ってくる。
「……無理です」
つばさまた俯き、身を引いて逃げる体制のまま動かない。それでもサナはまるで、逃さまいとするように手を離さなかった。気持ちは痛い程分かるのに、何故かこのままつばさを逃がすことが得策に思えない。つばさを引き止める気持ちが、つばさに手を握られて怯えた昨晩の自分をいつの間にか越えていた。
「あの二人には勝てない、んです」
つばさは未だ弱音を吐き続ける。ぐすっ、と鼻を啜りながら震えている様子は、声を上げて泣きだすのを堪えているらしい。
「それを知って、此処まで来ました……にげてっ……きました……」
その静かな言葉を合図に、サナはつばさの腕をそっと離した。そして……。
「馬鹿!」
その空いたサナの手が空を切る。パシン、とつばさの頬に衝撃が走った。つばさは目を見開く。あまりの唐突さにサナがつばさの頬を張ったのは確かだった。いきなりの叱咤につばさは目を丸くして、痛みも一瞬で忘れてしまった。
「……貴女のこと、もっと強い人だと思っていた。勝手な勘違いだったわ。弱音吐くなんてみっともない……話もせずに逃げ出す? 愚か者のやることね!!」
サナは今までの冷静な顔も忘れたのか、強い語気でつばさを叱りつける。つばさは頬を押さえながら、彼女の言葉に唖然とするしかなかった。それこそ姉妹との「できない」差異を見せつけられることは痛いほどあっても、叱られることなんてあっただろうか。確かに自分に幼少期の記憶はない。けれど……姉妹と過ごす生活の中で、飽きられたり同情される事はあっても、怒られることはなかった。
それが何故出会って半日程度の、いうなれば赤の他人に怒られているのか……叱られたショックよりも驚きと困惑に涙が止まる。
「……さよなら」
サナはそのまま、静かにつばさを置いて街から遠ざかっていく。彼女の背が遠のく。その背を、つばさは揺らぐ視界で捉えた。ほんの数時間一緒にいただけの彼女が、遠のいていく姿がとても痛いのは何故だろうか。
「……どうして……?」
つばさは胸の内に一つの疑問を抱く。確かな怒りの言葉を発したサナの瞳が、悲しそうに揺れていたのを見逃さなかった。
「……これでいい。変に手をかけてやがて失うぐらいなら、突き放す別れのほうが辛くない……けど、どうして……」
一方、そんなサナ本人も、自分からした決別に疑問を抱いた。自分がしたことと、つばさがした事は結局何も変わらない。『逃げ出す?』『愚か者?』それは殆ど自分のことだった。まだ会って数時間の人間を、何故叱咤しなければならなかったのか。
……いや、本当は気づいている。サナは首を静かに横に振る。つばさに気付かされたのだ。つばさの言い訳に、何故か憤りを感じたのは確かだった。その憤りはつばさに対してだけじゃない。自分が生きる為だけに多くを犠牲にした自分。友達に嘘をついて結果その人を失った自分。抗って、勝ち取ろうとしなかった自分……!
「……違う。私も、逃げる卑怯者だわ……」
今のうちに謝れば許されるだろうか。サナは足を止めた。今なら引き返せる。そう思って振り返ると、そこにもうつばさはいなかった。
***
気がつけば、つばさは地面を蹴り、走りだしていた。涙に歪む視界と、さよならという4つの音だけが鳴り響く頭を振り乱し、先ほど混乱しながらに全力疾走してきた道を戻る。さっきと違うのは、先程よりもクリアになった思考。視界は最悪なのに、気持ちは何処までもまっすぐだった。
「――姉さんっ!」
そうして勢い余った足を滑らせながら、自分を見失って夕暮れの街をうろつく姉と義妹に向き合う。突如飛び出してきた妹の登場に、追いかけていたはずの姉、よくも若干驚き、身を引いた。
「つばさ……?」
「……黙って家を出て行ってごめんなさい。でも、私は……家には戻らないって決めたんです」
険しい顔で飛び出してきたつばさの姿を見てたじろぐ姉に、つばさは静かに頭を深く下げる。その態度に姉のよくも妹も一瞬戸惑うが、やはり連れ戻しにきたのだろう。
「な、何言ってるんだよ、いいから一旦帰ろうぜ。怒らせて悪かったから……」
「お姉ちゃん、私もごめん。一緒に帰ろうよ……」
二人はつばさの意思は聞き入れないとでも言いたげに、揃って帰ろうと口を開いた。けれど、つばさはその言葉に昔のようにしょげることも、先程のように怯えることもなく二人を睨む。
「嫌です!! 私は帰りません!」
「な、なんで……?」
「心配させてしまった事はごめんなさい。でも、私は……この先、姉さん達と暮らすことを求めてません」
その言葉に、姉と妹は二人で顔を見合わせる。その顔色は絶望に近く、つばさも申し訳無さを感じていた。しかしここでつばさが折れては、また、あの苦しかった日々に逆戻りだ。つばさは怯まない覚悟で姉と妹と言葉で戦う。
「……きっかけは家出だったかもしれませんが、この1年近く旅を続けて、私は見たいものが増えました。知りたい、試したいことがあります。目的地はないですが、目標があるんです。帰らない理由があるんです。二人に与えられて、守られて過ごすだけ、自分だけ役に立たない事を見せつけられる日常にはもう戻りたくないんです」
「そんな事ないよ、お姉ちゃんにはお姉ちゃんにしか出来ないことだって……」
「……翅、貴女みたいにアイドルとして人前で歌うことだって……私には出来ない」
翅と呼ばれた義妹がその言葉に言い掛けた反論を飲み込む。翅は義姉である腹違いの姉のつばさを、アイドルという職業を利用して探し当ててつばさの元にやってきた。身元のなくなった彼女が家族として気にかけてくれた事は知っているが、つばさにはどうしてもその期待が重い。活躍している彼女の姿が見ていて辛かった。
「私が家を出た日……二人が魔法を使える『能力者』だってこと、私に黙ってたのは何故ですか? ……私が魔法について調べてたことを、なんとなくでも知ってた筈なのに」
「それは、危険があるからに決まってるだろ……」
「誰が決めたんですか?」
つばさは引き続き、反論されてたじたじのままのよくを睨む。その会話に割り込むように翅が口を開いた。
「お、お姉ちゃん……話さなかったのはごめんだけど、危険なのは本当なんだよ……。あの日だって見たでしょ、戦わなくちゃいけないんだよ……?」
翅の説明に、つばさは脳裏に一年程前の記憶を思い出す。この旅が始まった日。家出した日。趣味の古書堂を開きながらなんでもないはずの日常を暮らしてたあの日、見たこともない……いや、古い本で見た魔物とそっくりの何かが、つばさに襲いかかってきたのだ。それを助ける為に戦ったのは誰でもないよくと翅。科学知識があって勉強も出来て知り合いも多いよくと、アイドルの翅。そんな姉妹に守られる、なんでもないただの人でしかなかったつばさ。
その光景を目の当たりにして、つばさは酷く惨めな気持ちになった。憧れていたはずの世界が真隣にあるのに、それが手に入らない悔しさは今思い浮かべても腹が立つ。
「仮にそうなったとして私はもう逃げません。憧れなんて子供っぽい言葉で表現することを笑いたければ笑えばいい。……でも、今は絶対に帰りません!!」
つばさがよくと翅に見せたのは、家出をしてしまったことへの謝罪の言葉、そして今まで聞くことのなかった『つばさ自身』のはっきりとした言葉、今まで見てきたもの感じてきたものの事、そしてなにより強い決心をした姿だった。
「……分かった。つけ回すような真似して悪かったよ。……帰ってくるの待ってるからな」
「ね、姉さん……!」
そうしてひと通りの気持ちをぶつけてきた妹の姿に、姉であるよくは『何が何でもでも彼女を連れ戻す』という気持ちを失った。家族も家庭もない中、一番に大切に想ってきたたったひとりの家族……その妹が、自分の手を離れた瞬間を見届けた……そんな気持ちに身を翻す。慌てて翅がその背を追いかけて、晴れてつばさは正真正銘の自由に、静かに拳を握りしめた。
「……ごめんなさい、姉さん、翅……」
その背を見送って、つばさはまた来た道を戻る。その目にもう怯えの色はない。サナを探してまた駆け出した。
***
「……昔は、あの子を守らなきゃと思ってたけど……」
日が傾きかけたレンガ道の向こう、また旅立ってしまった妹の背中を遠くに見ながら、よくは虚しく呟く。
「………もう、あいつに、オレはいらないんだな……」
「姉さん……」
その隣で、憧れだったつばさの意思に触れ何も言えなかった翅も、ようやく口を開く。つばさの家出のショックで歌えなくなった事もあったがつばさを追ってここまで旅をしてきた。彼女にとってつばさは、人生をかけて探しだした特別な人だった。けれどこの一年で遠くなってしまったらしい。突き放された気持ちが胸を支配して言葉にならなかった。
「……オレ、先に戻る。家にどうやってもつばさは手に入らないのが分かったからさ……」
そうやって悲しく笑うよくは、翅を置いてつばさとは反対の道を歩き始めた。翅はその表情を苦しく見つめながらも、よくとは違う方向に歩き出す。
「私はもうちょっとだけお姉ちゃんの背中を追うよ……もう届かないかもわかんないけど……」
「……ああ、じゃあ……」
よくの情けないひらひらと振る指先を見つめながら、翅はまた歩き出した。つばさの勇姿をまるで見届けるかのように、つばさを追うために。
***
夕日が水平線に沈んでいく。誰かに見つかる間に立ち去らなければ、と思いながらもサナの足は何故かこの街から離れなかった。この海の先に、自分が壊してしまった誰か達の生活があった。生命があった。そう考えると、心臓が痛いのにまだ離れられない。ただ、遠くを見つめていた。
ふと、彼女の背後に、足音と断続的な荒い呼吸が近づいてきた。そして、彼女の真後ろでぴたりと止まる。
彼女は振り返らなかった。正体は分かっていた。さっき、切り捨てたばかりだというのに、どうしても離れがたくて、そのせいで足が鈍っている原因になっていた……鈴乃つばさの姿が、そこにあった。
「まだ、ここにいたんですね……私、サファさんがいてくれて、よかった……話せました。姉さんと、義妹と。逃げずに言えました」
その言葉に、彼女はゆっくりと振り返る。彼女の影がぐんと伸びていた先に、つばさの爪先が見えた。顔を見れば少し泣きそうな顔をして、でも妙にすっきりしたような明るい笑顔で、つばさはサナに精一杯に微笑む。
その強さを得たつばさの姿にサナは静かに向き合うと、つばさの手をおもむろに取る。サナが他人に自分から触れたのは、攻撃をする以外では……初めてにも等しいほど久々の事だった。サナが触れてきた人々はみな、彼女が殺してきたに等しく失ってしまったからだ。いつしか人々は、彼女が呪い殺したのだと謳うようになってから……サナは大切な者を持たなくなった。持っても見ないふりをしていた。
しかし、今のつばさは違った。どうしてもつばさに触れたかった。強くなったつばさなら、大丈夫だと何故か、心から思った。逃げない。無くしたくない。それはサナの決心だった。
「私も、ひとつ謝らなければいけないわ……私の本当の名前は、『サナ』って言うの。私は『サナ』。貴方と同じ旅人よ。よろしく、『つばさ』」
サナはそう言うと、静かに目を閉じて、もう一度だけつばさを見据えた。この先、追われる生活の中でまた会える日があるかどうかも分からない。また不意に失ってしまうかも分からない。けれど、この瞬間だけは、サナはつばさに対して素直であろうと自然に思えた。
多分、この先この子はどうやったって……自分のした事を知るだろう。私が人を殺した事実を知るだろう。もうそれだけ噂になってしまっている。それでもいい。この子ならなんとなく、その向こうにある事実を見ていてくれる。そんな気がする。
それが、サナの『逃げない』だった。
「……また、どこかで逢いましょう。またね」
そうして、サナはつばさの手をするり、と離した。つばさはその言葉に少しぽかんとしていたが、すぐににこりと笑うと大きく手を振る。
「サナさん、また、どこかで……!」
そうして、サナがいつの間にか側にいたあの大きな鳥の背に乗り、夕まぐれの中を旅立つ姿に、つばさはいつまでも手を振っていた。その姿も見届けると、つばさは小さく微笑みを零す。
そしてつばさもまた、ゴールの見えない旅に向かうのであった。
***
私はサナさんと別れた後、すぐに海を渡った。最初に予定していた方ではなく、敢えてテロのあった方角にした。なんでかは分からない、危険なのも分かっている。当然、船を頼んでも飛行機を頼んでも、正気かと耳を疑われた。
でも、今の私はなんでも出来る気がした。そして、なんでも知りたかった。もう、自分だけ知らない状況は嫌だった。そこで聞いた噂を耳にしなければ、その勇気は……ただの根拠のない勇気のままだった。けれど、私の目的のなかった旅に、明確な目標が初めて生まれた。
サナさん、またどこかでと言わず、今すぐ会いたい。話が聞きたい。探さなきゃ、サナさんを……探すんだ。
『あのを海を爆発させた犯人の名前は、サナという、黒い羽根を持った悪魔だ』
私はサナさんを、本当に悪い人だとは思えなかったから。
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